二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

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1.笠井雅親は小説家である

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 ティーポットをお湯で温めて、お湯を捨てて、茶葉をティースプーン二杯入れて、お湯を注ぎ、タイマーで三分測る。タイマーの数字が少なくなるとティーポットの前で待って、タイマーが鳴るか鳴らないかのところでストップボタンを押して、お湯で温めたカップに紅茶を注ぐ。

 笠井かさい雅親まさちかは自分で入れる紅茶が世界で一番美味しいと自負していた。
 ただ、大抵のティーポットは紅茶がマグカップ二杯分は入ってしまう。
 美味しく熱い紅茶を飲むためには、二杯目がどうしても気になるところだった。

 自分の紅茶は冷めても美味しいとは分かっていたが、熱い紅茶にミルクを入れて飲んだり、そのまま吹き冷ましながら飲むのが雅親は好きなのだ。

 仕事用のパソコンデスクのそばには水分は置かない。
 パソコンにかかってしまったらデータが全部なくなってしまう。
 一時期蓋の着いた保温マグを置いていたが、保温マグも飲んでいるときには無防備で、蓋を外した瞬間手から落としそうになって火傷するし、パソコンも危うい目に遭わせたので、それ以来、パソコンよりも低いサイドテーブルに置いて、そこから動かさないようにしている。

 小説家である雅親は締め切りを破ったことがない。
 それどころか、締め切りの前に絶対原稿を編集に渡していたし、校正の原稿もできるだけ早くチェックして返すようにしている。
 これだけ品行方正なのに、雅親の周囲の反応はよろしくなかった。

 曰く、「笠井先生は神経質すぎる」とのこと。自分の原稿を何度も見直して、誤字脱字がないようにして出すのは当然のことだと思っているが、それも気持ち悪いくらいなのだとか。
 校正のチェックには反論することはあるけれど、できる限り謙虚な気持ちで受け入れているし、締め切りも破らないどころか先に文章を進めていることすらあるのに、酷い言葉である。

 昼食は毎日パスタと決めている。
 豆を使って作られたパスタを気に入っていて、それをタイマーできっちり測って七分茹でて、冷水でしめて、納豆と梅干しと温泉卵を乗せて食べる。たまに市販のパスタソースも使うが、ほとんどがその食事にしている。
 夕食はその分気合を入れて作るのだが、いかんせん一人暮らしなので一人分だけは作れなくて余った分は冷蔵庫に入れて翌朝の食事にしたり、次の日の食事にしたりしている。
 夕食を作るときにでも、お気に入りの料理人のレシピ本通りに全て揃えて、完璧に作っているのだから美味しくないわけがない。

 埃も積もっていない本棚にはお気に入りの料理人のレシピ本と資料の本が高さを合わせてきっちりと納まっている。
 混沌としているとどこに何を置いたのか分からなくなって混乱してしまう。

 神経質と言われるのがそういうところなのだろうと思ってはいても、笠井はそれを変えることができなかった。

「まさくんの紅茶、美味しいね」

 余っていた二杯目の紅茶を飲んでいるのは、俳優の逆島さかしまれん。どう考えてもそう読まないだろうという名字から、俳優業のためにその名前を名乗っているのだろうとは思いはしたが、雅親はそれを気にしなかった。
 それより気になるのは、「まさくん」呼びである。

 この俳優、最近雅親の家に入り浸るようになった。
 どうしてこうなったかと言えば、雅親の姉が恋のマネージャーとして働いていて、少し前に恋が雅親の大ヒットした小説の映画化の主演をしたときにインタビューで話したときに、「笠井先生は紅茶が美味しいってマネージャーから聞いています」なんて個人情報を姉が漏らしていた上、その後、恋がスキャンダルで雑誌にすっぱ抜かれて逃げ込める場所がなくて姉が横暴にも雅親の家を指定したのだ。

 昔から横暴な姉だったという記憶がある。
 雅親の両親は幼いころに亡くなっていて、姉の天音あまねが親のようなものだった。
 雅親と弟の充希みつきを育てるために姉は高卒で働きだした。母は充希を産むときに亡くなって、病院に駆け付けようとして父は対向車線から大きくはみ出してきたトラックに車ごとぺしゃんこにされて死んだ。
 両親の遺産と保険料と慰謝料があったはずなのだが、姉はそれに手を付けなかった。

「雅親と充希は大学まで出してやらなきゃいけない。今は税金も年々高くなってるし、学費もいつ上がるか分からない。絶対に一銭も両親のお金を無駄にはできない」

 弟たちに対して支配的で恐ろしい姉だったが、同じ熱量で弟たちを愛してくれていたのだと雅親は知って、姉には逆らわないことにしている。

 姉に押し付けられた俳優だが、これが日本どころか海外までも有名な舞台俳優で、時々ドラマや映画に出るが、そのときにはものすごい存在感を示すだなんて信じられない。
 外に出られないからとよれよれのTシャツと綿パン、無精髭を生やして眼鏡をかけて雅親の紅茶を「美味しい」なんて飲んでいる姿はとても俳優とは思えない緩さだった。

「昼食、今日も同じですけど……」
「あのお豆のパスタ、僕好きだなー。しこしこしてて、冷水でしめると美味しいんだもん」

 小麦粉を一切使っていない豆のパスタは匂いがするので好みは分かれるところだが、恋は気にしていないようだった。
 姉に厳しく「痩せさせるな。死なせるな」と言われているが、放っておいたらこの男は死ぬのではないかという気持ちは確かに雅親にもあった。

 主演をした映画を確認して見たときに、主人公がそのまま再現されたような恋の演技に雅親は目を奪われた。カメラの前、舞台の上では誰にでもなれる。恋はそんな俳優だった。
 年齢は雅親より年下の二十五歳のはずである。それなのに、高校生役も瑞々しくやり遂げた恋に感動したことは確かだ。
 しかし、同居して分かった。

 恋は家事が一切できない。

 晩御飯のために米を炊いてほしいと言えば、炊飯器に米だけを入れてスイッチも押さずに待っている。自分の分くらい洗濯をした方がいいと言えば、洗濯機の前で立ち尽くしている。

「この洗濯機の使い方、分かりませんか?」
「僕、服は全部クリーニングに出してるし、下着はどうしようもないから毎回買い換えてる」

 へにょりと力の抜ける笑顔で告げる恋に、雅親は頭を抱えた。
 避難場所はどこのホテルでもよかったはずなのに、姉が雅親に恋を預けた意味が分かる気がする。

「教えるから、やりましょうね」
「分かんない。まさくん、やってよ。やってくれないなら、クリーニングでいい」

 年上に対しての口の利き方もなっていない上に、甘えたように言う恋に、普通のファンだったらやってしまうのだろうと思ってしまった。

 結局料理も洗濯も掃除も雅親がやって、恋は優雅にソファに座って、雅親の残した二杯目の紅茶を飲みながら台本なんて読んでいる。

「まさくんって呼ばないでくれます?」
「天音さんはまさくんって呼んでたよ」

 全て姉のせいなのだと胸の中で呟きながら、雅親は今日も仕事をしつつ、恋の世話を焼く。
 世話を焼きたくないのだが、家のことが整っていないと雅親は落ち着かないのだ。
 恋の洗濯物を干すときに、なんで自分がと思わずにはいられないが、姉の顔を思い浮かべると文句を言うことができない。

 料理に関しては食費は全額恋が支払ってくれていたし、翌朝に残り物を食べるのはあまり好きではなかったので納得してやっているつもりだが、料理が出てくることに恋がいちいち感動しているのを見ると、どういう家庭で育ったのか気になってしまう。

 一時的に預かっているだけなので、雅親は恋にプライベートなことを聞いたり、話したりするつもりはない。ただ、恋の方は姉から雅親の話を聞いているようだ。

「まさくんのご飯、美味しい。麻婆豆腐と麻婆茄子が一緒になってるけど、どっちも捨てがたいから二つとも食べられてお得! 豚汁もものすごく美味しい。昨日の鶏のから揚げが甘酢でびちょってなって、タルタルソースがかかってるやつも美味しかった」
「あれはチキン南蛮ですね」
「美味しかったー。また食べたい」

 「まさくん」と呼ばれるのも不本意だし、ため口で話されるのも嫌なのだが、これはこういう生き物だと理解するしかない。
 どうせすぐに出て行くのだ。
 それまでの辛抱だと思っていた。
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