二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

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9.雅親の過去と恋の怒り

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 三時になっても雅親は部屋に戻らなかった。
 仕事は気にはなっていたが、今は急ぎのものはないし、それよりも嵐のように雅親と恋の間をかき乱していった充希のことで、恋が傷付いたのではないかと案じていた。
 マグカップと皿とフォークをシンクに持って行った恋に雅親は頭を下げる。

「私の弟がすみませんでした。責められるべきは、このことを決定した姉であって、あなたではないのに」
「僕が現在進行形でまさくんに迷惑をかけているのは本当だから、気にしないで」
「気にします。弟は大事に育てすぎたせいか、私や姉のことになると頭に血が上りやすくなるのです」
「それにしても、まさくんが謝ることじゃないよ」

 大らかに恋はそう言ってくれるが、姉がしたことの結果を恋にぶつけた充希のやり方は、充希を養育したものとしては謝らなくてはいけなかった。

「それよりいいの? 時間」
「今日はいいです。あなたと話す必要があると判断しました」

 神経質だと言われる雅親だが、完璧に時間を守らなければパニックに陥るとかそういうことはない。ただ、この時間で動くことが自分にとって都合がいいからそうしているだけだ。たまにはイレギュラーなことが起きても対処できる。

「正直、あなたのこと、最初はどうすればいいのか困惑していましたが、今では慣れました。掃除も料理も一人分も二人分も変わらないのでそれほど負担ではありません」
「まさくんは丁寧な暮らしをしているもんなぁ。尊敬する」
「尊敬に値するようなものでもないです」

 自分が居心地がよいからやっているだけで、雅親の暮らしは丁寧とかそういう分類がされるものではないと思っていた。料理も自分が食べたいものを作っているだけだし、紅茶も自分が入れたものが一番美味しいと思っているからそうしているだけだ。その手間は大したことではないと思っている。

「弟にも毎日食事を作っていたんですが、あなたみたいに絶賛されたことはないですよ」

 「美味しい」とも言わなかったかもしれない。
 充希にとっては雅親の料理はあって当然のもので称賛するまでもないものだったのだ。
 それに比べれば恋は感謝してくれるし、「美味しい」とも言ってくれる。

「まさくんはもっと自分に自信を持った方がいい気がする」
「私は書くこと以外に取り得はないですからね」
「取り得がないどころか、料理もできる、紅茶も美味しい、お掃除もできる、それってすごいことだと思う。生活力がこんなにあるひとっていないよ?」
「お褒めに預かり光栄ですが、この程度ならたくさんいると思いますよ」
「その上、小説が売れてるとかないから」

 過分な誉め言葉に雅親は恐縮してしまう。
 家事は必要だからやっていただけだし、十歳のころからやっているからもう身に付いてしまっている。小説で評価されるのは嬉しいが、小説もベストセラー作品はあるのだが、それ以外は評価がどうなのか客観的に見てよく分かっていなかった。
 重版されたとか言われるが、それがこの年齢の作家として人並みなのかよく分からない。

 不倫をそれと知らずしてしまった恋と同じく、雅親は雅親で十歳から家庭のことをやっていて、二十歳でデビューしたので小説と小説を書くために必要な知識以外はない世間知らずなのだと思っていた。

「聞いてもいい?」
「なんですか?」
「まさくんは、どうして四十五分仕事して、十五分休憩を取るこのスタイルになったの?」

 ずっと聞きたかったのだろうが機会がなかったであろう恋が、その疑問を口にしている。雅親は思い出しながら言葉にする。

「弟と暮らしてたとき、デビュー当時は弟はまだ十歳そこらで、付きっ切りで遊ばないといけないわけではなかったんですが、時々は大人の目が必要でした。姉は仕事でいないので、私が時々弟の様子を見るついでに休憩していたんです」

 四十五分ごとの十五分の休憩は充希のためのものだった。
 成長して反抗期になって、充希は雅親の入れた紅茶を飲まなかったり、残したりするようになったけれど、それでも雅親は紅茶を入れ続けた。

「みっくん……って言ったら怒られるんだった。充希くんはまさくんの紅茶を残してたの? 飲まないこともあったの!?」
「そういう複雑な年齢を通り越して弟も大人になっていっているんです。反抗期にしてみれば可愛いものだと思います」

 殴り合いの喧嘩にも、激しい口喧嘩にもなったことはない。
 ローテーブルの上に残された紅茶に寂しい気持ちにはなったが、それでも雅親は充希にそのことを伝えたことはなかった。そのうちに充希も反抗期が終わって、雅親の紅茶を全部飲むようになったのだ。

「十歳で家事全般を任されたって、大変じゃなかった? 周囲の大人はどうしてたの?」
「父方の祖父母も母方の祖父母も、私たちのことを心配して、保護者にはなってくれました。でも、私たちを見ると亡くなった両親のことを思い出してつらいようで、何も手につかずに、結局距離を置くようになりました」
「そんなの酷いよ。一番傷ついたのはまさくんと天音さんと充希くんでしょう?」
「それは……」

 そんなことを言われたのは初めてだったので雅親は言葉に詰まってしまった。
 祖父母は優しかったが、保護者という書類上の関係だけ結んで、それ以外のことはしてくれなかった。最初の方は天音が仕事と家事をしていたが、両立は無理で、すぐに家が荒れた。
 このままではいけないと思った雅親が、できることは何でもしていたら、家事担当になっていた。

 十歳やそこらで家のことを何でもするというのは早すぎたのかもしれない。
 天音も十八歳でこの家を支えるために働きに出て、必死に弟たちを守ってくれた。
 充希を預けている保育園には延長保育の時間ギリギリに天音が迎えに行っていた。保育園から帰ってきた充希の面倒を見るのは雅親の役目だった。

 こうして生きてきたので恋愛も何も雅親には縁のないものだった。恋愛より先に充希という子どもができたようなものだった。

「ヤングケアラーだ」
「多分、そうだったんでしょうね」
「発達心理学の本の横に並んでる本に書いてあった。社会現象にもなってるっていう問題」
「私はヤングケアラーだったし、姉もそうだったんでしょう。だからと言って、私がする以外に方法がなかったのも確かです」
「福祉に繋げることはできなかったの?」
「祖父母が保護者としていますから、そっちに頼るように言われたでしょうね」

 お役所とはそういうものなのだと呟く雅親に、恋が憤っているのが分かる。白い顔に血が上って目元や頬が朱鷺色に染まっているのが、俳優らしくて妙に色気があって美しい。俳優というのは怒っていても美しいものなのかと雅親は感心してしまう。

「そんなまさくんに、僕の面倒まで見させて申し訳ないと思ってる」
「気にしないでください。あ、いや、気にしてください」
「え!? どっち!?」
「気になるなら、少しずつ覚えていけばいいではないですか。私は弟にも家事は教えました。あなたも物事を覚えるのは得意でしょう?」

 特に体を使って覚えるのは得意なはずだと雅親が言えば、「そうかもしれない」と恋が答える。
 俳優なのだから体を使って覚えることは得意なはずだ。

「もう卵かけご飯が作れますし、パリパリチーズも作れます」
「そうだった。教えるのも上手だったね、まさくん」
「次はお米を炊いてみましょうか」
「そしたら、お米を炊いて、卵を割って、卵かけご飯ならいつでも食べられるようになるね」

 心配して憤っていた顔からすぐに明るく嬉しそうな表情に変わる恋に、雅親が頷く。
 雅親はいつの間にか、恋のことを充希のように思っている自分に気が付いていた。

 充希よりも恋は素直で雅親のことを真剣に心配してくれる。
 雅親の過去に憤り、雅親がヤングケアラーであったことに怒りを覚えてくれる。

 何より、雅親が入れた紅茶を残さずに飲んでくれる。

 ティーポット一杯入れるとマグカップ二杯分は入ってしまう紅茶。
 その紅茶の二杯目を、恋は飲んでくれるひとだった。
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