気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年7月 微生物学基本コース

101 気分は自由恋愛

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「へえ、これが黄色おうしょくブドウ球菌なんですね。確かにブドウみたいな色と形です……」

 わずか10分足らずで染色を済ませたマレー先輩に促され、僕も実習テーブルに近づいて光学顕微鏡を覗いていた。

 視野の先には青紫色の丸い細菌がブドウのように集合しており、全く「黄色」ではないがブドウという名前がついているのも納得だった。

「また来週見せるが大腸菌は赤色で棒のような形だ。そういう細菌は何といったかな?」
「えーと、グラム陰性桿菌ですよね」
「その通り。よく分かってるじゃないか」

 マレー先輩は満足そうに頷くとてきぱきと器具や試薬を片付け始めた。


 ひとしきり黄色ブドウ球菌を観察すると、僕は片付け中のマレー先輩にあることを尋ねた。

「あのー、グラム陽性球菌としては黄色ブドウ球菌を、グラム陰性桿菌としては大腸菌を実習に用いるって話ですけど、グラム陽性桿菌とかグラム陰性球菌はどうなんでしょう?」
「ああ、その話か。まずメジャーな細菌は大体グラム陽性球菌かグラム陰性桿菌で、グラム陽性桿菌とグラム陰性球菌はそもそも種類が少ない。その中から毒性が弱いものを選んで培養するのも難しいから、この大学の学生実習では基本的にグラム陽性球菌かグラム陰性桿菌しか使わないんだ。まあ事実上は黄色ブドウ球菌と大腸菌しか使われないと言っていいだろう。これはオフレコで頼む」
「な、なるほど……」

 この大学のグラム染色の手技試験では顕微鏡観察の正解が2通りしかないと知らされ、お得な情報ではあるが先輩もぶっちゃけ過ぎではないかと思った。

「それぞれの手技の意味については毎回考えて欲しいし、書いたのを俺に見せてくれれば簡単に添削するから持ってきて欲しい。松島先生からも白神君が自力で考えた内容にアドバイスするのは許可されている」
「そうなんですか? ぜひお願いしたいです」

 グラム染色の手技の意味はそれぞれ考えていたが、レポートをいきなり松島教授に見せるのは気が引けたのでマレー先輩に添削して頂けるのは非常にありがたいと思った。

 それから片付けを終えて衛生的手洗いを済ませると、先輩は一息ついて実習室の丸椅子に座った。


「いやー、今日は大変だった。慣れてる作業でもやっぱり人に見られていると違うな」
「本当にありがとうございます。免疫染色よりかかる時間はずっと短いですけど、短時間でスムーズにやらないといけないのは別の意味で難しいですね」

 以前に剖良先輩から習った免疫染色は待機時間を含めて6時間ほどかかり解剖学の基本コース研修中はいつも死にそうになっていたが、実際には少し作業しては長時間待機の繰り返しだった。

 その一方でグラム染色は待ち時間がほとんどないものの休む暇なく手を動かす必要があるようだ。

「最初はそう思うだろうが何回もやってると難しくは感じなくなる。ただ、HE染色や免疫染色とは違って細菌とかガスバーナーを扱うから常に危険と隣り合わせではあるな。免疫染色で使うキシレンとかメタノールも当然危ないんだが、細菌は目に見えないしガスバーナーは単なる火傷だけじゃなくて試薬に引火して大惨事になる危険性もある。実験の手技に不慣れな頃よりも慣れてきた頃に事故を起こしやすいから、白神君がもし微生物学教室への配属を希望してくれるなら安全第一という意識は常に持って欲しい」
「分かりました。心得ておきます」

 1回生の生物学実習や組織学実習の頃から顕微鏡観察はそこそこ好きだったので、解剖学教室や病理学教室、そして微生物学教室といった顕微鏡を扱う基礎医学教室には以前から興味がある。

 といってもまだ基本コース研修すら終わっていないので今の時点ではどこの教室に配属されたいとは決めていないが、安全第一というマレー先輩のアドバイスはどの教室に進むにしても有意義なものだと思った。


「そういえば来週の日曜はオープンキャンパスだけど、白神君は来てくれるか?」

 マレー先輩の言葉に、僕は以前ヤミ子先輩から誘われていた学内イベントのことを思い出した。

 7月14日の日曜日は畿内医科大学医学部の第2回オープンキャンパスで僕もこのイベントには参加することになっていた。

「ええ、ちゃんと予定空けてありますよ。日給5000円でお弁当も貰えるんですよね」
「その通りだ。参加申込をしてくれてるなら明日か明後日には入試広報センターからマニュアルと役割分担表がメールで送られてくるはずだから、ぜひ目を通しておいてくれ」
「もちろんです。当日はヤミ子先輩とかも来られるんですか?」

 5月にヤミ子先輩から聞いた所によると研究医養成コースの先輩方も参加するとのことだったが、実際どうなるのかは確認しておきたかった。

「もちろんヤミ子君は来てくれるし剖良君やヤッ君も来る予定だ。元はと言えばヤミ子君と剖良君が1回生の前半から積極的にオープンキャンパス委員として活動してて、俺もヤッ君も彼女らに誘われて参加したんだ。あの2人は医学生として優秀だしいわゆる綺麗所きれいどころだから受験生にも保護者にも人気が高い。オープンキャンパス委員のうち美男美女はキャンパスツアーとか病院見学の引率を担当して、俺みたいなのは受験相談とか裏方の仕事をやるのが慣例だな。申し訳ないが白神君には俺の後継者になって貰うぞ」
「ははは、光栄です……」

 そういう意味での後継者はあまり嬉しくないがとりあえず笑ってごまかした。


「研究医生だと2回生以下はどうです? カナやんとか壬生川さんもそうですけど1回生もいるんですよね」

 僕が直接知っている研究医養成コース生は2回生と3回生しかいないが、実際には4回生~6回生に加えて1回生もいるはずだ。

「1回生の研究医生は今のところ3人いて、今回のオープンキャンパスには3人とも来てくれることになってる。生島君は用事で来られないらしいが壬生川君は1回生の某男子学生と折り合いが悪い……というかすごく敬遠しててな。その男子学生が来るというので急遽来ないことになった」
「えーと、それはどういう……?」

 壬生川さんは女子バスケ部にしか入っていないこともあり元々男子学生の知り合いは非常に少ない。その壬生川さんがとある1回生男子を敬遠しているという話は気になった。

「白神君は壬生川君といい仲だと聞いてるから言っておくが、1回生の計良けら君という男子学生は恐ろしいまでの女好きでな。4月にあったオープンキャンパス委員の新歓立食パーティーでは入学したばかりのくせに先輩の女子学生に次々声をかけて最後は松島先生にゲンコツを食らっていた。といっても誰か一人にしつこく迫ったとかじゃないしヤミ子君や剖良君はあっさりいなしてたんだが、壬生川君は計良君に怯えてしまったようで彼が来るイベントにはもう来たくないらしい。もちろん計良君が悪いんだが、まあ壬生川君らしい反応ではあるな」
「何というか、その計良君って医学部には珍しいタイプの学生ですね……」

 医学部医学科に入ってくる学生のうち現役や一浪で入学してきた人には高校生の頃から真面目だった人が多い。再受験生はもちろん多浪経験者も先輩と歳が変わらなかったりする関係上新入生でもある程度落ち着いている(というか落ち着かざるを得ない)ので、医学部の新入生で女の子に声をかけまくる人物というのは見たことがなかった。


「そう言うと計良君はやばい男だと思うかも知れないが、オープンキャンパス委員の仕事は真面目にこなすし人当たりも決して悪くない。先輩や先生方に楯突いたりはしないし受験生や保護者にもちゃんと敬語で話せる人間だ。壬生川君を怖がらせた件もちゃんと反省してるから、白神君もどうか彼を許してやって欲しい」
「あの、許すというか僕は壬生川さんとお付き合いしてる訳ではないので……」
「えっ、そうなのか!? 申し訳ない、てっきり正式に交際してるものだと思ってた」
「いやまあ、その辺りはまだはっきりしてないので」

 壬生川さんとの関係は僕自身曖昧なままにしてしまっている自覚はあるものの、今は流れに任せるしかないと考えていた。

「あまりお節介はしたくないが、どっちつかずな態度で女の子を怒らせると後が怖いから決断しなきゃいけない時には迷わないようにな。単に付き合うだけなら上手くいかなければ別れたっていいんだ。自由恋愛はできるうちに楽しんだ方がいい、本当に……」
「えーと、ありがとうございます……」

 大学入学直前に自由恋愛ができない状況に放り込まれた先輩の言葉と考えると説得力がすごいと思った。


 来週土曜日も同じ時間と場所でグラム染色を見学させて貰うという予定を確認してから僕はマレー先輩と共に実習室を後にした。

 ついでに駅前のラーメン屋で昼食をおごって貰いながら、僕は優しい先輩方に囲まれて幸せだと感じた。
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