神様の言うとおりに

なつか

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10. 自業自得

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 ぽちょんと水が跳ねる音がまどろんだ意識を引き戻し、視界に映る一面の白を眺めながら思わず旭はため息を吐いた。
 見覚えのある夢でも現でもない、“不思議空間”としか言いようのない場所。床なのか地面なのかわからないが、足元に張られた水を手で掻いて遊んでみるが、サラサラと流れていくだけで服を濡らすわけではないからやっぱり不思議だ。
 なかなか現れないこの空間の主に少々苛立ちながら、その場にゴロンと寝そべると、バシャンと勢いよく水が跳ねる感触とじんわりと冷えるような感覚だけが体に伝わってくる。
 見上げた先に空はなく、奥行きもない、ただただ白い空間。こんなふうに頭の中も真っ白にできたらいいのにとまた目を閉じると、フッと瞼に影がかかった。
「おい、寝るな」
「なかなか出てこないからだろ」
「相変わらずかわいげのない」
 むしろなぜ愛嬌を振りまいてもらえると思うのか。神様だからか。
 尊大な空気を纏った深いため息を聞きながら、じっとりとした心持ちで土地神を見上げる。
 顔だけ見れば巴にそっくりなのに、なぜか土地神は意地が悪そうに見える。だって、巴はこんな人を小馬鹿にしたような態度は絶対に取らない、と思う。
 以前なら言いきれたのに、今はどこかに“もしかしたら”という思いがついて出るのは、巴の部屋で過ごしたこの一週間のせいだ。
 旭が知っている巴は、いつも“美しくて優しい幼馴染”だった。
 でも、それも「旭のために」と無理をして作った姿だったのではないか。
 そう思ってしまうほどにどれが本当の巴なのかもうわからない。
 これまで正しいと思って積み上げてきたブロックがいくつも引っこ抜かれ、穴だらけになった塔はもういつ倒れてもおかしくないほどバランスを崩している。
 それを直すための新しいブロックも見つけられないし、新しい塔をつくる勇気も気力もない。このまま壊れるのをただただ見ていることしかできないでいる。
「おい、聞いているのか」
 ぴしゃりと投げかけられた言葉に頬を打たれたように、ハッと意識を“不思議空間”に戻すと、土地神はまだ寝ころんだままの旭を不機嫌そうに見下ろしていた。
「今日は何の用事ですか」
 体を起こして視線を合わせぬまま言い捨てると、土地神は「無礼な奴め」と鼻を鳴らした。
 “神様”を相手にする態度ではないことなんて百も承知だが、文句を言いたいのはこっちの方だ。
「様子を見に来てやったんだ、ありがたく思え」
「それはドウモ」
「なぜ“器”の男は皆こうも反抗的なのか……。お前の父親も、これまでの神主たちも我をきちんと敬っておったと言うのに」
「他の人たちはあんたに直接会ったことないからじゃないですかねー」
「むっ、それは一理あるな」
 素直かよ、心の中で引き続き悪態をつきながら、そう言えばこの土地神にだって、旭と同じ『神生みの器』である笹目の男と、『種主』になった男がいるのだと今さらながら思い至った。
 昔から続く因習に吐き気がするくらい嫌悪感しかないが、この土地神の器と種主のことは正直気になる。
「さっき器の男はどうのとか言ってたけど、あんたの器も俺みたいな感じだったのか?」
「そうだな、口が悪くて、恐れを知らぬやつで、お前と同じように勝手がきかん村のことをたいそう嫌っておった。だが、種主の男とはうまくやっておったぞ。お前とは違ってな」
「……うるせぇです」
「まぁあやつらはもともと恋仲だったというのもあるが」
「えっそんな、……許されたのか?」
「もとは人目を忍んでおったようだが、役目を与えられたことを逆手にとって、他の男を種主にするくらいなら我を孕んだまま死んでやるとまで言ってな。終いには二人で村を出て行った。それはもう豪胆なやつだった」
 いつも不機嫌そうだった土地神がふと緩ませた顔に、思わず胸がグッと詰まった。
 それがいつ頃の話なのかは分からないが、今よりももっと村は閉鎖的で、独善的で、男同士の関係なんて許されるはずのない時代だったはずだ。
 でも、その中で彼らは自分の意思を貫いた。
 顔も名前も知らない、でも同じ運命を負わされた先祖の深くて強い想いに、自分の情けなさを改めて突き付けられる。
 巴を巻き込みたくないと思っていたのに、結局巻き込んでしまった。それなのに、それを受け入れる覚悟も度胸なくて、ただいたずらに巴を苦しめている。
 発情状態の時には恋人のようにすがり、我に返ったとたんに拒絶するなんて、ずっとどっち付かずの最悪な態度で巴を振り回している。
 昨日見た色を失ったような巴の姿を思い出して痛む胸をぎゅうっと強く握り込み、もっと痛めばいいと思う。だってどんなに痛んだってただの自業自得で、何の意味もないのだから。
「余計な話をした。とにかく、お前と種主がどうであろうと御珠みたまは無事育っておる。このまま順調に行けば後十日余りで孵るだろう」
 この一週間と少しでももう十分すぎるほどメンタルが削られている。それなのにまだ十日以上もあるとか絶望しかない。
 旭が深くため息を吐くと、頭上からは呆れを含んだため息が落ちてきた。どうせまた面倒なやつだとでも思っているんだろう。
 じろりと“色違いの巴”のような美しい顔を睨みつけると、なぜこいつはこんなにも巴に似ているんだろうか、と今更ながら疑問がわいてきた。
 まさか――、今までぐちゃぐちゃに絡まったまま放置していた思考の糸を一本引くと、おそらく正解であろう旗がピンと上がった。
「なぁ、もしかしてあんたの種主って、」
「まさか気づいていなかったのか? 鈍いやつだとは思っていたが相当だな」
 呆れ顔の土地神を見て性格は器の方に似るんだろうか、と思ったら今まで考えないようにしていた腹の中にあるらしい“御珠”とやらをつい意識してしまった。
 特に腹に違和感があることもなく、例えばマンガのように何かしるし的なものが浮かび上がるでもなく、表面的には何もないのに発情状態の時には確かににあることを知らしめるように熱を発する“異物”。
 今まで疎んじてしかいなかったのに、お前も面倒な性格になるんだろうな、なんかごめん。なんて無意味な感傷を抱かせないでほしい。
 全部土地神のせいだ。でも、もちろん当の本人はそんなことつゆほども気にかけていないのだけれど。
「その鈍さでは巴とやらが苦労するわけだ」
 確かに自分でも鈍いと思うことはあるし、もしかしたらそのせいで巴に苦労をさせたことがあるかもしれない――残念ながら身に覚えはない――が、正直大きなお世話以外の何ものでもない。
「お前はなぜ、あの男を受け入れない?」
「……嫌だから」
「なぜ?」
 “なぜ”も“なに”もない。「嫌なものは嫌」としか答えようがない。
 ちゃんと役目のことを素直に話して「種主になって欲しい」と頼めば、巴は受け入れてくれる。
 旭が、「役目を果たすためなのだから仕方がない」と割り切ればいいだけ。それが一番いいとわかっている。
 それでも、 “巴にそんなことをさせている”というのが嫌でたまらない。どうしても村のために、自分のために、巴を犠牲にしていると感じてしまう。
 だからこれは旭の気持ちの問題で、妥協案も解決法もない。
 答えようのない問いに黙ったままそっぽを向くと、土地神はまた大きなため息をついた。
「昔から宇多川の男は優男やさおとこに見えて異常なほど執着が強い者が多い。あやつもその血をありありと受け継いでいそうだから、簡単には逃げられんことなんてさすがのお前もわかっているだろう? いい加減腹をくくれ」
 執着とは、と久々に頭の中の辞書を引く。多分、しがみつくとか、囚われる、とかそんな意味。
 それなら、違う。
 確かに、今この部屋に閉じ込められているような状況にはなっているし、他の男のところに行くのは許さないと言われたが、別にそれは執着からではなくて旭を心配しての行動だ、と思う。多分。
 だって、巴が旭に執着する理由がない。
 幼馴染みだから他の人と多少は“違う”だろうが、それは心配する理由にはなっても、執着する理由にはならない。
 それに、これまで巴のことを“執着が強い”なんて思ったことは一度もない。
 恋人が過去にどれだけいたか正確には知らないが、長く続いた人はいないし、やきもちを焼いたり、行動を制限したりする様子なんて見たこともない。
 逆に、「巴くんは私に興味ないよね」なんて過去の恋人から言われ、困っているところなら見たことがある。旭はそれを、「そんなことないよ」って一言言ってやればいいのに、と思って見ていた。
 持ち物だって「もう使わないから」と服でもカバンでも小さな文具でもすぐ旭にくれる。
 遠慮してもいつの間にか旭のアパートに置いて行ってしまうし、モデルという人に見られる仕事をしているのだから、プライベートでもずっと同じ服やら物を持っているわけにもいかないのだろうとありがたく頂戴している。そのおかげで、旭の持ち物はほぼ巴のお古だ。
 だから巴は“執着”なんてものとは無縁の、頓着がないタイプなのだと思っていた。

 ――もしかして、これも間違ってるのか……?

 また一つ、頭の中のブロックが半分宙に浮き、グラグラと揺れている。
 そんなはずない、と首を振りながら倒壊がすぐそこまで迫った塔をから目をそらしているうちに「また様子を見に来る」と言って土地神は姿を消した。



 “不思議空間”から意識を取り戻し、真っ白なシーツとそれを照らす朝日の中に埋まる体は、水を含んだように重く、だるい。
 のろのろと腕を動かして昨夜はそこにあった温もりを探してみるが、手のひらに伝わるのは冷えたシーツの無垢さだけだった。
 ドアの向こうから物音がするからまだ家にはいるようだが、もうずいぶん前に巴はこのベッドから出たのだろう。

 昨日、朝方に起こった発情を終えたあと、シャワーを浴びてこの寝室に戻ると、巴はベッドの上に一人寝転がっていた。
 窓の外に広がる分厚い雨雲に覆われて光を失い、灰色に染まる部屋は、巴の色までも奪っていくように見えた。
 思わず駆け寄ると、巴はいつもの“幼馴染みに向ける”笑顔を作り、「何でもないよ」と旭の髪を優しく撫でた。
 その笑顔と手の重みに、あぁもうダメだ、と思った。
 この役目も残り十日余りらしい。長いと思っていてもこの状況には必ず終わりは来る。
 じゃあ、その後は? 何も気づかなかったことに、何もなかったことにできる?
 肌をなぞる長くて細い指も、名を呼ぶ少しかすれた声も、「好きだ」、「愛しい」と言われていると勘違いしてしまうほどに優しい熱がこもった瞳も全て忘れて、幼馴染に戻ることなんてできるのか。
 無理だ、できるわけがない。
 それなら、せめてこれ以上気づいてしまう前に、全てが壊れてしまう前にこの部屋を出よう。
 そう決めた。

 指先から伝わる冷たさで心が凍えてしまう前にグッとシーツと共に握り込むと、シーツはいびつによれ、ひび割れていく。
 そのまま旭のところまで広がり、砕いてくれないだろうか。このままこの部屋にいる覚悟も持てない、逃げるしかできないこの弱い心を。
「旭、仕事に行ってくるね。ご飯準備しておいたから食べて。夕方には帰ってくるから」
 突然開いたドアから聞こえた声にハッとして握った手を離すと、ほどけたシーツは何事もなかったかのように平穏さを取り戻していく。
 何も答えないままでいると、巴はすぐに背を向けた。
「ごめんな、巴」
 口だけを動かして、その背に届かない声をかける。「何か言った?」 と振り向いた巴に「行ってらっしゃい」と小さく手を振った。


 玄関の締まる音を合図に旭はベッドから起き上がり、サイドテーブルに置いてあったスマホを手に取って通話ボタンを押した。
 まだ寝ているかもしれないが多分出るだろうと予想した通り、少しのコール音の後、いつもより少し低い声がガサガサと身動きする音と共に聞こえてきた。
<あー、旭? どうした、こんな朝早くから>
「おはよ。朝早くってほどじゃないぞ」
 電話の相手は守谷もりや 英司えいじ。高校の同級生で、同じ大学に通っている旭の数少ない友人だ。
<まだ九時前じゃん。十分早いって>
 電話越しにあくびを吸い込む音と、もう一つ英司ではない人の気配を感じた。
「もしかして誰かいる? そうなら後でかけ直すけど」
<いや、大丈夫。セフレだし>
「あぁ、そう……」
 何が大丈夫なんだか。そんなんだから巴に嫌われるんだ。
 英司は、誰にでも――それが恋人でも――公平な対応をする巴が唯一明らかな嫌悪を向ける相手だ。嫌っている明確な理由は知らないが、英司はいわゆる『来るもの拒まず去る者追わず』のタイプで、恋人の性別は問わないし、その日紹介された恋人が、次の週には違う人になっていることなんてしょっちゅうだし、体だけの関係の人もたくさんいる。
 そういう恋愛観が巴は受け付けないのかな、と想像している。
 旭もそれについてはどうかと思ってはいるが、別に巻き込まれるわけではないし、裏表のないさっぱりとした性格は付き合いやすい。それに、英司のほうからまめに連絡をしてくることもあって、なんだかんだよくつるんでいる。
 旭にとっては巴以外に頼ることのできる数少ない、いや、唯一の友人だ。
 今まで巴に頼れないなんて状況を想像したこともなかったから、友人をつくる努力もしてこなかったって言うことに今になって気が付いた。
<で、なんか用だった?>
 本当は英司にも頼りたくはないが、背に腹は代えられない。
 感傷に浸っている暇はない。まずはこの部屋から出て、巴から離れることが最優先だ。
「ちょっと頼みがあるんだ」
 覚悟を決めろ。
 グッと手に力を入れると、握っていたスマホが小さくきしんだ音が頭に響いた。
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