二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

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7.告げられた名前

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 元来喋るよりも文章にする方が得意だった。
 近年大きな禍が起きてから、編集者と作家のやり方も変わった。それ以前も会ってやり取りするのは苦手だからできるだけメールかメッセージか電話にしてほしいとお願いしていたが、今はすっかりそれが普通になっている。
 小説原稿を書く手を休めて、送られてきたメールに返信をして、雅親は時計の針を見る。
 マンションにはどの部屋にも電波時計が設置されていて、秒数まで合わせて正確な時を刻んでいる。

 もうすぐ一時四十五分。
 新しい文章を書くのは諦めて、椅子から立ち上がって伸びをする。
 重厚な革張りの椅子は父の形見だった。
 仕事道具はいいものを揃えるという信条の父は、椅子も机もいいものを使っていた。幼い雅親はそれに憧れていたのを姉の天音も知っていてくれたのだろう。父が亡くなって遺品を片付けるときにその机と椅子は当然のように雅親に譲られた。

「まさくんは頭がいいんだから、これを使って大作家様になってもらわなきゃね」

 そして、自分の受け持った俳優が雅親の書いた小説の役を演じることになればいい。

 姉の夢は確かに叶った。
 ベストセラー作品を書いた雅親は姉の担当している逆島恋に役のオーディションを受けさせて、主役を勝ち取らせた。
 オーディションには雅親は関わっていないのだが、監督が選んだ恋は最初主人公のイメージとはかけ離れていた。

 雅親の書いた主人公はどこにでもいるような容姿で、中背で、恋のように髪も長くなく、綺麗な顔立ちをしていなかった。その主人公が自分の在り方やジェンダーの中で揺れ動きながら成長していく青春ものだったのだが、イメージではないと思っていた恋は実際に演じてみるとそれ以外にないというくらいその主人公になりきった。

――どちらかと言えば僕は憑依型の役者だと思うんです。台本を読んでいると、役が降りてくる感覚があります。役をお受けしている間は、役から抜けきらないで苦労することもありましたが、最近は折り合いを付けられるようになりました。

 憑依型の役者。
 インタビューで聡明な顔をして理路整然と恋は語っていた。
 計算して役を演じるのではなく、感覚としてとらえて、憑依されたかのように演じるのが恋だという。

 部屋のドアを開けてリビングに出ると恋がソファで本を読んでいた。
 発達心理学の本があると教えたので、それもソファの前のローテーブルに置いてあるし、料理のレシピ本も積んである。今恋が読んでいるのは、雅親が昨夜朗読を頼んだ本だった。

「まさくん、この本、読んでいくと主人公の気持ちが分かってきた。『君のことは多分愛してる。だからこそ、別れたい』そう言った主人公が、愛せていなかったのは自分だったんだね」
「書いたものは読むひとに解釈を委ねています」
「僕がそう思ったってだけ。それで、今日の紅茶は?」
「アッサム・カルカッタオークションです」

 答えて雅親は電気ポットで九十八度に保たれているお湯をティーポットに注いでティーポットを温めて、茶葉をティースプーン二杯入れる。お湯を注いで三分間ぴったり待つと、雅親は紅茶をマグカップに注いだ。
 濃さが均等になるように二個のマグカップに交互に紅茶を注いでいく。

「ダージリンを調べたよ。インドのダージリン地方でとれる茶葉だからダージリンって名前なんだってね」
「アッサムも同じく、地名由来ですよ。インドのアッサム地方でとれた茶葉です」
「どう違うの?」
「前のはマスカットのフレーバーがついていました。それに、発酵が浅かった。アッサムは発酵の深い紅茶で茶葉も細かく濃く色も味も出ます。ミルクティーやチャイに合いますね」
「それなら、少しそのまま飲んでみて、残りはミルクを入れて飲んでみよう」

 軽い喋りをするが雅親は恋が決して愚かではないことを知っていた。賢くなければ俳優などやっていられないし、何よりも、恋は雅親が教えたことを自分で調べて自分の知識にしている。

「まさくんといると楽しい。紅茶も美味しいし」

 笑顔を見せる恋が、最初とは印象が全く変わっていることに雅親も気付いていた。

 長身で鍛え上げられた体付きで、それでいて腰は細くて、美しい男性だとは思う。
 マンションにほとんど引きこもりで自宅仕事で、鍛えたこともない雅親とは全く違う。
 若い俳優を誑かすのが好きな美魔女と呼ばれるあの有名女優が目を付けたわけも分かる気がする。
 これはマイフェアレディの逆ヴァージョンではないが、育ててみたくなる俳優だ。

 残念ながら雅親は性的な欲求が非常に薄いタイプだったし、男性にも女性にもそういう欲を抱いたことがなかったので、恋に性的な魅力があるかどうかについては判断できない。
 雅親がこういうタイプだと知っているからこそ、天音は雅親に恋を預けたのだと思っている。

 もし勘違いして恋に恋愛感情を持つようなことがあれば、姉の天音も頭を抱える事態になっただろう。
 一つ屋根の下で暮らしていても、同じバスルームを使っていて、風呂上がりの恋が濡れた髪を拭きながらリビングに出てきても、雅親は何も思わない。思うのは髪が長いので乾かすのが大変だろうなくらいだ。

「まさくんは、どうして自分のこと『私』って言うの? 僕は自分のこと『僕』って言うけど、それは俳優として人前に出るならできるだけ丁寧な言葉でしゃべりなさいって言われたからだけど」

 恋に問いかけられて雅親は何度も聞かれていることなので躊躇いなく淡々と答えられた。

「小さいころに大人は仕事のときに『私』と自分のことを言うのを聞いていたのです。父も仕事の電話では自分のことは『私』でした。私は、早く大人になりたかった。だから、自分のことは『私』と言うようになりました」
「早く大人になりたかったって、何歳から?」
「十歳ですね」

 雅親の両親が亡くなって、天音と雅親と充希が遺された年。
 その年から、雅親は自分のことを「私」と言っている。

「そんなに早く大人になろうとしたんだ……」
「あなたはもっと早かったんじゃないですか?」
「え?」
「あなたが仕事を始めたのはもっと早かったでしょう。舞台の上で、テレビの中で、あなたは大人の望む子どもとして振舞わなければいけなかった。あなたはある意味大人だったのではないですか」

 自分だけが不幸だとは全く思っていない。
 ひとにはそれぞれの事情がある。
 恋にだって、物心つかないようなときから舞台にテレビに使われて、本当の自分だったことがないのではないだろうか。
 そのことを口にすれば恋が驚いた顔をしている。

「では、時間ですので」

 そろそろ二時になりそうだったので紅茶を持って部屋に入ろうとすると、恋が雅親の背中に声を掛けた来た。

「僕、かおる。本名は馨っていうんだ」
「声に役のぎょうにんべんを取ったものに、香り、で合ってますか?」
「合ってる」

 それだけ確認して、雅親は部屋に入った。

 恋の本名が馨だからと言って、その名前を呼ぶ気にはならなかった。そもそも、雅親は「恋」という名前も一度も呼んだことがない。
 名前を呼ぶほど親しくなるつもりはないし、本名を告げられたところで、呼べるほどの親しみは覚えなかった。
 恋の方も何かを期待したわけではないだろう。
 漢字を聞いてしまったのは間違いだったかもしれないと雅親は思う。
 文字で世界を認識している雅親は、文字を覚えると忘れることがない。

 馨。

 いい匂いとか、かぐわしいとかそういう意味だった気がする。
 今後小説に出てくるキャラクターに軽々しく「馨」という名前は付けられない気がする。
 ただの漢字一文字。だが、それが名前となると重みが違ってくる。
 その重みをどうして恋が雅親に背負わせようとしたか理解できない。名前を告げることにどんな意味があったのかもよく分からない。
 時刻は二時を過ぎている。
 雅親は仕事に頭を切り替えた。
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