所以

津田ぴぴ子

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十話

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長いトンネルを照らす等間隔に並んだオレンジの照明が、お世辞にも広いとは言い難い車内を駆け抜けて行くようだった。
西原病院を出発して、一時間ほど経っただろうか。車内は智也の趣味であろう海外のロックバンドの曲が延々と流れている。四人は最初こそ黙っていたが、陽祐が喋り始めたのを皮切りに、五分、十分と経つに連れて子供の頃の空気感を取り戻しかけていた。十五年前と同じ渾名で友人たちを呼びながら、まるで小学校の頃に戻ったみたいだと、未汐は目を細めて流れていく景色を見る。

名取史緒が居交沢集落を出たあと、舞希と陽祐も中学に上がるタイミングで集落を離れたと言う。交通の便が良くない集落内の古びた家に住み続けるよりは、町に新しく家を建ててしまった方がいいのではないか、と言う両親の判断だったそうだ。智也も同じ時期に生家を離れたが、家族での引越しでは無く智也だけが親戚の家に居候する、という形で二人と同じ中学校に通っていた。たまに史緒の行方が話題に出ることがあったが、その事情についてはただ死んだ鹿代家の末っ子との間に何かがあったらしい、と言う程度の認識だった。舞希と陽祐は鹿代家の母親が史緒をどこかへ連れて行ったことを記憶していたものの、結局何も分からなかった。舞希は暫く、あの時ふうちゃんを止めればよかったと泣いた。智也の祖父だけは何か知っているようだったが、彼はその頃厳しい祖父を毛嫌いしており、結局聞くことはなかったらしい。
「何か、ずっと四人でいたでしょ、私たち。勉強も遠足も、プールも」
「でかい中学行っても落ち着かなかったよな」
「そうなの、何か穴が空いた感じっていうか」
しかし時間の経過に身を委ねているうちに、その穴は徐々に小さくなって行く。三人が高校生になる頃には智也の両親も祖父母を残して集落を出て個人医院を開業していた。成人するともなると、集落のことも史緒のこともすっかり忘れていたと言う。
時折頷きながらその話を聞いていた未汐は、ハンドルを握る智也を見ながら首を傾げた。
「でもどうして急に」
「呪ソだよ」
まただ。何かにつけて智也の口から出て来るその不穏なワードに若干苛つきながらも、未汐はその呪ソって何?脩司くんと関係あるの?と言い募る。智也は溜息を吐いて、僕も爺ちゃんから電話で聞いただけだから、詳しいことは行ってから聞くんだけどさ、と前置きした。

智也の元に祖父から連絡があったのは、今から二週間ほど前だった。名取一家の心中事件より少し後のことだ。数年振りに聞く祖父の声は、歳のせいか大分小さく、柔らかくなっているように感じた。祖父は彼に、呪ソが始まったからお前も気を付けろと言った。何のことだか全く分からず電話を切ろうとした智也に、祖父は矢継ぎ早にこの集落は全体が呪われていて、今までに何人も死人が出ていること、十時逸見によるお祓いののちは落ち着いていたが、最近また集落内で一人不審死が出たこと、名取一家が心中事件を起こして、その葬式に行ったこと、いずれも元凶は鹿代脩司で、最近その確証を得たこと、どうにか出来るのは名取史緒しかいないだろうこと、彼女は今十時未汐と名前を変えて、全て忘れて暮らしていることを告げた。
同じようなことを智也の父、智巳にも話したが、彼は強烈なオカルト否定論者で、呪いや祟りなど存在しない、全て偶然で、気のせいだ、時間が解決すると突っ撥ねられてしまった、と言った。智也はだろうな、と密かに頷いて、それでどうして欲しいの、と聞いた。
「記憶が消えていても構わないから、史緒ちゃんを集落に連れてきて欲しい」
さもなければ、お前も、史緒ちゃんも、みんな死んでしまうかもしれない。
祖父は震える声で、ただこう言ったという。

そこで祖父から未汐の父の連絡先を聞いた智也はまず舞希と陽祐に連絡を取った。そして未汐の父にどうやって説明するかを考えるのに、かなりの時間を要した。
呪いや祟りを抜きにしても史緒には会ってみたかった。しかし全て忘れてしまっているならば口実としては弱すぎる。ありのままを説明しても絶対に信用してもらえないだろうと思ったが、そうするしか無かった。だが予想に反して未汐の父、晴彦はあっさりとその話を受け入れ、未汐に危害を加えない、友達としての話しかしない、ということを絶対条件として、色々な調整の末に会うことになった。あの再会には、そういう経緯があったらしい。結局父が出した条件のうち二つ目は、守られることは無かったが。
前日に十時逸見が亡くなったのは本当に偶然で、話を聞いた智也も驚いたと言った。
そして名取一家の心中事件、葬儀での集落住民の話などで、未汐の父はことの全体像を曖昧ながら掴んでいたのかも知れなかった。
「史緒の父ちゃんにさ」
「うん」
「友達だったから会わせてあげるけど、昔のこと、あんまり触らないでって言われたんだわ」
ごめんな、と智也が力無く笑うので、未汐は首を横に振った。彼らが出て来なければ、脩司のことも思い出せなかったかも知れない。何も知らないまま死んでいたかも知れないのだ。
「みんなも、脩司くんのせいだと思ってるの」
未汐は自分の声が震えるのを感じた。同じ質問をした時の両親の顔が思い出されて、思わず泣きそうになる。ファミレスで話した時も、脩司の名前を出す度に場が凍りついていた。それは、三人が元凶を脩司だと考えていることの証左ではないのか。少なくとも智也の祖父はそう考えているようだし、その確たる証拠を得たとも言っている。
暫くの沈黙が車内を支配したが、最初に口を開いたのは智也だった。
「まだわかんないよ、そんなこと」
だから、信じたいなら信じてていいんじゃないの。
その言葉に未汐は目に涙を溜めながら頷くと、ありがとうね、と笑った。今までずっとのしかかっていた重荷が、少しだけ軽くなったような気がする。
「でもさあ、この流れで行くとわたし生贄にされるよね?」
冗談めかして言ったが、これは的を得た考察であると思っている。もしも未汐が集落のまとめ役をしていて、呪いなり祟りなりを食い止めようと思ったら、真っ先に人身御供を思いつくだろう。それで災厄が落ち着いたと言う話も、インターネットでは良く見る。
未汐の両親や集落の人々が思っているように、早くに死んだ脩司の無念が祟っているとするならば、生前より脩司と仲が良く、幼いながらに結婚の口約束までしていた史緒以上に適した人間はいないのではないか。
彼のせいなどとは絶対に思いたくないが、それも悪くないな、と未汐は友人たちに気付かれないように少しだけ口角を上げた。



大人になって、智也はフリーランスの作曲家としてある一定の収入を得ていた。陽祐は実家の仕送りを貰いつつライブハウスのアルバイトとしてどうにか食い繋いでいて、舞希は保険会社の営業職として働いている。未汐はふと後部座席の舞希を振り向き、仕事は大丈夫なの、と問う。保険会社の営業は苛烈な忙しさだと聞いたことがあるし、自分のせいで舞希が会社から怒られてしまうのは嫌だった。すると舞希は大丈夫、とにっこり笑った。
「もう辞めてやるの、あんなところ」
「こいつ辞表投げてきたんだってよ」
こえーよな、とわざとらしく肩を竦めた陽祐は、犬を撫でるように舞希の頭を撫でた。撫でられた彼女は安心したように目を閉じ吐息混じりに、もう、と微笑んで見せた。その光景が、何だかとても羨ましく感じた。

──わたしだって、脩司くんとずっと一緒にいたかったのに。

心に去来する感情をどうにか抑えつけて、未汐は前を向いた。少し先にコンビニエンスストアの看板が見える。そこが集落に入る前の最後の店舗らしい。駐車場には大型のトラックが一、二台ほど停まっていて、山を越える長距離ドライバーの休憩所になっているようだった。
三人はトイレや、軽食の買い物のために店内に入っていった。未汐は適当なパンを智也に頼み、車の中に残る。三人は未汐を残していくことに大層難色を示したが、車の中だし、ちょっとの時間だったら大丈夫だよ、と笑って送り出した。実際木々に囲まれてはいるもののまだ周囲は明るく、人の気配もある。
西原病院を出る時に母から預かった、祖父の手帳を眺めた。手帳と言うよりも糸綴じのノートに近いそれは、未汐の掌に収まるほどの大きさしかない。長いこと繰り返し使っていたらしく表紙は擦り切れ、所々が色褪せていた。
そっとページを捲ると、人の苗字と思わしき漢字と、数字の羅列が目に飛び込んでくる。上から土山、樋川、名取、西原、井藤、朝田、榎下。名取、と言うのが未汐の産まれた家であり、西原は智也の、土山と樋川はそれぞれ陽祐と舞希の生家だろう。黒のボールペンで書かれたそれは筆圧が強く丁寧な字で書かれており、何とは無しに祖父の人格を感じ取ることが出来た。そしてそのページの右隅に目をやると、ボールペンではなく鉛筆で鹿代と言う苗字と、その電話番号と思われる数列がひっそりと書き記されていた。擦れば消えてしまいそうなほど薄い、小さな文字だった。注意していなければ見逃してしまうかもしれない。

この番号に掛けてから、父の右耳はおかしくなってしまったのだ。
未汐はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、発信画面を開く。手帳に書かれた番号を打ち込んで、右の耳に押し当てた。父と同じようになってしまうかもしれないと言う恐怖よりも、心の奥底から虫のように湧き出てくる好奇心が勝っていた。何より、父が聞いたのが脩司の声だったのか確かめたかった。朝田と榎下と言う男の葬儀場での話を信用するなら、鹿代家には現在誰も住んでいないことになる。
脩司の両親や兄たちも、一人残らず死んでしまったと言うのは、本当の話なのだろうか?鹿代家の人々に会ったのは、脩司の葬儀が最後だった。

──そういえば、脩司くんはどうして死んだんだろう。

記憶が戻っても、それは分からずじまいだった。知らないことは思い出しようがない。未汐のぼんやりとした思考をよそに、スマートフォンの奥からは、無機質な呼び出し音が延々と鳴り続けている。もしかして、違う家に電話番号が再度振り分けられてしまったのだろうか、と一抹の不安が未汐の脳裏を掠めた。電話番号に使われる数列のバリエーションが枯渇し始めた昨今、三年から五年以上使われていない番号は再利用されることもある、とインターネットで聞き齧ったことがあった気がした。鹿代家が空き家となった時期までは不明だが、だとしたらとんだ間違い電話だ。何回目かのコールが聞こえた時点で、未汐は電話を切るためにとスマートフォンを耳から離そうとした。

ぶつっ、と、向こうで受話器が取られる音がした。

未汐は肩をびくりと震わせて、小さな声であの、もしもし、と言った。水の音が聞こえる。それは、父が聞いたらしいごぼごぼという音ではないようだった。もっと軽い、すぐ近くで川が流れているような音だ。
暫くそれを聞いていると、数秒おきに何か別の音が混じることに気付く。高校二年の夏休みに友人と西瓜割りをした時に聞いた、木の棒で西瓜を殴る音に近いように感じた。
子供が遊んでいるのを録音したものだろうか、と聞きながら未汐は首を傾げる。連想したのは、暇を持て余した夏休み、川辺で西瓜割りをする子供たちだった。しかしそれにしては子供の声が聞こえない。そもそも、電話口でそんな音声が流れるわけがないのだ。ゆっくりと得も言われぬ恐怖感が膨れ上がっていく。背筋にぶつぶつと鳥肌が立っていくのがわかった。これは何の音なのか。電話の向こうで、一体何が行われているのか。向こう側からの音声に、徐々に歪なノイズが混ざり始める。不穏な妄想が未汐の思考の淵に手を掛けて、今にもこちらを覗き込んで来そうだ。これ以上聞いてはいけない。初めてあの手紙を見た時と同じだった。雑音が一層酷くなる。テレビの砂嵐を耳元で流されているような感覚に、未汐は顔を思わず顰める。
何秒間そうしていたかはわからない。突然ノイズが止んだ。

史緒ちゃん、

消え入るような、今にも泣いてしまいそうなほど震えた掠れた声と、果物を潰すような濡れた音がほぼ同時に聞こえて、電話が切れた。

瞬き一つ出来ないまま、未汐は自らの膝を見つめている。
やっとの思いでスマートフォンを耳から外して、それを両手で握り締めた。
あれは、間違いなく脩司の声だった。見開かれたままの目から溢れてくる涙が頬を伝って、服に滲む。心臓の鼓動が足の先まで伝わるようだった。

脩司が死んだ日、彼の顔を見たであろう大人たちはえづき、嗚咽した。そしてどんなに頼んでも絶対に脩司の顔を見せてくれなかった。その夜も、顔に被せられた袋と誠一からの言いつけによってそれは叶わなかった。子供の頃は脩司が死んだことだけに焦点が合ってしまい、そこまで意識が向かなかったが、今は違う。
昨日の帰り道に見た脩司の顔、今の電話。そこに至るまでの経緯は未だ分からないが、どうやって死んだのかは、何となく分かった気がした。
脩司は、頭を潰されて殺されたのだ。
それを理解した瞬間、耳の奥で音がするほど歯を噛み締めた。犬歯が唇に深々と食い込んで、血の味が口に広がる。今までに感じたことがないほどの怒りが泡立って、脳味噌から溢れてこようとしていた。脩司を殺した人間がまだ生きているなら、この手で同じ目に遭わせてやりたい。
頭痛がする。
「史緒!」
智也に肩を揺すられて、未汐は我に返った。強く握り締めた掌には血が滲んで、じんじんと痛む。いつの間にか帰ってきたらしい彼らに無理矢理愛想笑いをすると、陽祐は未汐の膝の上に置かれた開かれたままの手帳と携帯を見て、電話、掛けたのか、と言った。黙って頷く。暫く休憩しようかと言われたが、未汐は首を横に振った。そんな彼女を見て、智也は一層険しい顔をする。
「何を聞いたの」
「……脩司くんが、」
それ以上は、再び溢れ出してくる涙のために何も言えなかった。智也の祖父に聞くまでは何も分からないが、緊張から来る幻聴の類であって欲しいと願っていた。頬を拭う智也の手や、背中を優しく摩る舞希の行動すら、脩司と重なって悲しかった。

一頻り泣いて、このままではいけないと未汐は強く涙を拭った。もう大丈夫、行こう、と笑って見せると、智也は二、三度未汐の頭を軽く叩いて、シートベルトを締めた。
コンビニエンスストアの駐車場を出るとすぐに山に入った。道路は整備されているが、あまり使われている様子は無い。野生動物注意の標識は、長い間雨風に曝されて錆び付いている。車はどんどん山を登っていく。
ふと、智也はハンドルを左に切った。そこだけガードレールが切れていて、入れるようになっている。道幅は車一台分と少しの獣道で、対向車が来ても擦れ違える余裕は無さそうだった。

木の枝を踏み潰しながら走っていると、やがて鬱蒼とした木々の間から居交沢集落が姿を現す。遠くの山に日が落ち掛けているのが見えた。
見覚えのあるバス停や、今はもう使われていない小学校を通り過ぎて、車はある一件の民家の前で停まった。名取家と鹿代家は西原家と真反対に位置していたことを思い出す。通りで見なかったわけだと、未汐は一人納得した。古びてはいるが、立派な家だった。表札には西原と彫られ、良く手入れされた庭の松の木が四人を出迎えた。

智也は無遠慮にも引き戸を思い切り開け、智也だけど、と叫んだ。すると数分も経たないうちに、奥から老婆が顔を出した。真っ白な頭に、目尻には笑い皺がくっきりと浮かんでいる。
「あらあらともちゃん、久し振りね、」
ともちゃん、と未汐と同じ渾名で智也を呼びながら嬉しそうに近寄ってきた智也の祖母は、後ろにいる未汐たちに視線を向けると、あらあ、と一層大きな声を上げ、一人一人の名前を挙げた後、大きくなったのねと笑った。その中には未汐も含まれていて、史緒ちゃんも、大変だったね、と溜息を吐く。それにどう反応したらいいか分からずにいる未汐を庇うように智也が前に立ち、いいから、爺ちゃんは?寝てんの?と言った。

四人を入って左手の居間へと案内した祖母は、畑を弄っているらしい祖父を呼びに裏口へと向かった。遠くから、爺さん、爺さんと声を張り上げる彼女の声が聞こえる。
「適当に座っていいよ」
そう言って戸棚を漁る智也の言葉に甘えて、三人は足元の座布団の上に腰を下ろした。随分上等なものらしく、ずぶりと体が沈むのを感じる。
やたらと広い居間だった。そこら中に何かの賞状や集合写真が飾られている。畳の匂いが鼻腔を掠めて、何だか心地が良い。部屋を見回していると、三人の前に大量のスナック菓子が積まれた籠が置かれた。
「そんなんしか無かったわ」
言いながら智也は未汐の横に座って、煎餅の袋を破く。陽祐が籠からチョコレートを見つけて、舞希と未汐に手渡した。それを口に投げ入れて、未汐は智也の方を向く。
「初めて来たかも、ともちゃんのお家」
「そうだっけ?」
放課後や休みの日は殆ど脩司の家に入り浸っていたため、友人の家で遊んだ記憶は僅かなものだった。舞希の家には何度か行ったことがある気がするが、智也の家は初めてだろうと思う。未汐たちの正面の戸棚には、分厚い本やアルバム、ファイルの類が所狭しと詰め込まれていた。背表紙を見る限り郷土史や、集落内の記録のようだった。

お待たせ、という明るい声と共に、祖母が熱い緑茶をお盆に乗せて四人の前に戻ってきた。その後ろから、穏やかそうな顔立ちの老人が居間に入ってくる。智也の祖父、西原嗣巳だ。彼は老人独特のよたよたとした歩き方で、未汐たちの正面に腰掛けて、いらっしゃい、よく来たね、と笑った。
彼は自らの手元に差し出された湯呑みを口に運び一息つくと、再び未汐たちを見た。

「少し、昔話をしようか」
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