二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

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13.恋の決意

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 恋が突然一緒に暮らしたいとか言ってきた。
 今も一緒に暮らしているがスキャンダルが落ち着いてからも一緒に暮らしたいなどと言われて、雅親は正直面倒だと思ってしまう。
 家事を教えたり、知らないことを説明したりすることに苦痛を感じたことはないのだが、一緒に暮らしていることで雅親が騒がれるようになると、それが面倒なのだ。
 今回のことは恋にとっては初めてのスキャンダルだったかもしれないが、それで外出もできなくなっている恋に巻き込まれて、雅親まで外出のできなくなるような事態にはなりたくない。

 初めて会ったときのインタビューで恋の演技に対する姿勢は、命を懸けてもいいようなものだったと理解している。その点においては雅親は恋を認めていた。
 恋が戯れに雅親を「センセ」と呼んだときには、あの美しい顔と均整の取れた体型で言われると、性欲などないと思っている雅親でさえ、妙な感情を覚えそうになったものだ。

 何を考えているか分からないが、恋とずっと一緒に暮らすのは困難な気がする。
 雅親は恋と恋愛関係にはならないと思っているし、恋も恋愛の相手は今まで全部女性だったので雅親が対象にならないと分かっているが、それでも、世間がどう思うかは分からない。
 同性愛の関係なのだと騒がれたら、また恋はスキャンダルで外に出られなくなって、雅親もそれに巻き込まれるのではないだろうか。

 考えていたのは一瞬で、雅親の筆はいつもの通りに進んだのだが、三時四十五分になってリビングに出るのを少し躊躇ってしまった。
 リビングには恋がいる。
 「まさくんは、僕と暮らすのは嫌?」という問いかけに雅親は答えていない。

「この時間はラジオ体操だね。タブレットの用意をしておいたよ」

 この時間には毎日雅親と恋はラジオ体操をしている。雅親が運動不足にならないように組み込んだラジオ体操だが、恋も加わるようになった。
 最初は雅親の書き上げた原稿をチェックするためのタブレット端末を立てて置いて、ラジオ体操の動画を流しながらラジオ体操をしていたのだが、今は恋が自分のタブレット端末を立てて準備してくれている。
 腕が当たらないくらい離れてラジオ体操を始める。
 無言の雅親に、恋も無言だった。
 ラジオ体操が終わると冷蔵庫から水のペットボトルを取り出してマグカップに注ぐ。恋にも差し出すと、マグカップを出して注いでもらっている。

「まさくん……いや、雅親さんって呼ぶね。これまで、まさくんって呼んでてごめんなさい」

 急に改まる恋に水を飲みながら雅親は聞く。

「天音さんから連絡が入ったんだ。まさく……雅親さんの原作の舞台が行われるって。それのオーディションに出て、スキャンダルからの復帰第一弾の仕事はそれにしたいと思ってる」

 恋が仕事に復帰する。
 そうなると当然雅親の部屋を出て行くはずだ。
 それが分かっていたから恋は駄々をこねるようなことをしたのだろうか。

「冷静に考えてください。私が舞台の選考に全く関わっていないとしても、原作者と一緒に暮らしている状態で私の作品のオーディションを受けるという意味を」

 例え恋が役を勝ち取っても、原作者と一緒に住んでいたのだったら、忖度があったのではないかと思われても仕方がない。そのことを指摘すれば恋の表情が引き締まる。

「雅親さんと暮らしたい気持ちは本当だよ。僕は雅親さんとの暮らしに救われてる。でも、雅親さんの言うこともその通りだ。だから、僕は舞台の間は自分のマンションに帰る。雅親さんが教えてくれたから、洗濯もできるようになったし、米も炊けるようになった。パリパリチーズも作れるし、卵かけご飯も作れる。それ以外でもレシピを見れば僕も料理ができるかもしれない」
「それならいいのですが」
「僕の舞台、見に来てくれる?」
「それは、ある意味私の舞台でもあるわけですから、当然見に行きますよ」
「僕を見てほしい」
「あなたも舞台上にいたら見ます」

 じっと雅親の色素の薄い目を覗き込んで、恋が雅親の手を握ろうとしてくる。それを雅親はそっと避けた。触れられると違和感があるし、恋の体温に慣れたくないと思ってしまったのだ。

「明日の朝にはここを出て、オーディションに向けて準備を始める。そろそろマンションに張り付いてる記者も飽きただろうから」

 そんなに簡単にいくものなのだろうか。
 スキャンダル誌の記者の面倒くささは雅親も知らないわけではない。
 恋愛などするつもりもない雅親に近付いてきて、雅親の小説が原作となっているドラマの役をもらおうとした女優との写真を撮られて雅親も騒がれたことがあった。あのときは本当に面倒だった。
 事実無根だと出版社を通して声明を出しても、記者は鬱陶しくコバエの様に雅親の周りを離れなかった。

「晩御飯はカツオのたたきですが、あなた、お酒は飲みますか?」
「少しだけ」
「どんなものが好きですか?」
「エールっぽい香りのいいビールが好きかな」

 好みを聞いて雅親は四時からの仕事を今日はしないことにして、一度部屋に戻ってパソコンをシャットダウンしてスーパーに買い物に行った。
 エールのような香りのいいビールというのは最近の流行りのようでお酒のコーナーに売っていた。
 普段から紅茶とコーヒーしか飲まない雅親も、今日はそれに合わせてコーラのカロリーゼロのものを買っておいた。

 マンションの部屋に戻って、ビールとコーラを冷蔵庫に入れると、夕食の準備をする。
 生のカツオを鉄灸で炙っていると、恋が覗き込んできて目を丸くする。

「なにこれ?」
「鉄灸です」
「てっきゅうってなに?」
「魚を焼く網のことです。この網は鉄の棒を組んだようになっていますが、カツオのたたきはうちではこれで焼きます」
「初めて見た。カツオのたたきって自分で焼くんだね」

 驚いている恋の前でカツオのたたきをクッキングペーパーで巻いて冷まして、その間に恋に米を炊いてもらって、雅親はみそ汁と小松菜のコーン炒めを作る。
 冷めたカツオのたたきは切って、たっぷりの薄切りにした生玉ねぎとカイワレを乗せて、生姜をすって薬味として添える。

 カツオのたたきと炊き立てのご飯と具だくさんのみそ汁と小松菜のコーン炒めの夕食に、ビールとコーラを冷蔵庫から取り出してグラスに注ぐ。

「乾杯とかしていい流れ?」
「してみますか?」

 グラスを打ち合わせると、恋の表情がぱっと明るくなる。
 顔立ちだけは整っていて美しいので、笑うと少女漫画的な表現だったら花が飛び出しそうだ。

「ここでビールを飲めるだなんて思わなかった。これ、僕の好きな銘柄だ。よく分かったね」
「一番売れていると書かれていたので買ってきました。お好きだったならよかったです」
「多分、ここから出たら僕はまたいっぱい叩かれると思う。でも、演技がしたい。この気持ちには変わりはない。演技ができるなら僕は何でもする」

 明日の朝には恋はいなくなってしまう。
 そうすれば雅親はまた元の生活に戻るだけだ。何か感じることもない。
 ただ、紅茶の二杯目を飲んでくれる相手はいなくなる。
 紅茶を入れたら二杯目はリビングのローテーブルの上で冷えていくだけになってしまう。

 恋がいてもいなくても雅親の生活は変わらないはずだった。
 それなのに、紅茶の二杯目が残ってしまう点についてだけはどうしても恋の不在を感じなければいけない。
 寂しいとか、恋がいないと困るとか、そんなことは全くない。
 元の生活に戻ることを雅親はずっと願っていた。
 だが、飲まれないで残る紅茶のことを考えてしまうのだ。

 二時四十五分のコーヒーは入れなければいいだけのこと。
 三時四十五分のラジオ体操も一人でやればいいだけのこと。
 元々イレギュラーに生活に入り込んできた恋が、この生活から抜けるだけのことなのだ。

 一時四十五分の紅茶。それだけが雅親にとっては少し心に引っかかるできごとだった。
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