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知らぬ間に触れていた、彼の逆鱗
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袋の中の崩れたケーキを見て、睦月はなんだか家に帰りたくなくなった。昴と顔を合わせるとまたぴいぴい怒ってしまいそうで、本屋に寄ったり、ドラッグストアに寄ったり、そして結局は源城の住むマンションに向かってしまうのだった。
ぐつぐつと煮えている感情を冷ましたくて、川沿いをゆっくりと歩く。海辺の街に住んでいてよかったと思うのはこんな時だ。大きな川が橋の向こうで大海に繋がっているのを見ていると、妙に落ち着いた心地になる。
「……はあ」
立ち止まり、熱く緩んでこぼれそうな視界を宙に投げる。三日月があまりに綺麗で、睦月は時を忘れて夜空を眺めた。
大丈夫。昴君は意地悪であんなことをする人じゃない。すきじゃなくなっても便利だから傍に置いておこうとか、そういうことを考える人でもない。
気持ちを奮い立たせたくて自分に言い含めたのに、睦月はどんどん惨めになった。
いつこぼれるかも分からない涙を誰にも見られたくなくて、人が居ない方へと爪先が進んでいく。……のつもりが、背後からは別の足音が続いていた。睦月がはたとして振り返ると、黒のフードを被った女の子がぴたりと立ち止まった。
えっ……。うそっ……。
顔ははっきりと見えない。けれどフードの隙間から黒髪のボブヘアが揺れているのが見て取れて、睦月はサロンの駐車場で昴に縋っていた女の子のことを思い出した。
違う、違う。僕の勘違いだ。
おぞけの為に固まってしまった脚を懸命に動かすも、足音は同じスピードで睦月を追って来る。睦月は夢中で走った。街の明かりと喧騒を求めて海辺からほど近い電車の駅まで出て来ると、睦月を追いかけていた足音は雑踏に紛れてしまった。……やっぱり、僕の勘違いだったんだ。そう自分に言い聞かせながら何度も背後を振り返り、人々の影から逃れるようにして源城のマンションへ転がり込んだ。
「どうしたの、そんなにひどい顔をして」
源城は突然現れた睦月を快く出迎えてくれた。睦月は胸を撫で下ろして、けれど次の瞬間には親友の言う通り“ひどい”心地になっていた。
「ミヒャは?」
「あの子はまだ帰って来ていないよ。あてもなく散歩するのが趣味みたいな子だから」
この部屋に源城と二人きりだと分かると、睦月はもう涙をこらえきれなかった。
「ああ、かわいそうに、どうしたんだいムツキ、泣いていちゃ分からないよ」
「うう、う、分かんない、分かんないんだけど涙が……ごめん」
「謝らないでくれ、ボクたちの仲じゃないか。ほらおいで、ハグさせてくれ」
源城の胸に抱かれ、睦月は自分がしおれてしまうんじゃないかと思うほど泣いた。どうしてこんなに悲しいのか。思い出すのは、昴とさざんくろすに来た女の子と、紙袋の中で潰れてしまっていたケーキのこと。
「こういう時にはアレだな……そう……」
源城は立派なワインクーラーを指差し「飲むしかない」と神妙な顔で言い含めた。睦月は思わず笑ってしまった。
「もう、僕ら飲み過ぎだから。それにバーにも行くんでしょ。節制しなきゃ」
「君はたくさん涙を流した。その分飲んで何が悪いんだ?それとも何かいミャオ、子猫ちゃんには温かいミルクの方がいい?」
「僕はそっちにしようかな。バーに向けて肝臓を休めなきゃ」
牛乳を温めてくれている源城の後ろ姿を見つめながら、友達っていいな、と睦月は心から親友に感謝した。壁掛けの時計を見やればすでに十時を過ぎている。朝にいくつか作り置きもして来たし、夕飯は一人分なら十分にある。昴の空腹を埋めてくれるタッパーの中身にも感謝し、睦月はホットミルクをゆっくりと飲み干した。
「ボクがお店から帰った後に何かあったのか?スバルもスバルだ、なぜ恋人の店に知らない誰かと二人でやって来るんだ?彼ときたら、女性をこちらに紹介しようともしなかった!」
「あの女の子は昴君のお客さんだよ。サロンで見かけたことがあるもの。だから説明しなくてもいいと思ったんじゃないかな」
「“じゃないかな”?……またこれだ。あの女性について尋ねていないのかい?恋人の君には彼の心の内を知る権利があるんだよ」
昴の心の内を知ろうとすれば「干渉するな」と突っぱねられてしまうかもしれない。「じゃあ別れよう」と、別れを宣告してくるかもしれない。そう思うと怖くてとても尋ねられない。
黙りこくってしまった睦月の肩を抱き、源城は溜息を吐いた。「不器用な子。君の手はあんなにも美味しいお菓子を作るのに、全く不思議だよ」その声音は親友と言うよりも肉親のそれで、睦月は目頭を熱くしながら彼の肩にしなだれた。
「源城君、ごめん、僕、眠くなってきちゃった……」
「うん。ここで少し眠るといい。毛布を持ってきてあげる」
昨夜は昴に求められて十分に眠れなかった。温かい飲み物が身体に染み渡り、とくんとくんと鼓動に混じる。睦月は長く深く息を吐き、そのままソファーで眠りこけてしまった。
「……あれっ……」
ソファーで眠ったはずなのに、気が付くと睦月はゲストルームのベッドに横たえていた。身体を起こし、カーテンから漏れる朝日を呆然と見つめる。着けたままになっていた腕時計を見れば、もう朝の六時を過ぎていた。
「ああ、起きた?昨日はよく眠っていたから、起こすのも忍びなくて。……ああミヒャ、そんなに慌てて食べないで、口にミルクの髭がついてる」
きちっとしたスーツの上にエプロンを着た源城がキッチンとリビングを忙しなく行き来する。穏やかな朝の風景にひどく気の抜けた心地になって、睦月は眦を緩ませた。
「寝かせてくれてありがとう。身体、すごく軽くなった」
「それはよかった!朝ご飯はどうする?一緒に食べよう。それが無理なら珈琲だけでも飲んで行かないか?」
「じゃあ、珈琲だけ頂いてもいい?」
珈琲だけと言っていたのに、源城は睦月の皿にクロワッサンやらサラダやらを小まめにサーブして、睦月のお腹ははちきれんばかりになってしまった。源城のこういう世話焼きなところが、今の睦月にはありがたい。
「源城君、本当にありがとう。元気出た。……なんで元気じゃなかったのかも分かんないんだけど」
「ははは!そんなもんだろう。後は落ちた分上がるだけさ。君のハニーがご機嫌斜めでないといいんだけどね。泊まるとは言っていなかったんだろう?彼、きっと怒っているぞ」
一瞬源城が何を言っているのか分からず、睦月はしばらくフリーズしてから肩を揺すって笑った。
「大丈夫。そんなことで怒ったりする人じゃないから。源城君、色々とありがとう。僕はこれで帰るよ。またいつでもお店に来て」
源城のマンションを出た時は清々しい気持ちで満たされていたのに、自宅に近づくにつれ心が重くなった。先にマンションの駐車場に回り昴の車が無いことを確認する。睦月はやっとそこで緊張をほどいて部屋に向かった。
部屋の中は少しだけ散らかっていた。作り置きのタッパーが無造作に炬燵机に並び、使った食器はシンクに転がったままになっている。……なんだ、昴君、僕が居なくてもちゃんと一人で起きて朝ご飯食べられるんじゃないか。睦月はどこか可笑しくなって、けれど同時に悲しくもなって、滲んだ涙を袖で擦った。
と、その時、玄関の鍵とドアノブがカチャンと倒れた。睦月は弾かれたように玄関を振り返った。
「あ……」
玄関を開けた昴の額にはほんの少しだけ汗が光っていた。目と目が合って、睦月はそこで初めて自分がいけないことをしたような気分になった。やっぱり、帰りが遅くなることを伝えておくべきだった。昨晩のことを謝ろうとして昴に向き直れば、昴は睦月の傍をすり抜け自室に入ってしまった。
布団をはぐる音や引き出しを開け閉めする音。睦月は三枚戸の隙間からそうと昴の様子を見つめ、「昴君、忘れ物?僕も探そうか?」と声を掛けた。……が、返事はない。
前は背中を見ただけで彼がどんな気持ちなのか分かったのに。……いや、分かっていないのに、分かったような気になっていただけだったのだろうか。
睦月は今までの自分が持っていたはずの自信をすっかり無くして、ただ不安げにリビングから昴を見つめるだけ。そのうちに昴は忘れ物を見つけリビングに戻って来た。
「今日、晩飯いらないから」
ぱっと投げつけるように声を掛けられ、睦月はたじろいだ。昴は打ち見もせず前だけを見つめて炬燵机に置いていた車の鍵を手に取った。
「先輩から飲みに誘われて。合コンらしいんだけど、行ってもいいよね?」
合コン。
そんなことを言う時だけ、こちらを横目で見る昴。睦月は切なくなって、けれど、前よりもずっと痛みに鈍感になって、「うん、気を付けて行ってきてね」と微笑んで応えた。
合コンなんか。別にどうってことない。昴と別れることに比べれば。
そう思うのに、頭の中はぐるぐるした。もう、ここから、逃げてしまいたい。そう思うのに足が動かなくて、睦月は自分が何を見ているのか何を言っているのかも分からずに「もう、作り置きのタッパーは出したら冷蔵庫に戻してって言ってるじゃない」と呟いて冷蔵庫にそれらをしまった。
蛇口をいっぱいに捻って食器を洗ううち、ふと気が付くと昴はいなくなっていた。彼がいなくなったと感じた途端に堰を切ったように流れた涙が悔しい。もう多分、二度と、昴の前では泣けない。そう思うと、悔しくて悲しくてやりきれなかった。
カタン。
ドアについた郵便受けに何かが落ちて、睦月は涙を拭うこともせずにそれを手に取った。真っ白の封筒には「矢部睦月様」と書かれている以外、差出人も書いていなければ切手も貼られていない。
震える手で封を切りながら昨晩のことを思い起こす。黒いフードからはみ出た髪が睦月の不安を誘うように脳裏を這った。
中身はその全てが写真だった。
それも、昴とあのロングヘアの女の子のものだ。二人で街を歩いているものや、サロンで親しげに会話しているもの、彼女に大きな日傘を差してあげているもの、メイクブラシを片手に一心に彼女を見つめているもの……。二十枚を超える二人の写真を見つめ、睦月はその場に膝をついた。
こんなもの、誰が、何の為に。
睦月には分からなかった。けれど、分かることもある。……昨日のことは勘違いなんかじゃない。昴も自分と同じように誰かにつけられて、こうやって写真を撮られている。昴が、危ないかもしれない。
一枚一枚に目を凝らせば、サロンでの写真が建物内から撮られているものだということに気が付いた。客としてこの女の子と同時刻に、しかも近くの椅子に座れるように手配することは簡単ではないはずだ。だとすれば、サロンのスタッフの誰かが?睦月はそこまで考えて拳を握った。
このことを、どう昴に伝えればいいのだろう。
サロンには来るなと言われているし、仕事に関わるなとも言われている。忙しい彼に妙なプレッシャーもかけたくない。
でももし、昴に何かあったら?
車を出たところで、あのボブヘアの女の子に刺されでもしたら?
「すばるくん」
睦月は写真を掻き集め、鞄も持たずに家を飛び出した。
ぐつぐつと煮えている感情を冷ましたくて、川沿いをゆっくりと歩く。海辺の街に住んでいてよかったと思うのはこんな時だ。大きな川が橋の向こうで大海に繋がっているのを見ていると、妙に落ち着いた心地になる。
「……はあ」
立ち止まり、熱く緩んでこぼれそうな視界を宙に投げる。三日月があまりに綺麗で、睦月は時を忘れて夜空を眺めた。
大丈夫。昴君は意地悪であんなことをする人じゃない。すきじゃなくなっても便利だから傍に置いておこうとか、そういうことを考える人でもない。
気持ちを奮い立たせたくて自分に言い含めたのに、睦月はどんどん惨めになった。
いつこぼれるかも分からない涙を誰にも見られたくなくて、人が居ない方へと爪先が進んでいく。……のつもりが、背後からは別の足音が続いていた。睦月がはたとして振り返ると、黒のフードを被った女の子がぴたりと立ち止まった。
えっ……。うそっ……。
顔ははっきりと見えない。けれどフードの隙間から黒髪のボブヘアが揺れているのが見て取れて、睦月はサロンの駐車場で昴に縋っていた女の子のことを思い出した。
違う、違う。僕の勘違いだ。
おぞけの為に固まってしまった脚を懸命に動かすも、足音は同じスピードで睦月を追って来る。睦月は夢中で走った。街の明かりと喧騒を求めて海辺からほど近い電車の駅まで出て来ると、睦月を追いかけていた足音は雑踏に紛れてしまった。……やっぱり、僕の勘違いだったんだ。そう自分に言い聞かせながら何度も背後を振り返り、人々の影から逃れるようにして源城のマンションへ転がり込んだ。
「どうしたの、そんなにひどい顔をして」
源城は突然現れた睦月を快く出迎えてくれた。睦月は胸を撫で下ろして、けれど次の瞬間には親友の言う通り“ひどい”心地になっていた。
「ミヒャは?」
「あの子はまだ帰って来ていないよ。あてもなく散歩するのが趣味みたいな子だから」
この部屋に源城と二人きりだと分かると、睦月はもう涙をこらえきれなかった。
「ああ、かわいそうに、どうしたんだいムツキ、泣いていちゃ分からないよ」
「うう、う、分かんない、分かんないんだけど涙が……ごめん」
「謝らないでくれ、ボクたちの仲じゃないか。ほらおいで、ハグさせてくれ」
源城の胸に抱かれ、睦月は自分がしおれてしまうんじゃないかと思うほど泣いた。どうしてこんなに悲しいのか。思い出すのは、昴とさざんくろすに来た女の子と、紙袋の中で潰れてしまっていたケーキのこと。
「こういう時にはアレだな……そう……」
源城は立派なワインクーラーを指差し「飲むしかない」と神妙な顔で言い含めた。睦月は思わず笑ってしまった。
「もう、僕ら飲み過ぎだから。それにバーにも行くんでしょ。節制しなきゃ」
「君はたくさん涙を流した。その分飲んで何が悪いんだ?それとも何かいミャオ、子猫ちゃんには温かいミルクの方がいい?」
「僕はそっちにしようかな。バーに向けて肝臓を休めなきゃ」
牛乳を温めてくれている源城の後ろ姿を見つめながら、友達っていいな、と睦月は心から親友に感謝した。壁掛けの時計を見やればすでに十時を過ぎている。朝にいくつか作り置きもして来たし、夕飯は一人分なら十分にある。昴の空腹を埋めてくれるタッパーの中身にも感謝し、睦月はホットミルクをゆっくりと飲み干した。
「ボクがお店から帰った後に何かあったのか?スバルもスバルだ、なぜ恋人の店に知らない誰かと二人でやって来るんだ?彼ときたら、女性をこちらに紹介しようともしなかった!」
「あの女の子は昴君のお客さんだよ。サロンで見かけたことがあるもの。だから説明しなくてもいいと思ったんじゃないかな」
「“じゃないかな”?……またこれだ。あの女性について尋ねていないのかい?恋人の君には彼の心の内を知る権利があるんだよ」
昴の心の内を知ろうとすれば「干渉するな」と突っぱねられてしまうかもしれない。「じゃあ別れよう」と、別れを宣告してくるかもしれない。そう思うと怖くてとても尋ねられない。
黙りこくってしまった睦月の肩を抱き、源城は溜息を吐いた。「不器用な子。君の手はあんなにも美味しいお菓子を作るのに、全く不思議だよ」その声音は親友と言うよりも肉親のそれで、睦月は目頭を熱くしながら彼の肩にしなだれた。
「源城君、ごめん、僕、眠くなってきちゃった……」
「うん。ここで少し眠るといい。毛布を持ってきてあげる」
昨夜は昴に求められて十分に眠れなかった。温かい飲み物が身体に染み渡り、とくんとくんと鼓動に混じる。睦月は長く深く息を吐き、そのままソファーで眠りこけてしまった。
「……あれっ……」
ソファーで眠ったはずなのに、気が付くと睦月はゲストルームのベッドに横たえていた。身体を起こし、カーテンから漏れる朝日を呆然と見つめる。着けたままになっていた腕時計を見れば、もう朝の六時を過ぎていた。
「ああ、起きた?昨日はよく眠っていたから、起こすのも忍びなくて。……ああミヒャ、そんなに慌てて食べないで、口にミルクの髭がついてる」
きちっとしたスーツの上にエプロンを着た源城がキッチンとリビングを忙しなく行き来する。穏やかな朝の風景にひどく気の抜けた心地になって、睦月は眦を緩ませた。
「寝かせてくれてありがとう。身体、すごく軽くなった」
「それはよかった!朝ご飯はどうする?一緒に食べよう。それが無理なら珈琲だけでも飲んで行かないか?」
「じゃあ、珈琲だけ頂いてもいい?」
珈琲だけと言っていたのに、源城は睦月の皿にクロワッサンやらサラダやらを小まめにサーブして、睦月のお腹ははちきれんばかりになってしまった。源城のこういう世話焼きなところが、今の睦月にはありがたい。
「源城君、本当にありがとう。元気出た。……なんで元気じゃなかったのかも分かんないんだけど」
「ははは!そんなもんだろう。後は落ちた分上がるだけさ。君のハニーがご機嫌斜めでないといいんだけどね。泊まるとは言っていなかったんだろう?彼、きっと怒っているぞ」
一瞬源城が何を言っているのか分からず、睦月はしばらくフリーズしてから肩を揺すって笑った。
「大丈夫。そんなことで怒ったりする人じゃないから。源城君、色々とありがとう。僕はこれで帰るよ。またいつでもお店に来て」
源城のマンションを出た時は清々しい気持ちで満たされていたのに、自宅に近づくにつれ心が重くなった。先にマンションの駐車場に回り昴の車が無いことを確認する。睦月はやっとそこで緊張をほどいて部屋に向かった。
部屋の中は少しだけ散らかっていた。作り置きのタッパーが無造作に炬燵机に並び、使った食器はシンクに転がったままになっている。……なんだ、昴君、僕が居なくてもちゃんと一人で起きて朝ご飯食べられるんじゃないか。睦月はどこか可笑しくなって、けれど同時に悲しくもなって、滲んだ涙を袖で擦った。
と、その時、玄関の鍵とドアノブがカチャンと倒れた。睦月は弾かれたように玄関を振り返った。
「あ……」
玄関を開けた昴の額にはほんの少しだけ汗が光っていた。目と目が合って、睦月はそこで初めて自分がいけないことをしたような気分になった。やっぱり、帰りが遅くなることを伝えておくべきだった。昨晩のことを謝ろうとして昴に向き直れば、昴は睦月の傍をすり抜け自室に入ってしまった。
布団をはぐる音や引き出しを開け閉めする音。睦月は三枚戸の隙間からそうと昴の様子を見つめ、「昴君、忘れ物?僕も探そうか?」と声を掛けた。……が、返事はない。
前は背中を見ただけで彼がどんな気持ちなのか分かったのに。……いや、分かっていないのに、分かったような気になっていただけだったのだろうか。
睦月は今までの自分が持っていたはずの自信をすっかり無くして、ただ不安げにリビングから昴を見つめるだけ。そのうちに昴は忘れ物を見つけリビングに戻って来た。
「今日、晩飯いらないから」
ぱっと投げつけるように声を掛けられ、睦月はたじろいだ。昴は打ち見もせず前だけを見つめて炬燵机に置いていた車の鍵を手に取った。
「先輩から飲みに誘われて。合コンらしいんだけど、行ってもいいよね?」
合コン。
そんなことを言う時だけ、こちらを横目で見る昴。睦月は切なくなって、けれど、前よりもずっと痛みに鈍感になって、「うん、気を付けて行ってきてね」と微笑んで応えた。
合コンなんか。別にどうってことない。昴と別れることに比べれば。
そう思うのに、頭の中はぐるぐるした。もう、ここから、逃げてしまいたい。そう思うのに足が動かなくて、睦月は自分が何を見ているのか何を言っているのかも分からずに「もう、作り置きのタッパーは出したら冷蔵庫に戻してって言ってるじゃない」と呟いて冷蔵庫にそれらをしまった。
蛇口をいっぱいに捻って食器を洗ううち、ふと気が付くと昴はいなくなっていた。彼がいなくなったと感じた途端に堰を切ったように流れた涙が悔しい。もう多分、二度と、昴の前では泣けない。そう思うと、悔しくて悲しくてやりきれなかった。
カタン。
ドアについた郵便受けに何かが落ちて、睦月は涙を拭うこともせずにそれを手に取った。真っ白の封筒には「矢部睦月様」と書かれている以外、差出人も書いていなければ切手も貼られていない。
震える手で封を切りながら昨晩のことを思い起こす。黒いフードからはみ出た髪が睦月の不安を誘うように脳裏を這った。
中身はその全てが写真だった。
それも、昴とあのロングヘアの女の子のものだ。二人で街を歩いているものや、サロンで親しげに会話しているもの、彼女に大きな日傘を差してあげているもの、メイクブラシを片手に一心に彼女を見つめているもの……。二十枚を超える二人の写真を見つめ、睦月はその場に膝をついた。
こんなもの、誰が、何の為に。
睦月には分からなかった。けれど、分かることもある。……昨日のことは勘違いなんかじゃない。昴も自分と同じように誰かにつけられて、こうやって写真を撮られている。昴が、危ないかもしれない。
一枚一枚に目を凝らせば、サロンでの写真が建物内から撮られているものだということに気が付いた。客としてこの女の子と同時刻に、しかも近くの椅子に座れるように手配することは簡単ではないはずだ。だとすれば、サロンのスタッフの誰かが?睦月はそこまで考えて拳を握った。
このことを、どう昴に伝えればいいのだろう。
サロンには来るなと言われているし、仕事に関わるなとも言われている。忙しい彼に妙なプレッシャーもかけたくない。
でももし、昴に何かあったら?
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