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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第018話 ―― 接っして近づいて
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【前回のあらすじ――。ノックは父と和解できず、狩り小屋で一夜を明かし、包帯で体を覆った知人レプルと遭遇し、帰ることを説得されるが話を聞くだけで小屋にて2度寝した。そして、次に目を開けるとメリアが来訪し、チーズとパンを分けてもらい、ラーフがノックの家に訪れたことを聞いて、メリアがやってきた理由を知った】
ノックは森を脱し草原に出る。
すでに仕事を始めていた太陽の光を浴びて冷めた体を温め、全身の関節を伸ばすと首を回した。
肩に羽織る狼の毛皮の薄っぺらい前脚を胸元で縛れば、体に密着する柔毛が擦れてむしろ熱く感じてきたので、薄っぺらい後ろ脚と前脚を結んで腰に巻き直す。
一歩出遅れていたメリアが隣に並び、日の光によって立ち昇る草花の香りを肺いっぱいに吸い込む。そして、羊の鳴き声と木鈴の音に耳を傾ける。
ようノック……、と声をかけてきた青年に2人の若人は近づいて行った。
「ようコムン。何か食い物持ってない?」
考え方まで知ったる相手の無遠慮で唐突な物言いに、流石のコムンも顔色を悪くする。
「なんだよ藪から棒に……それよか、お前、昨日家に帰らなかったんだって? ラーフが心配してたぞ?」
相手の切り返しにノックの腑抜けた顔が不快感で満たされる。
「なんであいつのことを出してくるんだ……」
「そりゃお前、ラーフと言ったらお前だし、お前と言ったらラーフだからだ。それよか一日中どこにいたんだ? あの狩り小屋か?」
ラーフに全部聞いたってか……、とノックは視線を逸らす。
コムンは鼻であしらった。
「詳しく聞くまでもない。お前は羊より単純だからな。次にどんな行動に出るか皆分かってるんだよ」
田舎のあり様にノックは苛立ち、だったら心配しなくていいだろ……、と口走る。
若輩の反論にコムンは溜息の代わりに微苦笑を浮かべた。
「まあ、とりあえず来いよ。羊の世話を手伝うなら一口ぐらい乳を飲ませてやる」
メリアはその言葉だけでなんだか幸せそうな顔になり追従する。しかし、ノックは不平を隠さずだらしなく腕を脱力させた。
「一口ってなんだよ……」
じゃあ二口にしてやる……、とコムンが返す。
行きますよノック殿ッ! とメリアは提示された数の倍以上のやる気を醸し出す。
「ああ、メリアちゃんはたっぷり飲んでいいからね。その代わり、もっと気を抜いてやってくれ」
今から終生の敵と対峙するような雰囲気の少女を筆頭に、男2人は羊の群れへと近づいた。
「しかし……、ラーフが心配してたのは本当だと思うぞ」
隣に並ぶコムンの真剣みを帯びた言葉に戸惑うノックは、どうしてだよ……、と呟く。
コムンは森に目を向けた。
「ここ最近、周辺が騒がしいんだ」
「そういうことか……。知ってる。あれだろ獣だろ? うちのクソ親父の仕事場でも木が折られたって」
「そうだ。そのせいなのか羊たちが緊張してる。犬も今日は森に向かってやけに注目してた」
「メリアに緊張してるんじゃないのか?」
「いやむしろメリアには慣れた気がする。昨日初めて出会ったときに比べれば……」
一瞬、微妙な面持ちになるコムンだったが、すぐに表情を改める。
彼の恐れは冷静な思慮から引き出されたものだと、それで分かる。
だからこそ、ノックは不安を掻き立てられたし、結果、顔から活力が失っていくのを苦笑いで茶化す試みは、無に帰した。
3人は羊たちの間を通り、白い群全体を見渡せる位置で立ち止まった。
ノックは、コムンが支えに使っている楢の枝の牧杖を見て、それがあればもう少し歩きが楽だった、と内心思った。
コムンは口に入れた指で鋭い音を鳴らす。それにつられて犬たちが振り返る。
小型で愛嬌のある顔の狼めいた犬たちは、持ち場を堅持した。
代わりに、1匹の羊がコムンの前にやってくる。
その羊の首には鈍い赤色で染め上げた布が巻かれており、後ろでは、1匹の足跡を辿るように群れの中で渦が生まれる。
コムンは肩からぶら下げていた鞄に手を入れて握り取った乾燥したパン屑を真っ先にやってきた羊に食べさせると歩き出した。
布巻の羊が主に追従すると群れも動き出す。
犬たちが群れの周りを走り回り、離れてしまう羊を集団に戻す。
群れはそうして1つの生物のように草花の海を行く。
ラーフもまた、羊飼いとしての務めを果たしていた。
その時、森のほうから1匹の羊が駆け込んでくるのが見えた。
何かに追われるようにして群れに合流した羊にラーフは駆け寄る。
迷い羊の背中には黄色い土が塗られて首についていた木鈴には、表面に三角形が刻まれていた。
いったどこから来たんだい? とラーフは優しく羊の首周りを撫でて大人しくさせる。
すると、羊の群れを回り込んでシャフルが跳んできた。
しかし、主でも迷い羊でもなく、迷い羊が出てきた森のほうへ睨みを利かせる。
その様子の異様さを察して、ラーフも身構えた。
迷い羊も賢く人間の背後に回り込む。
迷い羊が飛び出した木々の間から1つの影が飛び出す。
それは大きな犬であった。赤茶の毛は短く筋肉質な体格がよく分かり、幅のある顎が特徴的な顔つきは今にも襲い掛かりそうな形相である。
シャフルよりは小さいがそれでも、本気で向かってこられたら大人1人に面倒をかけることは想像に難くない。狼相手でも牙を見せつけ闘志を剥き出しにし、唸っている。
シャフルも負けじと唸り声をあげた。
双方一歩も譲らない中、また森のほうから影が出てきた。
ラーフは今一度身構える。
二度目の影は、羊の毛皮を纏った若い男で、その手には燧石式銃を携えており、背嚢と丸めた毛皮の敷物を背負っている。
引き金に指をかける男は森のほうへ、見つけたみたいだ! と声を張る。
そして犬のほうへ走り寄ると、狼を警戒しつつ犬の首を撫で始めた。
「よしよしいい子だ……」
男はそう言って腰帯に留めていた袋から、肉の切れ端を取り出し、犬に与える。
その直後、更に別の男が息を切らして登場する。武装はないが、粗削りの杖を握り、もう1人の男と似たような荷物を背負っていた。
そして、銃を持つ男へ近づいた、かと思うと、ラーフの方に目を移し、迷わず向かっていく。
事態が呑み込めないラーフは近づいてくる男に委縮した。そして。
「何事だッ!!」
大声を上げたヒースが走ってやってきて息子の前に到着し、男の進路を阻んだ。
男は相手の剣幕に気圧されて一歩引きさがると、親子の顔色を交互に見て、手の平を見せ苦笑いを浮かべる。
「あ、すまんすまん、その……、うちの羊を見つけたもんでつい」
ヒースは振り返ると、息子が小さな羊を逆さにして抱え上げるのを黙って見守る。
この子ですか? と尋ねるラーフに思うがままにされる羊は再び草原に立たされた。
狼さえ失念していた男は表情を明るくする。
「そうだ! うちの羊。この土の色、それにこの木鈴はうちのだ!」
羊の毛についた土と首の楽器を目に焼き付けるように見つめる男。
どういうことです? とヒースが説明を求めた。
一方の息子は右手を掲げて狼の名を呼ぶ。
すると、今まで皮下に沈んでいた図像が表皮に浮かぶ。
シャフルは主に振り返り、犬と飼い主に一瞥をくれて駆け出す。
犬の飼い主は、紋章か? と少年の右手で光る図像に目を丸くする。
迷い羊の飼い主はやっと狼を視認し、もしや犬じゃない? と顔を青くする。
しかし、狼が見せる犬のような落ち着きに冷静さを取り戻すと、自己紹介した。
「俺の名はベンダ。隣の里のラナズーミの羊飼いだ。あっちにいる猟師はロゲル。俺の親戚で、愛想は悪いがいいやつだ」
「あ……、私の名前はヒース。もしや……。何度か顔を合わせましたよね? そちらの寄合所で……。多分。直接話をしたことはないが……」
「ああ、そうだな。俺は入り婿だからあんまりこっちに顔馴染みはいないし、里同士の話し合いについて行っても出る幕もないし。それでも、あんたのことは知ってる。魔法で狼を操る人だろ?」
「そうですか……。それでベンダさん。いったい何が……」
ベンダは顔を曇らせ、視線を泳がせるが、目を瞑ってから観念したように語りだす。
「ああ、それが……つい2日前、羊を逃がしちまって。今まで探してたんだ」
銃口を空に向け、引き金から手を離していた猟師のロゲルは、話を邪魔しない声量でラーフとの自己紹介を済ませていた。
シャフルは群れの誘導に戻っていく。
狼の勇壮な姿を見送ったロゲルは、項垂れる親戚のベンダを見て呆れた表情を浮かべる。
「こいつ、羊に慣れたばかりの若い犬を群れに随伴させたんだ。そしたら、その犬がはしゃいじまって羊を追い掛け回して……」
頷く親子。
ベンダは親戚の猟師に鋭い目を向けるが、その顔には自分の情けなさを恥じる気持ちが表れている。
「親が賢かったから子供も賢いと思ったんだ。そしたら、なんだか興奮しちゃって……目を離した隙に、無暗に羊を追いかけだして」
ヒースは息子と憐憫の感情を確かめ合い、口を開く。
「それで、どれほど逃げたんですか? 1匹だけですか?」
「合計で8匹だ」
ロゲルの回答に親子は、ああ……、と芳しくない思いを如実にした。
呻きのようなしゃがれた溜息を吐いてベンダは嘆き、羊を優しく抱擁する、というより慰めを求めるように寄り添う。
「はあ……、いつもだったら迷っても、その日のうちに帰ってくるってのに、なぜだか戻らなくて。そんで探して」
「それで、やっと1匹見つけたと……」
「いや、こいつを捕まえたから、残り4頭だ」
ラーフは少し顔を明るくした。
「なら……、すぐに見つかりますよ。なんだったら……」
希望的観測を伴う言葉を途中で止めたラーフは、父と目が合う。
ヒースは微笑んだ。
「まあ、時間があったら探してもいいな。あるいは……、どっかの群れに混ざっていたりするかもしれない」
ベンダは目を瞬かせたが、意識を定め首を横に振ると立ち上がった。
「いや、そんな必要はない。他人様の手を煩わせるなんてとんでもない」
俺に手伝わせてよく言うよ……、とロゲルが指摘する。
鈍い表情で親戚を睨むベンダに、ラーフは。
「でも、他所の人がここら辺を歩き回ってたら。揉め事になりかねないんじゃ……」
その可能性を失念していたのか、ベンダは一瞬白目を剥き、気まずそうな表情を浮かべる。
ヒースは丘に振り向く。
「そうだな……、手分けすればもっと早く探し出せるだろうし、私たちから里の仲間に知らせたほうがいいか……。人懐っこい羊のようだから勝手に群れに入って喧嘩になったら双方にとって良くない」
ロゲルが心配そうに口を開く。
「しかし、あんたらも仕事があるだろ? 羊の面倒を見なきゃ……どっかの誰かと違って」
親戚の視線に気づいたベンダは不快感を顔に出す。
ヒースは自分の領分の羊たちを見渡してから我が子と視線を交わす。
「大丈夫、私たち親子より優秀な牧羊犬がいますから」
それにはラーフも苦笑いだ。
ヒースは続けて言う。
「それに、こういう問題が起こった時に率先して対応するのも、私たち親子の仕事ですから」
ラーフはベンダの羊に近づき、その汚れてもなお上等な毛に見入った。
「それじゃあ、まずはこの羊の匂いをシャフルに覚えさせてもらえませんか?」
ベンダは、呼ばれて飛んでくる狼の人懐っこそうな顔と襲って来たら人などひとたまりもない図体に息を飲む。
同じく狼を見据えていたロゲルは親戚の縋るような目に嘆息し、言われた通りにしろ……、とそっけなく告げた。
若い主に促されてシャフルは足を握られていた羊に鼻先を近づける。
直後、ラーフが紋章に囁きかける。
「《トゥー・フィー》……」
その瞬間、彼の紋章が、蠟燭の火が爆ぜるような穏やかな光を放つ。
ラーフもまた目を瞑って、脳裏に広がる草花の絨毯とそれを食む無数の羊たちの情景に身を委ね、無数の萌黄色の粒子と一緒に流れ込んでくる匂いの風に浴した。
異邦の男2人に見られていることなど毫末も気にしなかったラーフだったが、いざ目が合うと戸惑い、2人の大人に視線を交互に向ける。
もう1頭よろしいですか……、とヒースが唐突に指示する先から狼が現れる。その首には、毛に隠れているが、細く割いた布を編んだ紐が緩く巻かれている。
あっけにとられるベンダは、否応なしに狼のコニリーと、続いて、シャフルと持ち場を交代したフルーリすら受け入れた。
ノックは森を脱し草原に出る。
すでに仕事を始めていた太陽の光を浴びて冷めた体を温め、全身の関節を伸ばすと首を回した。
肩に羽織る狼の毛皮の薄っぺらい前脚を胸元で縛れば、体に密着する柔毛が擦れてむしろ熱く感じてきたので、薄っぺらい後ろ脚と前脚を結んで腰に巻き直す。
一歩出遅れていたメリアが隣に並び、日の光によって立ち昇る草花の香りを肺いっぱいに吸い込む。そして、羊の鳴き声と木鈴の音に耳を傾ける。
ようノック……、と声をかけてきた青年に2人の若人は近づいて行った。
「ようコムン。何か食い物持ってない?」
考え方まで知ったる相手の無遠慮で唐突な物言いに、流石のコムンも顔色を悪くする。
「なんだよ藪から棒に……それよか、お前、昨日家に帰らなかったんだって? ラーフが心配してたぞ?」
相手の切り返しにノックの腑抜けた顔が不快感で満たされる。
「なんであいつのことを出してくるんだ……」
「そりゃお前、ラーフと言ったらお前だし、お前と言ったらラーフだからだ。それよか一日中どこにいたんだ? あの狩り小屋か?」
ラーフに全部聞いたってか……、とノックは視線を逸らす。
コムンは鼻であしらった。
「詳しく聞くまでもない。お前は羊より単純だからな。次にどんな行動に出るか皆分かってるんだよ」
田舎のあり様にノックは苛立ち、だったら心配しなくていいだろ……、と口走る。
若輩の反論にコムンは溜息の代わりに微苦笑を浮かべた。
「まあ、とりあえず来いよ。羊の世話を手伝うなら一口ぐらい乳を飲ませてやる」
メリアはその言葉だけでなんだか幸せそうな顔になり追従する。しかし、ノックは不平を隠さずだらしなく腕を脱力させた。
「一口ってなんだよ……」
じゃあ二口にしてやる……、とコムンが返す。
行きますよノック殿ッ! とメリアは提示された数の倍以上のやる気を醸し出す。
「ああ、メリアちゃんはたっぷり飲んでいいからね。その代わり、もっと気を抜いてやってくれ」
今から終生の敵と対峙するような雰囲気の少女を筆頭に、男2人は羊の群れへと近づいた。
「しかし……、ラーフが心配してたのは本当だと思うぞ」
隣に並ぶコムンの真剣みを帯びた言葉に戸惑うノックは、どうしてだよ……、と呟く。
コムンは森に目を向けた。
「ここ最近、周辺が騒がしいんだ」
「そういうことか……。知ってる。あれだろ獣だろ? うちのクソ親父の仕事場でも木が折られたって」
「そうだ。そのせいなのか羊たちが緊張してる。犬も今日は森に向かってやけに注目してた」
「メリアに緊張してるんじゃないのか?」
「いやむしろメリアには慣れた気がする。昨日初めて出会ったときに比べれば……」
一瞬、微妙な面持ちになるコムンだったが、すぐに表情を改める。
彼の恐れは冷静な思慮から引き出されたものだと、それで分かる。
だからこそ、ノックは不安を掻き立てられたし、結果、顔から活力が失っていくのを苦笑いで茶化す試みは、無に帰した。
3人は羊たちの間を通り、白い群全体を見渡せる位置で立ち止まった。
ノックは、コムンが支えに使っている楢の枝の牧杖を見て、それがあればもう少し歩きが楽だった、と内心思った。
コムンは口に入れた指で鋭い音を鳴らす。それにつられて犬たちが振り返る。
小型で愛嬌のある顔の狼めいた犬たちは、持ち場を堅持した。
代わりに、1匹の羊がコムンの前にやってくる。
その羊の首には鈍い赤色で染め上げた布が巻かれており、後ろでは、1匹の足跡を辿るように群れの中で渦が生まれる。
コムンは肩からぶら下げていた鞄に手を入れて握り取った乾燥したパン屑を真っ先にやってきた羊に食べさせると歩き出した。
布巻の羊が主に追従すると群れも動き出す。
犬たちが群れの周りを走り回り、離れてしまう羊を集団に戻す。
群れはそうして1つの生物のように草花の海を行く。
ラーフもまた、羊飼いとしての務めを果たしていた。
その時、森のほうから1匹の羊が駆け込んでくるのが見えた。
何かに追われるようにして群れに合流した羊にラーフは駆け寄る。
迷い羊の背中には黄色い土が塗られて首についていた木鈴には、表面に三角形が刻まれていた。
いったどこから来たんだい? とラーフは優しく羊の首周りを撫でて大人しくさせる。
すると、羊の群れを回り込んでシャフルが跳んできた。
しかし、主でも迷い羊でもなく、迷い羊が出てきた森のほうへ睨みを利かせる。
その様子の異様さを察して、ラーフも身構えた。
迷い羊も賢く人間の背後に回り込む。
迷い羊が飛び出した木々の間から1つの影が飛び出す。
それは大きな犬であった。赤茶の毛は短く筋肉質な体格がよく分かり、幅のある顎が特徴的な顔つきは今にも襲い掛かりそうな形相である。
シャフルよりは小さいがそれでも、本気で向かってこられたら大人1人に面倒をかけることは想像に難くない。狼相手でも牙を見せつけ闘志を剥き出しにし、唸っている。
シャフルも負けじと唸り声をあげた。
双方一歩も譲らない中、また森のほうから影が出てきた。
ラーフは今一度身構える。
二度目の影は、羊の毛皮を纏った若い男で、その手には燧石式銃を携えており、背嚢と丸めた毛皮の敷物を背負っている。
引き金に指をかける男は森のほうへ、見つけたみたいだ! と声を張る。
そして犬のほうへ走り寄ると、狼を警戒しつつ犬の首を撫で始めた。
「よしよしいい子だ……」
男はそう言って腰帯に留めていた袋から、肉の切れ端を取り出し、犬に与える。
その直後、更に別の男が息を切らして登場する。武装はないが、粗削りの杖を握り、もう1人の男と似たような荷物を背負っていた。
そして、銃を持つ男へ近づいた、かと思うと、ラーフの方に目を移し、迷わず向かっていく。
事態が呑み込めないラーフは近づいてくる男に委縮した。そして。
「何事だッ!!」
大声を上げたヒースが走ってやってきて息子の前に到着し、男の進路を阻んだ。
男は相手の剣幕に気圧されて一歩引きさがると、親子の顔色を交互に見て、手の平を見せ苦笑いを浮かべる。
「あ、すまんすまん、その……、うちの羊を見つけたもんでつい」
ヒースは振り返ると、息子が小さな羊を逆さにして抱え上げるのを黙って見守る。
この子ですか? と尋ねるラーフに思うがままにされる羊は再び草原に立たされた。
狼さえ失念していた男は表情を明るくする。
「そうだ! うちの羊。この土の色、それにこの木鈴はうちのだ!」
羊の毛についた土と首の楽器を目に焼き付けるように見つめる男。
どういうことです? とヒースが説明を求めた。
一方の息子は右手を掲げて狼の名を呼ぶ。
すると、今まで皮下に沈んでいた図像が表皮に浮かぶ。
シャフルは主に振り返り、犬と飼い主に一瞥をくれて駆け出す。
犬の飼い主は、紋章か? と少年の右手で光る図像に目を丸くする。
迷い羊の飼い主はやっと狼を視認し、もしや犬じゃない? と顔を青くする。
しかし、狼が見せる犬のような落ち着きに冷静さを取り戻すと、自己紹介した。
「俺の名はベンダ。隣の里のラナズーミの羊飼いだ。あっちにいる猟師はロゲル。俺の親戚で、愛想は悪いがいいやつだ」
「あ……、私の名前はヒース。もしや……。何度か顔を合わせましたよね? そちらの寄合所で……。多分。直接話をしたことはないが……」
「ああ、そうだな。俺は入り婿だからあんまりこっちに顔馴染みはいないし、里同士の話し合いについて行っても出る幕もないし。それでも、あんたのことは知ってる。魔法で狼を操る人だろ?」
「そうですか……。それでベンダさん。いったい何が……」
ベンダは顔を曇らせ、視線を泳がせるが、目を瞑ってから観念したように語りだす。
「ああ、それが……つい2日前、羊を逃がしちまって。今まで探してたんだ」
銃口を空に向け、引き金から手を離していた猟師のロゲルは、話を邪魔しない声量でラーフとの自己紹介を済ませていた。
シャフルは群れの誘導に戻っていく。
狼の勇壮な姿を見送ったロゲルは、項垂れる親戚のベンダを見て呆れた表情を浮かべる。
「こいつ、羊に慣れたばかりの若い犬を群れに随伴させたんだ。そしたら、その犬がはしゃいじまって羊を追い掛け回して……」
頷く親子。
ベンダは親戚の猟師に鋭い目を向けるが、その顔には自分の情けなさを恥じる気持ちが表れている。
「親が賢かったから子供も賢いと思ったんだ。そしたら、なんだか興奮しちゃって……目を離した隙に、無暗に羊を追いかけだして」
ヒースは息子と憐憫の感情を確かめ合い、口を開く。
「それで、どれほど逃げたんですか? 1匹だけですか?」
「合計で8匹だ」
ロゲルの回答に親子は、ああ……、と芳しくない思いを如実にした。
呻きのようなしゃがれた溜息を吐いてベンダは嘆き、羊を優しく抱擁する、というより慰めを求めるように寄り添う。
「はあ……、いつもだったら迷っても、その日のうちに帰ってくるってのに、なぜだか戻らなくて。そんで探して」
「それで、やっと1匹見つけたと……」
「いや、こいつを捕まえたから、残り4頭だ」
ラーフは少し顔を明るくした。
「なら……、すぐに見つかりますよ。なんだったら……」
希望的観測を伴う言葉を途中で止めたラーフは、父と目が合う。
ヒースは微笑んだ。
「まあ、時間があったら探してもいいな。あるいは……、どっかの群れに混ざっていたりするかもしれない」
ベンダは目を瞬かせたが、意識を定め首を横に振ると立ち上がった。
「いや、そんな必要はない。他人様の手を煩わせるなんてとんでもない」
俺に手伝わせてよく言うよ……、とロゲルが指摘する。
鈍い表情で親戚を睨むベンダに、ラーフは。
「でも、他所の人がここら辺を歩き回ってたら。揉め事になりかねないんじゃ……」
その可能性を失念していたのか、ベンダは一瞬白目を剥き、気まずそうな表情を浮かべる。
ヒースは丘に振り向く。
「そうだな……、手分けすればもっと早く探し出せるだろうし、私たちから里の仲間に知らせたほうがいいか……。人懐っこい羊のようだから勝手に群れに入って喧嘩になったら双方にとって良くない」
ロゲルが心配そうに口を開く。
「しかし、あんたらも仕事があるだろ? 羊の面倒を見なきゃ……どっかの誰かと違って」
親戚の視線に気づいたベンダは不快感を顔に出す。
ヒースは自分の領分の羊たちを見渡してから我が子と視線を交わす。
「大丈夫、私たち親子より優秀な牧羊犬がいますから」
それにはラーフも苦笑いだ。
ヒースは続けて言う。
「それに、こういう問題が起こった時に率先して対応するのも、私たち親子の仕事ですから」
ラーフはベンダの羊に近づき、その汚れてもなお上等な毛に見入った。
「それじゃあ、まずはこの羊の匂いをシャフルに覚えさせてもらえませんか?」
ベンダは、呼ばれて飛んでくる狼の人懐っこそうな顔と襲って来たら人などひとたまりもない図体に息を飲む。
同じく狼を見据えていたロゲルは親戚の縋るような目に嘆息し、言われた通りにしろ……、とそっけなく告げた。
若い主に促されてシャフルは足を握られていた羊に鼻先を近づける。
直後、ラーフが紋章に囁きかける。
「《トゥー・フィー》……」
その瞬間、彼の紋章が、蠟燭の火が爆ぜるような穏やかな光を放つ。
ラーフもまた目を瞑って、脳裏に広がる草花の絨毯とそれを食む無数の羊たちの情景に身を委ね、無数の萌黄色の粒子と一緒に流れ込んでくる匂いの風に浴した。
異邦の男2人に見られていることなど毫末も気にしなかったラーフだったが、いざ目が合うと戸惑い、2人の大人に視線を交互に向ける。
もう1頭よろしいですか……、とヒースが唐突に指示する先から狼が現れる。その首には、毛に隠れているが、細く割いた布を編んだ紐が緩く巻かれている。
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