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窓を開けていれば教室内に、ほんのりと桜の甘い香りが入ってくる。鼻腔を潜ったその香りは、集中し、真剣に教師の声を聞く生徒たちの姿勢を僅かにゆるめた。
花の優しい香りを胸いっぱいに吸い込むと、マチは、ほぅ、と息をついた。やく一時間。不可解な数学の問題に直面し、頭は爆発寸前にまで追い込まれている。
マチはこの春から、近所にある公立の女子校へ通い始めた。
特に勉学に特化した学校でもなく、強豪の運動部が存在しているわけでもない。ごく一般的な高等学校である。
女子校、と言えば華やかな女の薗を想像する人たちも多いだろうが、この高校に関しては〝そういった〟言葉が一切似合わない高校だった。
黒いセーラー服に白いスカーフ。外見こそ品のある気高い印象を持つが、スカートの下から学校指定の赤いジャージが覗いていたり、上履きの踵を踏みつぶしてサンダルのようにして歩く生徒がごまんと存在する。
教師たちは目聡く、品のない生徒を見つけては身だしなみを注意するのだが、注意された彼女たちは呑気に間延びした声で「はーい」と返事をするだけ。売店で買った紙パックのジュースをストローで吸いながら、鼻の上を呆けた顔で掻いている。
異性の視線がないことで開放的になった彼女たちの世話に、教師たちは常に頭を抱えていた。
だが一様に、この高校が〝品の欠片もない〟少女ばかりで埋め尽くされているわけではない。
勉学に真剣に取り組み、真面目に教師の声に耳を傾け教えを乞う。マチはその派閥側の生徒であった。授業もきっちり受けて出席もし、ノートを開き黒板に書かれた数学の公式を書き写す。常に姿勢正しく日常を過ごす模範生だ。
「……ん?」
女性教諭が黒板に数式を書いている間。マチはふと自身の足元へ視線を落とす。見覚えのない、新品の消しゴムが床に落ちていた。
使われた形跡のない真っ白い消しゴムは、新学期に合わせて誰かが購入したのだろう。マチも入学に合わせて、塗装の剥げたシャーペンなどは全部捨て新しい物を新調した。消しゴムも、中学まではイチゴの香りがするだけでほとんど消す効力がない物を使っていたのだが、この春にちゃんと文字を消せる物に買い替えた。
はじめ落ちているそれは自分の物かと思ったが、臙脂色の革製筆箱の中ではちゃんと、真っ白な消しゴムがお利巧に自分の出番をひっそりと待っている。
それじゃあ誰のだろう、と。手を伸ばして消しゴムを拾う。
まだ入学して間もないため、クラスメイト全員の顔と名前は把握できていない。前後の子か左右の子か。もしかして何列も隣の子が何かの弾みでこちらまで飛ばしてきたのか。わからないとは思いつつ、周りの子の様子をそれとなくうかがった。
すると、左隣の窓際の席の子が、マチと似たような革製の筆箱の中をずっと探っている。無心に、顔色も変えず。整った眉をびくともさせずに中身のペンを全て取り出し、筆箱を空の状態にしていた。机上にはペンが数本並んでいるが、そこに消しゴムの姿はない。
マチの持っている消しゴムは、おそらく彼女の物だ。そう思い、早く渡してやらねばならないのだが、手に持ったそれを彼女へ渡すことを少し躊躇う。チラリ、と隣の彼女の方を向きながら、思わず喉を鳴らし唾を呑んだ。
隣の席の彼女は、宮前梓という。
大抵、高校へ上がれば同じ中学の生徒が二人か三人、周りに最低でもいるのだが、彼女に関しては出身が遠方なのか、同窓生は一人もおらず、彼女のことを詳しく知る人物は同じ高校にいなかった。
切れ長の目に色白の肌、真っ黒な瞳と長い睫毛。スッと筆を払ったような柳眉に見惚れるのは、何も男たちばかりではない。入学早々、学校中の女子たちはみな、恐ろしいほど整った彼女を見て、頬に手をあて悩まし気なため息を零した。
一切歪みのない艶やかな髪は、窓から差し込むだけの僅かな光さえ味方につける。鏡のように輝き、日光を反射させる長髪を、マチは指を咥えて見つめる。癖の強い毛を一つにまとめているマチにとって、梓の髪は羨ましすぎた。
美しい容貌ゆえに一躍人気者になった梓ではあったが、それはあることがきっかけで、一瞬にして地獄に落ちる。
だからマチは、彼女に声をかけることを躊躇った。
机上に筆箱の中身を広げている梓の方を見て誰かが「何してるの、あの子」と。教師に聞こえない小さな声で笑っているのが、教室のどこかから聞こえはじめる。
マチは「よし……!」と心の中で拳を握り覚悟を決める。そして小さな声で隣の梓に「これ、」と声をかけて左手を差し出した。
「消しゴム……宮前さんのじゃないかな?」
恐る恐る小さな声で訊ねれば、黒曜石のような目が、瞬時にマチの方を向く。その鋭い速さに一瞬、ひぃ、と声を引き攣らせたが、梓はマチの震えている左手に乗る物を見て「あら」と目を瞬いた。
「ええ、ワタクシのですわ」
ふふふ、と。
教室中から笑い声が漏れだす。ああ、早く終われこの時間、と願いながら、マチは背中を滝のように流れる嫌な汗に耐えた。
「お手間とらせて、ごめんあそばせ」
ついに誰かが噴き出して笑った。流石に教師が「誰、今笑った人」と眦を上げて教室中を見渡す。
そしてマチと梓の方を向いて「おや?」と首を傾げた。
「藤並さんと宮前さん、どうしたの?」
「あ、その……」
急に教師に名指しされ、委縮したマチの隣で梓がスラスラと言葉を吐く。
「ワタクシが落とした消しゴムを、藤並さんに拾って頂いておりましたの」
それだけですわ、と梓は一切表情を作ることなく言った。教師は背筋を伸ばし、一言一句詰まることなく述べた彼女を向いて「そうだったの」と、素っ気なく言ってから自身の手元の教科書へ視線を落とす。
「それじゃあ改めて、授業を再開します」
そしてまた黒板へ数式を書き始める。教室へ背が向けられた途端、また小さな笑いが零れ始めた。今度は教師も、注意をしない。聞こえていないのだろう。
じわじわと部屋中を渦巻く紫色の空気を、マチは想像する。
卑しい女の子の笑い声と混じり合ったその空気は、どんどん増幅していった。
息をするたびに肺に紫の空気が溜まる。それが苦痛で眉間に皺を寄せながら、シャーペンの頭をノックした。一ミリ程度芯が出たのを確認して、数式を綴っていく。
入学早々。立ち姿は芍薬のように美しく、座る姿が牡丹のように愛らしく、歩く姿まで百合のように凛々しいと。
大袈裟なほど持て囃され、羨望の眼差しで見つめられていた宮前梓が、濁った澱みの根源になった理由。
それは彼女の口から吐き出される〝丁寧なお嬢様言葉〟と、そこから滲み出る〝世間知らずな様〟が原因だった。
近年頻繁に遭遇する、春の嵐が吹き荒れた翌日が、マチたちの高校の入学式だった。
校内に植えられている桜の木のアーチを潜り、黒いセーラー服を着て校舎へ歩いていく。
入学式を迎えるまでそんな華々しい絵を想像していたマチは、目の当たりにした〝嵐が去った後〟の様子に大きなため息をついて肩を落とした。
桜の木の花は前日の強風のせいでほとんどが散り、石畳は泥水で汚れた桃色の花弁に埋め尽くされている。歩けば革靴の後ろに水気の含んだ、色の悪い花弁が何枚も張り付き、その花弁の重さがマチのげんなりとした心の重さと共鳴した。
理想の入学式とかけ離れた現実の光景に、重い足取りでのろのろと歩く。するとその姿は、校舎へ急ぐ生徒たちからすれば目に余るものになる。背後から迫る早足の音など、亀のようなペースで歩くマチは気づいていなかった。
おかげで急ぎ足の生徒の一人が、背後からマチの肩に意図せずぶつかる。わ、とマチが悲鳴を上げ転びそうになっている隙に、ぶつかってきた本人は「あ、ごめんね」とだけ言い残し足早に去って行った。
傾ぐ体。目の前には泥にまみれた桜の花弁が迫っている。咄嗟に手を目の前へ出そうとしたが間に合わず、マチは顔面から地面へ落ちて行った。
だが鼻先を地面へ掠める寸前。ふわり、と体を浮遊感が襲う。声を上げる暇もなく、突然地面から遠ざけられ「あれ?」と疑問が口を吐いて出た。
何があったんだ、と背後を振り返り、思わず仰天する。
マチの襟首を掴む長身の美女が、そこに立っていたのだ。
鋭い刃のような目つきでマチを見る少女。おそらく転んだマチが地面に倒れ込む寸でのところで襟を掴み、起こしてくれたのだろう。
「あ、あの」
冷気の孕んだ目つきが、吃るマチを見つめる。その迫力に感謝の言葉が喉を下って腹に戻ってしまう。ひぃ、と短い悲鳴が出そうになった時には、少女はマチの襟から手を放し、美しい姿勢で校舎の方へと歩いていった。
マチはしばらくその場で呆然と立ち尽くした。僅かに木の枝に残った桜の花弁が、例の少女が歩き去った後にチラチラと散っていく。
その絵面につい頬が紅潮し「か、かっこいい……!」と心の中で呟いたほどだった。
その例の少女こそ、同じクラスの宮前梓だった。
校舎へ入る前に遭遇した彼女が自分と同じ教室へ入ったのを見た時、マチは自然と表情が緩んでいくほど、心が踊った。
遠目からでも彼女の存在感は異次元だった。涼し気なすまし顔で歩いている姿は、今まで出会ってきた人たちの中でも断トツで美しい人だった。
梓が隣の席だと知った時も、マチは天にも昇る気持ちで胸の前で手を組んだ。このクラスの他の誰よりも、彼女に話しかけるチャンスができると確信したからだ。
片手一つでマチの体を持ち上げた少女に、僅かながら興味が湧く。
そして何より、マチは今朝梓の迫力に押し負け、危機一髪で救ってもらったことの礼を言えていない。それが心残りで、ホームルームが始まってからも落ち着かなかった。チラチラと挙動不審に視線を送られても、梓は涼しい顔でマチを眼中にはいれなかった。
入学して初めてのホームルームが終わると、クラスメイトほとんどが梓の周りに集まった。隣を陣取っていたにも関わらず、マチは出遅れる。あ! と声を上げている隙に、集まってきた一人の女子に追いやられ席を立たされる羽目になった。力強く押され転びそうになるほどだった。
「宮前さん、どこの中学校だったの?」
「家は近くなの?」
「部活はどこか入るとこ決まってる?」
「吹奏楽部とか入らない?」
「いやいや宮前さんなら演劇部でしょ!」
「よかったら今日は一緒に帰らない?」
マシンガンのように勢いよく吐き出される幾つもの言葉を、近くで聞いていたマチでさえ数個しか拾いきれなかったのに、梓が聞き分けるなど不可能だろう。自分も彼女たちと同じく、梓に寄ろうとしていた身ではあるが、それを棚に上げて梓に同情する。
このままだと、今日中に梓に礼を言うことは不可能だと判断し、ため息を吐きながらマチは帰り支度を始める。学校初日は午前中だけの予定だった。
「恐れ入りますが、」
教室中に充満していた甲高い音が一瞬にして止む。喧騒を、たった一言で薙ぎ払ったであろう声色はとても澄んでいて、凛々しいものだった。
子供のような甘さは一切ない。大人の落ち着いた声の色に、あちこちからウットリと息を漏らす音が響く。
「ワタクシ、少々急いでおりますの」
その発言を聞いた途端、周りの空気が一気に締まる心地がした。
誰かが小さな声で「え?」と困惑したように言っている。
「ですので本日は失礼致しますわ。みなさま、ごきげんよう」
そう言うと颯爽と立ち上がり、群衆の間を掻い潜って教室を出て行った。ピンと伸ばされた背筋を見送りながら、マチの近くにいた女子が「ごきげんよう、だって。何語?」とくすくす可笑しそうに、口に手をあてて笑っていた。
あの上品な姿はお嬢様だからなんだね、と彼女が帰った後に、クラスの子たちが話しているのをマチは聞いていた。
その間に何人かの子たちと自己紹介をしあい、スマホで連絡先を交換したりもした。充実した連絡帳を眺めると、つい口元が綻ぶ。友達が増えることはマチにとって、とても嬉しいことだった。
梓の連絡先も、自ずと手に入ると確信していた。
——だが彼女の存在は、ある時あっさり落ちてしまった。
クラスメイトの一人が、趣味で作ったカップケーキを大量に持ってきた日のことだ。
彼女はクラスのみんなと早く仲良くなるためにと、手作りのそれを教室にいた全員に配って回った。マチも例にもれず受け取る。甘いものが好きなマチは嬉しくて「ありがとう!」と満面の笑みを浮かべ礼を言った。カップケーキを作ってきた彼女は恥ずかしそうに頬を染めながら「美味しくなかったらごめんね?」と首を傾けていた。
もちろんカップケーキは、席に座っていた梓にも渡された。涼しい顔で化学の教科書に目を通していた彼女は、すぐ傍に立った女子を一瞥する。
「よかったらどうぞ……」
緊張したようにフィルム用紙で包まれたカップケーキを渡した彼女。梓はそんな彼女の恥ずかしそうな表情をしばらく凝視して、カップケーキへ視線を落とす。
その間ほんの一瞬、梓は眉間に皺を寄せる険しい表情を浮かべた。僅かな時間であったため、誰もその様子に気づいてはいなかった。
「残念ですけど、受け取れませんわ」
顔色変えず、梓はケロっと言ってのける。カップケーキを持つ彼女が、「え?」と戸惑いの声を漏らした。受け取ってもらえる自信があったのだろう。他のみんなが喜んで受け取ってくれるなら梓もきっと、と。手渡して礼を言われる未来しか想像していなかったその女子は、狼狽えて目を泳がせた。
そんな彼女に、梓はとどめを刺す。
「どこの誰かもわからない方が作った物を口に入れることなんて、できませんの」
お許しくださいませ、と。
言いながら梓は化学の教科書に視線を戻した。
場の空気が、凍りつく。冷えて固まり、硬くなった氷が、バリバリと崩れる音がマチの耳には聞こえた。
重苦しくて肌に痛いような、冷たい空気に怯えスーッと息を吸った時、カップケーキを作ってきた女子が、声を上げて泣き出してしまう。
「ねぇ宮前さん、言い方ってものがあるじゃない?」
クラスメイトの一人が、やや表情を引き攣らせながら梓に寄る。
高校生にもなれば、多少の人間は大人になる。なので梓のような〝他人が作ったものを食べられない人種〟がいることも、当然知っている人たちは存在する。
カップケーキを作ってきた彼女は、そんな人種がいることを知らなかった子供だ。
梓の発言を諫めた彼女は、そういった人種がいると知っていた大人だ。
そして梓は、声を上げて泣き出した彼女を一切見向きもせず、自身を諫めた女子の顔すら見上げず、
「他になんと申し上げればよかったのかしら?」
と、平然と言い放つ〝化け物〟だった。
教室は地獄と化し、カップケーキの彼女はついに走って教室を出て行く。梓に口の利き方を注意した彼女も、梓の物の言い方に唖然とし、顔面を蒼白にさせた。
誰かが梓にも聞こえるような声で「お嬢様のお口には庶民の味が合わないのよね」と、嫌味を言ったが、梓は化学の教科書にしか興味がないのか、一切声を振り返ることはなかった。
それ以来、クラスメイトは誰も梓に声をかけなくなった。
美しくてかっこよい、梓と関係を持ちたいと血相変えて息まいていたクラスメイトの気持ちなど、その程度だった。
隣の席を陣取るマチもまた、彼女と言葉を交わすことはなかった。
いつか手に入ればいいな、と思っていた彼女の連絡先も、当然手には入れられていない。
「で、例のお嬢様ってのはどうなってんの?」
自分の部屋で宿題をしていたマチにそう言ったのは、ベッドに座りスナック菓子を口へ投げ入れた金髪の女だ。他人の部屋であるにも関わらず、彼女は人様の布団の上で胡坐をかいている。さっきから口へ投げ入れ損ねたスナック菓子の破片が、ボロボロと布団の上に落ちていた。
金髪の彼女、綺羅は、マチより一つ年が上の友達だ。家が近所にあることから、彼女はよくマチの家に遊びに来る。
高校へは進学していない。昔から勉強が嫌いで、中学の頃は他校の気に食わない生徒を見つけては喧嘩ばかりする、言わば問題児だった。頬を傷だらけにして、年上の野蛮な女子連中を病院送りにしたという話も一回きりではない。警察沙汰になったことも数え切れないほどある。
野蛮な連中に喧嘩を吹っ掛ける、とは言ったが、連中からすれば綺羅の存在が一番〝野蛮〟であるに違いない。
そんな彼女も今では比較的に落ち着き、日々バイトに勤しんでいる。マチの家へやってくることも久しぶりだった。高校入学祝いにお菓子を大量に持ってきてくれたのは良いが、受取人であるマチより先に、彼女がほとんどのお菓子を胃袋におさめてしまっている。マチの部屋の隅に残るのは、空の袋ばかりだ。
ぼりぼりお菓子を咀嚼する綺羅を振り返り、机と向き合っていたマチは一旦ペンを置いた。入学してからの出来事は、簡潔ではあるがスマホを使って綺羅に知らせている。もちろん、例のカップケーキ事件の話もしていた。
どうなってんの、と、再度言われてマチは「うん……」と肩を落とす。重い石が頭の上に降ってきたような心地がして、項垂れた頭はなかなか上げられない。
それを見た綺羅は、スッと優し気に目を細める。そして苦い笑い声を零して「あんたはそういうやつだったよね」と、今まさに食べ終えたスナック菓子の袋をクシャクシャに丸めた。
「嫌なんでしょ、クラスの空気」
「……うん」
「じゃあ話しかければいいじゃん」
でも、と。つい口を噤むマチ。それを見た綺羅が「大丈夫だって!」と口を大きく開けて笑った。
「お嬢様を擁護して、自分の身に回ってくるのが怖いなら心配いらないよ!」
「軽い……」
「もしアンタがいじめられる羽目になったら、またアタシが助けに行ってやるからさ」
気にすんなって! と言いながらまた大口を開けて笑う綺羅。ぎゃははは、と、品のない笑いではあるが、マチは彼女の言葉のおかげで幾分か気分が軽くなった。
中学の頃、マチはクラスメイトにいじめられていた。
教科書や上履きがなくなったり、トイレの個室に閉じ込められ、開いている頭上部分からバケツに入った水をぶっかけられるような経験が過去にあったのだ。
そんな典型的ないじめられ方をしていた生徒だった。なので今、クラスを渦巻いている紫色の不穏な空気は、当時の記憶を呼び起こさせる。気分が良いものでは、決してない。
いじめられていた当時は自分が彼女らに何をしたのか全く覚えがなく、ある日登校すると上履きがなくなっていた。それを皮切りにいろんなものがなくなっていく。
見えない〝何か〟に対する恐怖が膨れ上がっていく中で、自分はもしかしていじめられているのか、と自覚した時には頭上から水をかけられていた。
下品な笑い声を閉じ込められたトイレの個室で聞きながら、目の中に入った水の冷たさに泣きそうになっていた時。とんでもなく恐ろしい怒声が聞こえて、次いで悲鳴が聞こえた。マチがそれに肩を震わせれば、外側から無理矢理扉を開けられた。その時出会ったのが、綺羅だった。
綺羅はほとんど学校へは来ていなかったが、この日はたまたま、学校へ来ていた。そしてトイレの方で怪しい動きをする連中を見つけて、駆けつけた。
閉じ込められていた個室から出ると、タイル張りの足元で数人の女子生徒がわんわん泣きながら座り込んでいた。全員水をかぶったようで、制服がマチと同様ずぶ濡れだった。
『強くもない奴が群れ作って弱い奴捕まえて、憂さ晴らししてるの見るのが世の中で一番嫌いなんだよ』
綺羅はそう吐き捨て、泣き声に驚き駆けつけてくる先生たちから逃げるように走っていなくなった。
以来マチをいじめる生徒はいなくなった。その代わり、綺羅とはよく話をする仲になった。いじめられてないか、と、よくマチのことを気にかけてくれる日が続き、学校へ登校していなかった綺羅がマチのためにと、一緒に登校するようになった。
金色の髪に吊り上がった目。腕っぷしの強さからは想像し難い、人を思う綺羅の優しい心が、マチは大好きだ。
彼女が味方でいてくれるのなら、学校で嫌な思いをしても乗り越えられた。
「宮前さんにも、そういう人がいるのかなぁ……」
独り言のように呟けば、綺羅が「何?」と聞きとれず首を傾げた。それに「何でもない」と首を振って、宿題の続きを再開した。
四限目の授業が終われば、梓は決まって席を立つ。鞄を持ってどこかへ昼食をとりにいこうとするのを、マチは緊張した面持ちで「あの!」と止めた。
彼女の行く先に立ち道を塞ぐ。先へ行けない彼女は鋭い眼でマチを見下ろした。マチは「ごく」と唾を呑んで、委縮する体を必死に奮い立たせる。周りの同級生がこちらを見る冷たい視線が、ひしひしと制服越しに伝わる。
「あ、あの宮前さん、今からお昼、だよね?」
「ええ、そうでしてよ?」
落ち着いた声色で紡がれる言葉。同じ年の人間と接しているはずなのに、正された背筋と丁寧な口調のせいで、大人と接している心地がして緊張は最高潮に達した。
それをどうにか静め、舌先で自身の口を開かせながら、ゆっくりと言葉を探す。
「あの、その……よかったら、一緒にご飯、食べたいなって、」
思って……、と。語尾が近づくにつれ音が消えていった。
周りの視線が痛い。梓はともかく、自分がこれほどまでに注目されたことなど今までなかったので、顔が爆発しそうなくらい、赤くなっていた。
しばらく梓は口を開かなかったが、一度思案するように指先を顎へ乗せると「そうね」と呟いた。相変わらず何の感情も乗らない声だ。
「よろしくってよ」
まさか受け入れてもらえると思っていなかったマチは「え?」と声を裏返した。教室の中にも、どよめきが生まれる。それに見向きもせず、無関心な梓は肩にかけた鞄を再度かけ直すと、颯爽と教室を出て行った。自分から昼食に誘っておきながら置いてきぼりを食らい、どうしていいか戸惑ったマチは、机にかけていた自分のリュックをひったくると彼女の後へ続く。
すでに遠くにある背中を小走りで追いかけながら、リュックのポケットに入れたスマホを慌てて取り出す。綺羅の連絡先を呼び起こし、興奮して震える指でメッセージを送った。
『お昼誘えたよ!』
簡潔に伝えれば、一分もしないうちに返事が届く。
『勇気出したの偉い!』
マチはその一文が泣きそうになるほど嬉しかった。中学の頃にトイレに閉じ込められてかぶった水の冷たさなど、もう記憶の片隅に追いやられていた。
梓の鞄から出された弁当箱を見たマチは、意外にも見覚えのある小さな形のソレに拍子抜けした。てっきり正月に出されるお重のような、豪華な物が出てくると思っていた。
両手で持てる、マチと同じサイズの弁当を、中庭に植わる木の下に座って広げる。芝の上に直で座るので、露出している肌にチクリと僅かな痛みが走る。それを特に気にするでもなく「いただきます」と礼儀正しく手を合わせ、梓は箸を手に持った。
マチは物珍しさのあまり、不躾に彼女の弁当の中身を凝視する。勝手な偏見であったが、お嬢様の食べる弁当なら、豪華な食材がごろごろと入っているのだと思っていた。
だが梓の弁当の中身は、子供の手で握ったような小さなおにぎりが二つと、茹でられた彩り豊かな野菜のみ。アスパラの緑やトマトの赤が目に入る。艶やかに光る食材の存在につい呆けていると、梓が首を傾げた。
「どうされましたの?」
「あ、いや、ごめんなさい、ジロジロ見て……」
「お気になさらないで」
言いながら彼女は、小さな口に弁当の中身を運ぶ。その日常の何てない動作でさえ、梓の姿は絵になった。
マチは自分の弁当の中身に視線を落とし、なるほど、と一人心の中で頷く。ヘルシーな食事はお嬢様の鉄則条件なのかもしれない。背が高く細い梓の体が、それを証明してくれている。カップケーキを受け取らなかったわけも、腑に落ちた。
マチの弁当に入っている食材は、母親が冷凍して作り置きしている、ミニハンバーグと市販のソーセージ、昨日の夕飯の残りであるポテトサラダだ。糖質だらけの弁当を改めて思うと、冷や汗が流れる。ダイエットはまだ考えなくてもいいが、口へ運ぶミニハンバーグの味は、いつもより味気なく感じた。
「藤並さんは、」
水筒から熱いお茶をコップへ注いでいたマチは、突如呼ばれたことに驚き「え!」と肩を震わす。一緒に食事をしているのだから会話くらいあって当然なのだが、梓は食事が終わるまで一言も口を開かなかった。二人して食べ終わり、一息お茶でも飲もうとした時にようやく彼女が口を開いた。
「な、なに?」
「なぜワタクシを昼食に誘ってくださったのかと、お訊ねしようと思いまして、」
一切顔に感情の色は浮かんでいない。素の顔で、落ち着いた声でマチに訊く。コップにお茶を入れ終えて、それをゆっくり啜っていたマチは「なぜ……?」と小さく呟いた。
「ただ単に、宮前さんとお話したかっただけ、かな?」
「……それだけですか?」
梓は不思議そうに瞬きをすると、桃色の風呂敷で包んだ弁当を鞄へ片付ける。
「……ワタクシ、同年代の方と接した経験が今までありませんの」
「え?」
その言葉に、マチは首を傾げる。
同年代の方と接した経験がない。
声にせず反芻して、何で? と胸の中でひっそり問いかけた。
しばらく自問して、マチは自分の経験上「そういった人もいるだろう」と心の中で納得する。上履きをどこかへ隠され学校へ行けなくなり、同年代の人間と接することを嫌になる人なんて、今の時代山ほどいる。お嬢様だろうが梓だって、その経験をした一人だったのかもしれない。
人と接することに慣れていない梓の態度を見れば、理解できる気がする。マチは彼女の言葉を深く追求せず「そうなんだ」と小さく答えた。
「なので、こうして声をかけてくださると、とても勉強になります」
「勉強?」
「ええ。よければまた、昼食に誘ってくださいませ」
途端マチは顔を一気に破顔させる。そして何度も頷き、うん! と声を張り上げた。
「いいよ! また一緒にお昼食べようね!」
マチの言葉に、彼女は落ち着いた様子で「よろしくってよ」と言う。笑顔など、当然浮かんでいない。
よろしくってよ、と。
また誘って、と自分から言って来たにも関わらず、どこか上から目線とも思える梓の高慢な物の言い方。聞く人によれば気分を害する喋り方だ。
だがマチは特に気にすることもなく、梓とまた昼食を食べられることに興奮して胸を躍らせた。
梓と昼食をとるために教室を出た時の反応から、いつかは〝こういったこと〟になるとマチも予想はしていた。
だがまさか、その日のうちに〝こういったこと〟になるとは、思いもしなかった。
教室で孤立していた梓に声をかければ、その対応を「気に食わない」と思う輩は出現してくる。協調性を求める、特に女子校のトップとして君臨したい、気の強い性格の人間であれば、マチのとった行動は「気に食わない」行動の最上級だった。クラスメイト一人一人の首に紐を結んで支配欲を高めていこうとする存在は、入学して間もないマチたちのクラスでも、徐々に生まれ始めている。
昼休みを挟んだ五時限目の授業は体育だった。体操着に着替えて体育館へ行こうとすれば、マチの肩へワザとぶつかってくる女子がいた。わ、とその衝撃に驚き声を漏らしたマチだが、複数人で固まった彼女たちはマチを振り返ると謝りもせず、くすくすと笑って歩いていった。
久しぶりに嫌な気持ちを思い出した。中学の頃の苦い記憶が、冷たい波となって押し寄せてくる。
嫌な感じだなぁ、と心の中で思いながら、体育館へ向かった。
その日の授業はドッチボールをすることになった。これまた偶然、と言うべきか、誰かが仕組んだものなのか。マチの相手チームにさっき肩をぶつけてきた、気が強そうな女子たちがいる。白線を挟んだ向こう側から、いつマチを悲惨な目に合わせてやろうか、と卑しい笑みを浮かべているのがうかがえた。
マチを意地でも下に見たいその女子は、今まで梓に対しては特に手を出した形跡はない。遠目からその存在を疎ましそうに眺めているだけだった。
お嬢様が相手では分が悪いと、幼稚な性格ながらも理解しているのかもしれない。その点マチは一般家庭のごく一般の生徒だ。多少手荒なことをしても、自分に危害はないと分かっているのだろう。
女の子って怖いなぁ、と。試合開始の笛の音を聞きながら思う。
楽しそうにはしゃぐ笑い声と嬉々とした悲鳴。次々と仲間が相手のボールに当てられ陣地から出されるのを見送っていると、ついにマチの番がやってくる。
あ、と思った時には例の女子が不気味な笑顔を浮かべ、さっきまでとは比べ物にならない速さで、ボールをマチの顔面目掛けて投げた。ドッチボールのルール上、顔面を狙うのは反則である。
だが彼女たちは巧妙な言い訳を並べ、教師たちからの注意をいとも簡単に聞き流すだろう。
ボールが目の前に迫るまで、マチにはそんな未来が想像できた。顔面にボールを食らったマチを笑いものにしたい、彼女たちの汚い心が見えた気がして、気分が悪くなる。
その心から目を背けるように、ギュッと力強く目を閉じた。
バチン! とボールの衝撃音がマチの耳に届く。だが目を閉じ続けるマチの体に、ボールを打ち付けられた痛みはやってこない。辺りに無音が続く。
「……あれ?」
恐る恐る目を開くと、目の前にボールは確かに迫っていた。
だがマチの顔面へ沈む寸前で、人の手がそれを遮り受け止めている。
色白で細い、華奢な片手がマチの視界に入った。
あんなにも強く投げられたボールを片手で受け止めるなんて。驚き瞠目したマチは、その華奢な手の持ち主を見て、口を張る。
「み、宮前さん?」
同じ陣地の仲間である、梓だった。
てっきりマチは、梓はすでに陣地の外へ行ったと思っていた。おそらく、今ドッチボールをしていた全員がそう思っていたに違いない。
相手の女子だって、まずマチを笑いものにするには、マチの存在を陣地で一人にしたかったはず。最後の最後までマチを残し、顔面にぶつけて適当に「ごめーん」と謝って大笑いしたかったはずだ。
だから梓は、外に居なくてはいけなかった。でもふと、マチは試合の流れを思い出しながら考える。
梓がボールを当てられ外の陣地へ追い出された場面に、遭遇していない。
なら彼女は今までどこに居たのだろう。
きっと、いや、絶対にマチと同じ陣地に居たはず。けれど気配が、全くなかったのだ。
「……ワタクシ、ドッチボールという種目を初めて経験したのですが」
片手で取ったボールを両手で持ち直すと、梓は落ち着いた口調で淡々と話す。
「世界に数多あるスポーツ種目には、必ず公式ルールというものが存在すると熟知しておりましたが、このドッチボールという種目にはそれがなく、ましてや〝相手の顔面を狙ってもよい〟ということがルールブックに記載されておりますの?」
「あ……いや、」
口ごもり目を泳がせるマチは、白線向こうの陣地に居る彼女らを見る。目が合ったと気づいた途端、驚き口を張っていた表情を瞬時に引き締め、マチから目を逸らした。
「ドッチボールは基本、首から上を狙っちゃいけないんだよ……危ないから」
小さな声でマチが伝える。近くにいた、梓にしか聞こえない声だった。
梓は自分よりも背の低いマチを目だけで一瞥すると「あら、そうですの」と、けろっとした声で言った。
「そうしましたら、頭以外の体を狙えば良いのですね」
マチの隣に立っていた梓が、音もなく動く。あ、と声を漏らす前に、敵陣地の一人の女子が胴体にボールを当てられていた。
そしてそのボールは彼女の体の上で跳ねて、梓のもとへ戻ってくる。
マチは幾度も瞬きをした。梓がいつの間にか、敵チームを一人、陣地の外へ送っている。
辺りにざわめきが起こる。誰も梓がボールを投げた姿を確認できていなかった。細い腕により投げられたボールを身に受けた彼女は、唖然と口を張ったまま陣地外へ移動していた。いつの間に当てられたのか、見当もつかないのだ。
相手は残り二人。幸運なことに敵陣へ投げ入れるボールは梓の小さな手の中にある。彼女はスッと息を吸い込むと、軽々と手首だけでボールを投げた。
風を切る音すらしない。なのに決して投げの威力は弱くない。相手の腕に当たる、パンという鋭い音が体育館に響き渡る。
「す、すごい……」
マチは呆然と梓の顔を見上げた。涼し気な表情には汗一つ滲んでいない。高い鼻先がくっきりとうかがえる横顔を見つめたまま、心から湧き上がってくる興奮と感動で、マチは再度「すごい!」と声を震わせた。
花の優しい香りを胸いっぱいに吸い込むと、マチは、ほぅ、と息をついた。やく一時間。不可解な数学の問題に直面し、頭は爆発寸前にまで追い込まれている。
マチはこの春から、近所にある公立の女子校へ通い始めた。
特に勉学に特化した学校でもなく、強豪の運動部が存在しているわけでもない。ごく一般的な高等学校である。
女子校、と言えば華やかな女の薗を想像する人たちも多いだろうが、この高校に関しては〝そういった〟言葉が一切似合わない高校だった。
黒いセーラー服に白いスカーフ。外見こそ品のある気高い印象を持つが、スカートの下から学校指定の赤いジャージが覗いていたり、上履きの踵を踏みつぶしてサンダルのようにして歩く生徒がごまんと存在する。
教師たちは目聡く、品のない生徒を見つけては身だしなみを注意するのだが、注意された彼女たちは呑気に間延びした声で「はーい」と返事をするだけ。売店で買った紙パックのジュースをストローで吸いながら、鼻の上を呆けた顔で掻いている。
異性の視線がないことで開放的になった彼女たちの世話に、教師たちは常に頭を抱えていた。
だが一様に、この高校が〝品の欠片もない〟少女ばかりで埋め尽くされているわけではない。
勉学に真剣に取り組み、真面目に教師の声に耳を傾け教えを乞う。マチはその派閥側の生徒であった。授業もきっちり受けて出席もし、ノートを開き黒板に書かれた数学の公式を書き写す。常に姿勢正しく日常を過ごす模範生だ。
「……ん?」
女性教諭が黒板に数式を書いている間。マチはふと自身の足元へ視線を落とす。見覚えのない、新品の消しゴムが床に落ちていた。
使われた形跡のない真っ白い消しゴムは、新学期に合わせて誰かが購入したのだろう。マチも入学に合わせて、塗装の剥げたシャーペンなどは全部捨て新しい物を新調した。消しゴムも、中学まではイチゴの香りがするだけでほとんど消す効力がない物を使っていたのだが、この春にちゃんと文字を消せる物に買い替えた。
はじめ落ちているそれは自分の物かと思ったが、臙脂色の革製筆箱の中ではちゃんと、真っ白な消しゴムがお利巧に自分の出番をひっそりと待っている。
それじゃあ誰のだろう、と。手を伸ばして消しゴムを拾う。
まだ入学して間もないため、クラスメイト全員の顔と名前は把握できていない。前後の子か左右の子か。もしかして何列も隣の子が何かの弾みでこちらまで飛ばしてきたのか。わからないとは思いつつ、周りの子の様子をそれとなくうかがった。
すると、左隣の窓際の席の子が、マチと似たような革製の筆箱の中をずっと探っている。無心に、顔色も変えず。整った眉をびくともさせずに中身のペンを全て取り出し、筆箱を空の状態にしていた。机上にはペンが数本並んでいるが、そこに消しゴムの姿はない。
マチの持っている消しゴムは、おそらく彼女の物だ。そう思い、早く渡してやらねばならないのだが、手に持ったそれを彼女へ渡すことを少し躊躇う。チラリ、と隣の彼女の方を向きながら、思わず喉を鳴らし唾を呑んだ。
隣の席の彼女は、宮前梓という。
大抵、高校へ上がれば同じ中学の生徒が二人か三人、周りに最低でもいるのだが、彼女に関しては出身が遠方なのか、同窓生は一人もおらず、彼女のことを詳しく知る人物は同じ高校にいなかった。
切れ長の目に色白の肌、真っ黒な瞳と長い睫毛。スッと筆を払ったような柳眉に見惚れるのは、何も男たちばかりではない。入学早々、学校中の女子たちはみな、恐ろしいほど整った彼女を見て、頬に手をあて悩まし気なため息を零した。
一切歪みのない艶やかな髪は、窓から差し込むだけの僅かな光さえ味方につける。鏡のように輝き、日光を反射させる長髪を、マチは指を咥えて見つめる。癖の強い毛を一つにまとめているマチにとって、梓の髪は羨ましすぎた。
美しい容貌ゆえに一躍人気者になった梓ではあったが、それはあることがきっかけで、一瞬にして地獄に落ちる。
だからマチは、彼女に声をかけることを躊躇った。
机上に筆箱の中身を広げている梓の方を見て誰かが「何してるの、あの子」と。教師に聞こえない小さな声で笑っているのが、教室のどこかから聞こえはじめる。
マチは「よし……!」と心の中で拳を握り覚悟を決める。そして小さな声で隣の梓に「これ、」と声をかけて左手を差し出した。
「消しゴム……宮前さんのじゃないかな?」
恐る恐る小さな声で訊ねれば、黒曜石のような目が、瞬時にマチの方を向く。その鋭い速さに一瞬、ひぃ、と声を引き攣らせたが、梓はマチの震えている左手に乗る物を見て「あら」と目を瞬いた。
「ええ、ワタクシのですわ」
ふふふ、と。
教室中から笑い声が漏れだす。ああ、早く終われこの時間、と願いながら、マチは背中を滝のように流れる嫌な汗に耐えた。
「お手間とらせて、ごめんあそばせ」
ついに誰かが噴き出して笑った。流石に教師が「誰、今笑った人」と眦を上げて教室中を見渡す。
そしてマチと梓の方を向いて「おや?」と首を傾げた。
「藤並さんと宮前さん、どうしたの?」
「あ、その……」
急に教師に名指しされ、委縮したマチの隣で梓がスラスラと言葉を吐く。
「ワタクシが落とした消しゴムを、藤並さんに拾って頂いておりましたの」
それだけですわ、と梓は一切表情を作ることなく言った。教師は背筋を伸ばし、一言一句詰まることなく述べた彼女を向いて「そうだったの」と、素っ気なく言ってから自身の手元の教科書へ視線を落とす。
「それじゃあ改めて、授業を再開します」
そしてまた黒板へ数式を書き始める。教室へ背が向けられた途端、また小さな笑いが零れ始めた。今度は教師も、注意をしない。聞こえていないのだろう。
じわじわと部屋中を渦巻く紫色の空気を、マチは想像する。
卑しい女の子の笑い声と混じり合ったその空気は、どんどん増幅していった。
息をするたびに肺に紫の空気が溜まる。それが苦痛で眉間に皺を寄せながら、シャーペンの頭をノックした。一ミリ程度芯が出たのを確認して、数式を綴っていく。
入学早々。立ち姿は芍薬のように美しく、座る姿が牡丹のように愛らしく、歩く姿まで百合のように凛々しいと。
大袈裟なほど持て囃され、羨望の眼差しで見つめられていた宮前梓が、濁った澱みの根源になった理由。
それは彼女の口から吐き出される〝丁寧なお嬢様言葉〟と、そこから滲み出る〝世間知らずな様〟が原因だった。
近年頻繁に遭遇する、春の嵐が吹き荒れた翌日が、マチたちの高校の入学式だった。
校内に植えられている桜の木のアーチを潜り、黒いセーラー服を着て校舎へ歩いていく。
入学式を迎えるまでそんな華々しい絵を想像していたマチは、目の当たりにした〝嵐が去った後〟の様子に大きなため息をついて肩を落とした。
桜の木の花は前日の強風のせいでほとんどが散り、石畳は泥水で汚れた桃色の花弁に埋め尽くされている。歩けば革靴の後ろに水気の含んだ、色の悪い花弁が何枚も張り付き、その花弁の重さがマチのげんなりとした心の重さと共鳴した。
理想の入学式とかけ離れた現実の光景に、重い足取りでのろのろと歩く。するとその姿は、校舎へ急ぐ生徒たちからすれば目に余るものになる。背後から迫る早足の音など、亀のようなペースで歩くマチは気づいていなかった。
おかげで急ぎ足の生徒の一人が、背後からマチの肩に意図せずぶつかる。わ、とマチが悲鳴を上げ転びそうになっている隙に、ぶつかってきた本人は「あ、ごめんね」とだけ言い残し足早に去って行った。
傾ぐ体。目の前には泥にまみれた桜の花弁が迫っている。咄嗟に手を目の前へ出そうとしたが間に合わず、マチは顔面から地面へ落ちて行った。
だが鼻先を地面へ掠める寸前。ふわり、と体を浮遊感が襲う。声を上げる暇もなく、突然地面から遠ざけられ「あれ?」と疑問が口を吐いて出た。
何があったんだ、と背後を振り返り、思わず仰天する。
マチの襟首を掴む長身の美女が、そこに立っていたのだ。
鋭い刃のような目つきでマチを見る少女。おそらく転んだマチが地面に倒れ込む寸でのところで襟を掴み、起こしてくれたのだろう。
「あ、あの」
冷気の孕んだ目つきが、吃るマチを見つめる。その迫力に感謝の言葉が喉を下って腹に戻ってしまう。ひぃ、と短い悲鳴が出そうになった時には、少女はマチの襟から手を放し、美しい姿勢で校舎の方へと歩いていった。
マチはしばらくその場で呆然と立ち尽くした。僅かに木の枝に残った桜の花弁が、例の少女が歩き去った後にチラチラと散っていく。
その絵面につい頬が紅潮し「か、かっこいい……!」と心の中で呟いたほどだった。
その例の少女こそ、同じクラスの宮前梓だった。
校舎へ入る前に遭遇した彼女が自分と同じ教室へ入ったのを見た時、マチは自然と表情が緩んでいくほど、心が踊った。
遠目からでも彼女の存在感は異次元だった。涼し気なすまし顔で歩いている姿は、今まで出会ってきた人たちの中でも断トツで美しい人だった。
梓が隣の席だと知った時も、マチは天にも昇る気持ちで胸の前で手を組んだ。このクラスの他の誰よりも、彼女に話しかけるチャンスができると確信したからだ。
片手一つでマチの体を持ち上げた少女に、僅かながら興味が湧く。
そして何より、マチは今朝梓の迫力に押し負け、危機一髪で救ってもらったことの礼を言えていない。それが心残りで、ホームルームが始まってからも落ち着かなかった。チラチラと挙動不審に視線を送られても、梓は涼しい顔でマチを眼中にはいれなかった。
入学して初めてのホームルームが終わると、クラスメイトほとんどが梓の周りに集まった。隣を陣取っていたにも関わらず、マチは出遅れる。あ! と声を上げている隙に、集まってきた一人の女子に追いやられ席を立たされる羽目になった。力強く押され転びそうになるほどだった。
「宮前さん、どこの中学校だったの?」
「家は近くなの?」
「部活はどこか入るとこ決まってる?」
「吹奏楽部とか入らない?」
「いやいや宮前さんなら演劇部でしょ!」
「よかったら今日は一緒に帰らない?」
マシンガンのように勢いよく吐き出される幾つもの言葉を、近くで聞いていたマチでさえ数個しか拾いきれなかったのに、梓が聞き分けるなど不可能だろう。自分も彼女たちと同じく、梓に寄ろうとしていた身ではあるが、それを棚に上げて梓に同情する。
このままだと、今日中に梓に礼を言うことは不可能だと判断し、ため息を吐きながらマチは帰り支度を始める。学校初日は午前中だけの予定だった。
「恐れ入りますが、」
教室中に充満していた甲高い音が一瞬にして止む。喧騒を、たった一言で薙ぎ払ったであろう声色はとても澄んでいて、凛々しいものだった。
子供のような甘さは一切ない。大人の落ち着いた声の色に、あちこちからウットリと息を漏らす音が響く。
「ワタクシ、少々急いでおりますの」
その発言を聞いた途端、周りの空気が一気に締まる心地がした。
誰かが小さな声で「え?」と困惑したように言っている。
「ですので本日は失礼致しますわ。みなさま、ごきげんよう」
そう言うと颯爽と立ち上がり、群衆の間を掻い潜って教室を出て行った。ピンと伸ばされた背筋を見送りながら、マチの近くにいた女子が「ごきげんよう、だって。何語?」とくすくす可笑しそうに、口に手をあてて笑っていた。
あの上品な姿はお嬢様だからなんだね、と彼女が帰った後に、クラスの子たちが話しているのをマチは聞いていた。
その間に何人かの子たちと自己紹介をしあい、スマホで連絡先を交換したりもした。充実した連絡帳を眺めると、つい口元が綻ぶ。友達が増えることはマチにとって、とても嬉しいことだった。
梓の連絡先も、自ずと手に入ると確信していた。
——だが彼女の存在は、ある時あっさり落ちてしまった。
クラスメイトの一人が、趣味で作ったカップケーキを大量に持ってきた日のことだ。
彼女はクラスのみんなと早く仲良くなるためにと、手作りのそれを教室にいた全員に配って回った。マチも例にもれず受け取る。甘いものが好きなマチは嬉しくて「ありがとう!」と満面の笑みを浮かべ礼を言った。カップケーキを作ってきた彼女は恥ずかしそうに頬を染めながら「美味しくなかったらごめんね?」と首を傾けていた。
もちろんカップケーキは、席に座っていた梓にも渡された。涼しい顔で化学の教科書に目を通していた彼女は、すぐ傍に立った女子を一瞥する。
「よかったらどうぞ……」
緊張したようにフィルム用紙で包まれたカップケーキを渡した彼女。梓はそんな彼女の恥ずかしそうな表情をしばらく凝視して、カップケーキへ視線を落とす。
その間ほんの一瞬、梓は眉間に皺を寄せる険しい表情を浮かべた。僅かな時間であったため、誰もその様子に気づいてはいなかった。
「残念ですけど、受け取れませんわ」
顔色変えず、梓はケロっと言ってのける。カップケーキを持つ彼女が、「え?」と戸惑いの声を漏らした。受け取ってもらえる自信があったのだろう。他のみんなが喜んで受け取ってくれるなら梓もきっと、と。手渡して礼を言われる未来しか想像していなかったその女子は、狼狽えて目を泳がせた。
そんな彼女に、梓はとどめを刺す。
「どこの誰かもわからない方が作った物を口に入れることなんて、できませんの」
お許しくださいませ、と。
言いながら梓は化学の教科書に視線を戻した。
場の空気が、凍りつく。冷えて固まり、硬くなった氷が、バリバリと崩れる音がマチの耳には聞こえた。
重苦しくて肌に痛いような、冷たい空気に怯えスーッと息を吸った時、カップケーキを作ってきた女子が、声を上げて泣き出してしまう。
「ねぇ宮前さん、言い方ってものがあるじゃない?」
クラスメイトの一人が、やや表情を引き攣らせながら梓に寄る。
高校生にもなれば、多少の人間は大人になる。なので梓のような〝他人が作ったものを食べられない人種〟がいることも、当然知っている人たちは存在する。
カップケーキを作ってきた彼女は、そんな人種がいることを知らなかった子供だ。
梓の発言を諫めた彼女は、そういった人種がいると知っていた大人だ。
そして梓は、声を上げて泣き出した彼女を一切見向きもせず、自身を諫めた女子の顔すら見上げず、
「他になんと申し上げればよかったのかしら?」
と、平然と言い放つ〝化け物〟だった。
教室は地獄と化し、カップケーキの彼女はついに走って教室を出て行く。梓に口の利き方を注意した彼女も、梓の物の言い方に唖然とし、顔面を蒼白にさせた。
誰かが梓にも聞こえるような声で「お嬢様のお口には庶民の味が合わないのよね」と、嫌味を言ったが、梓は化学の教科書にしか興味がないのか、一切声を振り返ることはなかった。
それ以来、クラスメイトは誰も梓に声をかけなくなった。
美しくてかっこよい、梓と関係を持ちたいと血相変えて息まいていたクラスメイトの気持ちなど、その程度だった。
隣の席を陣取るマチもまた、彼女と言葉を交わすことはなかった。
いつか手に入ればいいな、と思っていた彼女の連絡先も、当然手には入れられていない。
「で、例のお嬢様ってのはどうなってんの?」
自分の部屋で宿題をしていたマチにそう言ったのは、ベッドに座りスナック菓子を口へ投げ入れた金髪の女だ。他人の部屋であるにも関わらず、彼女は人様の布団の上で胡坐をかいている。さっきから口へ投げ入れ損ねたスナック菓子の破片が、ボロボロと布団の上に落ちていた。
金髪の彼女、綺羅は、マチより一つ年が上の友達だ。家が近所にあることから、彼女はよくマチの家に遊びに来る。
高校へは進学していない。昔から勉強が嫌いで、中学の頃は他校の気に食わない生徒を見つけては喧嘩ばかりする、言わば問題児だった。頬を傷だらけにして、年上の野蛮な女子連中を病院送りにしたという話も一回きりではない。警察沙汰になったことも数え切れないほどある。
野蛮な連中に喧嘩を吹っ掛ける、とは言ったが、連中からすれば綺羅の存在が一番〝野蛮〟であるに違いない。
そんな彼女も今では比較的に落ち着き、日々バイトに勤しんでいる。マチの家へやってくることも久しぶりだった。高校入学祝いにお菓子を大量に持ってきてくれたのは良いが、受取人であるマチより先に、彼女がほとんどのお菓子を胃袋におさめてしまっている。マチの部屋の隅に残るのは、空の袋ばかりだ。
ぼりぼりお菓子を咀嚼する綺羅を振り返り、机と向き合っていたマチは一旦ペンを置いた。入学してからの出来事は、簡潔ではあるがスマホを使って綺羅に知らせている。もちろん、例のカップケーキ事件の話もしていた。
どうなってんの、と、再度言われてマチは「うん……」と肩を落とす。重い石が頭の上に降ってきたような心地がして、項垂れた頭はなかなか上げられない。
それを見た綺羅は、スッと優し気に目を細める。そして苦い笑い声を零して「あんたはそういうやつだったよね」と、今まさに食べ終えたスナック菓子の袋をクシャクシャに丸めた。
「嫌なんでしょ、クラスの空気」
「……うん」
「じゃあ話しかければいいじゃん」
でも、と。つい口を噤むマチ。それを見た綺羅が「大丈夫だって!」と口を大きく開けて笑った。
「お嬢様を擁護して、自分の身に回ってくるのが怖いなら心配いらないよ!」
「軽い……」
「もしアンタがいじめられる羽目になったら、またアタシが助けに行ってやるからさ」
気にすんなって! と言いながらまた大口を開けて笑う綺羅。ぎゃははは、と、品のない笑いではあるが、マチは彼女の言葉のおかげで幾分か気分が軽くなった。
中学の頃、マチはクラスメイトにいじめられていた。
教科書や上履きがなくなったり、トイレの個室に閉じ込められ、開いている頭上部分からバケツに入った水をぶっかけられるような経験が過去にあったのだ。
そんな典型的ないじめられ方をしていた生徒だった。なので今、クラスを渦巻いている紫色の不穏な空気は、当時の記憶を呼び起こさせる。気分が良いものでは、決してない。
いじめられていた当時は自分が彼女らに何をしたのか全く覚えがなく、ある日登校すると上履きがなくなっていた。それを皮切りにいろんなものがなくなっていく。
見えない〝何か〟に対する恐怖が膨れ上がっていく中で、自分はもしかしていじめられているのか、と自覚した時には頭上から水をかけられていた。
下品な笑い声を閉じ込められたトイレの個室で聞きながら、目の中に入った水の冷たさに泣きそうになっていた時。とんでもなく恐ろしい怒声が聞こえて、次いで悲鳴が聞こえた。マチがそれに肩を震わせれば、外側から無理矢理扉を開けられた。その時出会ったのが、綺羅だった。
綺羅はほとんど学校へは来ていなかったが、この日はたまたま、学校へ来ていた。そしてトイレの方で怪しい動きをする連中を見つけて、駆けつけた。
閉じ込められていた個室から出ると、タイル張りの足元で数人の女子生徒がわんわん泣きながら座り込んでいた。全員水をかぶったようで、制服がマチと同様ずぶ濡れだった。
『強くもない奴が群れ作って弱い奴捕まえて、憂さ晴らししてるの見るのが世の中で一番嫌いなんだよ』
綺羅はそう吐き捨て、泣き声に驚き駆けつけてくる先生たちから逃げるように走っていなくなった。
以来マチをいじめる生徒はいなくなった。その代わり、綺羅とはよく話をする仲になった。いじめられてないか、と、よくマチのことを気にかけてくれる日が続き、学校へ登校していなかった綺羅がマチのためにと、一緒に登校するようになった。
金色の髪に吊り上がった目。腕っぷしの強さからは想像し難い、人を思う綺羅の優しい心が、マチは大好きだ。
彼女が味方でいてくれるのなら、学校で嫌な思いをしても乗り越えられた。
「宮前さんにも、そういう人がいるのかなぁ……」
独り言のように呟けば、綺羅が「何?」と聞きとれず首を傾げた。それに「何でもない」と首を振って、宿題の続きを再開した。
四限目の授業が終われば、梓は決まって席を立つ。鞄を持ってどこかへ昼食をとりにいこうとするのを、マチは緊張した面持ちで「あの!」と止めた。
彼女の行く先に立ち道を塞ぐ。先へ行けない彼女は鋭い眼でマチを見下ろした。マチは「ごく」と唾を呑んで、委縮する体を必死に奮い立たせる。周りの同級生がこちらを見る冷たい視線が、ひしひしと制服越しに伝わる。
「あ、あの宮前さん、今からお昼、だよね?」
「ええ、そうでしてよ?」
落ち着いた声色で紡がれる言葉。同じ年の人間と接しているはずなのに、正された背筋と丁寧な口調のせいで、大人と接している心地がして緊張は最高潮に達した。
それをどうにか静め、舌先で自身の口を開かせながら、ゆっくりと言葉を探す。
「あの、その……よかったら、一緒にご飯、食べたいなって、」
思って……、と。語尾が近づくにつれ音が消えていった。
周りの視線が痛い。梓はともかく、自分がこれほどまでに注目されたことなど今までなかったので、顔が爆発しそうなくらい、赤くなっていた。
しばらく梓は口を開かなかったが、一度思案するように指先を顎へ乗せると「そうね」と呟いた。相変わらず何の感情も乗らない声だ。
「よろしくってよ」
まさか受け入れてもらえると思っていなかったマチは「え?」と声を裏返した。教室の中にも、どよめきが生まれる。それに見向きもせず、無関心な梓は肩にかけた鞄を再度かけ直すと、颯爽と教室を出て行った。自分から昼食に誘っておきながら置いてきぼりを食らい、どうしていいか戸惑ったマチは、机にかけていた自分のリュックをひったくると彼女の後へ続く。
すでに遠くにある背中を小走りで追いかけながら、リュックのポケットに入れたスマホを慌てて取り出す。綺羅の連絡先を呼び起こし、興奮して震える指でメッセージを送った。
『お昼誘えたよ!』
簡潔に伝えれば、一分もしないうちに返事が届く。
『勇気出したの偉い!』
マチはその一文が泣きそうになるほど嬉しかった。中学の頃にトイレに閉じ込められてかぶった水の冷たさなど、もう記憶の片隅に追いやられていた。
梓の鞄から出された弁当箱を見たマチは、意外にも見覚えのある小さな形のソレに拍子抜けした。てっきり正月に出されるお重のような、豪華な物が出てくると思っていた。
両手で持てる、マチと同じサイズの弁当を、中庭に植わる木の下に座って広げる。芝の上に直で座るので、露出している肌にチクリと僅かな痛みが走る。それを特に気にするでもなく「いただきます」と礼儀正しく手を合わせ、梓は箸を手に持った。
マチは物珍しさのあまり、不躾に彼女の弁当の中身を凝視する。勝手な偏見であったが、お嬢様の食べる弁当なら、豪華な食材がごろごろと入っているのだと思っていた。
だが梓の弁当の中身は、子供の手で握ったような小さなおにぎりが二つと、茹でられた彩り豊かな野菜のみ。アスパラの緑やトマトの赤が目に入る。艶やかに光る食材の存在につい呆けていると、梓が首を傾げた。
「どうされましたの?」
「あ、いや、ごめんなさい、ジロジロ見て……」
「お気になさらないで」
言いながら彼女は、小さな口に弁当の中身を運ぶ。その日常の何てない動作でさえ、梓の姿は絵になった。
マチは自分の弁当の中身に視線を落とし、なるほど、と一人心の中で頷く。ヘルシーな食事はお嬢様の鉄則条件なのかもしれない。背が高く細い梓の体が、それを証明してくれている。カップケーキを受け取らなかったわけも、腑に落ちた。
マチの弁当に入っている食材は、母親が冷凍して作り置きしている、ミニハンバーグと市販のソーセージ、昨日の夕飯の残りであるポテトサラダだ。糖質だらけの弁当を改めて思うと、冷や汗が流れる。ダイエットはまだ考えなくてもいいが、口へ運ぶミニハンバーグの味は、いつもより味気なく感じた。
「藤並さんは、」
水筒から熱いお茶をコップへ注いでいたマチは、突如呼ばれたことに驚き「え!」と肩を震わす。一緒に食事をしているのだから会話くらいあって当然なのだが、梓は食事が終わるまで一言も口を開かなかった。二人して食べ終わり、一息お茶でも飲もうとした時にようやく彼女が口を開いた。
「な、なに?」
「なぜワタクシを昼食に誘ってくださったのかと、お訊ねしようと思いまして、」
一切顔に感情の色は浮かんでいない。素の顔で、落ち着いた声でマチに訊く。コップにお茶を入れ終えて、それをゆっくり啜っていたマチは「なぜ……?」と小さく呟いた。
「ただ単に、宮前さんとお話したかっただけ、かな?」
「……それだけですか?」
梓は不思議そうに瞬きをすると、桃色の風呂敷で包んだ弁当を鞄へ片付ける。
「……ワタクシ、同年代の方と接した経験が今までありませんの」
「え?」
その言葉に、マチは首を傾げる。
同年代の方と接した経験がない。
声にせず反芻して、何で? と胸の中でひっそり問いかけた。
しばらく自問して、マチは自分の経験上「そういった人もいるだろう」と心の中で納得する。上履きをどこかへ隠され学校へ行けなくなり、同年代の人間と接することを嫌になる人なんて、今の時代山ほどいる。お嬢様だろうが梓だって、その経験をした一人だったのかもしれない。
人と接することに慣れていない梓の態度を見れば、理解できる気がする。マチは彼女の言葉を深く追求せず「そうなんだ」と小さく答えた。
「なので、こうして声をかけてくださると、とても勉強になります」
「勉強?」
「ええ。よければまた、昼食に誘ってくださいませ」
途端マチは顔を一気に破顔させる。そして何度も頷き、うん! と声を張り上げた。
「いいよ! また一緒にお昼食べようね!」
マチの言葉に、彼女は落ち着いた様子で「よろしくってよ」と言う。笑顔など、当然浮かんでいない。
よろしくってよ、と。
また誘って、と自分から言って来たにも関わらず、どこか上から目線とも思える梓の高慢な物の言い方。聞く人によれば気分を害する喋り方だ。
だがマチは特に気にすることもなく、梓とまた昼食を食べられることに興奮して胸を躍らせた。
梓と昼食をとるために教室を出た時の反応から、いつかは〝こういったこと〟になるとマチも予想はしていた。
だがまさか、その日のうちに〝こういったこと〟になるとは、思いもしなかった。
教室で孤立していた梓に声をかければ、その対応を「気に食わない」と思う輩は出現してくる。協調性を求める、特に女子校のトップとして君臨したい、気の強い性格の人間であれば、マチのとった行動は「気に食わない」行動の最上級だった。クラスメイト一人一人の首に紐を結んで支配欲を高めていこうとする存在は、入学して間もないマチたちのクラスでも、徐々に生まれ始めている。
昼休みを挟んだ五時限目の授業は体育だった。体操着に着替えて体育館へ行こうとすれば、マチの肩へワザとぶつかってくる女子がいた。わ、とその衝撃に驚き声を漏らしたマチだが、複数人で固まった彼女たちはマチを振り返ると謝りもせず、くすくすと笑って歩いていった。
久しぶりに嫌な気持ちを思い出した。中学の頃の苦い記憶が、冷たい波となって押し寄せてくる。
嫌な感じだなぁ、と心の中で思いながら、体育館へ向かった。
その日の授業はドッチボールをすることになった。これまた偶然、と言うべきか、誰かが仕組んだものなのか。マチの相手チームにさっき肩をぶつけてきた、気が強そうな女子たちがいる。白線を挟んだ向こう側から、いつマチを悲惨な目に合わせてやろうか、と卑しい笑みを浮かべているのがうかがえた。
マチを意地でも下に見たいその女子は、今まで梓に対しては特に手を出した形跡はない。遠目からその存在を疎ましそうに眺めているだけだった。
お嬢様が相手では分が悪いと、幼稚な性格ながらも理解しているのかもしれない。その点マチは一般家庭のごく一般の生徒だ。多少手荒なことをしても、自分に危害はないと分かっているのだろう。
女の子って怖いなぁ、と。試合開始の笛の音を聞きながら思う。
楽しそうにはしゃぐ笑い声と嬉々とした悲鳴。次々と仲間が相手のボールに当てられ陣地から出されるのを見送っていると、ついにマチの番がやってくる。
あ、と思った時には例の女子が不気味な笑顔を浮かべ、さっきまでとは比べ物にならない速さで、ボールをマチの顔面目掛けて投げた。ドッチボールのルール上、顔面を狙うのは反則である。
だが彼女たちは巧妙な言い訳を並べ、教師たちからの注意をいとも簡単に聞き流すだろう。
ボールが目の前に迫るまで、マチにはそんな未来が想像できた。顔面にボールを食らったマチを笑いものにしたい、彼女たちの汚い心が見えた気がして、気分が悪くなる。
その心から目を背けるように、ギュッと力強く目を閉じた。
バチン! とボールの衝撃音がマチの耳に届く。だが目を閉じ続けるマチの体に、ボールを打ち付けられた痛みはやってこない。辺りに無音が続く。
「……あれ?」
恐る恐る目を開くと、目の前にボールは確かに迫っていた。
だがマチの顔面へ沈む寸前で、人の手がそれを遮り受け止めている。
色白で細い、華奢な片手がマチの視界に入った。
あんなにも強く投げられたボールを片手で受け止めるなんて。驚き瞠目したマチは、その華奢な手の持ち主を見て、口を張る。
「み、宮前さん?」
同じ陣地の仲間である、梓だった。
てっきりマチは、梓はすでに陣地の外へ行ったと思っていた。おそらく、今ドッチボールをしていた全員がそう思っていたに違いない。
相手の女子だって、まずマチを笑いものにするには、マチの存在を陣地で一人にしたかったはず。最後の最後までマチを残し、顔面にぶつけて適当に「ごめーん」と謝って大笑いしたかったはずだ。
だから梓は、外に居なくてはいけなかった。でもふと、マチは試合の流れを思い出しながら考える。
梓がボールを当てられ外の陣地へ追い出された場面に、遭遇していない。
なら彼女は今までどこに居たのだろう。
きっと、いや、絶対にマチと同じ陣地に居たはず。けれど気配が、全くなかったのだ。
「……ワタクシ、ドッチボールという種目を初めて経験したのですが」
片手で取ったボールを両手で持ち直すと、梓は落ち着いた口調で淡々と話す。
「世界に数多あるスポーツ種目には、必ず公式ルールというものが存在すると熟知しておりましたが、このドッチボールという種目にはそれがなく、ましてや〝相手の顔面を狙ってもよい〟ということがルールブックに記載されておりますの?」
「あ……いや、」
口ごもり目を泳がせるマチは、白線向こうの陣地に居る彼女らを見る。目が合ったと気づいた途端、驚き口を張っていた表情を瞬時に引き締め、マチから目を逸らした。
「ドッチボールは基本、首から上を狙っちゃいけないんだよ……危ないから」
小さな声でマチが伝える。近くにいた、梓にしか聞こえない声だった。
梓は自分よりも背の低いマチを目だけで一瞥すると「あら、そうですの」と、けろっとした声で言った。
「そうしましたら、頭以外の体を狙えば良いのですね」
マチの隣に立っていた梓が、音もなく動く。あ、と声を漏らす前に、敵陣地の一人の女子が胴体にボールを当てられていた。
そしてそのボールは彼女の体の上で跳ねて、梓のもとへ戻ってくる。
マチは幾度も瞬きをした。梓がいつの間にか、敵チームを一人、陣地の外へ送っている。
辺りにざわめきが起こる。誰も梓がボールを投げた姿を確認できていなかった。細い腕により投げられたボールを身に受けた彼女は、唖然と口を張ったまま陣地外へ移動していた。いつの間に当てられたのか、見当もつかないのだ。
相手は残り二人。幸運なことに敵陣へ投げ入れるボールは梓の小さな手の中にある。彼女はスッと息を吸い込むと、軽々と手首だけでボールを投げた。
風を切る音すらしない。なのに決して投げの威力は弱くない。相手の腕に当たる、パンという鋭い音が体育館に響き渡る。
「す、すごい……」
マチは呆然と梓の顔を見上げた。涼し気な表情には汗一つ滲んでいない。高い鼻先がくっきりとうかがえる横顔を見つめたまま、心から湧き上がってくる興奮と感動で、マチは再度「すごい!」と声を震わせた。
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