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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第014話 ―― 夜のただ中にて
しおりを挟む【前回のあらすじ――。少女メリアは頂いた羊の乳の生産者である羊飼いのコムンの仕事を手伝うこととなる。一方、ノックは水差しを家に戻しに帰ったところで、父親ダロンとメリアの祖父ヘイミルが森の異変の調査から帰宅し、獣脚類の徘徊や増水した川の懸念を話し合うのを盗み聞きした】
森に入ったノックは周囲を注意深く見渡しながら、草の坂を上り、そしてトウヒの林に突入する。
定期的に伐採がなされ、自然の力も手伝い育まれた光景には、角度によって人の手による整然とした木の列が垣間見える。
人気は勿論、何故か動物の気配もない。
栗鼠も小鳥も烏も影も見せない。
いつもなら森の住民たちの声がひっきりなしなのに。耳を澄ませてみても風の囁きが枝葉を揺らしているだけ。その音さえ、今は力なく感じる。
好奇心に誘われてやって来たが思わぬ不安に足が重くなるノック。
誰かに見咎められないかと思い、膨らんでいた警戒心は、今や、人を求める渇望に変化していた。
そして、見つけたのだ。やけに光が差す一角に。
日差しが染める地面の真ん中には、ノックの頭を超える位置で折られた細いトウヒがあった。
根っこから傾いでおり、今まで隠していた湿った土が露になっている。
そこは段差が目立つ場所で、光の領域は、平坦な一本道にも広がっていた。木の葉が敷き詰められたその道をもし巨体が通れば、なるほど、折られたトウヒは邪魔であっただろう。
坂道を忌避して、強引に平坦な道を渡ったときに胴体で樹木を押し込んで、上に向かう坂に押さえつけたのかもしれない。
木を折るほどの激しさで。
ノックは、他に何か見るべきものがないか探して、さらに森の奥へ行った。
林は人の手によって光が平等に木々へ与えられるよう手入れされている。そのため木々の間は広く、奥まで見通せた。
これなら巨体をすぐに見つけられるはずだ。
若い衝動は恐怖心を誤魔化し、好奇心の赴くままに探検へと体を突き動かした。
その時、耳を切るような鋭い音にノックは足を止める。
振り返ると風化したトウヒの破片が、地面から舞い上がって幼子程度の背丈しかない旋風に弄ばれていた。
初めて見る異様な光景と飛んでくる砂塵と土塊にノックは身構える。
すると周囲のトウヒが、今までの静けさを破壊して枝葉を揺らし騒ぎ出す。
ノックは自分だけが風の影響を受けていないことを肌で感じ、それでいて頭上で揺れ動く濃緑の天蓋にたじろいだ。
いったいどんな名前の風がトウヒを動物のように揺らしているのかも分からず、彼は踵を返して駆け出し、来た道を引き返すのだった。
日は暮れて、闇の帳の到来は雲によって早まった。
暗くなると、一軒の家に明かりがつく。
案内のために土製のランプを持っていたラーフは、火種が先端で燻るトウヒの燃え差しを振るって火を消す。
同じ室内にお邪魔していたヘイミルは、テーブルのランプを持ち上げる。
それは真鍮の板を無数の草花の形で切り抜いて筒状にしたものを同じ材質の台と天蓋で挟んである。職人が作った工芸品だ。
「こちらのランプは持っていかれないのですか?」
ヘイミルは今自分が持っているランプと少年の照明器具を見比べた。
ラーフはどこか気後れするような微笑みを浮かべて語る。
「それは亡くなった大叔父の私物でして。勝手に持っていくのは忍びなかったんです。まあ、本人はきっと気にしないんでしょうけど……父が……」
ラーフは言い淀んで別の理由を発見した。
「それに秋になると親類が税となる羊の群れを連れてやってくるんです。その時の寝床にここを使うので、そのために必要な道具を揃えているんです」
「そうでしたか……。本当に私共が使ってよろしいので?」
「ええ、勿論。ただし、里の中には異邦人を快く思わない人もいますから。どうか……」
老人は短い間に深く一礼した。
「承知しました。ラーフ殿や父君のご迷惑にならぬよう。心がけます」
「恐縮です。それと……その、森にも気を付けてください。最近、不穏なので……」
少年の言葉以上に心情を物語る表情が、揺れる灯によって浮き彫りになる。
ヘイミルは、承知しました……、と佇まいを正し首肯した。
彼らがいる場所は、家々が並ぶ里の中心の一軒で、隣り合う建物と違うのは、二階部分が設けられていることだけだ。
浅い谷間の緩やかな斜面に広がる里は、家々の合間を土の道が横断している。
ちなみにノックの家は、里の中心から外れて、斜面を登った所のわずかな平地に位置しており、ラーフが今いる家の前の道から見えた。
現在、明かりをつけている家は少ないが、手にした燈明を頼りに道を行く3人がいた。
先頭はコムンで、ちょうど家から出てきたラーフと出くわし、互いの燈明で顔を照らしあうと笑顔を見せる。
「コムン兄さん。どうしたの?」
「おおラーフ……。俺は人を送ってきたんだ」
そう告げたコムンが道を譲ると、麻袋を抱くメリアが一歩前に出て会釈する。
「ラーフ殿。お世話になります」
「メリアさん。それは……」
「うちの自慢のチーズだ」
そう答えたのはコムン、ではなくメリアの後ろから、コムンの燈明の前に出てきた年配の男性だった。
深いほうれい線に影を作り、陰気な表情を浮かべる腰のやや曲がった男性に、ラーフは軽く頭を下げる。
「こんばんはタロッコおじさん」
よう……、とさっさと手を挙げて挨拶したタロッコは、見知った少年の背後の戸口から出てきた黒い影に目を大きくした。
穏やかな表情のヘイミルは、孫娘の紹介で初対面した男性の名前を知ると、両名の前に赴いて会釈し、静かに名乗った。
よそ者の礼儀にタロッコはゆっくりと瞬きして頷いた。
「なるほど、あんたがメリアちゃんの爺さんか。なるほど……よっぽどの家柄らしい」
親父……、とコムンは肘で小突いて言葉を選ぶように促す。
ヘイミルは微笑みながら首を横に振る。
「いえいえ、とんでもありません。私は生まれも育ち方も平凡でして。知遇に恵まれ、礼儀も聞き齧ったか、見様見真似です。皆様をご不快にさせなければ幸いです」
その発言を受けてタロッコは再び吟味するような頷きを見せた。
傍から見ていた息子はバツが悪そうであるが、当人は気にせず語りだす。
「そうかい。こっちもあんたらが悪さしなけりゃそれで十分だが。1つ尋ねたい。どうしてこの里にやってきたんだ?」
「はい。実は……。巡礼の旅をしている途中でして」
巡礼……、という言葉に引っ掛かりを覚えたのはラーフだった。
「はい……。ラーフ殿に話しそびれていましたかな? ならば申し訳ございませんでした。貴殿の広い心に甘えてしまい、詳しい所以を打ち明けるのを失念していた」
どこまでも遜る老人に若輩のラーフも、いえいえ……、とかしこまる。
しかしタロッコは目の鋭さを鈍らせず、それで巡礼とは? と言って説明の催促をした。
「私も高齢になり。いつ天命が下るとも知れぬ身。それゆえ、ただ余生を漫然と過ごしていては己の人生を振り返る機会を逸してしまうと思い至り、それならば、楽土の安寧と……、残すことになろう家族の健康を願うため旅立った次第にございます。孫娘はそんな私を慮ってこうしてついて来てくれたのです」
「へぇ……、それで。こんな若い娘さんを連れてたと。だが巡礼路にしちゃ、道を大きく外れたように思うが?」
親父……ッ、とコムンは咎める思いで呼ぶ。
しかし、タロッコは引かない。
「だがよ不思議なんだ。巡礼なら、ここいらだとラナブイラの聖遺物目当てだろう?」
「おっしゃる通り。太陽を背負った羊の逸話は聞き及んでおります」
「ならどうして、わざわざ人通りのある大きな道を外れて危険な山道を年端もいかぬ娘と来なすった?」
「ご指摘はごもっとも。確かに渡世は少女が旅歩くには危険が多いでしょうが。私も若いころから用心棒家業をしておりまして。腕にはそれなりの覚えがありますし。危険に対する嗅覚は若者に負けるつもりはございません。それに孫娘には広い世界を巡って見聞を広げてほしいと思いまして……。折角付いて来てくれたのに、私が教えられることといえば旅の知恵くらい。一所に長く居た機会も、妻に先立たれて以降はなくなりました。そんな野暮な私と普通に暮らしていても、人並みのことは何一つ教えられません……。ですが、それでも私の出来ること、知っていることを孫娘に授けてやりたいと思い。そして、皆様のように勤勉な人々と交流できればと思って……。こうして山野を巡ってもいるのです。そんな身勝手な理由で里に訪れたことをご不快に感じられたのなら、心より謝罪いたします」
深々と頭を下げるヘイミルに面を食らったのは、若者たちだけでなくタロッコもだ。
渋い表情が当惑に変わるタロッコは手を差し伸べる。
「いやいや顔を上げてください。こちらこそ詮索して失礼した。私もあんたに比べりゃ若造かもしれんが。一応年長者でな……。若者はどうも珍しいものにほいほいついてっちまうだろ? それが元で揉めたらことだ。だから年長者として警戒しちまったんですよ。すみませんね」
そうでしたか……、と面を上げたヘイミルは、まるで歓待を受けたように清々しい微笑みである。
しかしラーフは居心地が悪くなる。
コムンも厳しい表情で口を挟んだ。
「分かったろ親父。別に悪い人じゃないんだ。ラーフなんて家まで貸して……」
タロッコは頷き、さっきまでとは打って変わって微笑む。
「ああ悪かった。だがな、お前だって悪いんだぞ? 勝手も知らないお嬢さんにいきなり仕事なんか押し付けやがって、俺たちを混乱させて……。いや、そう考えると、あっしら親子のほうが怒られるべきでしたね」
メリアは首を全力で横に振った。
「いえいえいえ! 私は大変美味な羊の乳を頂いたご恩に報いたく追従したまで。むしろコムン殿に仕事の手解きをしていただき、役に立ったか怪しいのにかかわらず快く食物を下さり……、こちらこそ、厚かましいと指摘されても仕方ありません」
ヘイミルはまた表情に明るい気配を作った。
「どうやら、孫娘が大変世話になったようで……」
「いやいや、とんでもない。こちらこそ真剣に仕事に打ち込んでくれて。こういう嫁が欲しいもんですよ」
「オヤジーッ!」
夜だということを記憶から喪失してコムンは声を張った。
ヘイミルも時を選ばない笑いを発する。
「はっは! そうでしたか。そう言っていただければ私の教えも少しは役に立ったと心安らぎます。しかし孫娘は渡しませんッ」
話を気にした様子のないメリアは。
「メリアの所在の行方はともかく。仕事を学ぶ機会に加えてチーズを授けてくださり感謝しております」
麻袋を掲げる孫娘に目を丸くしたヘイミルは、親子に対して、まことに忝い……、と地につかないまでも深く叩頭する。
いえいえ……、とタロッコが平然と応じ、若者2人は気疲れして肩を落とす。
赤くなった耳を夜の闇に隠すコムンとは対照的にタロッコは。
「タダ働きさせた、なんて噂がたったら里に居れませんので。時に、今後はどうなさるおつもりで?」
面を上げたヘイミルは表情を平素に戻す。
「そうですな……。聞くところによると、この近辺できな臭い異変が起こっているとか……。旅の危険を少しでも減らすためにも、また、里の人々のご恩に報いるために、少しそれについて調べたいと思っております」
「異変、と言いますと家畜の襲撃ですかい? 何かご存じで」
「はい……。ダロン殿はご存じでしょう。あの丘のお屋敷の主の」
「勿論、それがなに……ああ、もしや倒木のことですか?」
「ええ、知っておいででしたか」
「ええ、あまり事件のないこの里では、些細な異変も人口に膾炙しますがね……。あれには里の老人たちも不安がってましたよ」
ラーフが興味を目に宿して、何かご存じなんですか? とヘイミルに尋ねた。
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