二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

文字の大きさ
5 / 30

5.夜の仕事

しおりを挟む
 夜に手紙を書かない方がいい。
 そんなことわざがあったのは英語圏だっただろうか。
 何故か夜の文章は感情的になってしまうことが多いので、雅親は夕食後には文章を書かない。その代わりに文章の見直しや戻ってきた校正のチェックをする時間にしている。
 恋が来てからはプリントアウトした文章をリビングに持ってきて読んでいると、興味深そうにそれを覗き込んでくる。

「まだ未発表の作品なので読まないでください」
「読んで感想を言ったりしたら嬉しくない?」
「仕事で書いてるものは社外秘です」

 そう言えば諦めるのだが恋は何かしたくてたまらない様子だった。
 恋にできることを考えてみて、雅親は本になった自分の小説を恋に渡してみる。

「読んでくれますか?」
「朗読してってこと?」
「はい。プロにそんなことお願いするのは失礼でしょうか?」
「全然! 喜んで読むよ」

 低すぎず高すぎず、心地よい恋の声が雅親の文章をなぞっていく。この本は重版するのでもう一度見直さなければいけないところだった。
 滑らかな恋の朗読を聞いていても、気になるところはある。そこにチェックをして、もう一度見直す気でいると、恋の朗読が止まった。

「この主人公はどうして優しい恋人と別れてしまうんだろう」
「それは読んだ方に任せています。あなたはどう思いますか?」
「このままでは恋人に負担が大きいから、かな?」

 献身的に尽くしてくれる恋人との別れを選んだ主人公の気持ちを考える恋の答えはそれだった。
 書いたときに雅親は答えを持っていたはずなのだが、それは続きを読んでいけば分かることだから語る必要はない。

「よければ最後まで読んでみてください」

 朗読はもういいですから。

 そう言って雅親は着替えを持ってバスルームに入った。
 早起きの雅親は眠るのが早い。毎日完璧に同じ時間に眠れるわけではないが、ベッドに入る時間は同じにしている。
 シャワーを浴びてバスルームを出ると恋が電話をしているのが耳に入ってきた。

「もうそろそろ演技がしたい。僕、それ以外に取り得がないんだよ」

 マネージャーの天音に向けた電話だろうか。
 謹慎してから一週間と少し。恋はずっと我慢してきたことになる。
 二十代半ばの若い男性がやることもなくマンションの一室に閉じ込められているとなるとストレスもたまるだろう。

 そろそろ恋はこの部屋を出て行くころなのかもしれない。
 そう思いながら雅親は自分の部屋に戻った。

 部屋で今日の仕事を最後まで終わらせて、ベッドに入る。
 灯りを消すと眠りはほどなく訪れた。

 小さいころのことを雅親は鮮明に覚えているタイプだった。
 初めて姉のことを「あまね」と呼んだ日、姉は笑顔で雅親の顔面を握って訂正させた。

「お姉ちゃんよ?」
「おねえたん」

 恐ろしさに雅親はあれ以来姉のことを呼び捨てにしていない。
 弟の充希は喋り始めたころから姉をしっかりと「おねえたん」と呼んでいる。いや、「おねえたま」だったかもしれない。
 保育園に雅親は三歳から入園したのだが、そのときに寂しくて怖かったが、泣かなかった。泣かなかったことを両親に言ったらとても褒められた。褒めてほしかったわけではなくて、雅親は泣くのは恥ずかしいことだと思っていたのだ。

 両親が亡くなったときにも雅親は泣かなかった。喪主として十八歳だった姉が葬式を取り仕切ったのは、若くして息子と娘を亡くした祖父母がそれにとても耐えられなかったからだった。
 姉も涙を一度も見せなかった。

「私がやる。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはそばにいて、私が間違ってないか見てて」
「そんなことを天音にやらせられないよ」
「私たちがやるよ」
「いいの。これも社会勉強よ。私はこれから社会にでなきゃいけないんだからね」

 泣き崩れている祖父母はそれでも姉の代わりに喪主を務めようとしたが、姉は立派に喪主を務めた。その隣で雅親は生まれたばかりの充希を抱いて座っていた。

 葬式の最中充希が泣いたらおむつを替えて、ミルクもあげて、可愛がった充希は兄と姉にべったりの末っ子に育ってしまった。

 そのくせ、一時間以上かかるが通おうと思えばこのマンションから通える大学に進学して、一人暮らしがどうしてもしたいと言って一人暮らしを始めてしまった。

「俺がいつまでもいたら、雅親も姉さんも、安心できないでしょ? 俺は一人で暮らせることを示すよ」

 立派に育った充希が家を出るときには雅親は寂しさを覚えた。

 恋がマンションに飛び込んできて面倒を見ることになったとき、雅親は充希のことを考えたのかもしれない。手のかかる恋は小さいころの充希のようだった。
 家事も雅親にまかせっきりで、勉強も雅親が教えた。
 その充希が『竜田揚げってどうやって作る?』とか、『親子丼の三つ葉っていらないよね?』とか普通に家事をして暮らしている様子をメッセージで送ってくるのだから、育ったものである。

 それならば恋も育ててやらねばいけないのではないだろうか。
 目が覚めたら、雅親の中でそういう結論が出ていた。

「おはようございます。今日も早いですね」
「まさくんに合わせて起きてること、気が付いた?」
「そうだったんですね」

 同居をしてから数日間は恋は朝食ができて雅親が部屋に声を掛けるまで出てこなかった。それが最近は雅親が起きて洗面を済ませるとリビングで待っている。
 ストレッチをして、筋トレに入ろうとする恋を、雅親はキッチンに呼んでみた。

「ここにキッチンペーパーがあります。それを二十センチくらい切り取ってください」
「この紙、キッチンペーパーっていうの? 二十センチってどれくらい?」
「そのくらいです。箱の端に刃物が付いているので気を付けて。下に下げると切れます」

 ぎこちなくキッチンペーパーを切った恋に続いて、蕩けるチーズを渡す。

「これをキッチンペーパーの上に乗せてください」
「まさくんがやった方が早くない?」
「早いとか効率的だとかいうことは、教える際には考えないものです」

 納得したのかしないのか、キッチンペーパーの上に蕩けるチーズを乗せた恋に、それの端を持って落とさないように電子レンジに入れさせる。

「電子レンジで一分加熱して、その後は様子を見ながら数十秒ずつ加熱して行ってみてください」
「電子レンジってどうやって加熱するの?」
「このボタンで『電子レンジ』を選んで、ここに分数と秒数を選べるボタンがあります」

 言われた通りにしていく恋は電子レンジに張り付いて中身を見ている。
 固形だったチーズが蕩けて一緒になっていく様子をじっと見つめている。

「溶けて乾いてきた」
「そろそろよさそうですね。キッチンペーパーから落とさないように取り出してください」
「分かった!」

 いいお返事でキッチンペーパーを取り出した恋に、続いて皿を出すように言って、出来上がった蕩けて固まったチーズを二つの皿に取り分けさせる。
 パリパリのお煎餅のようになったチーズは、ぱきんと割れて皿の上に置かれた。

 朝食はパンと目玉焼きとパリパリチーズとカップスープ。
 チーズを齧って恋が目を丸くしている。

「美味しい。ぱりぱりしてる。これ、僕が作ったんだよね?」
「そうですよ。美味しいですね」
「まさくんにも美味しいって褒められた!」

 無邪気に喜ぶ恋に、雅親は聞いてみたいことがあった。

「もしかして、お母様が『逆島あい』だから、芸名がその名前になったのですか?」
「そうだよ。母は女の子が欲しかったらしいけど、一度しか出産はしないって決めてて、僕が男だったけど、つける芸名は決めてた」

 母が愛、息子が恋。
 二人合わせて「恋愛」だなんて、すぐに想像できるが簡単に付けられる芸名ではない。

「お母様に愛されていたんですね」
「それはそうだと思う。でも、このスキャンダルでものすごく呆れられたみたい。僕、年が母より上の女性と不倫しちゃったから、『マザコン』とか言われてるらしいよ」

 そもそも初恋から母より年上だったんだけどね。

 語る恋に、雅親は小説家としてその恋の初恋の話には少し興味があった。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

【完結】後悔は再会の果てへ

関鷹親
BL
日々仕事で疲労困憊の松沢月人は、通勤中に倒れてしまう。 その時に助けてくれたのは、自らが縁を切ったはずの青柳晃成だった。 数年ぶりの再会に戸惑いながらも、変わらず接してくれる晃成に強く惹かれてしまう。 小さい頃から育ててきた独占欲は、縁を切ったくらいではなくなりはしない。 そうして再び始まった交流の中で、二人は一つの答えに辿り着く。 末っ子気質の甘ん坊大型犬×しっかり者の男前

【完結・BL】春樹の隣は、この先もずっと俺が良い【幼馴染】

彩華
BL
俺の名前は綾瀬葵。 高校デビューをすることもなく入学したと思えば、あっという間に高校最後の年になった。周囲にはカップル成立していく中、俺は変わらず彼女はいない。いわく、DTのまま。それにも理由がある。俺は、幼馴染の春樹が好きだから。だが同性相手に「好きだ」なんて言えるはずもなく、かといって気持ちを諦めることも出来ずにダラダラと片思いを続けること早数年なわけで……。 (これが最後のチャンスかもしれない) 流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。 (できれば、春樹に彼女が出来ませんように) そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。 ********* 久しぶりに始めてみました お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?

perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。 その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。 彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。 ……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。 口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。 ――「光希、俺はお前が好きだ。」 次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?

綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。 湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。 そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。 その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。

処理中です...