愛依存症

みとの

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愛依存症

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 失恋をした。


 ガラス細工の置物が、いとも簡単に割れるような感覚。光に透かすと輝くそれは、いつも俺の目の届く範囲に置かれていた、宝物だった。


 大事に人目から隠して、自分だけに見えるように飾っていたガラス細工だ。毎日磨いて、常に輝きを絶やさないよう、丁寧に慎重に手入れをしていた。


 割れないように、壊れないように。
 誰にも傷つけられないように、大事にしてきたのだ。


 なのに俺はそのガラス細工が壊れた瞬間から、それが一体どんな形をしていたのか思い出せない。


 落として割れて粉々に砕け、足元に散らばる鋭利な破片を見下ろしても、一向に思い出せない。千々に散った破片は本来の体を失ってなお、鈍い光を放ってはいる。だが、それだけの存在に成り下がっていた。


 ああ、あんなに大事にしてきたのに。
 あんなにも、あの人のことを好きになったのに。


 俺に背を向けて歩いて行く人の姿が脳裏に浮かんだが、その人の顔を、俺は一つも思い出せなかった。


 眉の形、目の色、鼻の大きさ、唇の薄さ。

 手あたり次第、記憶にある人の顔を思い出してみたけれど、どれもその人とは重ならない。俺に向けてくれていた優しい笑顔は脆く砕けてしまっていた。


 顔の部分だけぽっかりと大きな穴が空いているような人型が、頭の中に浮かんでいる。表情が抜け落ちた人体の姿はひどく不気味で、体に冷たい水が被せられた心地がした。


 気持ち悪い。


 ぽつ、と呟いた途端、意識が次第にはっきりしていく。


 鉛色の煙に覆われていたような目の前の景色が、一気に晴れて夜の景色に変わる。耳に届く人の笑い声と怒鳴り声。思考力を奪うほどの、甘い酒の匂い。


 行き交う人の足取りは皆陽気で、向かいからやってくる人の流れに逆らう形で歩いた。時折人の肩とぶつかり転びそうになるが、立ち止まったりしながら衝撃に耐えた。


 傷心した人間の足は、セメントで固められたかのように重い。


 一歩進んでもさほど進まない。二歩進んでも全く進んでいない。

 いくら進んでも耳に鬱陶しい、嬉々とした酒飲みたちの声から逃げることができなかった。


 俺の重い脚はいつしか、歩くことを止めていた。


 人の波の真ん中、立ち止まっている俺のことを酒飲みたちが不審げに睨みつける。邪魔だ鬱陶しいぞとどら声で叫ばれても、肩に重くのしかかる傷心の重力には逆らえない。


「気持ち悪い」


 俺はしゃがみ込んで小さく呟いた。騒がしく不毛な会話をしながら歩く人たちの中に、俺の呟きを拾ってくれる人はいなかった。


 投げ捨てられた、空き缶に生まれ変わってしまった気分だ。胃から込み上げてきた酸っぱい感情に、涙腺が刺激される。


 ちゃんとゴミ箱に捨てられず、道路の片隅に投げ捨てられた中身のない空き缶。

 それは確かに、行き交う人の視界の端に映ってはいるのだが、わざわざ自分が拾って処理してやる必要もないと目を背けられる。急ぐ人の足に蹴り飛ばされて傷だらけになった空き缶は、いつか誰かが拾うだろうと、誰もが興味を示さないのだ。


 その誰かにすら、気づかれない。酔っ払いたちが俺を見て叫ぶ声に傷付けられながら、目尻を下った涙へ手を伸ばした。


「泣いてるの?」


 俺の手が涙で濡れる前に声がした。しゃがんでいた頭上から聞こえた声を振り仰ぐ。

 だが顔を上げ切る前に、声の主が俺の目線と同じ高さまでしゃがみ込んだ。大きな黒目が、赤く滲んだ俺の目を覗き込んでいる。


 目の前の彼は薄い唇を緩く引き上げると、首を横へ傾ける。柔和に細められた目の中には、辺りのネオンカラーの光が映り込んでいる。いくつものビビットカラーで輝く瞳を見つめていると、その色に飲み込まれそうになった。


 俺よりもずっと小柄な青年は、高校生くらいの年齢に見える。繁華街を歩いて大人ぶる子供は少なくはない。彼がはおる緩いシルエットのカーディガンの襟が、腕にまでずり落ちた。夏の暑さを忘れて久しい季節なのだが、彼はタンクトップ一枚だけしか中に着ていないようだ。白くて皮膚の薄そうな二の腕が露わになる。


「悲しいことでもあったの?」


 呆然とする俺の目元に、彼は指先を伸ばした。さっき拭い損ねた涙を、細くて冷たい指先が拭ってくれる。


 まるで氷のように冷たい指だった。先まで血が通ってないかのようで、その冷たさを感じた体がビクリと震える。俺の驚きに気づいた彼は「ごめんね?」と小さく笑った。


「何がそんなに悲しかったの?」
「あ、えっと、」
「俺でよかったらお話聞いてあげるよ?」


 ごく、と思わず唾を飲んだ。薄暗い街の片隅、捨てられ潰れた空き缶が、ようやく拾われた瞬間だった。


 聞いて欲しかった。

 それだけでよかった。誰かと話題を共有したかっただけなのだ。


 誰にも見せられなかった、綺麗なガラス細工の存在のことを。


 共感なんていらない。なら誰かに打ち明けてしまえばよかったのだが、打ち明けて非難されて、傷つけられることが嫌だった。


 大事に磨いてきた、弱くて脆いガラス細工だ。誰かが放った無意識の言葉で、簡単に傷つくし壊れてしまう。割れる前の姿形は思い出せない。それでも壊れる前のガラス細工が、他人によっていとも簡単に傷つけられるのを想像すると、両手で顔を覆わずにはいられなかった。


「……好きだった人が、結婚しちゃって」


 覆われた口の隙間から、絞り出すような声が出る。僅かに震える自身の語尾を聞くと、割れたガラス細工の姿を思い出す。鈍い輝きを放つ、その光を見つめれば、おさまっていたはずの悲しみがまた胸の底から溢れ出した。


「ずっと、告白もできずに、仲良くしてただけなんだけど、」
「そうなんだ……」
「親友っていう立場を鼻にかけて、俺だけ特別なんだって思ってた」


 けれど違った。

 ただの親友という立場でしか完結できなかった俺の末路など、端から決まり切っていた。


 先へ進めない意気地なしな心が、胸に抱いていたガラス細工の存在を守り続けていたのだ。


「……同性の友達だったんだ」


 俺の発言に、青年は僅かに目を細めた。ゆっくり口を開くと、「そっか」と小さい声を溢す。人が行き交う道の真ん中、二人でしゃがみ込んだままだ。他人の白い目が気になり、俺は少しだけ腰を上げる。


「傷つくことが安易に想像できて、誰にも言えなかったけど、話ができてちょっとスッキリしたかも」


 砕けたガラス細工の破片は、簡単には片付かないだろう。まだ体の中に、俺を構成する一部として残っている。


 傷が癒えたわけではない。それでもここでずっと座り込んでいるわけにはいかなかった。

 名前も知らない赤の他人の青年だ。彼が俺に否定的な言葉を口にしようとも関係ない。もう二度と彼と会うことはないだろう。ただ道ですれ違って、お情けをかけてくれただけの関係。そんな相手だから、自分が隠してきた心を簡単に吐き出すことができた。


 このまま立ち去ろうと、片手を上げて挨拶をしようとした時。

 半立ちになっていた俺の顔を、青年が両手で包み込んで自身の顔間近まで引き寄せる。体が衝撃で傾いだが、無様に倒れ込むことはなかった。


 息がかかる距離にまで、彼の顔が近づく。まるで湯水を掬っているように俺の頬を包んでいる彼の冷たい手が、俺の背筋を震わせる。


「辛かったね」


 開かれた口から飛び出した言葉に、俺は目を見開いた。

 色素の薄い青年の目が、俺のことをじっと見つめる。距離が近すぎて顔の輪郭も何も見えない。でも彼の淡い色の瞳が、炎のように蠢いたのがわかった。


 青年は目を細めると、口を開いて自分の舌先を俺の唇に這わす。驚き体を強張らせたが、引こうとした俺の顔は硬く拘束されている。


「悲しかったでしょ?」


 固まった俺の唇を舌先でチロチロと舐めている合間、彼が甘く囁くように言った。


 耳に届いた蜜のような吐息は、俺の心を一瞬で熟れさせる。ぐじゅぐじゅに熟れた果実から、吐きそうなほど甘い蜜が溢れ出したみたいだ。


「これからどうするの?」
「え?」


 俺が目を見開くと、彼は僅かに拘束を緩める。顔を少しだけ離し、薄い唇を小さく綻ばせた。



「その行き場のない愛情は、どうするの?」



 グッと首が絞められる心地がして、音を鳴らしながら唾を飲んだ。

 ガラス細工の破片は片付けられずに散らかっている。迂闊に近寄ると怪我をする恐れがあるから近寄れない。


 でもそのガラス細工を大事に飾っていた箇所が、空白になっている。

 今まで物があった箇所に、見慣れたものがない。その寂しさに涙腺が刺激される。


 ぽっかりと出来上がった空白の場所にはいずれ埃が溜まって、そこに何かがあったかなんて忘れてしまうだろう。

 でもそれよりも早く、簡単に、何が置かれていたか思い出せない方法がある。

 人間の、俺みたいな意気地なしの脳味噌なんて、所詮その程度の小さくて単純なものなのだ。



 新しい宝物をそこへ置いてしまえばいい。



 片付けられていない破片を、足で適当に部屋の隅へ追いやって、見つけた新品のガラス細工をそこへ飾ると、俺の下がっていた口角は緩く上がっていった。


 青年の頬に片手を添えて、薄い彼の唇を親指の腹で撫でる。唾液でほんのり湿っている箇所へ自身の唇を近づけると、青年は眠そうな猫のように目を細めて、躊躇なく口を開いた。


 ガラスの破片を蹴って片した時、僅かに切先にあたって傷ができたかもしれない。うっすらと血が滲んでいる気もするが、甘い果実の汁に薄められて、赤い色はわからなくなった。

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