所以

津田ぴぴ子

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九話

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とん、とん、と、腹の辺りを一定のリズムで優しく叩かれていた。それに合わせて掠れた、低い声の鼻歌が聞こえる。よく知らない、外国の言葉の歌だ。薄らと目を開けると、ぼやけた暗い視界に、見慣れた天井が映った。そこは実家では無く、一人暮らしをしていた二階建てのアパートの自室であるようだった。
あれ?どうして、と思いつつも、未だ思考は霞がかっている。どうやら夢でも見ているらしいと納得した。そして気が付けば、喉の奥で声帯が震え、唇が勝手に動いていた。脩司くん、脩司くんと、まだ目の開かない子猫が母親を探して鳴くように、未汐は脩司を呼びながら、自らが寝ているベッドの外へゆっくりと手を伸ばす。

不意にその手が取られると、未汐はそちらへ視線を向けた。そこには幼い頃の記憶と何ら変わらない脩司がいて、ベッドサイドに腰掛けている。彼は未汐を見てどうしたの、と笑った。顔は潰れていなかったが、握った手は酷く冷たい。とは言え、彼は元々低体温で冷え性であったため、あまり違和感を感じなかった。未汐はふと、こちらの方が現実で、今までに起こったことの方が夢なのではないか、と思い始める。
「怖い夢を見てたの」
「ふうん、どんな?」
「あのね、脩司くんがね、いなくなっちゃうの」
自分の口調が完全に子供の頃のそれに戻っているのは自覚出来たものの、それを修正することは不可能だった。
脩司はけらけらと笑って、それで起きちゃったの?と言った。未汐が頷くと、彼は未汐の頬に伝った涙を指で拭う。ぎし、とベッドが軋んだ音がして、脩司が未汐のすぐ隣に寝転がった。見慣れた手首の疵痕が、左袖の隙間からちらりと覗く。
「史緒ちゃん」
「なあに?」
「これ、いらないよね?」
脩司が指したのは未汐の首にかけられていたあのお守り袋だった。──あれ、それ、何だっけ?と暫く考えたものの、誰から貰ったのかは思い出せなかった。ただ脩司がいらないと言うなら、そうなんだろう。
「いらない」
「良い子」
言いながら身を起こした脩司は、未汐の手を優しく引いて起き上がらせた。お守り袋を彼女の首から外し、そして袋ごと中身を引き千切る。その残骸たちは脩司の手の上でみるみる黒ずみ、塵となって消えていく。それを叩き落とすように両手を払っている脩司の顔が、何かに心底怒っているような、能面のような無表情で怖かった。
未汐が脩司の服の袖を引くと、彼はまた微笑んで未汐のほうを見る。熱があるか確かめる時にするように、指だけで脩司の頬に触れると、ひやりと冷たい。
「脩司くん」
「なに」
「寒いの?」
「寒いよ」
少しだけ寂しそうな笑顔だったように思う。そして脩司は未汐の上に覆い被さるようにしてベッドに手をついた。柔らかい黒髪が顔にかかって擽ったい。また少し痩せたように感じる、控えめに言っても整った脩司の顔を撫でると、彼は目を閉じて小さく笑った。少し動けば唇が触れそうな距離まで近付いた脩司は、解けていた手指を再び絡ませて、口を開いた。
「寒いから、あっためてよ、──史緒ちゃん」
わかるでしょ、と。
あの時とは違う優しいままの脩司の手が、未汐の脚を撫でていく。小さい頃は細い細いとばかり思っていたが、こうして見ると男なのだとわかる。見た目から想像されるよりもずっと強い力に、心臓が死んでしまうのではないかというほど高鳴った。その爪が皮膚を軽く引っ掻く度に、情けないほど身体が震えた。片方の手は繋いだまま、そっと唇を重ねる。濡れたような音を立てて離れたそれが糸を引いて、それが切れてしまうことすら嫌だった。

史緒ちゃん、と耳元で呼ばれて、その熱を帯びた声が鼓膜の奥底まで浸透していく。未汐が、ねえ、さっきの、もっと、と囁くと、脩司は泣きそうな顔で笑って、今度は更に深く唇を合わせた。何度もそうしていると、酸欠で頭が痺れてくる。呼吸すら惜しくて、唇と唇の隙間で何度も好き、大好き、と繰り返した。それは脩司も同じで、聞いているだけで蕩けてしまいそうな、優しい声だった。その声で呼ばれるのが、たまらなく嬉しい。口の端から、混ざり合ってどちらのものともつかない唾液が伝い落ちてくる。
衣擦れの音を聞いて、身体を伝っていく骨張った手を感じながら、この人になら何をされてもいいと思っていた。
そして二人分の体重を乗せたベッドが、また大きく軋んだ。



「ふうちゃん!」
気がつくと、泥のように眠っていた。ゆっくりと目を開ける。天井はそのまま、一人暮らしの部屋だった。外は明るいようだ。横では舞希が涙目で未汐を見詰めていて、どうやらずっと未汐を呼んでいたらしかった。彼女は智也と陽祐の名前を叫びながら、廊下の方へと駆けていく。

何だかとても、幸せな夢を見ていた気がした。脩司の手指や唇の感触と息遣いが、まだ身体中に残っている。のろのろと起き上がると、不意に腰と子宮のあたりに鈍い痛みを覚えた。首に下げていたお守り袋は、どこかに消えていた。
玄関の方から、三人分の足音がする。陽祐がベッドに座った未汐を見て、大丈夫か、と僅かに首を傾げた。寝ていただけの未汐は、ただ頷くことしか出来ない。
それにしてもさっきから、視界がおかしい。
「本当に大丈──」
視線を合わせるようにして蹲み込んで未汐の手を握った舞希が、未汐の顔を見て固まった。彼女の様子がおかしいことに気付いた陽祐と智也も、同じように未汐の顔を覗き見る。
「ふうちゃん、目、どうしたの……?」
全く痛みがなかったために気付かなかったが、未汐の右目は真っ赤に充血し、しかも殆どその機能を失っていた。左目を閉じると、視界は暗闇に覆われてしまう。

慌てふためいた三人により未汐はすぐに智也の車で総合病院の眼科に連れて行かれたが、穏やかそうな医師はわからない、と首を捻った。医師から、何かが刺さったりしたりしませんでしたか?と問われた時、未汐は真っ先に帰宅途中のことを思い浮かべたものの、黙って首を横に振った。医師は数種類の検査をした後三種類ほどの薬を数日ぶん処方し、命に関わるようなものではないが、これで治らなければまた来てください、お大事に、と言った。
会計時にふとパーカーのポケットを弄ると、例の手紙が出てきた。いつの間に入れたのかと驚きながらも、手紙をすぐに仕舞い直して会計を済ませ、友人たちの元へと向かった。
未汐をロビーで待っていた三人は口々に、どうだった?と聞いた。未汐は曖昧に笑って、なんかわかんないみたい、と返す。そこまで来て急にアルバイトのことを思い出した未汐は、バイトが、と言って店舗まで向かおうとしたが、三人に全力で止められた後、欠勤と、一週間くらい休みを取りたい旨の連絡はしておいたから、と言われた。確かにこの目で働いても使い物にならないのは火を見るよりも明らかだが、昨日一緒に帰ったはずの後輩二人は、どうなったのだろうか?

病院を出るまでに何度も躓いた。視界が狭いのと、平衡感覚が上手く掴めなかったせいだ。結果として智也に手を引かれて、駐車場の彼の車まで歩く。
「何でうちにいたの?」
助手席に座った未汐がシートベルトを締めながらそう問うと、智也が今までの経緯を語り出した。

昨夜の九時頃、智也の携帯に未汐の父、晴彦から連絡があったと言う。未汐のアルバイト先の後輩だと名乗る二人──小峰百香と桐生律が訪ねて来て、相当焦った様子で先輩が、と言うので話を聞くと、実家に帰ると言っていた未汐が会話の途中で急に消えたと言うのだ。少し目を離して、また戻すと、既に未汐はいなくなっていた。一人になるとまずいらしい、と言っていたのを思い出して探し回っていると、実家ではなく、一人暮らしのアパートへ向かう道をふらふらと歩いている未汐を見つけた。どうにか追いついたが、声を掛けても肩を揺すっても何の反応も無い。その間未汐はずっと、右手を前に出していた。まるで何かに手を引かれているようだった。

アパートに着いて階段を上り、未汐が部屋の前に立つ。それについて行った二人は、先輩、と絶叫した。
その時、鍵を開ける動作もしていないのに、ドアはぎい、と音を立てて開いたと言う。そして半開きになったドアから紺色のカーディガン、制服らしいものを着た、明らかに男の腕が伸びてきて未汐の腕を強く掴んだかと思うと、勢い良く彼女を部屋の中へと引き摺り込んだ。ドアが勢い良く閉まり、辺りがしんと静まり返る。これはまずいと察した二人は半ばパニックを起こしながら来た道を戻り、記憶を頼りに表札から十時という名前を探し出してインターホンを押した。ちょうど、未汐が帰ってこないことを心配した両親が探しに出ようとしていたところだった。
家に入れられた桐生律はずっとがたがたと震え、あれ、何ですか、先輩、あれの何なんですか?と喚き散らしていたと言う。未汐の部屋の中に何かいたのかと問いかける父に、律は涙声でこう言った。
「だってあの、あの人、顔が半分、つ、潰れてた──」

それを聞いた父は家を飛び出して、未汐のアパートへ向かった。玄関のドアはどうやっても開かず、そもそも鍵は父である自分の手元にあるし、出てくる時はしっかり鍵を閉めたはずなのに、いつ、誰が、どうやって鍵を開けたのかもわからなかった。父は鍵を差し込んで回したが、何故か開かない。ノブを回したり、ドアを渾身の力で叩いて未汐の名前を叫んだりもしたが、返事は無かった。

ふと父が足元を見ると、大きな水溜りが出来ている。それは水と言うよりは、泥に近かった。先程までは間違いなく無かったそれに慄いて一歩下がると、地の底から響くような、何かに酷く怒っているような恐ろしく低い声が父の耳元で「帰れ」と言った。

これは異常なものだ、自分の手には負えないと判断した父は、車に戻って智也に電話を掛けた。連絡を受けた彼は一時間ほどかけて、仕事帰りらしい舞希と陽祐を伴って未汐の部屋に到着した。父は駐車場で待っていた。智也が部屋の前に立ってドアを開けようとした瞬間、これを開ければ全員が酷く苦しんで死ぬ、と直感したと言う。理由の分からない、恐らく本能的な恐怖に、身体が震えていた。
階段を降りてきた智也が朝まで待ちます、と言うと、未汐の父は右の耳を押さえながら、絶望に覆われた顔でもう駄目なのかと言った。もしかしたら既に手遅れで、中で未汐が死んでいるかもしれないのだ。智也は駄目とも大丈夫とも言えず、黙って俯くことしか出来なかった。

四人が十時家に戻ると、未汐の母が玄関前で待っていた。未汐の後輩は、保護者に連絡して帰らせたと言う。百香は未汐を酷く心配していたが、大丈夫だと言って聞かせた。もしかしたら暫くお休みをもらうかもしれないけど、ごめんねと母が伝えると、百香はぼろぼろと泣きながら、帰ってきたら絶対連絡ください、と言った。

その日三人は十時家に泊まり、翌朝もう一度未汐の部屋を訪れることになった。本来は父も同行する予定だったが、父はその日の夜中に体調を崩し、それに母も付き添う形で病院に行ったため、舞希、智也、陽祐の三人だけで行くこととなった。
部屋は施錠されていたが、鍵を差し込むとすんなりと開いた。
そして中に入ると、ベッドで未汐が深い寝息を立てていた。服は多少乱れていたものの、その体には毛布が掛けられていた。呼んでも中々起きない彼女は、ずっと脩司くん、脩司くん、と呟き続けていたと言う。

黙って智也の話を聞いていた未汐は、一先ず後輩の二人が無事であることに安堵した。しかしすぐに心臓の辺りがざわざわと毛羽立っていく。父が体調不良を訴えたところを、未汐は未だかつて見たことが無かった。
「お父さんは?」
「今から連れてくよ」
そう言って智也は、隣の県の、知らない住所を車のナビに入力した。



時刻は、昼を回ろうとしていた。
その古びて見える病院の看板には、西原病院、とあった。元々は綺麗だったのだろうが、今は所々が錆びて、色も褪せてしまっている。僕の親父の病院、と説明した智也は雑草の生えた駐車場に乱暴に車を停め、先に車を降りたかと思うと、助手席に回り込んで未汐にそのしなやかな手を差し出した。
「手貸して」
「え、あ」
早く、片目見えないんでしょ、と急かされ、未汐はおずおずとその手を取る。何だか悪いことをしている子供ような、怒られてしまうのではと言う予感がした。舞希と陽祐は車の中で待っていると言う。未汐は智也と連れ立って、病院の古い自動ドアを潜った。
受付らしい場所に据え付けられた椅子に、母がぼんやりと座っている。どうやら寝間着のままのようだ。未汐は右目が見えないことも忘れて、思わず駆け出した。
「お母さん!」
「みぃちゃん、」
母は未汐を見るなり抱き締めて、無事で良かった、本当に、と泣いた。母は未汐の右目を見て一瞬顔を歪めたが、お父さんは、と聞くと俯いた。まさか死んでしまったのではと、未汐の心臓が一瞬止まりそうになる。
「お父さんは寝てるの、とりあえず、今は大丈夫よ」
「今は、ってどういうこと」
母の話では、父は深夜になって強烈な眩暈と頭痛、吐き気を訴えた。未汐の部屋から帰って数時間後のことだったと言う。痛い痛いと呻く父を見て救急車を呼ぼうとした母に、智也が実父の病院に行くように勧めた。一時間と少しの時間はかかるが、智也の父は大方の事情を知っている。通常行くような病院に連れて行っても返って危ないだろうと。
多分、普通の病気じゃないです、と言って、智也は父に電話を掛けた。

そしてこのお世辞にも綺麗とは言えない西原病院に搬送された父は、各種の検査を受けて今は眠っていると言う。右の耳の奥に腫瘍のようなものが出来ていて、それが通常ありえない速度で肥大化していたとのことだった。
父は、ずっと右の耳を気にしていた。詰まったような感じがする、水の音がする、と。確か近隣の耳鼻科を受診して、何とも無かったのではなかったか。そんなに悪い腫瘍が出来ていたなら、その耳鼻科の医師は、どうしてそれを見逃したのか。単に小さすぎて見つけることが出来なかったのか、それとも、見えなかったのか。

いつから?何で?と未汐は必死に記憶を辿る。
いつから父は右耳の違和感を感じていたのか。おおよそ二、三週間前、名取一家の心中、居交沢集落住民の連絡先が書かれた、引き出しの奥に隠すように押し込まれた十時逸見の手帳。
それの端の方に、まるで隠すように小さく書かれた鹿代家の電話番号。水の音、その奥から聞こえる、掠れた低い声。
「脩司くんちの番号だ」
その小さな呟きを聞いた智也は、はっとしたように未汐の方を見た。それを見ていた母は未汐に、お父さんには、絶対渡すなって言われてたんだけど、と言いながら、黒い擦り切れた手帳を手渡した。それを受け取った未汐が母を見ると、彼女は目に涙をいっぱい溜めて、震える声で言った。
「お母さんね、みぃちゃんと同じくらい、お父さんのことも大切なの。……都合が良いかもしれないけど、もう、……お姉ちゃんの時みたいになるのは嫌なの、だからお願い、」
晴彦さんを、助けて。
そう言って泣き崩れる母を見て、未汐は溢れかけた涙を拭って唇を強く引き結んだ。好きな人が死んでしまうのは自分の身を裂かれるよりも辛いことだと、よく知っていた。
「お母さん、わたし、がんばるから」
未汐はそのまま智也を振り返って、居交沢集落への行き方と、智也の祖父の住所を尋ねた。今から行けば到着は夕方かその辺りになってしまうだろうか。交通の便が悪ければ、もっとかかるかもしれない。廃墟群寸前の限界集落に、宿泊施設があるとも思えなかった。一瞬野宿を覚悟した未汐の頭に、智也は軽く手を置いた。
「ばか、片目見えてないのに一人で行かせるわけないだろ」
「一緒に行ってくれるの……?」
「僕の爺ちゃんのところだし、僕がいた方が良いじゃん」
仕事について尋ねると、フリーランスはその辺調整が利くからね、と微笑む。その時、奥の処置室らしきところから白衣を来た初老の男性が欠伸をしながら出てきた。智也はその男性を親父、と呼んで、半ば叫ぶようにこう言った。
「僕これから爺ちゃんのとこ行ってくるから!史緒の父ちゃんのこと頼むね!」
その白衣の男性は勝手にしろ、と吐き捨てたが、しっかりと智也の方を見ていた。彼はそれを確認した後、先程入ってきた自動ドアに未汐の手を引きながら歩き出す。
史緒は智也のあとをよたよたと追い掛けて、車の助手席に乗り込んだ。右目が見えないためか、何度か手を滑らせる。待っていた舞希と陽祐にこれからの予定を話す智也の声を聞きながら、未汐はポケットの中の手紙を握り締めていた。
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