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第1作 桜の朽木に虫の這うこと
最終話 桜の朽木に虫の這うこと
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桜の森での出来事から一夜が明けた。
ウツロはくだんの洋館アパートの自室で、身支度を整えていた。
はじめにここでもらった服はボロボロになっていたから、新しいもの――やはりスポーツパーカーとジョガージャージだったが――それを身につけた。
隠れ里では着物がほとんどだったから、こういう現代的な衣装はまだしっくりこない。
しかし、真田龍子が用意してくれたものだから、身にまとうのは特別な気分だった。
「ウツロ」
「どうぞ」
真田龍子が入室した。
彼女も例により、桜色のブルゾンとロングスパッツの出で立ちだ。
「ここのリーダー、特生対第二課の朽木支部長……龍崎湊さんだっけ……もう到着したのかな?」
「ああ、もうちょっとかかりそうだね。わたしもそそっかしいけど、あの人は輪をかけてだから」
「もうひとり、ここの住人さんがいるんだよね? その人にもあいさつをしておかないと」
「武田暗学先生のことだね。あのおじさんなら、この時間はまだ寝てると思うよ。黒龍館大学の元・哲学教授なんだけど、いまは引退して自称・三文文士なんだって」
「哲学教授か、気になるね……ぜひ、学問のご教授を……」
「やめといたほうがいいよ? なんていうか、偏屈な人だし。まあ、悪い人じゃないけどさ」
「龍崎さんのほうは、どんな人なのかな?」
「このアパートに事務所をかまえてる弁護士の先生だね。もちろん、『表向き』の話だけど。自宅で仕事をするから、『タクベン』なんて呼ばれるんだ。お酒が大好きで、いっけん頼りないけど、人情には厚い人だから、きっと、ウツロの力になってくれるよ」
「そう、か……よかった。ありがとう、龍子……何から何まで、やってくれて……」
「なーにをいまさら。それに、ウツロはもう、あ……」
「……」
真田龍子は調子に乗って、余計なことを言いかけた。
彼女の顔が一瞬くもったので、ウツロはフォローしようとした。
「いや、いいんだよ、龍子。これから俺が体験することに……これから俺が、歩いていく道のりに比べれば……」
ウツロが配慮をしてくれたことをうれしく思う反面、真田龍子は彼の今後が心配だった。
さしあたってウツロは、特定生活対策室の本部へ送られ、身体検査や聞き取り調査などを受けることになっている。
そのあとは戸籍を――当然、イレギュラーな形式でだが――それを与えられ、彼女らと同じ、朽木市内の名門私立・黒帝高校へ編入する流れだ。
当たり前というか、管理・監督される形で。
つらい目にもきっと、あうだろう。
それに彼が、ウツロが耐えられるだろうか?
そんなことを考えると、真田龍子は胸が締めつけられた。
「龍子」
「え――?」
ウツロが彼女を見つめている。
笑顔だ。
「大丈夫、父さんと兄さんがついてるから。それに……」
「……」
彼は真田龍子をすくい取るように抱きしめた。
このときウツロは初めて、真田龍子への気持ちの正体を理解したのだった。
それは理屈ではなく、感情で。
「龍子」
「ウツロ」
身を寄せあい、唇を重ねる。
何度も何度も、舌を絡ませ合う。
「ん……」
「あ、ふ……」
おりしも風に乗った桜の花びらが窓から入り込んできて渦を作り、二人をやさしく包み込んだ。
これも魔王桜の意思なのか?
それは誰にもわからない。
ただ、その桜の渦は、ウツロと真田龍子の愛をしばし、世界から封印した――
「ウツロ、苦しい……」
「ご、ごめん。キスなんて、その、慣れてないから……」
「これから少しずつ、ね?」
「うん、龍子。で――」
「ん?」
「このあとはどうすればいいのか、不勉強で、その……」
ウツロの顔面に鉄拳が炸裂した。
「なに? このケダモノ! 最低っ! 毒虫じゃなくて、ケダモノだよ!」
「うう、アクタあ……俺はやっぱり、毒虫なんだあ……」
「ぷっ……」
「あはっ、あはは」
二人ははち切れんばかりに、笑いあった。
ウツロが笑っている、こんなに素敵な笑顔で……
真田龍子はそれがうれしくてうれしくて、しかたがなかった。
「ごほんっ……!」
いつの間にか部屋の入り口に、星川雅が苦々しい顔つきで立っていた。
「ノックくらいしたらどうかな?」
ウツロは毅然と、彼女の放つオーラを押しのけた。
「したんだけど。忙しすぎて気づかなかったみたいだね」
星川雅はあからさまに「イライラしています」という態度を表明した。
「お楽しみのところ申し訳ないんだけれど、ウツロ。今後のことについてみんなで話し合うから、ちょっと顔、貸してくれない?」
「かしこまったよ、雅」
ウツロはどこか余裕のある感じだ。
「急に人間っぽくなったじゃん。なんだか生意気」
「君には負けるよ」
星川雅は「一本、取られました」というしぐさをした。
「これから俺は、概念の世界で生きていくことになるんだね」
「そういうことになりますわね」
ウツロは凛として、自分の決心を伝える。
「はめ込めばいい、枷でも、鎖でも。概念がいくら俺を縛りつけようとも、俺は必死であがいてみせる。そして俺は、『人間』になるんだ――!」
ウツロの意志を星川雅は受け取った。
「見届けさせてもらうよ、毒虫のウツロ?」
それだけ言って、彼女は退室した。
ただ、その表情は満足感にあふれていた。
「君も」
「――?」
「見届けてくれ、龍子――!」
真田龍子は頬に流した一筋の涙をぬぐい、とびっきりの笑顔を見せた。
「うんっ!」
彼は、ウツロは矮小な毒虫にすぎないのかもしれない。
だがその毒虫は、確かにいま、這いはじめた――
(了)
ウツロはくだんの洋館アパートの自室で、身支度を整えていた。
はじめにここでもらった服はボロボロになっていたから、新しいもの――やはりスポーツパーカーとジョガージャージだったが――それを身につけた。
隠れ里では着物がほとんどだったから、こういう現代的な衣装はまだしっくりこない。
しかし、真田龍子が用意してくれたものだから、身にまとうのは特別な気分だった。
「ウツロ」
「どうぞ」
真田龍子が入室した。
彼女も例により、桜色のブルゾンとロングスパッツの出で立ちだ。
「ここのリーダー、特生対第二課の朽木支部長……龍崎湊さんだっけ……もう到着したのかな?」
「ああ、もうちょっとかかりそうだね。わたしもそそっかしいけど、あの人は輪をかけてだから」
「もうひとり、ここの住人さんがいるんだよね? その人にもあいさつをしておかないと」
「武田暗学先生のことだね。あのおじさんなら、この時間はまだ寝てると思うよ。黒龍館大学の元・哲学教授なんだけど、いまは引退して自称・三文文士なんだって」
「哲学教授か、気になるね……ぜひ、学問のご教授を……」
「やめといたほうがいいよ? なんていうか、偏屈な人だし。まあ、悪い人じゃないけどさ」
「龍崎さんのほうは、どんな人なのかな?」
「このアパートに事務所をかまえてる弁護士の先生だね。もちろん、『表向き』の話だけど。自宅で仕事をするから、『タクベン』なんて呼ばれるんだ。お酒が大好きで、いっけん頼りないけど、人情には厚い人だから、きっと、ウツロの力になってくれるよ」
「そう、か……よかった。ありがとう、龍子……何から何まで、やってくれて……」
「なーにをいまさら。それに、ウツロはもう、あ……」
「……」
真田龍子は調子に乗って、余計なことを言いかけた。
彼女の顔が一瞬くもったので、ウツロはフォローしようとした。
「いや、いいんだよ、龍子。これから俺が体験することに……これから俺が、歩いていく道のりに比べれば……」
ウツロが配慮をしてくれたことをうれしく思う反面、真田龍子は彼の今後が心配だった。
さしあたってウツロは、特定生活対策室の本部へ送られ、身体検査や聞き取り調査などを受けることになっている。
そのあとは戸籍を――当然、イレギュラーな形式でだが――それを与えられ、彼女らと同じ、朽木市内の名門私立・黒帝高校へ編入する流れだ。
当たり前というか、管理・監督される形で。
つらい目にもきっと、あうだろう。
それに彼が、ウツロが耐えられるだろうか?
そんなことを考えると、真田龍子は胸が締めつけられた。
「龍子」
「え――?」
ウツロが彼女を見つめている。
笑顔だ。
「大丈夫、父さんと兄さんがついてるから。それに……」
「……」
彼は真田龍子をすくい取るように抱きしめた。
このときウツロは初めて、真田龍子への気持ちの正体を理解したのだった。
それは理屈ではなく、感情で。
「龍子」
「ウツロ」
身を寄せあい、唇を重ねる。
何度も何度も、舌を絡ませ合う。
「ん……」
「あ、ふ……」
おりしも風に乗った桜の花びらが窓から入り込んできて渦を作り、二人をやさしく包み込んだ。
これも魔王桜の意思なのか?
それは誰にもわからない。
ただ、その桜の渦は、ウツロと真田龍子の愛をしばし、世界から封印した――
「ウツロ、苦しい……」
「ご、ごめん。キスなんて、その、慣れてないから……」
「これから少しずつ、ね?」
「うん、龍子。で――」
「ん?」
「このあとはどうすればいいのか、不勉強で、その……」
ウツロの顔面に鉄拳が炸裂した。
「なに? このケダモノ! 最低っ! 毒虫じゃなくて、ケダモノだよ!」
「うう、アクタあ……俺はやっぱり、毒虫なんだあ……」
「ぷっ……」
「あはっ、あはは」
二人ははち切れんばかりに、笑いあった。
ウツロが笑っている、こんなに素敵な笑顔で……
真田龍子はそれがうれしくてうれしくて、しかたがなかった。
「ごほんっ……!」
いつの間にか部屋の入り口に、星川雅が苦々しい顔つきで立っていた。
「ノックくらいしたらどうかな?」
ウツロは毅然と、彼女の放つオーラを押しのけた。
「したんだけど。忙しすぎて気づかなかったみたいだね」
星川雅はあからさまに「イライラしています」という態度を表明した。
「お楽しみのところ申し訳ないんだけれど、ウツロ。今後のことについてみんなで話し合うから、ちょっと顔、貸してくれない?」
「かしこまったよ、雅」
ウツロはどこか余裕のある感じだ。
「急に人間っぽくなったじゃん。なんだか生意気」
「君には負けるよ」
星川雅は「一本、取られました」というしぐさをした。
「これから俺は、概念の世界で生きていくことになるんだね」
「そういうことになりますわね」
ウツロは凛として、自分の決心を伝える。
「はめ込めばいい、枷でも、鎖でも。概念がいくら俺を縛りつけようとも、俺は必死であがいてみせる。そして俺は、『人間』になるんだ――!」
ウツロの意志を星川雅は受け取った。
「見届けさせてもらうよ、毒虫のウツロ?」
それだけ言って、彼女は退室した。
ただ、その表情は満足感にあふれていた。
「君も」
「――?」
「見届けてくれ、龍子――!」
真田龍子は頬に流した一筋の涙をぬぐい、とびっきりの笑顔を見せた。
「うんっ!」
彼は、ウツロは矮小な毒虫にすぎないのかもしれない。
だがその毒虫は、確かにいま、這いはじめた――
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