翠も甘いも噛み分けて

小田恒子

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あの日の約束 1

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 幸成と一緒に会社を出た翠は、浜田の豹変ぶりに怯えていた。もし明日、浜田が出勤してきたら……もし、人目につかないところでストーカーみたいに付きまとわれたとしたら……そう考えただけで、怖くて言葉にならない。
 すっかりふさぎ込んでしまった翠を元気づけようと、幸成は自分の自宅へと招き入れた。

 幸成の自宅は、VERDEの二階部分だということを、翠はこの時初めて知った。この建物が新築ということは知っていたけれど、二階の居住スペースは大家さんが住んでいて、一階部分はてっきり賃貸物件だと思っていたのだ。
 二階へは裏に外付けの階段があるけれど、店舗内の作業場からも、店の中からは見えない場所に二階へ上がれる階段があるのだという。まだ開業して三か月、家は新築独特の匂いがする。

「ご両親はお仕事……?」

 居住スペースのダイニングに通された翠は、物珍しさにきょろきょろと室内を見渡していたけれど、ダイニングセットの椅子に座るように促され、席に着いた。翠の着席を確認すると、幸成はキッチンへと向かった。お茶でも淹れてくれるのかと様子を伺っていると、パントリーの扉を開き、中に置かれている物を物色し始めた。

「いや、ここに住んでるのは俺だけで、両親は今も変わらず実家に住んでるよ」

 意外な言葉に翠は驚いた。幸成が前の職場から独立して開業したのは有名な話だけど、店舗兼住宅を建てていたなんて……店舗だけならともかく、幸成は独身だからこそ、住居までとは予想すらしていない展開だ。

「独立開業するにあたって、通勤時間がもったいないから店舗兼住宅にしたんだ。銀行は独身者が家を建てるのを不審がってたみたいだけど、将来的なことも考えてって言ったら、なんとかローン組ませてくれたよ」

 お湯が沸いて、幸成は二人分のコーヒーを淹れている。この空間に、昨日と同じくコーヒーの匂いが漂っている。
 幸成は、冷蔵庫の中から生クリームとフルーツを取り出すと、翠をキッチンに呼んだ。

「仕事場は衛生面の関係で俺以外の立ち入りは禁止にしてるんだけど、ここはプライベートスペースだからな。翠、これ、俺が好きに飾りつけするけどいいか?」

 なんと贅沢にも、翠の目の前で仕上げの飾りつけをしてくれるようだ。
 ケーキは一番小さいサイズの四号の型で焼かれている。
 ケーキの型は、一号の大きさが約一寸(約三センチ)で、ケーキのサイズが大きくなるにつれ、直径が三センチずつ増えるのだという。明日の商品用に焼いた生地のあまりなので、これは売り物ではない。翠は先ほどのショックを忘れてケーキに見入っていた。

「プロの仕事を目の前で見れるなんて滅多にないから嬉しい。飾り付け、見てていいの?」
「ああ、もちろん。じっくり見てていいよ」

 幸成はそういうと、クリームの入った搾り袋を何種類か取り出した。不思議に思って搾り袋を眺めていると、幸成が搾り口の金型の形が一つ一つ違っていると説明してくれた。言われてみれば、確かに搾り口の金型の形がそれぞれ違う。これで出てくるクリームの形状を変えて飾りつけをするのだという。
 幸成はそのうちの一つを手に取ると、ケーキの表面に模様を描くようにクリームを搾りだした。その作業が終わると、今度は別の搾り袋を手にする。
 搾り口が横一直で平べったい金型と、カップケーキの型を手に取ると、幸成はその型をひっくり返し、底の中央部分にクリームを搾り出す。これからなにが始まるのかと、翠は横から見ていると……なんということだろう。そこには生クリームで作られた薔薇の花が咲いている。

「わぁ……すごい……」

 翠の口からはすごいの言葉しか出てこない。幸成は真剣な表情でバラの花を完成させると、また別のカップケーキの型をひっくり返し、その上に二つ目のバラの花を咲かせていく。


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