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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第001話 ―― 追いかけてくるキ憶
しおりを挟む海を渡る術を発達させ、空を進む手段が現れてなお、大多数の人類が夜の闇を恐れる時代。
今まさに一人の少年を責め苛むものは、慣れない舟に揺られていることでも、櫂をなくしたことでも、陸を見失ったことでもない。
友と誓った約束を果たせない、という可能性を実感したことだった。
命はすでに使い道を決めていた。
だからその使い道である約束を果たせないことにしか意識が向かず、それが死の認識以上に胸を締め付け、頭に重く圧し掛かる。
あと胸に痛みを生む不安は、同乗者の命運だろうか。
自分のことに関しては自業自得という言葉が鮮明で、自罰的な感傷を覚え、他人を巻き込んだ罪悪感も湧き、いよいよ致命的な事態に陥れば命をもって償うべし、という声まで聞こえてきそうだった。
昼間なのに空が暗いのは、嵐の前触れに他ならない。
遠くでは世界中の灰を積んで作ったような雲が、神の領域たる天を不遜にも分断し、より黒いところから光の蛇を生みだす。
遅れて凄惨な産声が世界に轟く。
雷、という名前を付けられる前に消えていく我が子たちに嘆き悲しむことすらない巨大な母は、無分別に次々と光の蛇を生み落とした。
「ラーフ……ごめん……」
天を仰いだ少年の謝罪は、人の耳に届けるには、か細すぎた。
けど、その胸の内の思いは全て詰まっていた。
「すまねぇな……」
野太い声で謝罪したのは、舳先で水平線を見つめる大柄の男だ。顔の半分を髭で覆い、着心地のよさそうな服に、革に鉄を張り合わせた籠手と同じつくりの脛当を装着し。海獣の毛皮の長靴を履き、熊の毛皮の外套を羽織って、腰に提げた斧を乱暴に振り回すのがお似合いの風体だ。
けれど彼の謝罪は誠実で、暗い表情と相まって心からの悔恨の念が窺える。
少年は相手に意識を向けると、今度は俯き加減で首を横に振る。
「船長のせいじゃないよ。むしろ感謝してるんだ。見ず知らずの俺の頼みを聞いてくれて。むしろ巻き込んでごめんなさい……」
船長は振り返り、獣のように鋭い目を若者に向ける。しかし、目を瞑ると年長の彼も首を横に振り、重々しく漕ぎ手座に腰を降ろす。
「いいや、お前のせいじゃねえ。それに……、あんな話を聞かされて手を貸さないなら男が廃るってもんだ。俺はなんせ世界一の船乗りだからな。まあ、勇敢さに関しちゃ俺の義兄が一番だが……」
そう言って笑って見せる。
少年も微笑んだが、しかし、自責の念に面持ちが暗くなる。
「でも……」
少年言葉を遮って船長は語る。
「運が悪かったんだ。陸が見える場所で“ケートス”に襲われるなんて……。しかも嵐まで起こしやがって……」
「アルスヴィットのお陰で逃げられたけど。大丈夫かな……」
船長は顔を上げて言い放つ。
「アルスヴィットなら大丈夫だ。あいつはそんじょそこらのモササウルスじゃない。海洋生物には過酷な北の海にも負けず、俺と十数年、荒波を越えてきた上、今まで4頭の子供を産んだ。あんなチビ魔物にやられるわけない……ッ」
腕を組む船長は自信たっぷりに胸を張る。
少年は笑った。
「そうだね、アルスヴィットも十分大きかったしね」
そうだろ! と我がことのように自慢げな船長の顔には、最早、悲観の色はなかった。
それで少し気を持ち直した素振りの少年は、前のめりで尋ねた。
「でも、あのケートスってチビだったの?」
船長は深く頷いた。
「ああ、あんなのチビだよ。伝説のケートスは大陸ほどに大きく背中に島を載せてるんだ……。あれ、これはクラーケンだったか?」
得意気に語った船長は空に視線を向けて首を傾げた。
その様子が可笑しかったのか、少年は笑みをこぼす。
「クラーケンも島のように大きいんだって。そしてケートスは神が天罰に行使する獣でさ……。だから、もしかしたら本当に島を背負ってるヤツもいるかもしれない」
「物知りだな。それも友人の教えか?」
船長は気さくに言ったが突如表情を失い、ともすると申し訳なさそうに視線を逸らし、頭を下げた。
「すまん、余計なことを言っちまったか?」
船長の視線は少年が膝に乗せる分厚い書物に注がれる。
赤く染め上げた革の装丁を撫でる手には、装丁と同じ色に染まる帆布の切れ端が巻き付いている。見ているだけで痛々しいのに、彼自身の撫でる手つきは、痛みを和らげるために母親が我が子の患部に触れるような慈愛と労りに満ちている。
微笑む少年の眼差しには悲痛が宿り、海の青を濃くした色が揺らいだ。
「気にしないで、船長の言う通りなんだから。何も知らない俺に読み書きと言葉、そして、沢山の知識を教えてくれたのは……ラーフなんだ」
目を瞑るだけで鮮明に思い出すのは、同い年の少年の、溌剌とした笑顔だった。
「ノック! あれ見て! もしかしたらグリフォンかもしれない!」
少年は草原を走っていた。
それを追いかけるのは未だ本を手にせず、船長と邂逅した時と比べればまだ幼さが残る少年ノック。
彼は友人の背に手を伸ばし、必死に追いかける。
「待てよラーフ!」
山間のなだらかな丘陵に広がる草原は毎年放牧が行われる。
今は春の放牧の季節で、その地の羊飼いが群れを従えてやってくる。
空を舞う大きな影を目指して走るラーフは、右手の甲に描かれた図像に語り掛けた。
「シャフル! 来て!」
その図像は空に吠える狼を風に舞う木の葉が流れるように囲っており、少年の言葉に反応し、図像を成す線が萌黄色に燐光し、囲った肌を同じ色で埋めた。
快活に走るラーフは、一見すると線が細く髪を伸ばせば女性と間違えられる容姿だ。しかし、自分よりも多少屈強そうなノックを引き離し続ける。
勿論、ノックも全力で走っているし、同じ若者の中でも彼の体力と脚力が劣っているわけでもないだろう。
ただ、目を輝かせたラーフの集中力は体の限界を忘れさせ、どころか飛躍的にその力を増幅させたのだ。
ノックも理解している。自分の幼馴染は、いったん興味を惹かれると牧羊犬と並ぶ感覚と脚力を発揮し、目標に向かって突っ走るのだ。それこそ1日で山を5つも超えたことがある。
流石にその時は、帰りも遅くなったことで大人たちに怒られた。
なぜか自分も、ちゃんと見張っていなかったと言う咎で、自分の親父にしこたま怒られた。
だから若干恨んでる。
そして今回もラーフの心は、よく乾きながら油を含んだ松の薪のように着火し、膨れ上がった興味の炎がほかの感情も思慮も焼き尽くして、足はどこぞの英雄か神の如く働く。
ノックも人知を超えようとする友人に負けまいと全力を出す。
そんな直向きな彼を容易く追い越したのは、焼き物の鈴の音、それと彼の腰を超える体高の狼だった。
白地に灰色の流れるような毛並みが特徴的な狼は、走るラーフの股に頭を突っ込んだかと思うと、ラーフも心得たもので、狼の鼻梁に手を添えて、持ち上げられるのに合わせて地面を蹴り、狼の背中へ腰を移動させる。
少年を乗せた狼は首に下げる土鈴を鳴らして加速した。
「ずるいぞ! シャフルゥウウウ!」
友人の声も忘れたラーフは、図像が光る手の甲を掲げた。
「我が紋章よ聞き給え! ハシバミ、ミミズクの羽、東方の砂塵……。足に翼を! その歩みに加護を! 風を味方につける勅令の円周を復唱する! 《ヴェロキ》‼」
狼シャフルの体表を覆う柔毛から紋章と同じ光の粒子があふれた。
緑色の粒子は狼の全身を薄く包み込み、鼻先で絶えず生まれる一層濃く明るい光の帯は、踊る雲のように捻じれながら尻尾の端に向かって疾走し、毛先を撫で回す。
その様は近くで観察すれば、流れる雲の軍列と形容でき、一歩離れて見れば、今まさに走っている草原が風に揺られて朝日を反射する情景を想起させた。
光の神秘が見せる鮮やかな造形が獣の体に溶けて馴染んでいくと。
元の色彩を取り戻す狼の体の輪郭を萌黄色の燐光が飾る。
シャフルは大気を押し退けながら駆け抜け、輪郭を縁取る燐光の尾を引いて、より加速する。
まるで風を受けた帆船のような勢いで友人を乗せた獣が丘陵を疾走すると、幼馴染はたまらず大声をまき散らした。
「置いてくなぁあああああ!」
ノックの絶叫は、優しい風によって山々に運ばれ、哀れなエコーが復唱する。
全力を尽くしたノックは、とうとう息が切れて足を止め、膝を掴んで何とか立っていた。
そこに牧杖を持った男性が近づいて笑いかける。
息も絶え絶えなノックは名前を呼ばれて、男性に振り向いた。
「ヒースおじさん」
大丈夫かい? という羊飼いヒースの優しい心配に、ノックは手の平を挙げて応じた。
いかにも疲弊した少年の体調を慮ったヒースは、そうかそうか……、と理解を示して頷き、遠ざかる狼に乗る少年を目にした。
「また我が子が憑りつかれ、君に迷惑をかけたらしい。申し訳ない……」
「いえ……、むしろ、声を上げて羊飼いの仕事に迷惑をかけたかもしない」
とノックは呼吸も整うと他人に配慮する余裕も取り戻す。
この季節の丘陵地では、羊飼いほど忙しい者はいない。
2か月前に各羊飼いの家では、大体160頭ほどの子羊が誕生して、今日までにそのうち20頭ほどが死んだ。
悲しいことだが例年と大差ない。
嘆く暇もなく春が訪れ、離乳まであと一月の子羊たちに栄養の詰まった乳を飲んでもらうために、そして、母羊には冬を越え来年また頑張ってもらうための体力を蓄えさせるため、群れを連れて、こうして新鮮な草を求めて放牧を行う。
もし羊たちを不調にさせたら食が進まず、あるいは獣に襲われれば、また頭数が減るのだ。
神経質にならざるを得ないだろうに、羊飼いのヒースは息子も受け継いだ持ち前の穏やかさを保って、遠巻きに百数頭の白い群れを見つめる。
その白い群れの縁をなぞる灰色と茶褐色の影は、素早く忙しなく動き、群れの綺麗な輪を整えていた。
ヒースは。
「いつもすまんね。うちの息子は一度興味の薪に火が付くと燃え尽きるまで止まらない。一体誰に似たんだか……。いや」
わかりきってるか……、と最後にヒースが添えた言葉には深い思いが滲んでいる。
懐かしさとも憂いともつかない感情に対して。
ノックは唾を飲み込み、肺を清涼な空気で満たすと、ゆっくり息を吐き出してから答える。
「そりゃあ、モンラ爺さんだよ。里の全員が知ってる。あの本の山だってモンラ爺さんが残していったんだ。うちの親父も言ってたよ。例えラーフが本屋の息子だったとしても、あの性分になったことにモンラの影響がないわけない、って……」
ヒースは緩やかに首を横に振り、天を仰いだ。
「まったく……。叔父も面倒なもんを残してくれた。これじゃあ、放牧の仕事も俺の代で終わっちまうな」
ノックは斜め上を見て思いを巡らせる。
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