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忘れた記憶、料理で繋ぎます
忘れた記憶、料理で繋ぎます-3
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「翡翠さん、今度お菓子の作り方一緒に教えてください……何であんなにいつも美味しく作れるんですか」
「彩梅ちゃん、そんな落ち込まなくても。ちゃんと美味しいよ、これ」
そう言いながら、翡翠さんがいつの間にか私の作ったふな焼きを食べていた。私はその優しい言葉にうなだれる。
「今度はみんなで一緒に作ろうね」
翡翠さんの声とともに、頭をぽんぽんと軽く撫でられる感触がする。私は素直に「はい」と頷いた。
それとほぼ同時に、背中にしがみついていた重みがふっと消える。振り返ってみれば、神威さんが水干姿の少年の首根っこを捕まえていて。
「で? なんでこんなことになってんだ?」
神威さんが不機嫌そうに言う。私が「すみません」と言うと、彼は「あんたじゃない」とむっつりと言葉を返してきた。神威さんの口調に差し迫った感じはなかったので、やっぱりこの男の子は、もともと神威さんとは旧知の間柄なのだろう。
「おぬしらはこの少女の入居を許したそうだが、儂は賛同した覚えがない。だから、いくつか『試し』を与えようと思ってな」
首根っこを掴まれたまま、少年は悠々とふな焼きを食べ続ける。
「……伺いは前もって立てたはずだ」
「儂はそれに返答しなかったはずだぞ」
ひらりと身をよじり、少年は神威さんの手から軽々と抜け出した。
「えー、何でダメなの? ねえ、は――」
「儂の名前は言うでない」
翡翠さんの言葉を遮り、少年はむすりとした顔でそう言った。対する翡翠さんはけろっとした顔で「なんで」と返している。
「儂が何なのかを当てるのも、試しの一つだ」
「あーなるほどね、分かった分かった」
はいはいと軽く手を振って、翡翠さんが頷く。
「ちなみに、もし彩梅ちゃんがその『試し』とやらに合格しなかったら、何かあるのかな?」
翡翠さんがどこか真剣な調子を声音に滲ませ、切り出した。
「儂の正体を当てられねば、この娘にはこの屋敷から出て行ってもらう」
少年がそう言った途端、部屋が静まり返る。固まってしまった空気に、私はあたふたと周りを見回し、口を開こうと試みる。
「ええと……」
「おい。今更出てきて、それはないだろう」
私の横に、ずいと神威さんが進み出る。
「この家の当主は俺なのに、何でお前が出てくる」
「儂を敵に回すか、人神よ」
「敵に回すかどうかとか、そういう問題じゃない。なんで反対なのかって聞いてんだ」
「反対ではない。『見定め』と言っておる」
落ちる沈黙。息が詰まるような空間の中で、私は恐る恐る手を挙げた。
「あ、あのう……」
「どうした」
神威さんに促され、私はごくりと唾を呑み込む。
「そもそも、この子……じゃなくてこの方、私よりもずっと前からここに住んでるって聞きまして」
しんと静まり返った大広間。頼むから誰か一人くらい反応してほしいな、と思いながら、私は自分の後頭部をかいて続ける。
「そりゃあ、拒絶反応起こして当たり前ですよ。赤の他人がいきなり我が家に入ってきたってことなんですから」
「……」
水干姿の少年はむっすりとした表情のまま、何も言わない。一抹の気まずさを感じながら、私は自分の口角を上げてみせる。空気が重くて仕方がない。
「だから、この方の『見定め』、受けさせてください」
「おう。望むところよ」
少年は真面目な顔で、私の言葉にこくりと小さく頷く。しかし、神威さんが「いや、待て待て待て」と言いながら、私の肩をがっと掴んだ。
「はい?」
「『はい?』じゃないだろ。あんたな……」
私が目を白黒させていると、彼は大きくため息をついて何かを言いかけたまま、がっくりとうなだれた。
「……いや、やっぱり何でもない」
「何でもないって顔じゃないですけど」
「何でもないつったろ」
「……付き合いきれん。儂はもう寝る」
神威さんと私がやりとりしている横から、白い小さな影が大広間から廊下へ滑り出た。長い髪を束ねる青、赤、黄、白、黒の五色の組紐が風に揺れ、遠ざかっていく。
「あっ、ちょっと待――」
「よく覚えておけ。誰かに助言を得ようものなら、儂には分かるからな」
振り向きざまに私へ向かってそう言ったきり、あの小さな少年は姿を消してしまった。
「き、消えちゃいました」
捨て台詞を残して。
「ああ、あの子夜早いからね」
長い間生きてるのに、見た目相応の生活習慣だな。まだ十九時半なんですけど。
「おーい、彩梅ちゃん。大丈夫?」
どうしたものかとぼんやりしていたら、翡翠さんが私の目の前で手をぶんぶんと振ってきた。私ははっと我に返り、こくこくと頷いてみせる。
「だ、大丈夫です。明日また頑張ります……!」
明日こそ、明日こそは……! 何とかせねばと固く誓っていると肩を叩かれ、私は顔を上げた。
「ん」
神威さんが小さく四つ折りにした紙を、私の手に握らせる。
「また明日」
ポンと彼に頭を叩かれながら、私は紙を見下ろす。なんだろう、これ。
「ほら、彩梅ちゃん。疲れただろうから、お風呂にでも入ってきなよ」
「……そうします」
気遣わしげな翡翠さんの声を受け、私は立ち上がる。
そして一人廊下に出ながら、そっと神威さんに渡された紙を開いた。
『明日の朝六時に、屋敷の宝物庫で。また明日』
「待ち合わせ?」
簡潔すぎて何も伝わらないけれど。
「……また明日」
明日会うのが前提で、自分を受け入れてもらえているような気がする、いい言葉だ。
今更ながら神威さんの言葉がじんわりと心に沁みて、私は紙をぎゅっと握りしめた。
翌朝の六時。神威さんに言われた通り、屋敷の日本庭園の奥にある宝物庫を訪れると、彼はすでに到着していた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
まさかの二人きりだ。私は恐縮しつつ、彼に手招きされるがままそろりそろりと宝物庫へ足を踏み入れた。
ここは『宝物庫』という名の通り、貴重そうなもの、高価そうなもの、由緒正しそうなものが格納されている蔵だ。ものが多く、ぶつかってしまわないか気が気じゃない上に、神威さんと二人きり。
き、緊張する……!
「あ。そこ、気をつけろ。翡翠が大切にしてるやつだそれ」
「は、はい!」
神威さんに指さされた方向を見た私の目に、切子細工が刻まれた、鮮やかな藍色のガラスの壺が映る。この薄暗い蔵の中に差すわずかな光のもとでも、綺麗に見える壺だ。
「あ、確かにこの壺高そうですね……気をつけます」
「違う、そっちじゃない。その右」
隣に並んだ神威さんが、すっとガラスの壺の右隣の箱を指さした。
「はい? これですか?」
私は目を瞬く。壺の右側には、年季の入った木製の箱が置かれている。大きさはサッカーボールくらいの、立方体の箱だった。
「ああ」
神威さんが箱にかかっていた閂を外し、蓋をゆっくりと開けた。
「見てみろ」
箱の中を指さされ、私は恐る恐るその中身を覗き込んだ。そして思わず歓声を上げる。
「これは確かに……! うわあ、綺麗ですね」
箱の中にはふかふかとした黒い光沢のある布地が張られていて、クッションのようになっている。そして、その中には。
深い青色をたたえて静かにきらめく、丸いクリスタルのようなものがあった。
「青水晶って名前でな。気をつけろよ、あいつ『絶対に割るな』ってうるさいから」
「へええ……」
私は水晶にくぎ付けになり、更にそうっと覗き込んでみる。じっと見つめていると、海の中に潜っていくような気分になる青さだ。ゆらゆら揺れる青い波間の、さざ波が聞こえてきそうな――。
「って、こんなことしてる場合じゃない!」
私は綺麗な青水晶から視線を引きはがし、声を上げた。神威さんがびっくりしたような顔でこちらを見ている。しまった、声がうるさすぎると思われたかもしれない。
「どうした」
「あの子の正体、まだ掴めてないんですよ……ここに呼んだのも、その件ですよね?」
私はこめかみを押さえながら答えた。昨夜もずっと考えていたものの、判断材料が少なすぎて何を質問するか決めきれずにいたのだ。
「何も心配すんな」
考え込んでいたところに静かに言葉をかけられ、私は瞬きをして言葉に詰まる。
「……はい?」
「俺がなんとかする」
「いやいやいや、それは駄目です、絶対に」
それは反則だ。私は真顔になり、手を顔の前で左右に振る。
「神威さんのそのお言葉は大変ありがたいんですが……また別の問題でして」
「別の問題?」
なんだそれはという困惑を滲ませた呟きが耳に届く。私はこくりと頷いた。
「あわよくば、気に入ってもらいたいと思って。私が」
「……」
神威さんが無言のまま私を見つめる。その表情からは何を考えているのか、いまいち掴めない。私は慌ててそのまま言い募った。
「むしろ、あれだけ反対していたのを、認めてくれる条件を出してくれたくらいなんですからありがたいですね。問答無用で追い出すことだってできるはずなのに」
今のところ、そんなことをされてはいないし。
「裏を返せば、こっちが『試し』に合格すれば認めてくれるってことですよね」
「前向きな奴だな……」
呆れたような顔で、神威さんが私を見遣る。
「印象悪いまま同居してもしんどいですし。できれば認めてもらえて、快く住まわせてもらえるようになることが理想なんです……だから、自分にできる限り頑張ってみようかなって。百パーセント、私のわがままです。ごめんなさい」
「あんた……なんていうか、変なとこでタフだな」
今度はため息をついて神威さんが頭を振る。私は首をかきながら笑ってみせた。
「まあでも気に入ってもらえるかもらえないかって、頑張ってもどうにもならない場合もありますし。それでも認めてもらえないようなら、仕方のないことです。粘って駄目だったら、諦めます」
そう、仕方のないことだ。どうしたって気に入らない、相性の悪い相手というのは存在する。
血の繋がっている『家族』でさえ合わないことはあるし、それは努力じゃどうしようもない。そこを無理に押し通して同居したとしても、気まずさここに極まれりだろう。
ならば、とてもとても嫌だけど、新参者の私は退却するしかない。あの家にいられなくなったからといって、きっとバイトを打ち切りにはならないだろうし。
え、ならないよね?
「……この『試し』、合格しなかったら巫女の助務もクビになったりします?」
それは結構嫌、というか絶対に嫌だな。
そう思ってしまうほどに、私は神威さんたちとの青宝神社での日々を気に入ってしまっている。今更手放すという選択肢は思い浮かべたくない。
さっきから無言の神威さんを恐る恐る窺ってみると、鋭い眼光で睨まれた。
「なんで出て行く選択肢があること前提なんだ」
「いや、あの子に許可してもらえなかったらそうなりませんか」
「……そうしたら、出てくのか」
「まあ、約束してしまいましたし」
気まずいのも困るし。
「新しい家は?」
「探します。なのでそれまでだけでも、どこか寝泊まりする場所をお貸しいただけると……」
でないと家なき子を通り越して、宿なき子になってしまう。前暮らしていたアパートはもちろん引き払ってしまった。せめて新しい部屋が見つかるまでは執行猶予期間がほしい。
私の申し出に、神威さんはむすりとした顔で腕を組んだ。視線が痛い。
「あのう……お願いします」
そうおずおずと頼んでみると、再びぎろりという効果音でも付きそうな鋭い視線が投げかけられた。
図々しすぎただろうか。せめて部屋が決まるまでは妥協してくれないか、だなんて。
「そもそも出て行かせる気は全くない」
「それは……ありがとうございます」
図々しいと罵られるなんてことはなく、神威さんはそう言ってくれた。よかった、と私はほっと胸をなで下ろす。
「けど、あんたはあいつと『正体を当てる』と契約しちまった。口約束でも、契約は契約だ。ああいう奴との『契約』は――第三者が介入できない」
神威さんがしかめっ面でそう言った。私はそれに対して「もちろんです」と頷いてみせる。もちろん、約束は守らなければ。助力を仰ぐのはもってのほかだ。私自身が引き受けたのだし。
「はい。頑張ります」
「……この宝物庫に呼んだのは」
神威さんがあさっての方向を見ながらぽつりとそう呟く。脈絡のないその言葉の意味が汲めず、私は疑問をもって彼を見上げる。
「ここが一番、落ち着いて話せる場所だからだ。あいつが来るとしても、遅い」
「……?」
謎の言葉に、私は首を傾げるしかない。けれど――このタイミングで言うということは、何か意味があるのだろう。
私は昨日、一人称『儂』の少年に言われたことを思い出す。
『よく覚えておけ。誰かに助言を得ようものなら、儂には分かるからな』と、釘を刺されたことを。
「うーん……ここなら来るのが遅い……それから、『何でも知ってる』……? ああ、そういえば」
私はふと思い出した。
「昨日あの子、大広間にいたときに雨童さんが来たの知ってたんですよね。まだ雨童さんは玄関に着いてもいなかったのに」
「……」
神威さんはやや困った顔で私を見下ろしている。なんかあるな、これ。
「どういうことですか、とは聞かない方がいいですよね。多分」
私の質問に、神威さんは眉を顰めてため息をついた。
「やりづらいな……何を言っても失格になりそうで、喋りにくい」
さっき『落ち着いて話せる』と言っていたのに、神威さんは歯切れが悪かった。その様子から、彼があの少年を警戒しているのがひしひしと伝わってくる。
「なんでしょう、こう……口をつぐんだとしても『いま言い淀んだってことはヒントなのかも』みたいな気分になってきますね」
「やめろ。何も話せなくなるだろうが」
片手を眉間に当てながら、神威さんはもう一方の手で私の肩をチョップした。
叶うなら、こんなやりとりがずっとできればいいのだけれど。私はそんなことをぼんやり思いながら、腕時計を見る。
「あ、そろそろ用意しないと。今日は一限からなんです」
大学の学費は貴重だ、こんな状況でもすっぽかす訳にはいかない。私は一限までの電車移動や準備の時間を逆算する。
「そうか。じゃあ行かないとな」
「はい。ありがとうございました」
私は少し頬を緩めて、お辞儀をする。
「……ところで」
「はい?」
頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、神威さんが苦い顔でこちらを見ていた。
「なんですか?」
しばらく何も続きを言わない彼に、私は首を傾げて問いかける。
「いや、あんた、頑固だからなあ……」
大きなため息とともに呆れ声でそう言うなり、神威さんはくるりと宝物庫の出入り口へ足を向けた。
「え、何の話ですか?」
私は慌てて彼の後を追い、宝物庫の出入り口に向かう。
そのときだった。
――こぽり。
「……ん?」
「どうした?」
私の発した声に、神威さんが反応する。
「なんか今、音が」
「音?」
神威さんが首を傾げる。どうやら何も聞こえなかったらしい。
音。音が、したのだ。水面の中を水泡が弾けるような音が。でも、ここに水はない。
「いえ、気のせいです」
もの言いたげな神威さんの背中を押し、私は彼を外へと促す。
そして外へと出て、神威さんに話しかけようとした矢先。
「話は終わったか?」
「ひいいいいい!」
忽然と、私たちの前に白い水干姿の少年が姿を現し――私は思わず神威さんの袖をぎゅっと握ってしまった。
「なんだ、そんな驚かんでも」
「いやこれは驚きますよ」
少年が朗らかに笑う姿は可愛らしいけれど、この出現の仕方はもはやホラーに近い。心臓に悪い。
神威さんの様子を窺うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。
「邪魔しやがって」
「神威さん、いま舌打ちしました?」
なぜに。
「それが儂の存在意義よ。治安は保たねばな」
ふんと胸を張って少年が答える。
「存在意義……?」
「おっと、あまり言っては助けになりすぎるな。じっくり考えるといい」
私が更に突っ込もうとすると、彼はまたふいと消えてしまった。
なんだったんだ、いったい。
「そんな怖かったか?」
神威さんから気遣わしげに見られ、私はその視線の先にある、自分の手を見る。
「す、すみませんでした……!」
先ほど、びっくりしすぎて神威さんの服の袖を握ったままだったのを忘れていた。私はぱっと手を離す。
「別に謝ることは」
「いえいえいえ、私ごときがすみません」
「……前から思ってたんだが、あんた自己評価低すぎないか?」
「いえそんなことは……!」
「……まあいい。それよりあれだな、あれをやらないと」
「あれ、ですか?」
私が首を傾げると、神威さんはニヤリと笑って右手の人差し指を一本立てた。
「作戦会議。あんたが大学から戻ってきたら、始めるぞ」
「さあて、みんな集まったね」
時刻は十七時、いわゆる『黄昏時』。洋風の部屋の中で、翡翠さんがニヤリと笑った。
ここはレストラン『招き猫』。青宝神社の社殿奥から竹林の道を通り抜けた先にある、特別なレストランだ。
そこは、限られた者しか入れない、別世界のような空間。
神社の境内からは想像もできないような、見事なイングリッシュガーデンの中にその建物はある。白いレンガ造りの洋館で、外壁には洒落た雰囲気を醸し出す蔦が絡まり、大きな窓とどっしりとしたダークブラウンの扉が特徴だ。
フロアには真珠色の壁紙が張られ、ミルクチョコレート色の木製テーブル席が大小四つほど。中央にはワインレッド色のソファー席が鎮座している。
私たちは四人揃って、その中央のソファー席に座っていた。
私の右には神威さん、テーブルを挟んで向かいには翡翠さんが座り、その隣に嘉月さんがいた。
そして今、テーブルの上には。
「あの、これは……?」
ベルベット素材のふかふかしたソファーで、私は目を丸くしてテーブルの上に広げられた食べ物たちを見る。
「広島県産柚子のバターケーキとジンジャーレモンシロップの炭酸割り。いつも通り甘いモノは僕作で、ドリンクは嘉月ね。まあ、話す前に一息ついてもらおうと思って」
翡翠さんが食べ物を指し示しながら説明してくれる。
三角形にカットされたケーキはうっすらとしたオレンジ色。ジンジャーレモンシロップは綺麗な透き通った琥珀色が、炭酸水でグラデーションになっていてまるで朝焼けのよう。
促されるがままケーキを一切れ頬張る。たちまち、柚子の独特な涼しくさっぱりとした香りと甘みが、ふんわりとしたケーキの食感とともに口の中いっぱいに広がった。
美味しさに目を丸くしながらドリンクを飲めば、レモンとはちみつ、それからわずかにピリッとする生姜の香りと、ぱちぱち弾ける炭酸が舌の上で踊る。ほんのり甘い柚子の味が微かに残る口内に、ひんやりした爽やかな風が吹き抜けた。
「ジンジャーレモンシロップは紅茶で割っても美味しいんですけどね」
「あ、確かに美味しそうですね」
嘉月さんの注釈に私はしみじみと頷く。そんな雰囲気に呑まれかけ……はっとして、私は自分の頬をぱしんとはたいた。いかん、和んでいる場合ではない。
「あの、今日お客さんは?」
「ああ、心配いらないよ。今日はいったんお休み」
翡翠さんがどこか不敵に笑いつつ、手をひらひらと振る。
「色々とお手間をおかけしてすみません……」
「いやいや全然。これは大事なことだからね。君がいなくなると困るんだ、僕らの精神衛生的にも」
そう言いながら翡翠さんは、ちらりと私の右隣へ視線を逸らす。
私がその言葉の意味を疑問に思いながら、視線を追って右隣を見ようとすると、そちらから額めがけてデコピンが飛んできた。
「痛ったあ……」
「猫たちにも見張りを頼んだのか。庭にいるな、数匹」
私が額を抱えている隣で、神威さんの声がする。視界の片隅に左手が見えたから、どうやら今のデコピンの手の主は彼らしい。小さな攻撃だけれど、地味に痛い。
「そ。猫たちにも頼んだし、それにここならちょっとゆっくり話せるし。準備は万端」
「猫に頼んだって、何をですか……?」
私の質問に頷いた翡翠さんが、外を見てみろと窓を指さす。
まだ痛む額を押さえながら窓の外を見ると、青々とした芝生の上に猫が何匹かたむろしていた。
「近づいてくるモノがあったら知らせてくれるように、って。猫にはね、見えるんだよ。人ならざるモノが」
「な、なるほど」
あの少年が来たら教えてくれるという訳だ。まあどこまで通用するのか分からないけど……朝も唐突に現れたし。
「という訳で作戦会議なんだけど、今日になってからは何かあった?」
「いやあ……今朝のあれが結構びっくりしましたね」
翡翠さんに問われ、私はため息をつきながら今朝の出来事を思い返す。
「今朝のあれ?」
私の目の前で翡翠さんが首を傾げた。
「あれか。今朝、彩梅と宝物庫にいたんだが、あいつに思ったより早くバレてな」
ため息が右隣から聞こえてくる。一方で私は、今彼の口から紡がれた言葉に驚きのあまり硬直してしまった。
今、すごくしれっと神威さんに名前を呼ばれたのだけど。しかも呼び捨てで。これって実は初めてでは?
思わずドキリとしてしまったことを悟られまいと、私は真剣な表情を浮かべて二人の話に聞き入る。
「あれま。すぐ見つかっちゃった?」
「そうだな、バレた挙句、話も聞かれてたみたいだし。失格にはされなかったけど、おちおち話もできないのが……」
「話もできないのが?」
「翡翠お前、ニヤニヤすんな」
何やら二人が言い合いながら身じろぎをしている。どうやらテーブル下で足を使っての激戦が繰り広げられているらしい。
なんだろうかこの構図。神様同士が小学生みたいに足でどつき合って喧嘩している……。
「ところで彩梅さん。あなた、いくつ質問権を消費したんです?」
大人げない喧嘩をする二人の神様を放っておいて、嘉月さんが鋭く切り込んできた。
「確か、四つです」
私は昨日のことを思い返しつつ、明後日の方向を見て答えた。
「あと四つですか……だいぶ消費しましたね。何を聞いたんです?」
「ええと」
私は指折り数えながら、使ってしまった貴重な質問の内容と、その答えを思い返してみる。
「彩梅ちゃん、そんな落ち込まなくても。ちゃんと美味しいよ、これ」
そう言いながら、翡翠さんがいつの間にか私の作ったふな焼きを食べていた。私はその優しい言葉にうなだれる。
「今度はみんなで一緒に作ろうね」
翡翠さんの声とともに、頭をぽんぽんと軽く撫でられる感触がする。私は素直に「はい」と頷いた。
それとほぼ同時に、背中にしがみついていた重みがふっと消える。振り返ってみれば、神威さんが水干姿の少年の首根っこを捕まえていて。
「で? なんでこんなことになってんだ?」
神威さんが不機嫌そうに言う。私が「すみません」と言うと、彼は「あんたじゃない」とむっつりと言葉を返してきた。神威さんの口調に差し迫った感じはなかったので、やっぱりこの男の子は、もともと神威さんとは旧知の間柄なのだろう。
「おぬしらはこの少女の入居を許したそうだが、儂は賛同した覚えがない。だから、いくつか『試し』を与えようと思ってな」
首根っこを掴まれたまま、少年は悠々とふな焼きを食べ続ける。
「……伺いは前もって立てたはずだ」
「儂はそれに返答しなかったはずだぞ」
ひらりと身をよじり、少年は神威さんの手から軽々と抜け出した。
「えー、何でダメなの? ねえ、は――」
「儂の名前は言うでない」
翡翠さんの言葉を遮り、少年はむすりとした顔でそう言った。対する翡翠さんはけろっとした顔で「なんで」と返している。
「儂が何なのかを当てるのも、試しの一つだ」
「あーなるほどね、分かった分かった」
はいはいと軽く手を振って、翡翠さんが頷く。
「ちなみに、もし彩梅ちゃんがその『試し』とやらに合格しなかったら、何かあるのかな?」
翡翠さんがどこか真剣な調子を声音に滲ませ、切り出した。
「儂の正体を当てられねば、この娘にはこの屋敷から出て行ってもらう」
少年がそう言った途端、部屋が静まり返る。固まってしまった空気に、私はあたふたと周りを見回し、口を開こうと試みる。
「ええと……」
「おい。今更出てきて、それはないだろう」
私の横に、ずいと神威さんが進み出る。
「この家の当主は俺なのに、何でお前が出てくる」
「儂を敵に回すか、人神よ」
「敵に回すかどうかとか、そういう問題じゃない。なんで反対なのかって聞いてんだ」
「反対ではない。『見定め』と言っておる」
落ちる沈黙。息が詰まるような空間の中で、私は恐る恐る手を挙げた。
「あ、あのう……」
「どうした」
神威さんに促され、私はごくりと唾を呑み込む。
「そもそも、この子……じゃなくてこの方、私よりもずっと前からここに住んでるって聞きまして」
しんと静まり返った大広間。頼むから誰か一人くらい反応してほしいな、と思いながら、私は自分の後頭部をかいて続ける。
「そりゃあ、拒絶反応起こして当たり前ですよ。赤の他人がいきなり我が家に入ってきたってことなんですから」
「……」
水干姿の少年はむっすりとした表情のまま、何も言わない。一抹の気まずさを感じながら、私は自分の口角を上げてみせる。空気が重くて仕方がない。
「だから、この方の『見定め』、受けさせてください」
「おう。望むところよ」
少年は真面目な顔で、私の言葉にこくりと小さく頷く。しかし、神威さんが「いや、待て待て待て」と言いながら、私の肩をがっと掴んだ。
「はい?」
「『はい?』じゃないだろ。あんたな……」
私が目を白黒させていると、彼は大きくため息をついて何かを言いかけたまま、がっくりとうなだれた。
「……いや、やっぱり何でもない」
「何でもないって顔じゃないですけど」
「何でもないつったろ」
「……付き合いきれん。儂はもう寝る」
神威さんと私がやりとりしている横から、白い小さな影が大広間から廊下へ滑り出た。長い髪を束ねる青、赤、黄、白、黒の五色の組紐が風に揺れ、遠ざかっていく。
「あっ、ちょっと待――」
「よく覚えておけ。誰かに助言を得ようものなら、儂には分かるからな」
振り向きざまに私へ向かってそう言ったきり、あの小さな少年は姿を消してしまった。
「き、消えちゃいました」
捨て台詞を残して。
「ああ、あの子夜早いからね」
長い間生きてるのに、見た目相応の生活習慣だな。まだ十九時半なんですけど。
「おーい、彩梅ちゃん。大丈夫?」
どうしたものかとぼんやりしていたら、翡翠さんが私の目の前で手をぶんぶんと振ってきた。私ははっと我に返り、こくこくと頷いてみせる。
「だ、大丈夫です。明日また頑張ります……!」
明日こそ、明日こそは……! 何とかせねばと固く誓っていると肩を叩かれ、私は顔を上げた。
「ん」
神威さんが小さく四つ折りにした紙を、私の手に握らせる。
「また明日」
ポンと彼に頭を叩かれながら、私は紙を見下ろす。なんだろう、これ。
「ほら、彩梅ちゃん。疲れただろうから、お風呂にでも入ってきなよ」
「……そうします」
気遣わしげな翡翠さんの声を受け、私は立ち上がる。
そして一人廊下に出ながら、そっと神威さんに渡された紙を開いた。
『明日の朝六時に、屋敷の宝物庫で。また明日』
「待ち合わせ?」
簡潔すぎて何も伝わらないけれど。
「……また明日」
明日会うのが前提で、自分を受け入れてもらえているような気がする、いい言葉だ。
今更ながら神威さんの言葉がじんわりと心に沁みて、私は紙をぎゅっと握りしめた。
翌朝の六時。神威さんに言われた通り、屋敷の日本庭園の奥にある宝物庫を訪れると、彼はすでに到着していた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
まさかの二人きりだ。私は恐縮しつつ、彼に手招きされるがままそろりそろりと宝物庫へ足を踏み入れた。
ここは『宝物庫』という名の通り、貴重そうなもの、高価そうなもの、由緒正しそうなものが格納されている蔵だ。ものが多く、ぶつかってしまわないか気が気じゃない上に、神威さんと二人きり。
き、緊張する……!
「あ。そこ、気をつけろ。翡翠が大切にしてるやつだそれ」
「は、はい!」
神威さんに指さされた方向を見た私の目に、切子細工が刻まれた、鮮やかな藍色のガラスの壺が映る。この薄暗い蔵の中に差すわずかな光のもとでも、綺麗に見える壺だ。
「あ、確かにこの壺高そうですね……気をつけます」
「違う、そっちじゃない。その右」
隣に並んだ神威さんが、すっとガラスの壺の右隣の箱を指さした。
「はい? これですか?」
私は目を瞬く。壺の右側には、年季の入った木製の箱が置かれている。大きさはサッカーボールくらいの、立方体の箱だった。
「ああ」
神威さんが箱にかかっていた閂を外し、蓋をゆっくりと開けた。
「見てみろ」
箱の中を指さされ、私は恐る恐るその中身を覗き込んだ。そして思わず歓声を上げる。
「これは確かに……! うわあ、綺麗ですね」
箱の中にはふかふかとした黒い光沢のある布地が張られていて、クッションのようになっている。そして、その中には。
深い青色をたたえて静かにきらめく、丸いクリスタルのようなものがあった。
「青水晶って名前でな。気をつけろよ、あいつ『絶対に割るな』ってうるさいから」
「へええ……」
私は水晶にくぎ付けになり、更にそうっと覗き込んでみる。じっと見つめていると、海の中に潜っていくような気分になる青さだ。ゆらゆら揺れる青い波間の、さざ波が聞こえてきそうな――。
「って、こんなことしてる場合じゃない!」
私は綺麗な青水晶から視線を引きはがし、声を上げた。神威さんがびっくりしたような顔でこちらを見ている。しまった、声がうるさすぎると思われたかもしれない。
「どうした」
「あの子の正体、まだ掴めてないんですよ……ここに呼んだのも、その件ですよね?」
私はこめかみを押さえながら答えた。昨夜もずっと考えていたものの、判断材料が少なすぎて何を質問するか決めきれずにいたのだ。
「何も心配すんな」
考え込んでいたところに静かに言葉をかけられ、私は瞬きをして言葉に詰まる。
「……はい?」
「俺がなんとかする」
「いやいやいや、それは駄目です、絶対に」
それは反則だ。私は真顔になり、手を顔の前で左右に振る。
「神威さんのそのお言葉は大変ありがたいんですが……また別の問題でして」
「別の問題?」
なんだそれはという困惑を滲ませた呟きが耳に届く。私はこくりと頷いた。
「あわよくば、気に入ってもらいたいと思って。私が」
「……」
神威さんが無言のまま私を見つめる。その表情からは何を考えているのか、いまいち掴めない。私は慌ててそのまま言い募った。
「むしろ、あれだけ反対していたのを、認めてくれる条件を出してくれたくらいなんですからありがたいですね。問答無用で追い出すことだってできるはずなのに」
今のところ、そんなことをされてはいないし。
「裏を返せば、こっちが『試し』に合格すれば認めてくれるってことですよね」
「前向きな奴だな……」
呆れたような顔で、神威さんが私を見遣る。
「印象悪いまま同居してもしんどいですし。できれば認めてもらえて、快く住まわせてもらえるようになることが理想なんです……だから、自分にできる限り頑張ってみようかなって。百パーセント、私のわがままです。ごめんなさい」
「あんた……なんていうか、変なとこでタフだな」
今度はため息をついて神威さんが頭を振る。私は首をかきながら笑ってみせた。
「まあでも気に入ってもらえるかもらえないかって、頑張ってもどうにもならない場合もありますし。それでも認めてもらえないようなら、仕方のないことです。粘って駄目だったら、諦めます」
そう、仕方のないことだ。どうしたって気に入らない、相性の悪い相手というのは存在する。
血の繋がっている『家族』でさえ合わないことはあるし、それは努力じゃどうしようもない。そこを無理に押し通して同居したとしても、気まずさここに極まれりだろう。
ならば、とてもとても嫌だけど、新参者の私は退却するしかない。あの家にいられなくなったからといって、きっとバイトを打ち切りにはならないだろうし。
え、ならないよね?
「……この『試し』、合格しなかったら巫女の助務もクビになったりします?」
それは結構嫌、というか絶対に嫌だな。
そう思ってしまうほどに、私は神威さんたちとの青宝神社での日々を気に入ってしまっている。今更手放すという選択肢は思い浮かべたくない。
さっきから無言の神威さんを恐る恐る窺ってみると、鋭い眼光で睨まれた。
「なんで出て行く選択肢があること前提なんだ」
「いや、あの子に許可してもらえなかったらそうなりませんか」
「……そうしたら、出てくのか」
「まあ、約束してしまいましたし」
気まずいのも困るし。
「新しい家は?」
「探します。なのでそれまでだけでも、どこか寝泊まりする場所をお貸しいただけると……」
でないと家なき子を通り越して、宿なき子になってしまう。前暮らしていたアパートはもちろん引き払ってしまった。せめて新しい部屋が見つかるまでは執行猶予期間がほしい。
私の申し出に、神威さんはむすりとした顔で腕を組んだ。視線が痛い。
「あのう……お願いします」
そうおずおずと頼んでみると、再びぎろりという効果音でも付きそうな鋭い視線が投げかけられた。
図々しすぎただろうか。せめて部屋が決まるまでは妥協してくれないか、だなんて。
「そもそも出て行かせる気は全くない」
「それは……ありがとうございます」
図々しいと罵られるなんてことはなく、神威さんはそう言ってくれた。よかった、と私はほっと胸をなで下ろす。
「けど、あんたはあいつと『正体を当てる』と契約しちまった。口約束でも、契約は契約だ。ああいう奴との『契約』は――第三者が介入できない」
神威さんがしかめっ面でそう言った。私はそれに対して「もちろんです」と頷いてみせる。もちろん、約束は守らなければ。助力を仰ぐのはもってのほかだ。私自身が引き受けたのだし。
「はい。頑張ります」
「……この宝物庫に呼んだのは」
神威さんがあさっての方向を見ながらぽつりとそう呟く。脈絡のないその言葉の意味が汲めず、私は疑問をもって彼を見上げる。
「ここが一番、落ち着いて話せる場所だからだ。あいつが来るとしても、遅い」
「……?」
謎の言葉に、私は首を傾げるしかない。けれど――このタイミングで言うということは、何か意味があるのだろう。
私は昨日、一人称『儂』の少年に言われたことを思い出す。
『よく覚えておけ。誰かに助言を得ようものなら、儂には分かるからな』と、釘を刺されたことを。
「うーん……ここなら来るのが遅い……それから、『何でも知ってる』……? ああ、そういえば」
私はふと思い出した。
「昨日あの子、大広間にいたときに雨童さんが来たの知ってたんですよね。まだ雨童さんは玄関に着いてもいなかったのに」
「……」
神威さんはやや困った顔で私を見下ろしている。なんかあるな、これ。
「どういうことですか、とは聞かない方がいいですよね。多分」
私の質問に、神威さんは眉を顰めてため息をついた。
「やりづらいな……何を言っても失格になりそうで、喋りにくい」
さっき『落ち着いて話せる』と言っていたのに、神威さんは歯切れが悪かった。その様子から、彼があの少年を警戒しているのがひしひしと伝わってくる。
「なんでしょう、こう……口をつぐんだとしても『いま言い淀んだってことはヒントなのかも』みたいな気分になってきますね」
「やめろ。何も話せなくなるだろうが」
片手を眉間に当てながら、神威さんはもう一方の手で私の肩をチョップした。
叶うなら、こんなやりとりがずっとできればいいのだけれど。私はそんなことをぼんやり思いながら、腕時計を見る。
「あ、そろそろ用意しないと。今日は一限からなんです」
大学の学費は貴重だ、こんな状況でもすっぽかす訳にはいかない。私は一限までの電車移動や準備の時間を逆算する。
「そうか。じゃあ行かないとな」
「はい。ありがとうございました」
私は少し頬を緩めて、お辞儀をする。
「……ところで」
「はい?」
頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、神威さんが苦い顔でこちらを見ていた。
「なんですか?」
しばらく何も続きを言わない彼に、私は首を傾げて問いかける。
「いや、あんた、頑固だからなあ……」
大きなため息とともに呆れ声でそう言うなり、神威さんはくるりと宝物庫の出入り口へ足を向けた。
「え、何の話ですか?」
私は慌てて彼の後を追い、宝物庫の出入り口に向かう。
そのときだった。
――こぽり。
「……ん?」
「どうした?」
私の発した声に、神威さんが反応する。
「なんか今、音が」
「音?」
神威さんが首を傾げる。どうやら何も聞こえなかったらしい。
音。音が、したのだ。水面の中を水泡が弾けるような音が。でも、ここに水はない。
「いえ、気のせいです」
もの言いたげな神威さんの背中を押し、私は彼を外へと促す。
そして外へと出て、神威さんに話しかけようとした矢先。
「話は終わったか?」
「ひいいいいい!」
忽然と、私たちの前に白い水干姿の少年が姿を現し――私は思わず神威さんの袖をぎゅっと握ってしまった。
「なんだ、そんな驚かんでも」
「いやこれは驚きますよ」
少年が朗らかに笑う姿は可愛らしいけれど、この出現の仕方はもはやホラーに近い。心臓に悪い。
神威さんの様子を窺うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。
「邪魔しやがって」
「神威さん、いま舌打ちしました?」
なぜに。
「それが儂の存在意義よ。治安は保たねばな」
ふんと胸を張って少年が答える。
「存在意義……?」
「おっと、あまり言っては助けになりすぎるな。じっくり考えるといい」
私が更に突っ込もうとすると、彼はまたふいと消えてしまった。
なんだったんだ、いったい。
「そんな怖かったか?」
神威さんから気遣わしげに見られ、私はその視線の先にある、自分の手を見る。
「す、すみませんでした……!」
先ほど、びっくりしすぎて神威さんの服の袖を握ったままだったのを忘れていた。私はぱっと手を離す。
「別に謝ることは」
「いえいえいえ、私ごときがすみません」
「……前から思ってたんだが、あんた自己評価低すぎないか?」
「いえそんなことは……!」
「……まあいい。それよりあれだな、あれをやらないと」
「あれ、ですか?」
私が首を傾げると、神威さんはニヤリと笑って右手の人差し指を一本立てた。
「作戦会議。あんたが大学から戻ってきたら、始めるぞ」
「さあて、みんな集まったね」
時刻は十七時、いわゆる『黄昏時』。洋風の部屋の中で、翡翠さんがニヤリと笑った。
ここはレストラン『招き猫』。青宝神社の社殿奥から竹林の道を通り抜けた先にある、特別なレストランだ。
そこは、限られた者しか入れない、別世界のような空間。
神社の境内からは想像もできないような、見事なイングリッシュガーデンの中にその建物はある。白いレンガ造りの洋館で、外壁には洒落た雰囲気を醸し出す蔦が絡まり、大きな窓とどっしりとしたダークブラウンの扉が特徴だ。
フロアには真珠色の壁紙が張られ、ミルクチョコレート色の木製テーブル席が大小四つほど。中央にはワインレッド色のソファー席が鎮座している。
私たちは四人揃って、その中央のソファー席に座っていた。
私の右には神威さん、テーブルを挟んで向かいには翡翠さんが座り、その隣に嘉月さんがいた。
そして今、テーブルの上には。
「あの、これは……?」
ベルベット素材のふかふかしたソファーで、私は目を丸くしてテーブルの上に広げられた食べ物たちを見る。
「広島県産柚子のバターケーキとジンジャーレモンシロップの炭酸割り。いつも通り甘いモノは僕作で、ドリンクは嘉月ね。まあ、話す前に一息ついてもらおうと思って」
翡翠さんが食べ物を指し示しながら説明してくれる。
三角形にカットされたケーキはうっすらとしたオレンジ色。ジンジャーレモンシロップは綺麗な透き通った琥珀色が、炭酸水でグラデーションになっていてまるで朝焼けのよう。
促されるがままケーキを一切れ頬張る。たちまち、柚子の独特な涼しくさっぱりとした香りと甘みが、ふんわりとしたケーキの食感とともに口の中いっぱいに広がった。
美味しさに目を丸くしながらドリンクを飲めば、レモンとはちみつ、それからわずかにピリッとする生姜の香りと、ぱちぱち弾ける炭酸が舌の上で踊る。ほんのり甘い柚子の味が微かに残る口内に、ひんやりした爽やかな風が吹き抜けた。
「ジンジャーレモンシロップは紅茶で割っても美味しいんですけどね」
「あ、確かに美味しそうですね」
嘉月さんの注釈に私はしみじみと頷く。そんな雰囲気に呑まれかけ……はっとして、私は自分の頬をぱしんとはたいた。いかん、和んでいる場合ではない。
「あの、今日お客さんは?」
「ああ、心配いらないよ。今日はいったんお休み」
翡翠さんがどこか不敵に笑いつつ、手をひらひらと振る。
「色々とお手間をおかけしてすみません……」
「いやいや全然。これは大事なことだからね。君がいなくなると困るんだ、僕らの精神衛生的にも」
そう言いながら翡翠さんは、ちらりと私の右隣へ視線を逸らす。
私がその言葉の意味を疑問に思いながら、視線を追って右隣を見ようとすると、そちらから額めがけてデコピンが飛んできた。
「痛ったあ……」
「猫たちにも見張りを頼んだのか。庭にいるな、数匹」
私が額を抱えている隣で、神威さんの声がする。視界の片隅に左手が見えたから、どうやら今のデコピンの手の主は彼らしい。小さな攻撃だけれど、地味に痛い。
「そ。猫たちにも頼んだし、それにここならちょっとゆっくり話せるし。準備は万端」
「猫に頼んだって、何をですか……?」
私の質問に頷いた翡翠さんが、外を見てみろと窓を指さす。
まだ痛む額を押さえながら窓の外を見ると、青々とした芝生の上に猫が何匹かたむろしていた。
「近づいてくるモノがあったら知らせてくれるように、って。猫にはね、見えるんだよ。人ならざるモノが」
「な、なるほど」
あの少年が来たら教えてくれるという訳だ。まあどこまで通用するのか分からないけど……朝も唐突に現れたし。
「という訳で作戦会議なんだけど、今日になってからは何かあった?」
「いやあ……今朝のあれが結構びっくりしましたね」
翡翠さんに問われ、私はため息をつきながら今朝の出来事を思い返す。
「今朝のあれ?」
私の目の前で翡翠さんが首を傾げた。
「あれか。今朝、彩梅と宝物庫にいたんだが、あいつに思ったより早くバレてな」
ため息が右隣から聞こえてくる。一方で私は、今彼の口から紡がれた言葉に驚きのあまり硬直してしまった。
今、すごくしれっと神威さんに名前を呼ばれたのだけど。しかも呼び捨てで。これって実は初めてでは?
思わずドキリとしてしまったことを悟られまいと、私は真剣な表情を浮かべて二人の話に聞き入る。
「あれま。すぐ見つかっちゃった?」
「そうだな、バレた挙句、話も聞かれてたみたいだし。失格にはされなかったけど、おちおち話もできないのが……」
「話もできないのが?」
「翡翠お前、ニヤニヤすんな」
何やら二人が言い合いながら身じろぎをしている。どうやらテーブル下で足を使っての激戦が繰り広げられているらしい。
なんだろうかこの構図。神様同士が小学生みたいに足でどつき合って喧嘩している……。
「ところで彩梅さん。あなた、いくつ質問権を消費したんです?」
大人げない喧嘩をする二人の神様を放っておいて、嘉月さんが鋭く切り込んできた。
「確か、四つです」
私は昨日のことを思い返しつつ、明後日の方向を見て答えた。
「あと四つですか……だいぶ消費しましたね。何を聞いたんです?」
「ええと」
私は指折り数えながら、使ってしまった貴重な質問の内容と、その答えを思い返してみる。
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