いつか誰かの

秋月真鳥

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君は誰にも 4

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 αがΩのフェロモンに反応しにくくなる薬の開発は順調に進んで、試験もすべてクリアした。特許申請も通りそうだということで、ジュディスとマルギット、協力者のハーロルトと内輪で祝宴をあげるために集まったバーで、ダイエットコーラを注文するサムエルに淡いピンクのロゼのシャンパンの入った、細いシャンパングラスを持ったジュディスが目を丸くする。
「今日くらい飲んだら?」
 試験薬を飲んでいるときにアルコールを摂取して、ジャンに醜態を見せた日からサムエルは極力アルコールは摂取しないようにしていた。そばにジャンがいて、家で寛いでいるときにビールを一杯くらいは飲むが、それ以上は気を付けている。そもそも、アルコールはカロリーも高い。
「ちょっと太ったと思って、ウエイトトレーニングを強化したら、体は少し絞れたけど、体重は増えちゃってさ」
 拗ねたようなサムエルの物言いに、ジュディスはまじまじと目の前の筋肉質で長身の美男子を見つめる。太っていると気にしているようだが、ジュディスもどちらかといえば長身で大柄な方だし、サムエルはたるんでいるのではなく、純粋に筋肉質なだけと見て分かるので、それほど気にしなくてもよさそうなのにと、ジュディスは首を傾げた。
「サムはかっこいいからいいよ、そのままで」
 シャンパンを飲んで機嫌の良さそうなハーロルトにふんわりと微笑まれて、その腰の細さや骨ばった肩にサムエルは眉を下げる。
「彼がそう思ってくれるといいんだけどね」
「聞いてみようよ」
 すかさずサムエルの尻のポケットから携帯電話を抜き取ったハーロルトに、サムエルは慌てた。ロックをかけているので大丈夫だろうと思ったが、あっさりと解かれてしまう。
「ジャンの車のナンバーか、分かりやすいね」
「え? え? サムのパートナーが来るの?」
 マルギットがつぶらな目をきらきらを輝かせた。
「最近、しゃれ込んでるサムのスーツ作ってくれてる彼? 会ってみたいわ」
 乗り気のジュディスに、サムエルは頭を抱える。
「来てくれないと思うよ」
 あまり残業や持ち帰りの仕事を好むジャンではないが、冬物のオーダーが大量に入っていて今は忙しいと言っていた。あの店にはジャンの他にも職人はいるが、ジャンを指名してくる客は多いようで、サムエルは誇らしいと同時に心配にもなる。
 ため息が漏れたサムエルに、ジュディスが琥珀色の目を細めた。
「悩ましいため息ね。欲求不満なんじゃない?」
「うん……」
 反射的に素直に頷いてしまってから、サムエルはハッとして俯く。今では馬鹿にされるような俗説だが、昔、7秒に一度は男性はセックスのことを考えている、というものがあった。それをサムエルも笑って済ませていたが、ジャンを目の前にすると、7秒に一度以上そのことを考えていそうな自分がいて、Ωの発情期よりもよほど質が悪いのではないかと苦笑もできない。
 あの緑色の目が情欲に彩られて、サムエルを見下ろすとき。ほの赤い舌がサムエルの舌と絡まって、それから体を這うとき。乱れた赤い髪を耳にかける仕草。
「飲んでないのか?」
 完全に妄想の中にいるサムエルは、ジャンの声に飛び上ってしまった。ラフな襟ぐりの大きくの空いた黒いシャツに、ベージュのジャケットを羽織って、ジーンズをはいたジャンが、大きな買い物袋を持って小首を傾げている。
「ごめんね、ジャン。俺が送ったの」
 ハーロルトの笑い声に、サムエルは携帯電話をとり返して、メッセージの送信履歴を確認する。ジャン宛に『飲みすぎて運転ができそうにない』とメッセージが送られていた。
「ハロか……どうせ、買い物に出たついでだから、構わないが」
 口が六角形になっていて、丸いフォルムの買い物バッグに、ジュディスとマルギットが寄って来る。
「初めまして、サムの同僚のジュディス・フットよ。この買い物バッグ可愛いわね」
「マルギット・ポールソンだよー。もしかして、手作り?」
 言われて、重そうなそれをジャンはテーブルの上に置いた。
「可愛いデザインだったんで、俺が作ったよ」
 型紙は市販のものを使ったというジャンに、ジュディスとマルギットは興味津々でバッグを見ている。しばらくバッグを見た後に、ジュディスがジャンに目を向けた。促されるようにして、ジャンが自己紹介をする。
「ジャン・ルシュールだ」
「なんか……思ったより、細くて、足長くて……サム、無茶したら壊れちゃうんじゃない?」
 ジャンはβ、サムエルはαだし、ジャンは細身できれいな顔立ちで、サムエルは長身で大柄で整ってはいるが男臭い顔立ちのため、どちらがどちらかと想像すれば、当然そっちの方になってくるのだろう。それを否定すべきか、それとも笑って流しておくべきか悩むサムエルに構わず、ジャンはジュディスに薄く微笑んだ。
「壊れるほど柔じゃない」
「サムが夢中になるの、分かる気がする」
 マルギットにジュディスがこくこくと頷く。
「ジャンも飲もうよ」
 ハーロルトに腕を引かれて、ジャンは露骨に眉を潜めた。
「はめ外して飲むなよ。俺は部屋まで送らないぞ」
「サムがいるのに、ジャンに送ってもらおうとか思ってないって」
 笑われてジャンはようやくサムエルの方を見る。顔色を確かめて、グラスの中身がただのダイエットコーラであることを確認して、ジャンは買い物バッグを持ち上げた。
「用がないなら、俺は帰る」
「僕の同僚に紹介、したい、とか、駄目?」
「もう、自己紹介した」
 素っ気ないジャンに心折れそうになるが、サムエルは粘る。
「開発してる薬が特許通りそうなんだ。お祝いしてくれない?」
「お祝いは、また今度」
 頬に手を添えられて、軽くキスをされて、サムエルは何も言えなくなってしまう。本当にそのまま帰ったジャンに、ジュディスとマルギットは「クールね」と感想を口にした。


「最近、そればかり飲んでるけど、好きなのか?」
 作業部屋から出てきて、紅茶を淹れるために電気ポットのスイッチを入れたジャンが、サムエルがパソコンの脇に置いているダイエットコーラのペットボトルを指差す。
「そういうわけじゃないんだけど、カロリーの低い飲み物ってあまり浮かばなくて」
 自分で葉っぱから紅茶を淹れたり、豆を挽いてコーヒーを淹れたりするジャンのようなことは、サムエルはできない。というか、サムエルは生活に関わること全般が苦手だった。炊事洗濯、掃除……ジャンと付き合いだしてから完全に放置しているマンションは、ハウスキーパーとクリーニングとデリバリーで全て済ませている。
 その話をしたら、「セックスした後のゴミ箱まで、他人に処理させてるのか?」とジャンに若干引かれた気がするのだが、その通りだったので何も言えなかった。
「ミネラルウォーターじゃ味気ないけど、紅茶やコーヒーは持ち歩くイメージがないからさ」
「飲む?」
 三分間しっかりと蒸らした紅茶を青い縁取りのあるカップに注いで出されて、サムエルは微笑んで受け取る。それまでは紅茶は苦く渋いものというイメージが強く、ミルクで誤魔化して飲んでいたが、ジャンが淹れてくれるようになって、ストレートで飲む美味しさを知った。
「ありがとう……君って、なんでもできるよね」
「あんたと分野が違うだけだ」
 ポットから紅茶を全部ガラス容器に移して、ポットを洗って水切り籠に置いてから、ジャンがソファに腰かけて紅茶を飲む。夜にカフェインをとるのはよくないのかもしれないが、ジャンに不眠の気配はなく、夜はぐっすりと眠っているようだった。
 ちゃんと蒸らして葉っぱから淹れた紅茶の味も、挽きたてのコーヒーの香りも、焼きたてのパンの柔らかさも、自分のために作られたスーツの着心地も……抱かれることの快感も、全部ジャンがサムエルに教えてくれた。クリーニングに出そうとするサムエルのシャツに、丁寧にアイロンをかけてくれる細やかさも、受け入れる方は初心者のサムエルが絶対に痛みや不快を感じないように、丁寧に念入りに準備をしてくれる優しさも、スーツを作り上げるジャンの手が生み出すもの。
 白い筋張った手が紅茶のカップを持ち上げる様子が、妙に扇情的で、サムエルは目を反らせなくなってしまう。時刻は10時を過ぎている。ジャンはそろそろシャワーを浴びて寝たい時間だろう。
「ジャン、キスしよう?」
 精一杯の誘いに、ジャンはサムエルの隣りに移動してリップ音を立てて軽く唇を食んだ。それを追いかけてサムエルがジャンの口に舌を滑り込ませる。
 舌を絡ませる長いキスに、ジャンがぺしぺしと軽くサムエルの頬を叩いた。
「サム、俺は今日は寝る」
「分かってるよ……」
 誘おうとしても、次の日が休日でない日はジャンは絶対に乗ってこない。
「ジャン、好き……愛してる」
 ねだるように腰を擦り付けても、ジャンがかわすのは分かっている。虚しく思うが、サムエルの熱は冷めない。
「お祝い、どうする?」
 話題を変えられて、サムエルは大人しくソファに深く座り直した。紅茶を一口飲むが、やはりジャンの淹れた紅茶は特に美味しい気がする。
「ジャンがしてくれるなら、なんでもいいよ……セックスでもいい」
 セックスが、と言わなかったあたり、サムエルの理性もぎりぎり保てたと思ったが、ジャンは小首を傾げた。
「あんた、指輪とか言いそうだと思ったけど、そんなのでいいわけ?」
「え!? ゆ、指輪!? いいの」
 急に鼻息の荒くなったサムエルに詰め寄られて、ジャンはくすりと笑う。
「そのうち、サムの方が贈ってくるんだと思ったけど、くれないみたいだから、俺が買ってもいいのかなと」
「そ、それって、それって、プロポーズ、ですか?」
 筋張ったジャンの手を、肉厚な両手で包み込むと、ジャンは「そう考えてもいいよ」と薄い笑顔を浮かべた。
「それより、なんで敬語?」
「大事なことだよ、敬語にもなるよ」
 言ってから、サムエルはジャンを膝の上に抱き上げて抱き締める。サムエルよりもほっそりとしているジャンは、それほど重くはなかった。
「一緒に選びたいな。次の休みに一緒に買いに行こう。僕も休みを合わせる」
 舞い上がっているサムエルの胸にもたれかかって、ジャンは眠そうに欠伸を一つする。
「次の休みに、な」
 伸びをしてシャワールームに入っていくジャンを、サムエルはにやけながら見送った。

 次の休みの翌日に、左手の薬指にプラチナのリングを付けて出勤したサムエルに、ジュディスとマルギットがおめでとうを言ったのはいうまでもない。
「それにしても、僕ってこんなに性欲強かったっけ」
 27歳男性として普通と思っていたが、ジャンとの夜の営みに付いて物足りないものを感じるのは、それだけジャンを愛していて特別なのだろうかと、サムエルが小さくため息を吐いたのを、聞いていたものはいなかった。
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