二杯目の紅茶を飲んでくれるひと

秋月真鳥

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12.閉じた世界

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 恋が雅親の部屋に駆け込んできたときに持ってきたのは数日分の衣服と台本だけだった。久しぶりにミュージカルの台本を見直すと、無意識のうちに恋は歌ってしまう。全パート、全キャストの歌を恋は覚えていた。
 興が乗ってきて高らかに女性パートを歌いあげているときに、雅親の部屋のドアが開いた。
 一時四十五分になっていたのだ。
 焦って歌を止めた恋に、雅親が珍しく瞬きを繰り返している。表情の薄い雅親が驚いているのだと恋には分かるようになっていた。

「その声、動画でも見ているのかと思いました」
「ごめん、うるさかった?」
「いいえ、とても上手でした。女性パートも歌い上げるとは思いませんでした」

 歌声はしっかりとドアの向こうの雅親にも聞こえていたようだ。恥ずかしくはないのだが仕事の邪魔になったかもしれないと思うと恋は反省する。

「あなたの声だとは思いませんでした」
「僕は演技に合わせて声を変えられるし、女性の役もまだ華奢だったころはやっていたから、歌も歌えるよ」

 ふと台本を広げて、恋がその一文を読む。

「『あなたにその大役が務められるとは思いませんけどね』」

 そこから繋がる曲を歌っていくと、雅親がまた瞬きをしている。

「その声、いつもの声と全く違いますね」
「これも僕の声だよ。もう使うことはなくなったけど」

 身長が伸びて、体格もよくなっても、恋の声は変わらなかった。様々な声を使いこなせるのだが、役として女性役でドラマや映画、舞台に出るわけにはいかなくなった。

「アニメや洋画の吹き替えならどうですか?」
「わざわざ僕を使わなくても女性の役者さんも声優さんもいっぱいいるから」

 少しでも雅親が恋の声を惜しんでくれることが恋には嬉しかった。
 雅親は恋のことなど全く興味がないかと思っていたのだ。

 紅茶を入れる雅親に恋が聞く。

「今日の紅茶は何?」
「ブリティッシュ・クーラーです」
「どういう紅茶?」
「サラトガ・クーラーというノンアルコールカクテルをイメージした、発酵の浅い、すっきりとした夏のフレーバーティーです」
「サラトガ・クーラーってどんなノンアルコールカクテル?」
「ジンジャーエールにライムを入れたものです」

 それで部屋中に柑橘系の匂いが広がっているのだと納得して、恋は入れてもらったブリティッシュ・クーラーを飲んでみる。発酵が浅いのでダージリンと似た薄い水色すいしょくをしている。飲むとライムの香りが口の中に広がって、爽やかだ。

「冷ましてアイスで飲んでも美味しいですよ」
「それなら、しばらく置いておこうかな」

 そんなことを話しながら、恋は雅親に聞けないことがあった。
 時間的にもそろそろ二時なので雅親は部屋に戻ってしまう。

 雅親は恋愛をしたことがあるのだろうか。
 恋愛の対象は男性だろうか、女性だろうか。
 性的なことをオープンにするのはそれぞれのタイミングがあって、無理に聞くことではない。分かっているのだが、雅親の恋愛対象は同性なのか異性なのか、気になってしまう。

 恋自身は自分を両性愛者バイセクシャルではないかと思い始めていた。
 これまで付き合ったのは女性ばかりだが、雅親を前にして落ち着かない気分になるようになっている。雅親の恋愛対象を知りたいとそわそわしてしまう。
 これがこいでなくてなんなのだろう。

 時間になったので雅親が部屋に戻って行ったのを恋は名残惜しく見送った。
 充希が来たときにはスケジュールを変えて恋のために時間を割いてくれたが、雅親も売れっ子の小説家としての仕事がある。恋にばかり付き合ってはいられない。

 それでも午前中は恋に付き合って洗濯を教えてくれた。
 午前中に仕事ができなかった分、雅親は仕事に追われているのかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちと共に、仕事を置いてでも恋に付き合ってくれたという喜びがわいてくる。
 これでは充希の言葉ではないが、本当に雅親を過労死させるのではないだろうか。
 恋は雅親とどう暮らせばいいのかもう一度考えさせられる事態になっていた。

 二時四十五分には雅親は部屋から出てきて、コーヒーを入れてくれた。
 コーヒーメーカーの使い方も、恋は覚えようともう一度習う。

「レバーを上げて、カプセルを入れて、レバーを降ろして、スイッチを押すだけです」
「前にもまさくん教えてくれたのに、あのときは聞かなくてごめんなさい」
「謝ることはないですよ。覚えたいタイミングがあっただけでしょう」

 まさくんの入れるコーヒーの方が美味しいだなんて、駄々をこねたことが今更ながらに恥ずかしい。こうやって周囲に甘えて恋は何もできないまま育ってきたのだ。
 俳優として売れていて、両親も女優と俳優で、お金には困ったことがないから、いざとなれば何でも買えばいいとしか思っていなかった。
 洗濯だって全部クリーニングに出して、下着は一回で捨てて買い換えていたのだからどうしようもない。
 今ならば少ない衣服しか持ち込んでいないので、毎日雅親が洗濯をしてくれていたのだということに思い当る。

「何でもできるようになったら、ここを出て行かなくてもいい?」

 思わず零れた言葉に、雅親が恋の顔を凝視していることに気付く。
 自分でも自覚していなかったが、スキャンダルが落ち着いたら恋はこのマンションを出て自分のマンションに戻って、自分一人で暮らさなければいけない。
 寂しいなんて思ったことはなかったが、今は雅親がそばにいなくなると自分がどうなるか想像が付かない。

「そういうわけにはいかないでしょう。私と暮らすのはあくまでもスキャンダルのせいで、あなたが元通り働けるようになったら、当然自分のマンションに帰るのですから」
「まさくんと暮らしてると、僕はもっと成長できる気がする。まさくんに教えてほしいことがまだある。僕はまさくんと暮らしたい」

 正直に告げると雅親が困惑しているのが分かる。表情の変化は薄いが、恋はそれを読み取れるだけの観察眼はあった。

「私と暮らすわけにはいかないでしょう」
「どうして? 家賃も食費も水光熱費も払うよ? 家事もちゃんと分担する。ルールを作ればいいんでしょ?」

 最初に恋が駆け込んできたときに、雅親はルールを作ろうと言った。それを嫌がって無視したのは恋だ。今になってそれを持ちだすと、雅親は動揺しているようだ。

「シェアハウスをしたいのですか?」
「そんな感じ、かな」
「それなら、姉に場所を探してもらったら……」
「僕が誰か分かってるよね? そんな場所、簡単には見つからないことも、シェアハウスの相手が僕のプライベートを売らない保証もないんだよ」

 シェアハウスを探せばいいと言われたが、それはできないと恋にも分かっていた。それをするには恋は有名すぎるのだ。
 有名な恋を過剰に反応することなく受け止めてくれるのは雅親くらいしかいない。
 スキャンダルが落ち着いてもこのマンションにいたいという恋の申し出に、雅親はどう断ろうか悩んでいるようだった。

「時間なので仕事に戻ります」

 結局話の途中で時間が来て雅親は部屋に戻って行った。
 雅親の背中に恋は声を掛ける。

「まさくんは、僕と暮らすのは嫌?」

 その問いかけに雅親は答えなかった。

 リビングで一人になってから、恋は自分の言ったことに少し後悔していた。
 恋は不自然ではなかっただろうか。
 雅親に恋の執着のようなものが見えていたのではないだろうか。

 触れられるのが嫌いな雅親は、多分恋の執着も好ましく思っていないに違いない。
 毎日同じスケジュールで生きて、恋がいてもそれを崩そうとしない雅親の世界はとても閉じられたもののように恋は感じていた。

 恋の世界は狭かったが閉じられたものではなかった。
 自分で勉強して世界を広げることもあれば、女性と付き合って世界が広がることもあった。
 不倫騒動の有名女優のように恋の世界を無理やりこじ開けて広げようとする人物もいた。

 それに対して、雅親の世界はあまりにも刺激が少ない。
 自分の殻に閉じこもっているような印象を恋は受けてしまう。

 両手で作った輪の中で、世界を小さく刺激のないように閉じ込めて雅親は生きようとしているのではないか。
 それで雅親は幸せなのかもしれないが、そんな箱庭のような場所で息が詰まらないのだろうか。

 雅親の両手で作った輪を切って、世界を広げたい。
 そう思うことは傲慢なのだろうか。
 恋は三時四十五分のラジオ体操の時間を待っていた。
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