お嬢様は世間知らずで恐れ知らず

みとの

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 帰宅して早々、マチは学校であったことを綺羅に話した。夜のコンビニバイトへ向かう途中で、マチの自宅へ顔を出した時だ。
 綺羅の存在はマチの家族も好意的に受け入れている。初めこそ外見が派手で戦いていたが、学校でいじめられていたマチを救ってくれた子だと知ると、マチの母親はすぐに軟化した。今ではマチと同様、綺羅と親しく会話する仲であり、時々彼女の分の夕飯も用意していた。
「へぇ、お嬢なのに運動神経が超いいんだね」
 ベッドに座る綺羅は、勉強机の椅子に座り鼻息荒くチョコを食べているマチを見て笑った。学校での出来事を話し始めた時からマチは大興奮し、大声なうえに早口で言葉を紡いでいた。
「そうなの! もうびっくりして! 最後には私に意地悪しようとしてた子にもボール当てて、陣地外に出したんだから!」
「へぇ、じゃあ前みたいに避けられることもなくなったんじゃないの?」
 綺羅が首を傾げ訊いたが、マチは興奮状態のままで顔を固めて動かなくなる。そしてゆっくり、綺羅から視線を逸らした。
 彼女の言う通り、背が高く美形な梓の運動神経の良さは、それまで彼女を遠巻きにしていたクラスメイトの心を一気に引き戻した。彼女のボールを投げる様を恍惚とした表情で見ていた彼女たちは、都合よく今までの自身たちの態度は棚に上げて、授業が終われば積極的に梓に声をかけに行った。
 だがそこでまた事件が起こる。体操服から制服へ着替えを済ませた梓の肩に、糸くずがついていた。それをクラスメイトの一人が気づき、背後に立って手を伸ばしたのだ。
 梓の肩へ手が触れる寸前。梓は勢いよく後ろを振り返ると、親切で手を伸ばしていた彼女の手を反動で振り払う。パシンと鈍い音が辺りに響き、
『背後に立たれると、気が散りますの』
 そう言って早足で更衣室を出た。盛り上がっていたクラスメイトの気持ちは、一気に氷点下まで下がった。
 上がっては下げ上がっては下げを繰り返す梓の印象に、流石の綺羅も苦笑いを浮かべる。二人ともお嬢様、と呼ばれる人種とは無縁の環境で過ごしていたため、梓の言動には戸惑いを隠せない。
「でも、イイ子じゃないの? お昼ご飯、また一緒に食べるんでしょ?」
「うん、約束したから、きっと食べるよ」
 楽しみだな、と言いながら立ち上がる綺羅。マチの部屋にかけられている時計の短針が、夕方の五時を指している。
「そろそろバイトだわ。今日で最後だし、頑張ってくるよ」
 最後? と首を傾け訊ねるマチに、綺羅は少し照れた様子で頬を掻く。実は、と切り出す彼女の口元が、僅かににやりと緩んでいた。
「コンビニに来るお客にさ、建築会社で社長してる意気投合したオッサンがいて。小さい会社なんだけど、事務職をフルタイムで働いてみないかって声かけてくれたんだよ」
「事務職! てことは正社員ってこと?」
「いや、まだ未成年だし、見習いから始めるよ。でも年数働けば正社員にしてくれるらしい」
 わぁぁぁ、とマチの顔が晴れやかになる。仕事に関する綺羅の悩みを、マチはよく聞かされていた。バイトと正社員では、当然格差が生まれるものである。
「中卒だから会社勤めは無理だろって、諦めてフリーターで過ごしてたけど……。これでようやく親が安心してくれるだろうな」
「もう喧嘩できないね」
 この金髪もおさらばだな、と。言いながら自分の金髪を引っ張る綺羅。その姿が、マチには眩しく見えた。
 喧嘩ばかりの不良だった綺羅が、次第に大人になっている。たった一歳しか年が違わない彼女が進んで行く道を思うと、マチは嬉しくて胸がいっぱいになる。
 大好きで、いつも自分の味方でいてくれる綺羅だ。今度は自分が彼女の味方になり、応援する立場になろうと拳を強く握った。



 ルックスが良く運動神経が良いということは、梓にとって魅力的な武器ではあった。
 だがしかし残念なことに、依然彼女の傲慢な口調や雰囲気のせいで、人気は急降下の最中にある。
 さらにもう一つ。彼女の魅力が霞む原因が、夏に差し掛かる前に発覚した。
「宮前さん、次はもう少し頑張ってくださいね」
 入学して初めて行われた中間テストが返却された際。担当科目の教師は梓に決まってそう声をかけた。
 教卓前に行き答案用紙を手に自席へ戻る梓の表情は、いつも通り冷静だ。
 梓が席に座ったことを確認すると、マチはチラリ、と彼女の方を見た。返却された答案用紙を凝視したまま、特に口を開かない。どの科目の時も同様の反応であった。
 教師たちが彼女にかける言葉を思うと、どうやら彼女は勉強が苦手なようだ。お嬢様であれば、専属の家庭教師が居てもおかしくないだろうに、とマチは考えた。元々家庭教師は雇っていないのか、もしくはとても馬鹿な家庭教師を屋敷に抱えているか。そうでなければ、大抵の人がイメージするお嬢様は、知的であるはずだった。
「藤並さん、あなた宮前さんとよくお話してるよね」
 この日最後に返されたテストは英語。例のごとく教師から𠮟咤激励の言葉を受け席へ帰った梓を見て、教卓に立つ英語教諭がマチを呼んだ。
 突然声をかけられ驚くマチに、教師は「はぁ」と深いため息を吐いて続ける。
「よかったら宮前さんと一緒に勉強してくれない? 英語だけでもいいから……」
 マチのクラスの英語を担当する教師は、進路指導を担当する教諭だった。そんな先生がマチにわざわざ声をかけたということは、梓のテスト結果は将来を考えると、最大の不安要素になるのだろう。
 一体何点だったのか、マチは興味が湧く。だが教室中から聞こえてきた「くすくす」という笑い声を耳にすると、その興味を打ち払うように首を振った。
「よろしくお願いしていいかしら?」
 梓の耳には周りの笑い声が聞こえていないのか、平然とした表情でマチを見る。心臓に毛が生えている、とはこういうことかと。マチは苦い笑いを浮かべた。
 それからしばらくの期間。放課後、教室で二人勉強をすることとなった。正直マチは、この時間がおいしいと思い、ガッツポーズを作った。
 梓とお昼を共にして以来、彼女と話す時間は明らかに増した。大体が授業の話や学校行事など、些細な会話だ。
 何度も彼女と話をしていくうちにマチは、入学の頃の印象と比べると、梓は周りが思うよりもしっかりと会話ができる子だな、と気づき始めた。
 言葉に棘がある、と思うことは多々あるが、悪意がないのがマチにはわかる。悪意ある子の話し方というのは、言葉に嫌味の感情をふんだんに乗せて、卑しい笑みを浮かべて話すのだ。中学の頃のいじめの経験をしたマチには、その違いがよく理解できた。
 梓にはその色が一切乗っていない。スラリと嫌味なく言ってのけるのは、やはり人と感性がずれているからだろう。こういう性格の子だと理解すれば、付き合う上で問題はなかった。
 教師には「英語だけでも」と言われていたが、マチは梓に他の教科も教えた。自身は家が近くだし多少遅く帰っても問題はない。梓も大丈夫だというので、それじゃあ他の教科もやってみよう、となった。
「藤並さんは、」
 何回目かの放課後時間の際。梓がぽつりと声を零した。昼食を食べる時もそうだが、彼女は一つのことに集中し始めると、そればかりに気をやる。なので作業が始まれば無駄な会話は生まれないのだが、この日は珍しく、勉強の質問以外の問いがマチに投げかけられた。
「どうして、ワタクシに親切にしてくださるのかしら?」
「ん? どういうこと?」
 彼女の机の傍に自分の椅子を寄せ、数学をしていた時だ。難しい問題は公式に当てはめて解けば良いと教えると、彼女は難なく問題を解いていた。教師が頭を抱える成績を収めたとは思えない、素晴らしい理解力だった。
 ペンを置いて梓に問い返せば、彼女は依然冷静な表情で続ける。
「このクラスには、ワタクシをよく思わない方が多数いらっしゃいます」
「き、気づいてたの?」
「そんなワタクシに、こうして尽くしてくださっても何の得もありませんでしょ?」
 なのにどうして、と訊ねる彼女の声色にも目色にも、何の感情も乗っていない。毅然とした表情で問われ、反対にマチが答えに困り狼狽えた。
「どうして、と言われてもなぁ……。宮前さんが、寂しい思いしてたらヤダなって思っただけだよ」
 ワタクシが? と首を傾げる梓。うん、と頷きながら、マチは少し照れて頬を掻く。
「私、中学の頃いじめられてたんだ。それがおさまってもトラウマで、学校行くこともだんだん憂鬱になっていって。でもね、私のことを守ってくれる優しい味方がいてくれたおかげで、いじめのことなんて徐々に気にならなくなったの」
 だからね、と滲み出すように笑顔を浮かべてマチは続ける。
「宮前さんがもし、クラスのみんなに避けられて学校行きたくないなとか、思ったりするのが私、嫌だなって思った。学校行きたくないって思う気持ちは、しんどいからね」
 朝起きて制服に着替えて、朝食を食べて靴を履いて玄関の扉を押し開ける瞬間。
 手に力が入らなくなる。ああ、今日は一体、何がなくなっているのだろう。大事なものがなくなっていなければいいけど、と。一度経験した恐怖や不安は、そう簡単に消えない。
 けれどマチには味方がいた。強くて優しい、綺羅というヒーローだ。
 彼女が朝、扉を開けられないマチの代わりに外側から扉を引き開けてくれた。さぁ学校へ行こう、と笑って手を引いてくれた。
 もし宮前梓が過去の自分のような気持ちを、ポーカーフェイスの裏側に隠しているのなら。そう思うとマチは行動せずにはいられなかった。ただの自己満足だ。
「もし鬱陶しかったらごめんね」
 苦笑いを浮かべれば、梓は僅かに目を細めてマチを見た。そこから会話が発展することはなく、彼女は数学の続きを始める。
 変なことを言ってしまったか、と焦ったマチだったが、ちょうどその時。スマホの着信が鳴った。自分の席へと戻り、鞄から鳴り続けるスマホを取り出す。着信相手は、マチの母親だった。
 もしもし、と。普段通り母親と接する声色で応対した。
 すると自分の落ち着いた感情とは真逆の感情が、電話越しに伝わる。焦った彼女の声は、すぐ傍にいた梓の耳にも届いていた。



 放課後の勉強を切り上げ、マチは息を切らしながら近くの病院へ駆けつけた。案内された病室のベッドの近くに、一人年配の女性がいる。マチの顔を見ると「ああ、マチちゃん」と憔悴しきっていた顔を僅かに綻ばせた。
 彼女が座る傍のベッドに、傷だらけの綺羅が寝かされている。包帯の巻かれた額、口端から滲んでいる血の痕。消毒液が塗られているのがわかる切り傷など。夥しい傷が、眠る彼女の体に生々しく刻まれていた。
「ごめんねマチちゃん、学校忙しかったでしょ」
 そう言って一つ息を吐くのは、綺羅の母親だ。マチの母親は、彼女から状況を聞いて、急いでマチにも連絡を寄越したのである。
 今日の夕方。朝から出かけていた綺羅が、商店街の路地裏で意識を失った状態で倒れているのが見つかった。辺りには匂いが充満する程の血が流れていて、一時綺羅の容体は最悪な状況に陥ったという。救急車で運ばれ処置をされたが、体の損傷が激しく絶対安静を余儀なくされている。
「さっき少しだけ起きたのよ」
 やや下睫毛に涙を溜める綺羅の母親は、野蛮な娘とは違い落ち着いた声で言葉を紡ぐ。それでもやはり、動揺はしている。膝の上で握られた手は、震えていた。
「……昔の縁、ですって。それだけ言って、また寝ちゃった」
 彼女の言葉を聞いた途端、マチはゾッとした。
 同時に体の奥から言い知れぬ苛立ちが生まれる。グッと頬の内側から肉を、奥歯で噛んだ。
 昔の縁と聞いてマチは真っ先に「初島だ」と思った。記憶の片隅に追いやっていた記憶を、ずるずると手繰り寄せる。
 初島、というのは綺羅と犬猿の仲だった、不良女だ。綺羅と同様、中学から喧嘩ばかりして教師を泣かせていた非行少女である。
 綺羅とも何度も殴り合いをしていたが、結果はいつも綺羅の圧勝。初島は傷だらけで動けなくなり、不良仲間に担がれ逃げ帰っていた。
 綺羅と違い群れる連中で、常に初島は傍に誰かを連れて歩いている。相手を見つけて殴りかかり金を集る時でさえ、初島は一人では行動しなかった。綺羅はそのやり方が嫌いで、いつも初島を見つけては油を売って喧嘩をしていた。
 でもどうしてだろう、とマチは疑問に思う。綺羅にとって昔の縁、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは初島の名前なのに、初島は綺羅よりも弱い存在だ。複数の群れで殴りかかられても、殴りや蹴りが綺羅より勝る人間は連中には一人もいなかった。
 なのに何故、綺羅はこれほどまでに怪我を負う羽目になったのだろう。
「……殴らなかったんだろうね」
 綺羅の母親がぼそりと零す。え、とマチが声を返せば、少しだけ可笑しそうに、彼女は綺羅の眠る顔を見て言った。
「最近、喧嘩とか、悪さすることに飽きたみたい。この前もコンビニのバイト辞めて、就職するんだって言ってたからさ……」
〝もう喧嘩できないね〟
 バイトを辞めて就職するのだと言った綺羅に、マチはそう言った。
 ああそうだ、そう言ったのだと、思い出して口に震える手をあてる。
 社会人になるということは、大人になるということ。そう思って、今までのように野蛮な喧嘩はできないね、と、マチが応援の意味も込めてかけた言葉だった。
 そのせいで綺羅はこんな目にあったのだ。マチは自分の言葉を後悔した。
 社会人になろうとも、相手が悪い立場であるなら喧嘩くらいしてもいいじゃないか。なぜ自分は彼女に、あんなことを言ってしまったのだろう。
 胸が苦しくなり、息がしづらい。涙腺が刺激され、目が痛くなる。同時に初島への怒りの感情が、マグマとなって沸いた。
「あら?」
 後悔で肩を震わすマチには気づかず、綺羅の母親は病室の窓の方をチラリと見た。陽は沈み、夜が目の前に迫っている。庭に植えられた大きな木の隙間から、星の光が僅かに覗いていた。
「今、木の上に何かいたかしら?」
 そう言って窓際に寄る。マチもそのあとに続き、未だに湿っている目で外の木を見た。
 大きな木の上には、当然何もない。この病室は五階だ。猫ですら上ってくるには勇気がいるだろう。



 真っ黒な長髪を靡かせながら、少女は軽やかに地面へ着地する。
 まるで鳥の羽が宙を舞っただけの感覚。物音一つ立てずにその場で姿勢を正すと、今さっきまでいた場所を見上げる。
 病院の中庭に植えられた木の、最も高い位置。階数で言い表すと五階程度の高さである。
 少女はそこから、顔色を変えることなく一息に飛び降りた。恐怖など微塵も表情からではうかがえない。真っ白な紙を貼り付けたような無表情で、木が面した病室の窓を見つめる。
「……」
 しばらく部屋から漏れる灯りを凝視してから、少女は踵を返しその場を去った。



 翌日学校へ行けば、綺羅が入院しているという情報が学校中に飛び交っていた。綺羅という不良は、近辺の同学年からすれば有名人だったのだ。
「マチ、綺羅ちゃん大丈夫なの?」
 同じ中学出身の友人が、マチの姿を見るたびに声をかけた。綺羅とマチが未だに仲良くやっていることは周知なので当然の反応だ。
 声をかけてくれた彼女たちは心配げに表情を歪めているが、目の色が好奇心で染められていて、マチの感情を逆撫でする。彼女らは綺羅のことなど、本当に心配などしていない。
 だって綺羅と話をしたことなど一回もない。ただの野次馬精神なのだ。
 不快な感情が、口をついて飛び出しそうになる。それを必死に飲み込んで「大丈夫だよ」とマチが笑顔を取り繕って答えれば、彼女たちは「心配だね」と言葉では言っていた。だがそこから彼女たちの気持ちを読み取ることはできなかった。
 教室へ行き自分の席につくと、隣の梓はすでに登校しており、一時間目の教科書を開いて予習しているところだった。マチはそんな彼女に「昨日はごめんね」と苦く笑いかける。
「勉強してたのに、途中で抜けちゃって、」
「弱さ故の結果ですわ」
 突然吐かれた言葉。
 それは水面を波打つように、教室の隅々まで広がり渡った。
 ありとあらゆる音が、彼女の紡いだ言葉に呑まれ、消えてなくなる。
「……え」
 やっとの思いでマチはそう零す。嫌な汗が滲んでいるマチの表情を、梓は振り向きもしない。
「今学校中で話題の女性、お知り合いなのですね。病院送りにされてしまったとか」
「それが、なに?」
 マチの声が尖った。梓に対して今まで、暴力的な声色を使ったことはない。マチの握る拳が、フルフルと震える。
「アナタのお知り合いは弱かっただけです。弱い者は痛めつけられて当然なのです。ですから、アナタがそれほど気を病む必要はないと、」
「何それ」
 マチは梓の言葉を遮った。肩に背負っていたリュックを、床に落とす。震える声を必死で喉の奥から引っ張り出し、腹から湧き上がる感情を声に乗せて、同時に梓を睨んだ。
「綺羅ちゃんが悪いって言うの? 殴られて蹴られた、綺羅ちゃんが悪いっていうわけ?」
 感情が膨れ上がる。クラスメイトが数人、教室を飛び出してどこかへ駆けて行く。
 マチに怒りの感情をぶつけられても、梓は冷静だった。普通に瞬きを数回繰り返し、そしてゆっくりとマチを振り返る。
 真っ黒な眼。何も映し出さない瞳。マチの姿さえ、見ているようで見ていない。
 そんな目つきをしている。感情の乗らない、気色悪い眼に見られ、マチは一瞬怯んだ。
 だがここで怖気づいてしまえば、大事な友人を見捨てたも当然だと思い堪える。綺羅は弱くない。悪くないのだと、心の中で何度も叫ぶ。
「弱いからいけないのです」
 ピシャンと。
 梓は言い放った。
 瞬間、マチは自身の体が爆ぜたのを感じた。バンっと音が鳴り、脳内でプチと線が切れた音が鼓膜の奥で響いた。
 クラスメイトの誰かが、梓を非難する声を上げている。けれどマチの耳には何と言っているのか聞こえない。梓に関しては、すでに教科書に視線を戻している。
 ……ああ、化け物だ。心のない、醜い化け物だ。
 人の気持ちなんて、全く知ろうとしない。鋭利な刃で心臓を八つ裂きにされた痛みなど、わかるわけがないのだろう。
 マチは口を吐いて出そうになった言葉を、唇を噛んで耐えた。
 自分にはまだ、良心がある。そう言い聞かせ、必死に堪える。
 そしてそのまま踵を返すと教室を飛び出した。教師が一人、教室の傍にまで来ていたが、無視してマチは校舎を出て行った。



 河川敷の高架下が初島たちのたまり場だ。
 特に何をするでもないのに、集まって馬鹿笑いして、暇つぶしに繁華街に出て弱者から金を奪う。それが学校へも行かない彼女たちの日々の過ごし方だった。
 マチはコンクリートの壁に隠れながら、煙草を蒸かして話をしている彼女らを見ていた。二人いる。その中に初島の姿はない。
 マチの記憶が正しければ、何度か街で初島の姿を見たことがあった。鋭い一重の目つきが印象に残っている。
 今日は来ない日なのか、と胸の前で指を組み様子をうかがっていた。前にばかり集中していたせいで、背後から寄る気配に、マチは気づいていなかった。
 ざり、と草むらを踏む音が響く。慌てて振り返ったマチだが、遅かった。
 肩を突き飛ばされ、砂利と草ばかりの地面に転がる。きゃ、という短い悲鳴を上げた。煙草を吸っていた二人もマチの声を振り返る。
「何アンタ、誰?」
 体を起こし座り込んだマチだったが、顔を上げる寸前で背後に立っていた女がマチの髪を掴む。グイと無理矢理引っ張り上げられ、頭皮から全て抜き取られると思うほどの威力に、うっすら涙が滲んだ。
 マチの髪を掴む、一重の女は初島だった。傷一つない顔で、怪訝そうにマチを睨んでいる。だがしばらくマチの顔を見てから、何か思いだしように「あ」と声を上げた。
「ああ、アンタ、田邊の連れだろ。見たことあるわ」
 田邊は綺羅の姓だ。その名を聞いて、他の二人もマチに近づく。
「何? 一人で仇でも取りに来たとか?」
「ウケんだけど。喧嘩もしたことないような、傷一つない手でよくやるよね」
 けたけた笑いながら、初島はマチの掴んだ髪を乱暴に振るうと、そのまま地面に叩きつけた。無意識に顔を庇い手を突く。その時砂利で手のひらを切り、鋭い痛みが走った。小さく呻きながらも、マチは歯を食いしばって痛みに耐える。
「……謝ってほしくて」
 高架下の風が強く吹き抜ける空間で、マチの小さな声はすぐ吹き飛ばされた。何言ってんの? と初島をはじめ連中が笑って訊く。聞こえないでしょと笑いながら、地面に這いつくばるマチの体を黒いセーラー服の上から踏みつけた。
「綺羅ちゃん、もう喧嘩はしないって、決めてたのに……なのに、あんたたちが綺羅ちゃんを殴ったんでしょ」
「だから何? 気に食わない奴を憂さ晴らしに殴っただけじゃん。昔散々人のことぼこぼこにしときながら、もう喧嘩はしないって。聖人にでもなった気でいんの、腹立つじゃん」
 だから殴ってやった、と。初島はマチの傍でしゃがみ込みながら卑しい笑みを浮かべる。
「喧嘩すると迷惑がかかるって。言って殴られっぱなしになってるあの女、最高に滑稽だったよ!」
「……っ」
「あーそうだ、あんたら仲良しだったらさ、同じ病院に入院させてやるよ。だってアンタ、弱いくせに何しに来たの? 喧嘩もできないお嬢様が、私たちを殴ろうとしたとか?」
 違うでしょ、と手近にあった錆びた鉄パイプを手に取る初島。
 途端、マチは顔面を蒼白にさせた。
 ある程度の傷は覚悟していた。感情に急かされ、大好きな綺羅を傷めつけた彼女たちが許せなくて、改心させたい気持ちで走ってやってきた。
 だがいざ鉄パイプを目の前で振り上げられると、体が竦み、その痛みを想像して恐れおののいてしまう。ああ、嫌だ、と心の中で呟きながら、キュッと目を閉じる。
〝弱いからいけないのです〟
 教室を出る直前。梓に言われた言葉が耳の奥に蘇る。
 悔しいが、その通りだ。弱い自分では、綺羅のためになることは何一つないのだ。
(私が、馬鹿だったんだ……!)
 心の中で呟き、マチは体に強く力を込める。
 それを見計らったように、初島は振り上げた鉄パイプを振り落とした。
「ぎゃ!」
 短い悲鳴が辺りに響く。
 それは身に鉄パイプを叩きつけられた、マチのものではない。初島が振り下ろした鉄パイプは、マチの体に当る寸前、宙で止まっていた。
 二人して声の方を振り返る。そこに居たはずの、初島の連れ二人の姿がない。あれ、と思いよく見れば、二人とも地面の上に倒れ込み、意識を失っていた。
「はぁ? 何してんだよお前ら、」
「なるほど」
 倒れ込む二人に吠える初島の声に、もう一つの声が重なる。大人びた、落ち着いた声色にマチはハッとして顔を上げた。
 高架下に入る寸前の位置に、一人少女が立っていた。
 腕を組み、指先を顎に乗せ、何か思案する表情。黒いセーラー服に白いスカーフ。
 長い艶やかな髪は辺りに巻き起こる風に吹かれ、靡いている。
 マチは唖然とした。この場所に不釣り合いな存在が、飄々とした様子で立ち尽くしていた。
 間違うことのない。美しく背筋を伸ばして立つその姿は、クラスメイトの宮前梓だ。
 梓の存在に気づくと、初島は「は?」と眉を顰めて彼女を睨む。手にした鉄パイプで自身の肩を軽く叩いていた。
「何アンタ、こいつの連れ?」
「そちらの方にご親切にして頂いている、ただのクラスメイトですわ」
「喋り方笑うんだけど。もしかしてお嬢様なの? こんな野蛮なとこ来て、親泣く羽目になるかもよ?」
 そう言って梓を脅す初島だが、梓は顔色一つ変えない。ただずっと顎に指先を当てて、何かを思案している。
 そうですか、あら、そうですの、と。頻りにお嬢様言葉を繰り返して何か考えているようだった。
「ワタクシはてっきり、俗世には何事にも〝ルール〟というものが存在すると思っていたのですが、アナタがお持ちのその鉄パイプ。それは喧嘩をする上で必要なものだと、ルールブックに記載されておりますの?」
「はぁ? 何言ってんの。頭お花畑かよ。喧嘩するのにルールなんてねぇよ。憂さ晴らしに殴って蹴って、相手が動かなくなればこっちの勝ちなんだよ」
 それだけだよ! と言って初島は梓のもとに駆け出した。鉄パイプが振り上げられたのを見て、マチは「危ない!」と声を上げる。いくら世間知らずとはいえ、武器を持つ不良が危険な存在であるということは知っておくべきだ。
 マチの悲痛な忠告の声も虚しく、梓は特に恐れることもなくその場にとどまり続けた。振り上げられた鉄パイプが頭上に迫ってもなお、彼女は「あら、そうですの」と落ち着いた声で言っただけだった。
「……なるほど、それは良いルール〝だな〟」
 初島が鉄パイプを梓に叩きつける。ドスンと言う鈍い音が辺りに鳴った。
 だが初島は、手に伝わった感触に違和感を覚える。はぁ? と眉間に皺を寄せるまで、彼女は確かに、梓を殴ったと思っていた。
 だがいざ冷静になり叩きつけた場を見ると、誰もいない。ただ地面の土を抉っただけの痕が残っている。仰天し瞠目した彼女は、次の瞬間、背後から来た衝撃に勢いよく弾かれ、目の前へ吹っ飛んだ。
「……っ!」
 悲鳴を上げる暇もなく、次の一撃がうつ伏せで横たわる体の脇に入る。鋭い痛みに、ようやく呻き声が上がった。
「てめぇ、何して、」
 咳き込みながら初島が衝撃の方を向く。そこには片足をやや宙に浮かせ、静止する梓の姿があった。
 マチは少し離れた位置から、その一部始終を見ていた。あまりの速さに息をすることも忘れ、ようやく深く息を吸い込む。
 鉄パイプを振り下ろした初島だったが、梓はそれを難なくかわし、初島の背後に回った。そして狼狽える彼女の背を、さほど力も入れずに片脚で蹴り飛ばしたのだ。
 さらに吹っ飛んでいきうつ伏せになった初島の元まで涼しい顔で近寄ると、脇に鋭い蹴りを入れる。この間、一分もしないほどの速さだった。
 未だ咳き込む初島だが、梓はその姿にさほど同情もせず、革靴の履いた足で背中を踏みつける。グッと踏み込む力を強めれば、その圧力に初島が「ぐええ」と声を漏らした。
「ちょうどよかったよ。縛りがない方が、オレの性分にも合う」
 それは、梓の口から出た言葉だった。
 マチは驚き口を張ったまま固まる。口調が明らかに別人だ。いつものお嬢様言葉がどこにもない。
「君らのそれは、確か何と言ったかな……ああそう、フリースタイルってやつか」
「はぁ? 何だよてめ! 足退かせ!」
 僅かに梓が、初島を踏む力を緩めた。それを見逃さず、すかさず起き上がると、手近に落としていたパイプを拾い上げる。そして目の前の梓に殴りかかろうとして、
 ――すでにそこに梓はいなかった。
 ハッと息をのんだ瞬間。初島は自分の首筋に、人の手があることに気づく。目だけで背後を振り返れば、肩にマチを抱える梓が立っていた。
 マチは二人より離れた位置で蹲っていたにもかかわらず、梓は初島の目を盗んだ一瞬で担ぎ上げて戻ってきた。
「……すっかり忘れてしまっていたが。俗世の女は、こんな粗野な話し方はしないんだよなぁ。こういう時、何て言えばよかったか……」
 背後から初島の首筋に手を添え、うーん、と唸る梓。初島は額に汗を滲ませ、振り返りざまにパイプを振るう隙を狙う。だが梓が「ああそうだ」と声を上げ、叶わなかった。
「〝ごきげんよう〟」
 初島の首筋に、梓の華奢な手がトス、と打ち込まれる。
 鮮やかな手刀だった。衝撃を食らった初島は声すら上げず、その場に倒れ込んだ。
 マチは梓に抱え上げられながら、途中から状況の把握のために頭を回すことをやめた。やめた、というより、無理矢理やめさせられたように、緊張と混乱で途中から意識が混濁していったのだった。



〝いいか梓。お前には一族の代表として、身につけるべき技術がある。
 それは並みの人間が会得できるものではない。故にお前には、俗世の生ぬるい生き方をまず捨てさせる。
 自分の身は自分で守れ。それはお前が女であっても変わらない。この血を受け継いだ者の役目はただ、強くなり意志を継いでいくだけのこと。
 常に自分に危害が及ぶ可能性を予測しろ。背後には当然、何人たりとも立たせるな。いつどこから命を狙われているかわからない。緊張感は持ち続けろ。
 敵意のぶつけ方は、何も凶器や力だけではないことも知っておけ。食事に毒を混ぜられることもある。解毒の体質を身につけるのも当然だ。会得できるまでは極力、他人から与えられたものは食べるべきではない。それは実の母親相手でもそうだ。信じられるのは、お前自身だ。
 欲を持たず、質素に自分の力を磨くためだけに生きろ。自我はいずれ自分を殺すはめになる。
 心は殺せ。感情に左右される弱い自分自身が最大の敵だ。身につけるのは人を殺める技だけで良い。
 人並みの生活など、二の次でいい〟



 ふと目を覚ますと、マチは髪の長い女に背負われていた。陽は沈み辺りは夜に染まっている。
「目が覚めたかしら」
 突然声がかけられ驚き「わっ」と声を漏らすと、体勢が崩れる。後に背を反らして落ちる寸前だったが、マチを背負う梓が自身の体勢を調整して、それを防いだ。
 先までのことを、マチは頭を回転させて思い出す。初島のもとに行き目撃した場面は衝撃的で、思いの外すぐに思い出せた。
 なにより鮮明に覚えているのが、梓の声である。普段聞いているお嬢様言葉が完全に抜けた、荒っぽい喋り方。思い出すだけでマチはまた頭が混乱しそうだ。
「あの、宮前さん……あなたは一体……」
 マチは彼女に背負われどこかへ向かっている最中、率直に訊ねた。寡黙で謎多き彼女が、簡単に答えてくれるとは思わなかったが、それでも訊かずにはいられなかった。
 初島を蹴り上げた足捌きに、首筋に打ち込んだ素早い手刀。
 普通の人間ができることではない。それともお嬢様育ちの彼女の傍には、護身術を教えるトレーナーのような存在がいるのだろうか。
 沸き上がる疑問を解消すべく考えていると、歩みを進めながら梓はゆっくりと口を開いてくれた。
「……信じてもらえるかわかりませんが、ワタクシの生家は何百年も前から続く、忍びの一族です」
 忍び、と聞き慣れない言葉に目を瞬く。
「課せられた任務にだけ責任を持ち、戦い生き抜く技術を受け継いでいく。それを繰り返して来た、由緒ある一族ですわ」
 そうなんだ、とマチはどこか異国の物語を聞く面持ちで話を聞く。まるで時代劇の話だ。これが現代の話なのか、理解できない。
「ワタクシはアナタに、言いましたわよね」
「え?」
「アナタのお知り合いが傷つけられた時、それはアナタのお知り合いが弱いから故に訪れた結果であると」
 思い出す。そうだ、そう言われ悔しくて頭に血が上り、マチは感情に急かされ初島のもとに駆けた。途端、梓に背負われているのが居心地悪くなる。
「ワタクシは、そうやって今まで教えられてきたのです。弱者が虐げられ死んでいく。そんな世を生き残るためには強くならねばいけないと」
「……」
「心は捨てて、強さだけに磨きをかける。この歳になるまで過酷な殺し技術を叩きこまれ、碌に俗世のことなど知りもしない。ワタクシを指導した者はみんな男ばかりで、女の自分がどうやって言葉を操るのが普通なのかさえ、知りませんでしたわ」
 学校での出来事。運動神経が良いのに勉強ができず、人間関係を築くことは壊滅的に下手な梓だ。彼女の語る話が、不思議とマチの腑に落ち始めている。心のない化け物のような振る舞いをするわけは、クラスメイトの誰もが知らない、彼女の生い立ちが答えだった。
「弱き者は傷ついて当然、死んで当然なのです。そうなりたくないなら強くなれと体に叩きこまれてきて、出来上がったのがワタクシです。……でも今日は、何故かそれが〝おかしい〟と思ってしまいましたの」
 おかしい? と背後から訊ねるマチ。梓の顔は、後ろからでは見えない。けれどマチには梓が、普段と変わらない澄ました顔で話しているのが想像できた。
「アナタが教室を飛び出しクラスの方々がざわめき出したのを聞いて、アナタの後を追いましたの」
「そうだったんだ……」
「そこでアナタが、先ほどの女性に暴力を振るわれそうになるのを見た時『弱いから』だとは、思いませんでしたわ」
 スッと梓は息を吸い込む。辺りの景色は、マチの見慣れたものに変わりつつあった。
「……なんか、癪に障った」
 気がする、と。
 ぼそりと呟かれた言葉は、普段通りの梓のものではない。素の言葉だった。
 マチはそれを聞いた途端、彼女の肩へ乗せていた手に力が入った。次第に涙腺が緩みはじめ、湿る目元から涙が零れないよう、唇を噛んで耐えた。
 宮前梓の話す生い立ちが全て事実なのだとすれば、それはマチが計り知れないほどの過酷なものであり、壮絶だ。
 平和を謳うこの時代で、未だ戦場に赴くために磨かれていた技術を学んでいる。いや、学ばされているのかもしれない。
 何のために学ぶのか、何に使うのか、今後それが役に立つかもわからないというのに。梓は生まれてから俗世と引き離され、身に嫌と言うほど多くの切り傷や痣を作り、技を叩きこまれてきた。
 自分の平凡な生い立ちなんかとは比べ物にならない。ずっと血が滲む経験をしていて苦しかっただろうに、おそらく『苦しい』と思う感情すら知らなかったのだろう。それは忍びとして課せられた任を全うする上で、必要ないものだったから。人の心を傷つけても平然としていられる梓の神経が、やっと理解できた。
 そんな彼女が、マチが傷つけられそうになるのを見て「癪に障った」と言った。マチはそれが、堪らなく嬉しかった。
 二人で食べた弁当の味や放課後に勉強したこと。ドッジボールで守ってもらったこと、そして初島から自身を救ってくれたこと。
 すべてが一気に、マチの脳裏に蘇る。それはマチの堪えていた涙を一筋だけ、零させた。
 梓はきっと、この先生き辛い人生を歩むだろう。過酷な修行を履修した後、俗世に下りて世間の常識を学ぶことが、今の彼女に課せられた任なのかもしれない。あくまで俗世の日常は、彼女たちの一族にとって重要なことではなかった。
 それが追々、梓の人生を今にも沈みそうなボロ船にしようとも。戦いに必要ないものなど、一族には関係なかったのかもしれない。
 マチはふと夜空を見上げた。頬にできた涙の痕を手の甲で拭い、うん、と一人頷く。
 彼女の味方に、自分がなってあげよう。勉強を教えられ、親切にしてくれる意味すら分かっていなかった彼女のために、マチだけは味方でいてあげようと決意する。
 人の心も知らず感情も面に出さず、それが当然のように生きるのはおかしい。弁当を無心で食べる梓の表情に華やかな笑みが浮かぶ日が来れば、と。
 そんな未来を想像して口元を綻ばせた。
「……助けに来てくれてありがとう、宮前さん」
 入学式の日も。鈍間で転びそうなマチを助けてくれたのは彼女だった。今日もそうだ。綺羅を思い、駆け出したマチを追いかけてやってきてくれたのは、宮前梓だけだった。
 マチが突然そう言うと、梓は目だけで背後を振り返る。黒曜石のような黒々とした目を見て笑いかけるが、梓からマチへ笑顔を返されることはない。二人で笑い合う未来は、まだまだずっと先のことだろう。
「ところで、そのお嬢様口調はどこから仕入れたの? 今までずっと男っぽい喋り方だったんでしょ?」
「祖母が嫁入りの際に持ってきた、当時の漫画情報ですわ。確か舞台が、大昔の海外の……ヴェルサ……何と言ったかしら?」
「なるほどね……」
 考え込む梓の後ろ、やや呆れたようにため息を吐くマチ。もう少し今どきの情報を仕入れておけば日常生活もしやすかっただろうに。争うこと以外に全く学のない、脳筋というやつか。これも後々、マチが直していこうと密かに決める。
「マチィィィィ!」
 と、その時遠くから声が聞こえた。気づけば二人は、マチの自宅近所まで辿り着いていた。
 顔を上げたマチは、前方から手を振り走ってくる人を見て、表情を綻ばせた。まだ頭や腕に包帯を巻いている、金髪の少女だ。病院を抜け出してきたのか、彼女は入院患者用のパジャマ姿で駆けている。
「綺羅ちゃんだ! 起きたんだ!」
「あの方、走っても大丈夫なのかしら?」
 脇目も振らず駆けてくる綺羅を見ながら、梓が呟く。
 マチはその時、綺羅に梓のことを紹介しようと思った。話題にはよく出していたが、実際に顔を見合って話すのは今日が当然初めてになる。
 そう思うと胸が無性にむず痒くなっていく。何と言って彼女のことを紹介しよう。綺羅がやってくるまで、緊張と楽しみで渦巻く感情の中、マチは言葉を探して並べた。
〝彼女の名前は宮前梓。
 世間知らずで肝が据わっているが、とても強くてかっこいい、お嬢様です〟
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