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Ⅳ.風雲に滲む気配
33.隠された覚悟
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気まずさと胸がモヤモヤするような疑念がなくならなかった悠里は、夕飯を別でとることにした。逃げていると非難されようとも、顔を合わせて話すのは無理な気がしたのだから、致し方ない。
そして、翌朝。一晩経って、悠里は多少落ち着いた。一方で、いつもと変わらない態度に見える狼泉に、なんとなく不満が募る。いろいろと気にしているのは悠里だけのように思えて、馬鹿みたいだった。
「今日の予定はなんだろうか?」
「……狼泉、部屋の冬支度は終わったの? 昨日はちゃんと眠れた?」
自分の問いかけで、狼泉の部屋の状況を放置してしまったことを思い出し、にわかに心配が湧き上がる。
悠里が上目遣いで窺うと、狼泉は目を細めて口元を綻ばせた。
「ああ、問題ない。心配してくれてありがとう」
「……それなら、いいけど」
悠里は視線を逸らして呟く。
素直に感謝を受け取れない自分がちょっと嫌になる。でも、心に広がったもやもやが、一夜経っても消えてくれないのだから、どうしようもないのだ。
「――今日は、畑仕事をする予定ないし、僕は闇兎たちと遊んでこようと思ってる」
「っ、きゅきゅ!」
もぐもぐと朝ごはんを食べていた闇兎が、ぱぁっと表情を輝かせて悠里を見上げる。そして、全身で喜びを示して抱きついてきたので、悠里は思わず小さく笑ってしまった。
そこまで喜んでもらえると、ただ狼泉と一緒に過ごすのが気まずくて提案しただけなのだとは、口が裂けても言えない。実際、闇兎の素直で好意的な反応を見て、遊ぶのに前向きな気持ちになっているから、嘘は言っていないはずだ。
「……そうか」
狼泉が様子を窺うように、悠里に視線を注いだ。それに気づきながらも、悠里は闇兎を撫でるのに夢中になっているように装う。言語化できない感情を、狼泉に問いただされるのが嫌だった。
「――では、俺は、山の中を散策してこようと思う」
「え……大丈夫?」
悠里の意思を汲んで提案してくれたのだろうが、その内容に驚いてしまう。
山の中には魔獣がたくさんいるのだ。悠里とともに歩いている時は距離をとっている彼らだが、狼泉が一人で山の中を彷徨けば、たちまち襲いかかろうとしかねない。そのことは、狼泉もよく理解しているはずだ。
悠里が目を見開いて凝視すると、狼泉は困った表情で頬を指先でかいた。
「たくさん魔獣がいて、俺にとって山の中が危険なことは分かっている。だが――ずっとここに引きこもっているわけには、いかない」
ひゅっと喉が鳴った。悠里は狼泉を見つめたまま硬直する。何か言いたいのに、何を言えばいいか分からない。口を動かそうにも、音が出なかった。
急に、別れの時を突きつけられた気がした。出会った頃から抱き続けた不安は、「そばにいる」という約束によって薄れたはずだったのに。どうして今さら、狼泉はそんなことを言うのか。
「……ぼ、僕が、悪いの? 昨日から、態度が悪かったから……? 僕と一緒に暮らすの、嫌になっちゃった?」
震える声で尋ねる。伸ばした手で狼泉の腕を掴み、項垂れた。いつものように、狼泉に抱きついて縋る勇気がない。振り払われたり、避けられたりしたら、もう心が砕け散ってしまいそうだった。
「違うっ」
慌てたように否定され、身体中の力が抜けそうなほど安堵する。指先がガクガクと震えた。
そんな悠里の手を、狼泉の大きな手が包み込むように握る。その体温に勇気を得て、悠里は狼泉に抱きついた。
避けることなく、むしろしっかりと力強く抱きとめられて、張り詰めていた心が緩んでいく。
「本当に、違うんだ。悠里は悪くない。ただ、俺が、悠里に頼りきりになっている状態なのが、許せないだけで……」
悠里の側頭部に頬を押し当てながら、狼泉が囁くように言う。その静かな声に痛みが滲んでいるように思えて、悠里はぎゅっと目を瞑った。
どうしてそんなに悲しそうなのか。本当にそれだけが理由なのか。……頼りきりの何が悪いんだ。狼泉がずっとここにいてくれるなら、その状態に問題なんてないだろう。
言いたいことはたくさんあったが、そのほとんどが悠里のわがままなのだとも自覚していた。
狼泉には狼泉の人生があって、それに悠里が干渉することは許されていない。悠里はただの同居人なのだ。いくら親しくなろうと、お互いの間に踏み越えられない境界線があるのは当然だった。
「……国に、帰るわけじゃ、ないの?」
これだけは聞いておきたいと、勇気を振り絞って言葉にする。ずっと避けてきた問いへの答えを待つ時間は、やけに長くて恐ろしい心地がした。
ドクドクと主張する心臓から意識を逸らし、悠里は狼泉に抱きつく力を強める。「帰らないって言って!」という願いごとは、喉の奥で縮こまって出てこなかった。
「悠里……悪い……」
心臓が止まったかと思った。それくらい驚きと悲しみが押し寄せてきたのだ。でも、その心の片隅で『あぁ、やっぱり……』と諦め納得する思いがあったのも事実だった。
悠里が狼泉の将来を尋ねるのを躊躇っていたのは、狼泉が行う選択を予感していたからかもしれない。
「――分からないんだ」
「分からない……?」
悲しみに満ちた声が告げる言葉を、悠里の方こそ理解できなかった。だが、どうやら、悠里が危惧していたような、帰国への強い意志を狼泉が持っているわけではないようだ。
狼泉の顔を見上げると、悲痛に歪んだ瞳が視界に飛び込んでくる。
「――どうして、そんなに、悲しそうなの?」
流れていない涙を拭うように、悠里は狼泉の頬を優しく撫でる。
狼泉が告げた言葉は悠里を傷つけていたが、今はそれを悲しむ以上に、狼泉の苦しみを理解したいという気持ちが強かった。
「悪い……悪い、悠里。俺に優しくしなくていい。俺を許さないでくれ。悠里のためなら、俺はなんだってする。それで、悠里が悲しまないでくれ……」
「狼泉……」
「――……悠里を守るために必要なら、俺は、国に帰る選択だって、する。いつになるかは、分からないが……」
ぎゅっと抱きしめられて、狼泉の顔を窺うことができなくなる。悠里は悲痛な声を聞きながら、狼泉の肩に頬を押し付けて抱きついた。
「……僕のためって言うなら……ずっと、傍にいてほしいよ……」
狼泉の腕の力が強まる。痛いくらいの抱擁に、悠里は唇を噛んで、強く抱きしめ返した。
悠里の願いに、言葉は返ってこない。それが悲しいのに、何も言葉を続けられなかった。受け入れるしかないのだと、心が諦めてしまったのだ。
狼泉が何を考えて、悠里を守るなんて決意と、帰国への意志を抱いたのか分からない。でも、それを実行に移す時が、少しでも遠い未来になることを強く願うしか、悠里にできることはなかった。
そして、翌朝。一晩経って、悠里は多少落ち着いた。一方で、いつもと変わらない態度に見える狼泉に、なんとなく不満が募る。いろいろと気にしているのは悠里だけのように思えて、馬鹿みたいだった。
「今日の予定はなんだろうか?」
「……狼泉、部屋の冬支度は終わったの? 昨日はちゃんと眠れた?」
自分の問いかけで、狼泉の部屋の状況を放置してしまったことを思い出し、にわかに心配が湧き上がる。
悠里が上目遣いで窺うと、狼泉は目を細めて口元を綻ばせた。
「ああ、問題ない。心配してくれてありがとう」
「……それなら、いいけど」
悠里は視線を逸らして呟く。
素直に感謝を受け取れない自分がちょっと嫌になる。でも、心に広がったもやもやが、一夜経っても消えてくれないのだから、どうしようもないのだ。
「――今日は、畑仕事をする予定ないし、僕は闇兎たちと遊んでこようと思ってる」
「っ、きゅきゅ!」
もぐもぐと朝ごはんを食べていた闇兎が、ぱぁっと表情を輝かせて悠里を見上げる。そして、全身で喜びを示して抱きついてきたので、悠里は思わず小さく笑ってしまった。
そこまで喜んでもらえると、ただ狼泉と一緒に過ごすのが気まずくて提案しただけなのだとは、口が裂けても言えない。実際、闇兎の素直で好意的な反応を見て、遊ぶのに前向きな気持ちになっているから、嘘は言っていないはずだ。
「……そうか」
狼泉が様子を窺うように、悠里に視線を注いだ。それに気づきながらも、悠里は闇兎を撫でるのに夢中になっているように装う。言語化できない感情を、狼泉に問いただされるのが嫌だった。
「――では、俺は、山の中を散策してこようと思う」
「え……大丈夫?」
悠里の意思を汲んで提案してくれたのだろうが、その内容に驚いてしまう。
山の中には魔獣がたくさんいるのだ。悠里とともに歩いている時は距離をとっている彼らだが、狼泉が一人で山の中を彷徨けば、たちまち襲いかかろうとしかねない。そのことは、狼泉もよく理解しているはずだ。
悠里が目を見開いて凝視すると、狼泉は困った表情で頬を指先でかいた。
「たくさん魔獣がいて、俺にとって山の中が危険なことは分かっている。だが――ずっとここに引きこもっているわけには、いかない」
ひゅっと喉が鳴った。悠里は狼泉を見つめたまま硬直する。何か言いたいのに、何を言えばいいか分からない。口を動かそうにも、音が出なかった。
急に、別れの時を突きつけられた気がした。出会った頃から抱き続けた不安は、「そばにいる」という約束によって薄れたはずだったのに。どうして今さら、狼泉はそんなことを言うのか。
「……ぼ、僕が、悪いの? 昨日から、態度が悪かったから……? 僕と一緒に暮らすの、嫌になっちゃった?」
震える声で尋ねる。伸ばした手で狼泉の腕を掴み、項垂れた。いつものように、狼泉に抱きついて縋る勇気がない。振り払われたり、避けられたりしたら、もう心が砕け散ってしまいそうだった。
「違うっ」
慌てたように否定され、身体中の力が抜けそうなほど安堵する。指先がガクガクと震えた。
そんな悠里の手を、狼泉の大きな手が包み込むように握る。その体温に勇気を得て、悠里は狼泉に抱きついた。
避けることなく、むしろしっかりと力強く抱きとめられて、張り詰めていた心が緩んでいく。
「本当に、違うんだ。悠里は悪くない。ただ、俺が、悠里に頼りきりになっている状態なのが、許せないだけで……」
悠里の側頭部に頬を押し当てながら、狼泉が囁くように言う。その静かな声に痛みが滲んでいるように思えて、悠里はぎゅっと目を瞑った。
どうしてそんなに悲しそうなのか。本当にそれだけが理由なのか。……頼りきりの何が悪いんだ。狼泉がずっとここにいてくれるなら、その状態に問題なんてないだろう。
言いたいことはたくさんあったが、そのほとんどが悠里のわがままなのだとも自覚していた。
狼泉には狼泉の人生があって、それに悠里が干渉することは許されていない。悠里はただの同居人なのだ。いくら親しくなろうと、お互いの間に踏み越えられない境界線があるのは当然だった。
「……国に、帰るわけじゃ、ないの?」
これだけは聞いておきたいと、勇気を振り絞って言葉にする。ずっと避けてきた問いへの答えを待つ時間は、やけに長くて恐ろしい心地がした。
ドクドクと主張する心臓から意識を逸らし、悠里は狼泉に抱きつく力を強める。「帰らないって言って!」という願いごとは、喉の奥で縮こまって出てこなかった。
「悠里……悪い……」
心臓が止まったかと思った。それくらい驚きと悲しみが押し寄せてきたのだ。でも、その心の片隅で『あぁ、やっぱり……』と諦め納得する思いがあったのも事実だった。
悠里が狼泉の将来を尋ねるのを躊躇っていたのは、狼泉が行う選択を予感していたからかもしれない。
「――分からないんだ」
「分からない……?」
悲しみに満ちた声が告げる言葉を、悠里の方こそ理解できなかった。だが、どうやら、悠里が危惧していたような、帰国への強い意志を狼泉が持っているわけではないようだ。
狼泉の顔を見上げると、悲痛に歪んだ瞳が視界に飛び込んでくる。
「――どうして、そんなに、悲しそうなの?」
流れていない涙を拭うように、悠里は狼泉の頬を優しく撫でる。
狼泉が告げた言葉は悠里を傷つけていたが、今はそれを悲しむ以上に、狼泉の苦しみを理解したいという気持ちが強かった。
「悪い……悪い、悠里。俺に優しくしなくていい。俺を許さないでくれ。悠里のためなら、俺はなんだってする。それで、悠里が悲しまないでくれ……」
「狼泉……」
「――……悠里を守るために必要なら、俺は、国に帰る選択だって、する。いつになるかは、分からないが……」
ぎゅっと抱きしめられて、狼泉の顔を窺うことができなくなる。悠里は悲痛な声を聞きながら、狼泉の肩に頬を押し付けて抱きついた。
「……僕のためって言うなら……ずっと、傍にいてほしいよ……」
狼泉の腕の力が強まる。痛いくらいの抱擁に、悠里は唇を噛んで、強く抱きしめ返した。
悠里の願いに、言葉は返ってこない。それが悲しいのに、何も言葉を続けられなかった。受け入れるしかないのだと、心が諦めてしまったのだ。
狼泉が何を考えて、悠里を守るなんて決意と、帰国への意志を抱いたのか分からない。でも、それを実行に移す時が、少しでも遠い未来になることを強く願うしか、悠里にできることはなかった。
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