仮面夫婦のはずが、エリート専務に子どもごと溺愛されています

小田恒子

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1巻

1-1

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   プロローグ


 六月第一週の某日、日曜日。
 来週土曜日に開業する、高宮たかみやグループのホテル内にあるチャペルで愛を誓い合う一組のカップル。
 新郎はとても背が高く、軽く百八十センチはあるだろうか。顔立ちも整っており、バランスの取れた体格をしている。
 威風堂々とした佇まいに眉目秀麗びもくしゅうれいの言葉がぴったりな男性だ。
 そう、これが私の夫となる高宮雅人たかみやまさと、三十四歳。
 切れ長の目には目力があり、見つめられるだけで萎縮してしまいそうだ。キリッとした眉は形が綺麗に整っており、その目力と同じく威圧感がある。スッと通った鼻筋は高すぎず、低すぎず。唇も厚すぎず薄すぎず。全てがまるで彫刻のように整っている。
 学生の頃、モデルとして活動していたこともあり、彼の名は広く知れ渡っていた。一時期は、メディアでもイケメン御曹司として取り上げられていたほどだ。
 今でも時折、彼の記事を目にする機会がある。主にホテル経営に関するもので、彼が会社の広告塔のような役割を果たしているせいか、彼の父である会長や社長である兄よりも露出が多い。
 今日は自分自身の結婚式ということで、額を出すように髪型もセットされているけれど、普段は前髪を下ろしている。やはり何を着ても、どんな髪型をしても、過去のモデル時代を彷彿とさせてサマになる。
 そして、その隣に並ぶのは、今日から彼の妻となる私、今井文香いまいあやか、三十一歳。動物に例えるとたぬきのような童顔で、実際の年齢よりも若く見られることが多い。
 ウエディングドレスは、きっと全ての女性を素敵に輝かせてみせるのだろう。それこそ誰もが不思議な魔法にかかったプリンセスになれる、唯一無二の最強のアイテムだ。
 今日の挙式は極秘で執り行われており、参列しているのは身内とごく一部の事情を知る人だけだ。
 普段の私を知っている参列者も、今日、このような晴れの日に、私の着飾ったこの姿をうっとりとした眼差しで見つめているのがわかる。
 身にまとったドレスはAラインが綺麗なロングドレスで、細部にまでレースの細工が施されたとても素敵なデザインだ。ふんわりとした裾もかなり長く、うっかり踏んづけて汚してしまったらどうしようと内心ビクビクしているけれど、きっと緊張で顔が強張こわばっているせいか、そんなことを私が考えているとはつゆほども思わないだろう。
 今日の私の化けっぷりには、きっとみんなが驚いている。
 そしてこの変わりように誰よりも一番驚いているのは、間違いなく夫である高宮だろう。
 今から私たちは、祭壇の前で、挙式に参列している皆の前で、偽りの愛を誓う。
 高宮も私と同罪だ。
 ――だって私たちは、もともと愛し合ってなどいないのだから。
 なぜ、私たちがこんな茶番劇を演じることになったかは、半年前までさかのぼらなければならない。



   第一章


 ――半年前の十二月某日。
 その日は珍しく朝から冷え込みが厳しく、昼過ぎから粉雪がパラついていた。
 来月三歳の誕生日を迎える一人娘、史那ふみなのクリスマスプレゼントと誕生日プレゼントは何にしようかと、私は昼休みにスマホでおもちゃを検索していた。
 私は飲食業界大手のサワイグループの経理部で派遣事務員をしている。
 娘の妊娠がわかったとき、それまで勤務していた銀行を退職し、一人でこの子を育てることを決意したのだ。
 私の妊娠は、世間からは好奇の目に晒されることだろう。
 ――なぜ私の妊娠がみんなに受け入れられないと思うのか。
 それは、この子には父親がいないからだ。
 そんな環境の中で職場復帰をしても、陰で何を言われるかわからない。私だけならまだしも、不躾ぶしつけな言動が娘にまで及ぶのは耐えられなかった。
 この子を守れるのは私だけ。そう覚悟ができてからは、退職にも不思議と迷いはなかった。
 娘の父親について、私は誰にも話をしたことはないし話すつもりもない。
 ただ、これだけは言える。
 この子の父親は決して不誠実な人間ではない。
 たった一度の行為だったけれど、彼は私に史那を授けてくれた。
 それだけで、私は充分だった。
 シングルマザーになる道を選んだ私は、ボーナスが支給されるギリギリの十一月末まで銀行に在籍した。有給休暇は、妊婦健診に充てていたのでほとんど残っていない。
 幸いにもつわりは軽く済んだ。信頼できる上司に妊娠していることを話すと、私の身体のことを考えた上で、負担の少ない部署に異動させてもらえた。そのおかげもあり、マタハラに遭うこともなく、退職まで円満に過ごすことができた。
 実家の両親に妊娠を告げると、驚きのあまり父は口を聞いてくれなくなったけれど、母はあれこれ親身になってくれた。なんとか無事に史那を出産してからは、孫可愛さに態度が一変した父が我先にと史那の世話を焼いてくれるようになった。
 まだ時々は子どもの父親について話題に上ることもあるけれど、それは相手が史那の存在を知ったら、それこそ史那を取られてしまうのではという思いからの発言らしく、今ではもう孫ラブなジジババと化してしまった。
 だから私も安心して一年間子育てに専念することができたし、仕事復帰にしても両親がこうして私のフォローをしてくれているので、大変感謝している。
 でも、子持ちの女性が一度離職してしまうと、再就職は難しいのが現実だ。
 元銀行員という経歴は、再就職には優位な肩書きだと思っていたけれど、私がまだ一歳にもならない子を育てるシングルマザーと知った途端、てのひらを返すような態度を取る面接官もいた。そんな会社に当たると、メンタルがやられてしまう。
 このご時世でもこんな人がいるんだと思うと、悲しくなる。
 でも生活のため、史那のためにも落ち込んではいられない。
 転職サイトなどで、条件の合う会社を探しては応募したけれど、全敗だった。さすがにすんなりとは立ち直れなかった。両親は、史那がもう少し大きくなるまで家にいてもいいと言ってくれるけれど、甘えてばかりはいられない。
 これから先、史那にお金がどれだけかかるかわからないのだから。
 将来、娘にやりたいことができたときに、経済的な理由で断念させないためにも、早く仕事を見つけなければ……
 退職前に、当時の上司からも、退職ではなく様々な制度をフルに使って復職すべきだと強く勧められた理由がここにあるのだと理解するも、あとの祭りだ。それに私は、退職したことについて後悔はない。だからこそ、新しい生活を始めるに当たって気持ちを切り替える。
 そんなときに私に手を差し伸べてくれたのが、ママ友である智賀子ちかこさんだった。
 智賀子さんと私は通院していたクリニックが一緒で、よく妊婦健診の時間が重なり顔見知りだった。そんなある日、待合室での待ち時間中に言葉を交わし、私のほうが先に出産するからと色々教えてほしいと言われ、連絡先を交換したのがきっかけでお付き合いが始まった。
 私の出産予定日は一月二十日で、智賀子さんは四月二十五日。
 子どもの学年は違うけど、同じ干支になるし、お互い同じ女の子のママであることもあり、自然と仲良くなった。
 そして私は娘を一月十八日に、智賀子さんは四月三十日に女の子を出産した。
 出産後も、子どもの病院や育児についての相談や愚痴、お互いが色々と家族に言えないことを話したりして、心のよりどころのような存在になっていた。
 智賀子さんとの交流を持つにつれ、智賀子さんのご主人とも面識ができて、時々私たち親子がお家に遊びに行くと、史那のことも可愛がってくれていた。
 史那が一歳となり、改めて本腰を入れて就活を始めたものの、相変わらず手元に届くのは不採用通知ばかり。
 シングルマザーに世間は冷たいと智賀子さんにも愚痴をこぼしていたところ、なんと彼女が再就職の手を差し伸べてくれたのだ。智賀子さんのご主人の実家は、飲食業界でも大手の会社を経営しており、そこでまずは派遣で働いてみないかと声をかけてくれたのだった。
 子どももまだ小さいし、フルで働くと慣れるまでは身体も大変だろうからと、まずは正規雇用にこだわらずに派遣で働くことを勧めてくれた。
 そして派遣で数年働いて勤務実績を作り、勤務に問題がなければ、中途枠で数年後にそのまま正規職員としての登用も可能だと、シングルマザーの私には願ってもいない最高の条件を提示してくれたのだ。


 帰宅後、早速両親に相談すると、史那のことはは面倒を見るから、心配しないで頑張ってみなさいと就職に後押しをしてくれた。シングルマザーと言えども、保育所は、母子家庭であっても両親が同居で母が専業主婦だと子どもを見てくれる人がいると言って断られたけれど、両親が全面的に私の再就職を応援してくれるなら安心だ。
 私は智賀子さんのご主人に言われる通り、サワイが契約している人材派遣会社に登録し、手順を踏んで現在に至る。


 昼休みも気がつけば残りわずかな時間となり、私のスマホのアラームが鳴った。
 何かに集中していると時間を忘れてしまうので、先ほど昼休みにお弁当を食べる前にアラームをセットしたのだ。
 アラームを止めてスマホの画面を消したところに、先輩社員の村上むらかみさんが声をかけてきた。

「娘さんへのプレゼント、決まった?」

 村上さんは私よりも少し年上の二児の母で、お子さんは二人とも女の子だ。

「いえ、まだです。うちは誕生日が一月だから十二月のクリスマスと続けて二つ用意しなくちゃならなくて……」

 私の返事に頷いている。

「この時期の出費は痛いよね、うちも子どもが二人でしょう。欲しい物を聞いてもすぐに言うことが変わるし、二人とも同じ物を渡さないとケンカになるし、もう大変」

 たしかに二人になると、育児の大変さも度合いが違うだろう。

「でも、娘の喜ぶ顔を見るとこっちも嬉しくなるからね、仕方ない。私たちも親に同じようにしてもらってたんだからね。あ、それはそうと、さっき黒川くろかわくんが今井さんのこと探してたよ? またそのうち何かのノベルティ持ってくるんじゃない?」

 村上さんは言葉の後半からニヤニヤしながら私に問いかけた。
 黒川くんとはサワイの営業部に所属する男性社員で、私が経理に配属されたその日に、処理日を過ぎた出張旅費の伝票を持ち込んで、村上さんにこっぴどく怒られた人だ。子犬のような印象で、きっと弟がいればこんな感じなのかな、と思う。
 聞くとまだ二十代の若い社員さんで、この時に初めて言葉を交わしてから、時々取引先の会社からもらったという非売品のメモ帳やボールペンなどをくれるようになった。私がシングルマザーであることを誰かに聞いてからは、史那が喜びそうな、コンビニのジュースについているおまけなど、ちょっとした物をくれるようになっていた。
 ありがたいけど、何だかそのたびに気を遣わせているようで申し訳なく思ってしまう。村上さんはそんなの気にせずに受け取ればいいと言うし、黒川くん自身もきっとそんなふうに思っていないとは思うけれど、こうも頻繁ひんぱんに色々な物をもらうと、私のほうがどうしても気にしてしまうのだ。
 黒川くんは普通にいい子だと思う。でも、それ以上の感情はない。
 けれど最近、経理部のみんなは黒川くんと私をくっつけようと、わざと黒川くんの話題を振っては私の反応を見ようとしている節がある。村上さんにしてもそうだ。悪い人ではないけれど、ちょっとお節介なところもあり、仕事面では助かるけれど、プライベートな面ではちょっとお付き合いは遠慮したい。
 村上さんも二児の母。自身も子育てをしているからこそ、一人で子どもの世話をするのは大変だとの前置きをされた上で、だからこそ子どもには父親がいたほうがいいのではないかと言われたこともある。けれど、それは周りが決めることではない。私自身が決めることだからあやふやにしているけれど、割とあからさまにそのようなことを口に出されることもあり、正直困っている。だから私もちょっと素っ気なく返事をした。

「業務に関することじゃないなら、こちらから連絡する必要はなさそうですね」

 村上さんは、今井さんは相変わらず塩対応ねと笑いながら、自分の席へと戻っていった。
 きっと村上さんも悪気はないのだと思いたい。けれど、こうもあからさまにされると、私には黒川くんだけでなく他の男性社員に対してもそんな気はないことは見ていてわかっていると思うのに……
 何でもかんでもオフィスラブだのゴシップネタに持っていこうとするのではなく、純粋に私に恋愛をして、史那にも新しい父親を……と、暗に伝えようとしていることも頭ではわかっている。でも今は、そんなことを考えている余裕なんてない。
 周囲に気づかれないように小さく溜息を吐き、スマホの画面に表示されている時間を確認した。昼休みの時間も残りわずかだ、そろそろ私も仕事モードに切り替えなきゃ。
 私はスマホをバッグの中にしまうと、机の上の伝票整理を始めた。


 年末が近いせいもあり、経理はいつの時期もなかなか暇な時間がない。
 常に経費の支払いが適正かどうか、領収書はきちんとあるか、いろんな部署からの請求書や領収書が回ってくるので神経を使うから仕事が終わるとドッと疲れが出る。両親のフォローがなければ、こんなに早い時期の社会復帰なんて一人では無理だったとつくづく思い知らされる。
 父はまだ現役で働いているけれど、母は現在専業主婦なので、史那の世話も日中は母に任せっきりで負担をかけてしまっている。何かと二人に迷惑をかけているので、十二月の給料は史那のプレゼントのほかに、両親へのプレゼントを用意しよう。家族の笑顔を思い浮かべながら、仕事に取りかかった。
 現在、私は派遣社員なのでいくら忙しくても残業ができない。
 仕事が片づかない場合、翌日に繰り越せるならまだいいほうで、下手したら他の人に皺寄せが出て迷惑をかけてしまう。
 派遣社員の仕事は、いかに効率良く、制限時間内に仕事を正確に処理するかにかかっている。
 今頑張って評価してもらえたら、史那が幼稚園に上がる頃には正社員登用も夢じゃない。
 だからこそ、私はそれを目標に日々努力を重ねている。
 ――そんな私の平凡ながらも幸せな生活が、まさかあの人との出会いで一変することになるとは、このときの私には想像もつかなかった。
 そう、あの人――それが、私の夫となる高宮雅人との再会だった。



   第二章


 夫となる高宮と再び出会ったのは、クリスマスが近いある日のことだった。
 この日も定時で仕事が終わると、私は史那を連れて智賀子さんのお宅へお邪魔することになっていた。
 日頃史那を構ってやれない分、休日はべったりな私たちだけど、この日はサワイの専務である智賀子さんのご主人が出張で不在のため、晩ごはんを食べにこないかとお誘いを受けていた。仕事が終わる時間に母に史那を会社近くのコンビニに連れてきてもらい、史那と一緒に智賀子さんの家へ遊びに行く段取りだった。
 翌日は土曜日で仕事も休み、久々の女子会だと盛り上がっていた私たち。
 史那も、何度か一緒に遊びに行ったことのある智賀子さんの家と聞き、訪問を楽しみにしていた。
 智賀子さんの娘、愛由美あゆみちゃんは史那よりも少し言葉が遅くまだまだしっかりと話せないものの、意思の疎通が図れるようになってからは毎日が楽しそうだ。        
 史那も自分と歳が近い愛由美ちゃんに会えるのが楽しみらしく、智賀子さんの家に遊びに行くと伝えると、毎日「はやくきんようびにならないかな」と口にする。
 女の子はおしゃべりが早いと聞いていたけれど、史那も例外ではなく、最近は毎日がとてもにぎやかだ。私は就業時間中、必ず定時で上がれるように、いつも以上に仕事を早く片づけた。そして、約束の場所に向かう。
 コンビニの駐車場で、母と史那が車の中で待っており、私の姿を確認した二人が車内から出て来た。

「ママ、おかえりーっ!」

 史那が大きな声をあげて私に駆け寄ってくる。全身で喜びの感情を伝えてくれる史那が可愛くてたまらない。
 私は、目線を史那の高さに合わせるためにその場にかがむと、勢いよく飛びつく彼女を抱き留めた。

「ただいま、史那」

 お互いギュッと抱き合い、視線が合うと、どちらからともなく笑顔が溢れる。

「お母さん、ありがとう」

 史那を抱っこして母にお礼を告げると、母はあまり遅くならないようにと私たちに釘を刺した。最近寒さから史那の生活リズムが崩れており、朝なかなか起きないのだ。多分夜更かしをさせたくないのだろう。
 私が史那につきっきりになれない分、そこは母任せで口は出さないように気をつけている。でも、せっかくお友達の家へ遊びに行くので今日だけは大目に見てもらおう。夕方のお出かけなのだから仕方ない、と言い訳しよう。
 私は史那を降ろして手をつなぎ、バス停へ向かった。
 史那も、バスに乗ることを楽しみにしている。
 バス停に到着すると十分ほど待ち時間ができたので、私は史那と一緒に寒さを紛らわせるために歌を歌った。テレビ番組で流れているアニメの歌や童謡……史那が知っている曲はまだまだ少ないけれど、一緒に歌っているとバスが到着した。

「バスの中では静かにしていようね」

 母が用意してくれていた絵本を取り出して、史那の気を引いた。
 他の人の邪魔にならないように、史那を膝の上に抱っこして一緒に絵本を見たり、車窓から見える景色を眺めたり……いつも乗っている我が家の軽自動車よりも目線が高いからか、見えるものすべてが新鮮に映り、史那はいつも以上にご機嫌だ。
 なんとか無事グズることなく目的地まで到着すると、私は智賀子さんに連絡した。
 愛由美ちゃんも楽しみに待っていてくれるとの返事を史那に伝え、史那も嬉しそうに智賀子さんの家へと向かった。


 智賀子さんの部屋でごはんを食べながら色々な話で盛り上がっていると、突然インターホンが鳴った。
 時刻は十九時少し前。専務は出張のはずだった。この時間の来訪者なんてまず考えられるのは、宅配業者の人だろうか。智賀子さんがモニターで相手を確認すると、玄関へと向かった。
 何やら話し声が聞こえるけれど、私は史那にごはんを食べさせながら愛由美ちゃんの相手をしていたので、来訪者が誰かはわからない。そうこうしていると、智賀子さんとその人が一緒に部屋に入ってきた。
 その瞬間。私はその人の顔を見て絶句した。
 ……なぜ、あの人がここにいるの?
 私の心臓はまるで何かに締めつけられたかのように苦しくなる。こんな寒い季節なのに、冷や汗が止まらない。
 ……待って、落ちつかなきゃ……
 きっと彼は私に気づいていない。
 それにしても私が彼の目の前から姿を消してから四年の歳月が流れているのに、彼はあの頃と全然変わらない。それどころか、あの頃よりも大人の色香がただよっている。

「ママーっ、あーん」

 史那のごはんをねだる声で我に返った私は、史那に視線を戻し、史那の世話をする。この行動は、決して不自然ではないはずだ。
 私は史那の口にスプーンを近づけ、きちんと口の中にハンバーグが入ったのを確認すると、手近にあるふきんで史那の口元を拭った。そんな私の行動を、彼は入口から眺めている。
 智賀子さんと一体どんな知り合いで、なぜここにいるのだろう……
 動揺しているのを悟られないように気をつけながら、史那の世話に集中しているふりをする。そして史那もお腹を満たし、ごちそうさまを言うと、突然目の前に現れた男の人を警戒して私から離れない。まさか目の前にいるこの人が自分の父親だと思ってもいない史那は、私にぴったりとくっつきながらも彼のことが気になっているのが分かった。
 愛由美ちゃんも智賀子さんの抱っこでご機嫌を取っている。愛由美ちゃんはまだ食事中だけど、目の前にいる彼のことが気になって、でもお腹が空いて、食べることに集中できないでいる。
 しばらく様子を見ていたけれど、愛由美ちゃんも器で遊び始め、そのタイミングで智賀子さんが口を開いた。

「雅人さん、バタバタしててごめんなさいね。ちょっとここは落ち着かないでしょうから、こっちで話をしましょう。文香さん、こちら、高宮雅人さん。雅人さん、こちら、お友達の今井文香さんと娘の史那ちゃん。ちょっとコーヒー淹れてくるね」

 そう言って、智賀子さんはキッチンへと向かった。この場に私と史那、愛由美ちゃんと彼を残して……


 高宮グループ──
 国内のホテル業界シェア上位に君臨するホテル王で、最近では建築物件の耐震強化に取り組んでおり、その独自の手腕で手堅い経営を続けている。
 彼、高宮雅人は高宮グループ会長、高宮和成かずなりの息子で、現在専務として経営に携わっている。雅人の兄である直人なおとは社長に就任。一族経営の会社ではあるけれど、そのカリスマ性に役員従業員一同、平伏している。
 そんな私とは住む世界の違う人が、なぜこの場にいるのかはわからない。それに智賀子さんとの関係性も。私は史那を抱っこしたままその場から動けないでいた。
 愛由美ちゃんは、智賀子さんの後追いをしてキッチンに向かって歩いていく。それを彼は上手に気を引き、智賀子さんのほうへ行かせないようにあやしながら相手をしている。彼の子どもを見つめる眼差しは、意外にもとても優しい。子どもが好きなんだということが伝わってくる。
 子どもの相手、上手だな……
 私は彼の言動を眺めていた。
 しばらくしてコーヒーの香りが部屋に漂ってきたので、私は智賀子さんの消えたキッチンに目線を移した。智賀子さんが、トレイにコーヒーと子どもたち用に紙パックのジュース、クッキーを用意していた。
 智賀子さんが私と彼が向かい合わせになるようにそれらをセットすると、リビングスペースに私たちは誘導された。
 木目のローテーブルの隣に子どもたち用のベビーチェアをセットして、史那と愛由美ちゃんも一緒に席に着いた。幼児用のお菓子を少し出して、子どもたちのご機嫌を取りながら、智賀子さんが口を開いた。

「文香さん、黙っていてごめんなさい。今日、文香さんをうちにお呼びしたのは、雅人さんを紹介したかったからなの」

 そう言って、智賀子さんはまず私に詫びを入れた。
 意味がわからなくて固まっている私に、智賀子さんは一つずつ、私に理解できるように説明する。

「こちらの雅人さんは、私の親戚に当たる方でね。親戚といっても本当に遠い血縁関係だから、実家の方もお付き合いとかはなかったんだけと、主人と結婚してから主人の友人だったこともあって、今では家族ぐるみでのお付き合いなの」

 智賀子さんのご主人も大企業の御曹司だから、似たような境遇の彼と接点があってもおかしくはない。
 でもまさか、そんな親密な間柄だっただなんて……
 そのような接点から私と繋がるなんて、思ってもみなかっただけに驚きが隠せない。それに、家族ぐるみでのお付き合いならば、なぜ今日、わざわざここに一人で来るのか……
 私の疑問が顔に出ていたのだろう。ここで彼が初めて口を開いた。

「家族ぐるみは沢井家のことで、私はまだ独身です」

 彼の言葉に、私は再び固まってしまった。

「以前、親が勝手に決めた婚約者がいた時期もありましたが、色々あって破談になりまして……」

 彼はそこで一度言葉を切り、まっすぐ私に視線を向けた。

「うちもそれなりの規模の会社を経営しているから、後継者問題やら何やら過去には色々ありました。最近やっと落ち着いてきたところに、私の花嫁問題が再浮上しまして……」

 現会長である彼の父親が体調を崩して、社長の席を長男であり彼の兄である直人氏に譲ったのが、今からおよそ二年前。ホテル王の世代交代はニュースに取り上げられたから、世間でも知られている。
 現社長にあたる彼の兄の直人氏は、社長就任前に元国会議員で某大臣経験者の孫娘との政略結婚で後継ぎ予定の子どもも生まれており、会社の将来は安泰だと週刊誌の記事で読んだ記憶がある。
 今、目の前にいる彼に関しても、たしかに以前、婚約者がいたのも知っている。
 なぜ別れたのかは知らないけれど……

「そこで今回智賀子さんにお願いして、このような形であなたとの接点を頂いた次第です。……今井さん。期間限定でも構いません。どうか私の花嫁役を演じてもらえないでしょうか?」

 彼の突拍子のない発言に、智賀子さんも私と同じで困惑している。少なくとも、彼が何を考えているかわからないといった雰囲気だ。きっと智賀子さんも、彼に何かしらうまく言いくるめられて私をここに呼び出したのだろう。どうやら智賀子さんにだまされたわけではなさそうだ。

「私に近寄ってくるのは、実家の財産目当ての打算的な女性ばかりで、正直ウンザリしています。もともと親が勝手に婚約を決めた相手については、私自身そのような感情は全く持っておらず、なかなか身を固めない私に親や先方が強硬手段に出たので説き伏せるにもそれなりに時間がかかりました。私がこのままずっと独身を貫いたほうがいいのは、充分承知しております。しかし周りがそれを許してくれない。そこで、智賀子さんのお友達で独身の、口が固くて信頼できる人がいたら紹介してほしいとお願いして今に至ります」


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