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泣かないで愛しいひと 7
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高校に入ってから、陽太は少しだけ忙しくなった。進学クラスに入っているらしく、朝は早くから夕方遅くまで補講がある。和成も大学には進学したが、ほとんど劇団での実績の上での推薦枠だったので、そんなに勉強をした覚えはない。高校時代から、舞台の稽古と、誰か抱いてくれる男との間を彷徨っていた記憶しかなかった。
どちらかと言えば活発な陽太だが、部活に入っているという話は、中学でも聞いたことがなかった。母子家庭で母親が忙しく、部活の送り迎えに母親が駆り出されることもあるというので、中学は部活に入らなかったと言っていたような気はする。
「陽太は、部活には入らないの?」
「入らんよ」
「……理由を聞いてもいい?」
陽太が高校に入る前に身体の関係を持ってから、和成は陽太を呼び捨てにするようになった。まだ慣れないけれど、呼び捨てにするたびに距離が縮まったようで、くすぐったそうに笑う陽太が眩しくて可愛くてたまらない。
愛おしいと思う感情には、きりがないのだと、この六年で思い知った。
「スポーツ、嫌いやないけど、特別すきなのもないし……」
「うん、文科系は?」
「別に……っていうか、授業でこんだけ忙しいのに、部活までしよったら、和成さんと会う時間なくなるやん?」
頬を染めて、凛々しく言う姿に、和成はその場に座り込みそうになった。ようやく160センチに身長が届きそうな小柄で華奢な恋人は、こんなにも和成のことを考えて大事にしてくれる。
これまでどこに捨ててきたのかも分からない男運は、陽太に会うためだったのかと思えば、全てが水に流せる気がした。
「キスしてもいい?」
「宿題は終わった?」
「ん、終わった」
リビングのソファに二人並んで座って、和成は台本を読んでいて、陽太はローテーブルに教科書や電子辞書を広げて宿題をしていた。家と和成の部屋を行ったり来たりするので、国語辞典に漢和辞典、英和辞典に古語辞典……高校生が使う辞書を全部持ち歩くというのはとても無理だが、宿題をしないでは和成の部屋への出入りが禁止されてしまうかもしれない。そう説得して、和成は陽太の高校の入学祝と称して、大学やその後でも使えるようにちゃんとした電子辞書を買わせてもらった。
実質、付き合い始めてから和成が陽太のために財布を開いたのは初めてで、それも母親の美月からお礼の電話がかかってくるほど感謝されてしまった。
身体だけの都合のいい関係で、金づるで。今までの男たちが求めたようなことは、陽太は全く求めて来ない。
台本を置いた和成に、陽太がソファから降りて正面に向かい、肩に手を添えてそっと唇を重ねる。優しい口付けは、恭しくすらあった。
何度も唇を小鳥のように啄まれて、我慢のきかない身体が、じんと熱くなってくる。もっと激しく求めて欲しい。押し倒して、和成の欲望を暴いて欲しい。
けれど、どこまでも陽太は紳士的で、したい盛りだろうに、キスを終えると帰り支度を初めてしまった。
「一回だけ、していかない?」
「一回じゃ、済まんけん、だめ! 和成さん、明日、仕事やろ?」
じくじくと奥は陽太を求めて疼くし、前は緩く立ち上がっているしで、キスより先を与えられた今、和成の身体は前よりも抑えが利かなくなっていた。それを陽太の鉄壁の理性が、押し留める。
「少しなら、平気だから。お願い、ちょうだい?」
「ダメ! 俺と付き合ったけん、和成さんの仕事が悪くなったとか言われたら、男の沽券に関わるやん!」
そう言われてしまっては、和成に返す言葉はなかった。実際に、二回目のときにどうしてもと強請って、求め過ぎて、次の日声を枯らして仕事に支障をきたしたことがある。
しかし、そんなことは以前は日常茶飯事だった。かつて、稽古場で声があまり出ない上に熱を出していたことのある和成に、千夏が呆れ顔で「その男と別れるか、劇団辞めるか、考えたらどうです?」とまで言われたことがあった。
そんな風に手酷く陽太が抱くわけがないし、声を枯らしたのは単純に和成の身体が陽太を受け入れることに歓んで、感じ過ぎて止まらなくなって、咽び泣いてしまったからだ。六年間の禁欲の後だから、箍が外れたというのもある。それでも熱も出さなかったし、足腰も立ったのだから、陽太には少しも非はなかったのに、陽太は責任を感じたようだった。
それ以後、身体を繋げるのは、和成と陽太の休みが合う日しか許されなくなった。
「逆なんだけどな……」
「なにが?」
「陽太と付き合って六年、俺、ものすごく評価が上がったんだよ? 全部陽太のおかげだよ」
ご褒美が欲しくて報告すれば、ぽっと嬉しそうに頬を赤らめる陽太の誇らし気な笑顔だけで、満足してしまいそうになる。
「もう一回、キスだけ」
「キスだけね?」
強く引き寄せて、舌を絡める口付けを交わしても、陽太の覚悟は変わらず、その日は荷物を纏めて帰ってしまった。
ベッドで一人、中途半端に昂った身体を持て余して、両腕で自分の身体を抱き締めるが、自分で慰めようという考えも、他の相手のところに行こうという考えも、全く浮かばない。和成が欲しいのは、陽太の熱だけ。それ以外で満足ができない身体に、半年もしないのに、完全に陽太に和成は陥落しきっていた。
シーツに残る以前泊ったときの陽太の香りを嗅いで、目を閉じる。
大事な話があるからと、美月に呼び出されたのは、陽太が高校二年に上がったすぐのときだった。十七歳になった陽太は、身長も体付きもそれほど成長してはおらず、顔立ちもあどけなさを残したままだったが、彼がどれだけ情熱的に和成を抱いてくれるか知っているのは、自分だけ。それが嬉しくもあり、後ろめたくもあった。
呼び出された理由は、まだ大人になり切っていない陽太と身体の関係を持ったことが美月にばれて、別れて欲しいと言われるのかもしれないと、緊張して、芝居以外ではほとんど着たことのないスーツを着て家に向かえば、陽太の姿はなかった。同席出来ないということは、やはり、と和成は身を固くする。
今まで反対されていないことの方がおかしかったのだ。これからは会えなくなるかもしれない。想像するだけで喉の奥がぐっと詰まって、目の奥が熱くなる。
みっともなく泣いて、土下座して、縋っても、許されるはずがない。
「和成さん、急にお呼び立てしてすみません」
「いえ……陽太くんのことですね」
平静を装っても、指先が震えて出されたティーカップに手が付けられなかった。喉がからからに乾いて、声を掠れさせないことに集中するので精一杯になる。自分はちゃんと大人の顔をしているだろうか。穏やかに微笑んでいるだろうか。
「ひなちゃん、進路のこと、和成さんにお話してます?」
「陽太くんの進路、ですか?」
真剣な眼差しの美月に問われて、和成は一瞬、何を言われているか分からなかった。そういえば、和成は演劇系の大学に行くことを最初から決めていたので、進路について悩んだことがない。大学に行くかどうかは悩んだけれど、行った方がいいと団長に言われたし、そっちの方が芝居だけじゃなくて男と遊んでいる時間も作れるだろうと、安易に決めてしまった。
よく考えるまでもなく、陽太には行きたい大学があるわけで、そのために勉強をしているのだ。
「進路のことまでは、気が回ってなくて。すみません」
「いえ。そうなんですね、和成さんにも、言ってないのね」
どうやら、美月の話は陽太と別れて欲しいというのではなく、陽太の進路のことのようだった。どっと緊張が解けて、スーツのジャケットの下で汗が滲んでくる和成に気付かずに、美月は続ける。
「本当は、薬学部に行きたいんです、あの子……でも、六年分学費がかかるからって、私にも言ってくれなくて……。朔也が聞き出してくれたんですけど」
国立大学に行っても、薬学部では六年分の学費がかかってしまう。奨学金を貰ったとしても、卒業後にその返済に困るケースは多々あるという。そのために、陽太は薬学部を諦めて、短大の保健医療学部に行って理学療法士になるという進路を美月には言っているという。
陽太の話を聞けば、父親からの養育費は美月はもらっていない。それで六年陽太を大学に行かせるのは確かに厳しいだろう。
「うちに、お金がないのは事実なんです。でも、朔也も出してくれるって言ってるし……和成さん、お願いです、ひなちゃんと話をしてくれませんか?」
「俺で、いいんですか?」
「和成さんになら、ひなちゃん、お話してくれるかもしれないから」
お願いしますと言われて、和成は了承したものの、どうすればいいか唸ってしまった。
はっきり言って、和成は大学に真面目に通った覚えがない。授業も卒業できるぎりぎりしかとっていない。それも、休みがちで男の家に入り浸って、肉欲に溺れていた。
そんな自分が陽太になにを言えるのだろう。
週末に泊まりに来た陽太は、和成の顔を見るなり、怪訝そうに眉を顰めた。早めに帰っていて、夕飯の準備もしていたし、話をする体勢は万全に整えていたが、それが却って不信感を煽ったらしい。
「聞いたんやろ、さっくんは、本当に口が軽い。言わんでって言ったのに」
既にご機嫌が斜めでむくれてしまった陽太に、オーブンからグラタンを取り出して、テーブルに置く。自分の分のグラタンも置いて、オーブンに天板を戻そうとしたとき、和成は陽太の方ばかり見ていて、うっかりと熱せられた天板を落としてしまった。
タイミングの悪さというのは重なるもので、すっかり春で暖かくなっていたし、稽古場で汗をかいたので軽くシャワーを浴びていた和成は、裸足だった。
「あっ、つ……!?」
「和成さん!?」
がらんがらんと派手な音を立てて落ちた天板を無視して、陽太がとっさに腕を掴んで和成を引き寄せる。そのまま腕を引っ張られて、バスルームまで連れて行かれた。
パンツも脱がないままで、シャワーで冷水を足の甲にかけられる。赤くなってじんじんと痛んでいた足の甲に、冷たい水が心地よかった。
「病院に行くまでもなさそうやけど……痛む?」
「いや、それほど」
「良かった……大事な脚なんやけね」
「はい、気を付けます」
十七歳の恋人に叱られる三十八歳とは如何なものだろうと思われるが、陽太がしっかりしすぎているし、和成は緩すぎるのでどうしようもない。しばらく冷やしていると赤みも消えて、ほとんど気にならなくなった。
「歩ける?」
「大丈夫、ありがとう」
感謝してパンツを着替えている間に、陽太は天板もそれが落ちた場所も片付けてくれていたようだった。食卓について、少し冷めたグラタンを一緒に食べる。
「俺のことで、和成さんが悩んで怪我するなんて、嫌やけん?」
「分かった……けど、話してくれない?」
「薬学部に行きたいんはほんとやけど、今じゃなくてもいいとよ。働いて、ある程度お金が貯まってから、大学行き直したって、構わんわけやろ?」
薬剤師になりたいというのは、陽太がずっと考えていたことだったらしい。
保育園に通っていた頃に、友達のお母さんが薬剤師で、陽太が転んで唇を大きく切ったときに、傷口を開いて見て、血管を押さえて止血してくれて、病院まで付き添ってくれたのだという。その後で、縫った唇に塗る薬と、化膿止めの薬を貰いに行った調剤薬局にも彼女が勤めていた。
「医者には、なりきらんって思ったとよ。俺、そんな、血とか平気な方やないし。でも、薬剤師になれたらいいなと思って」
「陽太は、俺が大学の授業料を出したら、嫌?」
口から出た言葉に、陽太の表情が硬くなって、和成は後悔した。しかし、もう口に出してしまったものは仕方がない。舞台で台詞を言うよりも、ばくばくと心臓がうるさくて、全身が震える。
「そんなん……」
「俺が出会った、人生で最高の男に、投資をさせてくれない? そ、その代わり、俺がよぼよぼのお爺さんになっても、一緒にいて! 俺に、陽太の未来を、買わせて」
自慢ではないが、和成にはお金だけはあった。陽太と付き合い始めてから、舞台の仕事だけでなく、CDや歌手のPVに出演したり、仕事は増えている。映画への出演もオファーを受けようと決めていた。
「……嫌だ」
「お願い! 陽太を愛してる。重いのは分かるけど……」
「そうじゃなくて、買うとか、言わんで!」
「……じゃあ、いいの?」
恐る恐る問いかけた和成に、いつもの凛々しい顔で陽太はこくりと頷いた。
「市の条例が可決されたって、母さんが言っとった。同性でも結婚はできんけど、パートナー登録ができるようになるって。やけん、十八になったら、和成さん、市役所に行くけんね?」
「は、はい」
答えてから、和成は見開いた目から涙が零れるのを止められなかった。
「プロポーズ、だよね? そうだよね?」
「そうよ。結婚やないけど、それと同じようなもんやけん、和成さんが学費出しても、おかしくないんやないかね」
「ありがとう……」
「俺の台詞やけんね……ありがとう、和成さん」
抱き締められて、頬を伝う涙に口付けられて、和成はぎゅっとその肉の薄い背中に腕を回した。
どちらかと言えば活発な陽太だが、部活に入っているという話は、中学でも聞いたことがなかった。母子家庭で母親が忙しく、部活の送り迎えに母親が駆り出されることもあるというので、中学は部活に入らなかったと言っていたような気はする。
「陽太は、部活には入らないの?」
「入らんよ」
「……理由を聞いてもいい?」
陽太が高校に入る前に身体の関係を持ってから、和成は陽太を呼び捨てにするようになった。まだ慣れないけれど、呼び捨てにするたびに距離が縮まったようで、くすぐったそうに笑う陽太が眩しくて可愛くてたまらない。
愛おしいと思う感情には、きりがないのだと、この六年で思い知った。
「スポーツ、嫌いやないけど、特別すきなのもないし……」
「うん、文科系は?」
「別に……っていうか、授業でこんだけ忙しいのに、部活までしよったら、和成さんと会う時間なくなるやん?」
頬を染めて、凛々しく言う姿に、和成はその場に座り込みそうになった。ようやく160センチに身長が届きそうな小柄で華奢な恋人は、こんなにも和成のことを考えて大事にしてくれる。
これまでどこに捨ててきたのかも分からない男運は、陽太に会うためだったのかと思えば、全てが水に流せる気がした。
「キスしてもいい?」
「宿題は終わった?」
「ん、終わった」
リビングのソファに二人並んで座って、和成は台本を読んでいて、陽太はローテーブルに教科書や電子辞書を広げて宿題をしていた。家と和成の部屋を行ったり来たりするので、国語辞典に漢和辞典、英和辞典に古語辞典……高校生が使う辞書を全部持ち歩くというのはとても無理だが、宿題をしないでは和成の部屋への出入りが禁止されてしまうかもしれない。そう説得して、和成は陽太の高校の入学祝と称して、大学やその後でも使えるようにちゃんとした電子辞書を買わせてもらった。
実質、付き合い始めてから和成が陽太のために財布を開いたのは初めてで、それも母親の美月からお礼の電話がかかってくるほど感謝されてしまった。
身体だけの都合のいい関係で、金づるで。今までの男たちが求めたようなことは、陽太は全く求めて来ない。
台本を置いた和成に、陽太がソファから降りて正面に向かい、肩に手を添えてそっと唇を重ねる。優しい口付けは、恭しくすらあった。
何度も唇を小鳥のように啄まれて、我慢のきかない身体が、じんと熱くなってくる。もっと激しく求めて欲しい。押し倒して、和成の欲望を暴いて欲しい。
けれど、どこまでも陽太は紳士的で、したい盛りだろうに、キスを終えると帰り支度を初めてしまった。
「一回だけ、していかない?」
「一回じゃ、済まんけん、だめ! 和成さん、明日、仕事やろ?」
じくじくと奥は陽太を求めて疼くし、前は緩く立ち上がっているしで、キスより先を与えられた今、和成の身体は前よりも抑えが利かなくなっていた。それを陽太の鉄壁の理性が、押し留める。
「少しなら、平気だから。お願い、ちょうだい?」
「ダメ! 俺と付き合ったけん、和成さんの仕事が悪くなったとか言われたら、男の沽券に関わるやん!」
そう言われてしまっては、和成に返す言葉はなかった。実際に、二回目のときにどうしてもと強請って、求め過ぎて、次の日声を枯らして仕事に支障をきたしたことがある。
しかし、そんなことは以前は日常茶飯事だった。かつて、稽古場で声があまり出ない上に熱を出していたことのある和成に、千夏が呆れ顔で「その男と別れるか、劇団辞めるか、考えたらどうです?」とまで言われたことがあった。
そんな風に手酷く陽太が抱くわけがないし、声を枯らしたのは単純に和成の身体が陽太を受け入れることに歓んで、感じ過ぎて止まらなくなって、咽び泣いてしまったからだ。六年間の禁欲の後だから、箍が外れたというのもある。それでも熱も出さなかったし、足腰も立ったのだから、陽太には少しも非はなかったのに、陽太は責任を感じたようだった。
それ以後、身体を繋げるのは、和成と陽太の休みが合う日しか許されなくなった。
「逆なんだけどな……」
「なにが?」
「陽太と付き合って六年、俺、ものすごく評価が上がったんだよ? 全部陽太のおかげだよ」
ご褒美が欲しくて報告すれば、ぽっと嬉しそうに頬を赤らめる陽太の誇らし気な笑顔だけで、満足してしまいそうになる。
「もう一回、キスだけ」
「キスだけね?」
強く引き寄せて、舌を絡める口付けを交わしても、陽太の覚悟は変わらず、その日は荷物を纏めて帰ってしまった。
ベッドで一人、中途半端に昂った身体を持て余して、両腕で自分の身体を抱き締めるが、自分で慰めようという考えも、他の相手のところに行こうという考えも、全く浮かばない。和成が欲しいのは、陽太の熱だけ。それ以外で満足ができない身体に、半年もしないのに、完全に陽太に和成は陥落しきっていた。
シーツに残る以前泊ったときの陽太の香りを嗅いで、目を閉じる。
大事な話があるからと、美月に呼び出されたのは、陽太が高校二年に上がったすぐのときだった。十七歳になった陽太は、身長も体付きもそれほど成長してはおらず、顔立ちもあどけなさを残したままだったが、彼がどれだけ情熱的に和成を抱いてくれるか知っているのは、自分だけ。それが嬉しくもあり、後ろめたくもあった。
呼び出された理由は、まだ大人になり切っていない陽太と身体の関係を持ったことが美月にばれて、別れて欲しいと言われるのかもしれないと、緊張して、芝居以外ではほとんど着たことのないスーツを着て家に向かえば、陽太の姿はなかった。同席出来ないということは、やはり、と和成は身を固くする。
今まで反対されていないことの方がおかしかったのだ。これからは会えなくなるかもしれない。想像するだけで喉の奥がぐっと詰まって、目の奥が熱くなる。
みっともなく泣いて、土下座して、縋っても、許されるはずがない。
「和成さん、急にお呼び立てしてすみません」
「いえ……陽太くんのことですね」
平静を装っても、指先が震えて出されたティーカップに手が付けられなかった。喉がからからに乾いて、声を掠れさせないことに集中するので精一杯になる。自分はちゃんと大人の顔をしているだろうか。穏やかに微笑んでいるだろうか。
「ひなちゃん、進路のこと、和成さんにお話してます?」
「陽太くんの進路、ですか?」
真剣な眼差しの美月に問われて、和成は一瞬、何を言われているか分からなかった。そういえば、和成は演劇系の大学に行くことを最初から決めていたので、進路について悩んだことがない。大学に行くかどうかは悩んだけれど、行った方がいいと団長に言われたし、そっちの方が芝居だけじゃなくて男と遊んでいる時間も作れるだろうと、安易に決めてしまった。
よく考えるまでもなく、陽太には行きたい大学があるわけで、そのために勉強をしているのだ。
「進路のことまでは、気が回ってなくて。すみません」
「いえ。そうなんですね、和成さんにも、言ってないのね」
どうやら、美月の話は陽太と別れて欲しいというのではなく、陽太の進路のことのようだった。どっと緊張が解けて、スーツのジャケットの下で汗が滲んでくる和成に気付かずに、美月は続ける。
「本当は、薬学部に行きたいんです、あの子……でも、六年分学費がかかるからって、私にも言ってくれなくて……。朔也が聞き出してくれたんですけど」
国立大学に行っても、薬学部では六年分の学費がかかってしまう。奨学金を貰ったとしても、卒業後にその返済に困るケースは多々あるという。そのために、陽太は薬学部を諦めて、短大の保健医療学部に行って理学療法士になるという進路を美月には言っているという。
陽太の話を聞けば、父親からの養育費は美月はもらっていない。それで六年陽太を大学に行かせるのは確かに厳しいだろう。
「うちに、お金がないのは事実なんです。でも、朔也も出してくれるって言ってるし……和成さん、お願いです、ひなちゃんと話をしてくれませんか?」
「俺で、いいんですか?」
「和成さんになら、ひなちゃん、お話してくれるかもしれないから」
お願いしますと言われて、和成は了承したものの、どうすればいいか唸ってしまった。
はっきり言って、和成は大学に真面目に通った覚えがない。授業も卒業できるぎりぎりしかとっていない。それも、休みがちで男の家に入り浸って、肉欲に溺れていた。
そんな自分が陽太になにを言えるのだろう。
週末に泊まりに来た陽太は、和成の顔を見るなり、怪訝そうに眉を顰めた。早めに帰っていて、夕飯の準備もしていたし、話をする体勢は万全に整えていたが、それが却って不信感を煽ったらしい。
「聞いたんやろ、さっくんは、本当に口が軽い。言わんでって言ったのに」
既にご機嫌が斜めでむくれてしまった陽太に、オーブンからグラタンを取り出して、テーブルに置く。自分の分のグラタンも置いて、オーブンに天板を戻そうとしたとき、和成は陽太の方ばかり見ていて、うっかりと熱せられた天板を落としてしまった。
タイミングの悪さというのは重なるもので、すっかり春で暖かくなっていたし、稽古場で汗をかいたので軽くシャワーを浴びていた和成は、裸足だった。
「あっ、つ……!?」
「和成さん!?」
がらんがらんと派手な音を立てて落ちた天板を無視して、陽太がとっさに腕を掴んで和成を引き寄せる。そのまま腕を引っ張られて、バスルームまで連れて行かれた。
パンツも脱がないままで、シャワーで冷水を足の甲にかけられる。赤くなってじんじんと痛んでいた足の甲に、冷たい水が心地よかった。
「病院に行くまでもなさそうやけど……痛む?」
「いや、それほど」
「良かった……大事な脚なんやけね」
「はい、気を付けます」
十七歳の恋人に叱られる三十八歳とは如何なものだろうと思われるが、陽太がしっかりしすぎているし、和成は緩すぎるのでどうしようもない。しばらく冷やしていると赤みも消えて、ほとんど気にならなくなった。
「歩ける?」
「大丈夫、ありがとう」
感謝してパンツを着替えている間に、陽太は天板もそれが落ちた場所も片付けてくれていたようだった。食卓について、少し冷めたグラタンを一緒に食べる。
「俺のことで、和成さんが悩んで怪我するなんて、嫌やけん?」
「分かった……けど、話してくれない?」
「薬学部に行きたいんはほんとやけど、今じゃなくてもいいとよ。働いて、ある程度お金が貯まってから、大学行き直したって、構わんわけやろ?」
薬剤師になりたいというのは、陽太がずっと考えていたことだったらしい。
保育園に通っていた頃に、友達のお母さんが薬剤師で、陽太が転んで唇を大きく切ったときに、傷口を開いて見て、血管を押さえて止血してくれて、病院まで付き添ってくれたのだという。その後で、縫った唇に塗る薬と、化膿止めの薬を貰いに行った調剤薬局にも彼女が勤めていた。
「医者には、なりきらんって思ったとよ。俺、そんな、血とか平気な方やないし。でも、薬剤師になれたらいいなと思って」
「陽太は、俺が大学の授業料を出したら、嫌?」
口から出た言葉に、陽太の表情が硬くなって、和成は後悔した。しかし、もう口に出してしまったものは仕方がない。舞台で台詞を言うよりも、ばくばくと心臓がうるさくて、全身が震える。
「そんなん……」
「俺が出会った、人生で最高の男に、投資をさせてくれない? そ、その代わり、俺がよぼよぼのお爺さんになっても、一緒にいて! 俺に、陽太の未来を、買わせて」
自慢ではないが、和成にはお金だけはあった。陽太と付き合い始めてから、舞台の仕事だけでなく、CDや歌手のPVに出演したり、仕事は増えている。映画への出演もオファーを受けようと決めていた。
「……嫌だ」
「お願い! 陽太を愛してる。重いのは分かるけど……」
「そうじゃなくて、買うとか、言わんで!」
「……じゃあ、いいの?」
恐る恐る問いかけた和成に、いつもの凛々しい顔で陽太はこくりと頷いた。
「市の条例が可決されたって、母さんが言っとった。同性でも結婚はできんけど、パートナー登録ができるようになるって。やけん、十八になったら、和成さん、市役所に行くけんね?」
「は、はい」
答えてから、和成は見開いた目から涙が零れるのを止められなかった。
「プロポーズ、だよね? そうだよね?」
「そうよ。結婚やないけど、それと同じようなもんやけん、和成さんが学費出しても、おかしくないんやないかね」
「ありがとう……」
「俺の台詞やけんね……ありがとう、和成さん」
抱き締められて、頬を伝う涙に口付けられて、和成はぎゅっとその肉の薄い背中に腕を回した。
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