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第零章 ―― 哀縁奇淵 ――
第040話 ―― 暗きへと転ぶ
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【前回のあらすじ――。ヒースの家でヘイミルの話に耳を傾けていたら、ノックの父親であるダロンが息子を探しにやってきた。ノックはラーフが帰ってくるまでその場に留まることを望む。そして、ラーフの帰還が遅いことが話題に上る】
「また遠出か? いや、でもこの雨だぞ? ラーフも遠くまで行くことは年に何回かあるが。ここ最近。いや、ずっと前から馬鹿みたいに帰りが遅いなんてなかっただろ? しかも、あの暗さで歩き回るなんて……」
「ですが、燈明がいらないほどには明るかったのでは?」
少女の指摘に手持ち無沙汰のダロンは。
「雷のお陰だ。それだって、分かりきってる里の範囲しか歩けない……。 仮に道に迷ったとしても、ラーフなら狼の力で直ぐに方角を見つけられるはずだし……」
ダロンの指摘にヒースの顔色が暗さを帯びる。
我が子に振り返るダロンは、お前何か知らないのか? と問い詰める。
しかしノックも首を横に振り、記憶にあることを口に出すのも失念して、不安によって視線の置き場さえ決められない。
扉はすでに閉めたが、ダロンと一緒に入ってきた冷気も相まって、さっきまでの暖かい空気が冷める。
ダロンはあからさまに目が泳ぐが、意を決したように口を開く。
「ここ最近、獣の被害が出てるのは知ってるかヒース」
「ああ、聞き及んでいる。だけど、シャフルとラーフなら獣が近づいたら直ぐに気が付く。そして、全速力で走れば、大体の場合逃げ切れるはずだ……」
「親父、あまり不安にさせんな……」
「うるせぇガキは……」
ノックの言葉を退けようと思ったダロンだが、ヒースの表情が暗い場所へと引っ張られているのを目にして、言葉を詰まらせ、取り繕うように頷いた。
「そ、そうだな。すまん。うちの馬鹿息子と同列に扱っちまった」
「腹立つが、ここはぐっと堪えて同意する。そう、ラーフは馬鹿じゃないし。あいつは実際、夜の道だろうとシャフルがいれば日中と同じくらい問題ない。それに、コレボクからもらった魔法の灯も持ってる。あれさえあれば月のない夜だって昼間みたいに明るく照らせる。だから、心配なんていらない」
「なんだよ、それを先に言え馬鹿野郎」
「あんたは発言にいちいち“馬鹿”が必要なのか?」
「ああ残念ながら家の馬鹿息子は馬鹿の中の馬鹿の馬鹿でな。生まれる前に知ってたら名前も“バカ”ってつけてたのによ!」
他人の家で喧嘩を始めようと接近する親子2人にヘイミルは愛想笑いで近づき、割って入る。
「まあまあ、家主を目の前にして争うのは些か拙いかと存じます」
そしてメリアを含めて客人は家主の顔色を窺う。
ダロンとノックは、本当に互いにいがみ合ってはいたが、頭の端には、家主の不安を紛らわせようという心遣いもあったのだろう。
親子は表情も戻して、視線は家主に揃っていた。
しかし、その願いも虚しくヒースは険しい表情のまま頷いた。
「確かに、ダロンの言う通りだ……。ラーフの力を信頼してたから考えが甘くなっていた。少し探しに行ってみる」
「だけど。場所は分かるの? 雨と風もあるなら、狼で匂いを探ろうにも……」
ノックの指摘を受けても行動を止めないヒースは、鹿角の壁掛けから薄手の外套を取る。
「今ならラーフの足跡をまだ追えるかもしれない」
「でも親父を見ろよ。外の嵐は尋常じゃない。ラーフが探しに行くならまだしも……」
突如ノックは痛みを堪える様に強く目を瞑り、自分の額を拳で打って、ごめん言い間違えた……、と謝罪する。
ヒースは柔和な笑みを作った。
「いいやノックの言う通りだ。ラーフに比べたら私の紋章術は稚拙だ。けど、もう十分待った。これ以上は限界だ。いや、のんびりしすぎた私の落ち度だ」
「ならば、私もご助力させていただきたい」
とヘイミルが一歩前に出る。
ですが……、とヒースは断ろうと口を開くが。
ヘイミルは引かない。
「ご恩に報いることができるのなら、多少の雨風など気にしません」
ダロンは老人の前に回り込み、その装備の精妙さに目を見張るが、思考は鈍らなかった。
「あんたが、どれほど凄い人なのか知らんが。あの嵐の中、しかも夜に出歩くのは拙い。ヒースも落ち着け。焚きつけたのは俺だが……」
「もし、夜が怖いならこれを使えばいい」
いつの間にかノックは、書籍が詰まった寝台の引き出しをもう一度開け、奥から陶器の小瓶を取り出す。
なんですかそれは? とメリアがノックに尋ねる。
「こいつはコレボク特製の、通称……“穴熊嚇シ”、いわゆる魔法の燈明だよ。一度使うと一日は持つって」
ヒースは思い出したようだ。
「ああ、ラーフが言っていたやつか。でも、私は……」
「安心して、こいつは霊薬ってやつで魔法の知識がなくても使い方さえ分かれば光が灯る……。ただ、気力っていうか、まだ効能があるかは分からない。でも、使えれば松明より役に立つ」
ダロンは。
「あの雨で消えちまわないのか?」
「魔法だから水につけても問題ない」
息子の反論に、ほんとかよ? とダロンは疑いながら軽く驚く。
話を戻すノック。
「ラーフがここまで遅いってことは森に入ってる。ならこれが必要だ。コニリーやフルーリと一緒に行くなら、足元がしっかり見えていれば問題ない、はず」
「なら、足に荒縄を巻き付けていけ、雨で濡れた石を踏んで滑って怪我でもしたら……」
ダロンの助言にヒースは頷いた。
「分かった。そうするよ。ヘイミルさんは」
「私も向かいます」
「しかし、強い雨だ。あいにく雨具は……」
「ご心配なく。雨に降られても濡れることをある程度防ぐ加護……、呪いの心得がございます」
え? と息を呑む里の者達だったが、ノックはいち早く事情を呑み込み、メリアと目が合う。
微笑むヘイミルは。
「隠し立てするつもりはなかったのですが。無害な魔法といえど知らぬ人には不安を与えてしまう。無用な恐れを抱かせたくありませんので、先ほどこちらに来た時も、使うのを躊躇しました。ですので、ご内密に……」
メリアも……、と少女が立ち上がる。
ヘイミルは。
「メリアはここにいなさい。火の番を頼む。それと行き違いでラーフ殿が帰還したとき事情を説明してほしい。そのあとは……、宿に帰って火を頼む。ダロン殿は……」
口を開いたダロンだったが、話し出したのは息子ノックだった。
「親父はいったん家に帰ってくれ。俺は……」
「お前も一緒に帰ってこい。じゃないと俺も動かんぞ」
とダロンは腕を組み、肩幅に足を広げ意志を示す。
顔が険しくなるノックは。
「メリアを1人にさせるつもりか? そして母ちゃんも……」
怯んだダロンの代わりに少女が、メリアは1人で大丈夫です……、と答える。
ノックは。
「そうかもしれない。けど、余所者でもある。この中でメリアとヘイミルさんを疑う馬鹿はいないが、何も知らない連中が変な噂を立てることもありうる。それに……、俺は、ラーフに話があるんだ……」
ダロンは唇を結ぶ。
ヘイミルは頷く。
「確かに、ノック殿が一緒にいてくれれば、今後逗留するにあたって、まだ交流のない里人のいらぬ誤解を防げると思われます。ただ……」
老人の目を受けてダロンは息子に近づく。
「お前こそ、余所者と一緒にいたら変な噂に巻き込まれるぞ? それともメリアちゃんと一緒に居たいってか? 何するつもりだ?」
嘲りを向けてみたダロンだが、我が子の顔は真剣さを失わない。
それがダロンの表情を奪い、思考を理性の方向へ引き込み、さらには後悔の入口へ押し出す。
「メリアは……、俺なんかが何をしようとも大丈夫だ。そうだろ?」
ノックに同意を求められたメリアは、大人たちに目配せする。
「ええ、御じい様から、剣と武術の手ほどきを受けておりますゆえ。ノックなら……、勿論ノック殿は誠実な人ですから心配いりませんが……。悪鬼魔道が近づいたら、切り伏せて見せます」
少女が言葉の最後に見せる剣呑で冷徹無慈悲な面持ちに、祖父以外は息を詰まらせる。
それも束の間、メリアは平素の表情に戻し、ダロンに尋ねる。
「それで、これから御尊父はいかがなさいますか? ノック殿と一緒にここにいて奥方を1人家に残すので?」
それは……、と言葉が途切れるダロンにヒースも訴える。
「身重の妻を1人にするのはいかにも拙いんじゃないか? ノックも臍を曲げて居座るわけじゃないんだし」
話の中心人物ノックも父の正面に立つ。
「お願いだ。今日だけ……、ラーフが帰ってきたら直ぐに帰る。そうしたら母ちゃんに全部謝るから。今だけは、ここにいさせてくれ」
どうして……、とダロンは今までと違い、弱った口調で尋ねる。
視線が下がるノックは、口ごもりそうになったが、意を決した。
「……謝らないといけないんだ。あいつに……」
一瞬目を大きくするダロンは言い伏せようとするが、口も瞼も閉じてから、頷き、改めて我が子を見る。
「分かった。それじゃ……」
その時、蹲っていた狼たちが耳を跳ね、頭を上げる。
いち早く反応したのはヘイミルであったが、彼の注目は外へと向かう。
ヒースは狼達に近づき、そして、戸に耳を押し付ける。
嵐に負けずやってきた遠吠えが耳に届く。
皆にも聞こえたそれは明らかに狼の所業で、ヒースとノックは互いに喜びの顔を向けた。
あれって……、とノックが言いさす。
笑顔で頷くヒース。
「ああ間違いないシャフルだ! はは……ッ、いろいろ準備したが必要なかったな」
外に出ようとするヒースに、これ……、とノックは穴熊騙シを差し出すが、ヒースは小瓶ではなくテーブルの燈明を手に取る。
「すぐ近くにいる。これで十分さ!」
まるで若返ったかのように快活になったヒースは、雨風と入れ替わって外に飛び出す。
戸口を半開きに保つダロンが呆れ顔に微笑みを足した。
ヒースが持ち出した燈明は陶器製で、釉薬による艶やかな内側が火を反射し、大きな三方の口が光を出す。
近くを照らすのには十分だったが遠くは見えないし、外套で守ってやらないと火が持たない。
けど、半開きの戸口から出る光もあり、向こうから影がやってくるのを察し、元気に呼びかける。
「シャフル……! ラーフ……」
大きな影が乏しい光に照らされ、額を染める血を浮き彫りにした。
表情を失うヒースは駆け寄って、どうしたんだ? と問い質すつもりだった。
狼の背に横たわる人物を見るまでは。
一瞬、まったく思考が消える。直感を否定するため、燈明を掲げる。
家主の短い旅路を軽く考えていた客人たちは、気疲れを苦笑いで誤魔化しあっていた。
何が起こっているかも知らずに。
「ラーフ……ッ!!」
嵐の尖兵たる風雨の軍団は、男の叫び声で蹴散らされ、聞いた者は表情を打ち砕かれる。
男の呼び声の悲壮感たるや、死者への手向けを思わせた。
覗き込むだけに留めようと戸口をそっと開けたダロンを退け、ノックが戸をこじ開ける。
おい……ッ、と声を荒げる父など眼中にないノックは、押し寄せる風雨も気にせず走り出す。
そして、全開の戸口からあふれる光が真っすぐ道行きを照らし、十数歩先にいる影を緋色に描く。
途中で立ち止まるノックは、見たくない気持ちと見るべきという使命感が鬩ぎ合い、一歩、光から退く。
暖かい家の光は、絶望に染まる男の顔と傷つく獣に乗せられた少年の体を残酷なほど精緻に浮かび上がらせた。
凍り付くノックの肩を掴んで揺さぶったダロン。
「ノック!」
立ち尽くす少年は自分の名前はおろか呼吸の仕方さえ失念していた。
彼の目の前で、ダロンだけが動いていた。
「何があった……ッ?!」
わからない……ッ、とヒースは震えているが我が子に覆いかぶさり雨と風から守る。
ヒースに向き合う形で狼に触れたダロンは、太い腕で獣も子供も支えて前に進もうとする。そして何度も我が子の名を呼び最後は怒鳴った。
放心していたノックは背筋を跳ね伸ばし、目が合った父親に命令をもらう。
「すぐにお湯を沸かせ! きれいな布を用意しろ! 酷い出血だ!」
「わ、分かった……分かった!」
ノックと入れ替わって老人と孫娘が外に出る。
そして少女は、目を見開き、道を譲ることしかできなかった。
ヘイミルは音を立てて両手を密着させる。
「《ステゴ・ヴェントゥス》ッ」
一言発して合わせた両手を天へ向けた瞬間、手中から萌黄色の泡が一つ膨張し、透明な表面に、湧き立つ雲を思わせる白銀の粒子の奔流を浮かび上がらせる。
老人を中心に広がった泡の天幕は負傷者を内包し戸口に達する。
あれほど降り注いだ風雨が消えた。
ダロンが空を見上げるが晴れたわけではなく、雨粒の激しさも健在で稲光が浮き彫りにした黒雲も天高く居座っている。
しかし、それ以上の存在感の天幕が、雷鳴以外を退けた。
ダロンはひとまず泡の天幕の存在を無視し、大きな狼の不安定な前進を助けることに専念する。
天幕の頂点へ白銀の粒子を両手から贈るヘイミルは、慎重に……、と呼びかける。
だが、少年の悲惨な姿を目に焼き付けた父親2人は思わず急いて傷ついた狼を押してしまう。
我が子の名を呼んでも返事をもらえないヒース。
甕から水を掬った鍋を暖炉の火に預けたノックは、土間から桶を持ってきたところで、家族の呼び声にも反応しない友を目にし、呆然としてしまう。
全員入りました……、と孫娘に言われヘイミルは両手を下げ戸口に身を引く。
泡は頂点から弾けて粘り気を感じさせる速度で溶けて消える。
泡が押し止めていた雨と風は、一気に温かい部屋へなだれ込もうとするが。
ヘイミルが入った直後、メリアが扉を閉ざして、冷たい部外者は拒まれた。
ノックは食卓も椅子も何もかも押しやることで、寝台までの障害を取り除いた。
あとは負傷者の到着を待つだけ。狼と男たちの力を信じる。
しかし、シャフルは部屋の中ほどに到達し、糸が切れたように倒れ伏す。
「シャフル!」
ノックと3頭の血族が駆け寄るが伸ばした手それと鼻先が届く前に。
「よく頑張ったぞ狼!」
ダロンがシャフルを労い、ラーフの体を慎重に抱え、移動する。
その時、ラーフの肩に下がっていた帯が途切れ、吊るしていた鞄が落下し、半開きだった口から無垢な本が出て、勝手に開く。
何も書かれず白いままだった紙は、今は赤黒い染料で主の身に起こった悲劇を端的に記述していた。
蒼白になるノックの前を運ばれたラーフから、小さな石の破片が転がる。
石に蹲る巻貝を目にし、ノックは、友人がどこまで行って、何をしていたのか、理解した。
「また遠出か? いや、でもこの雨だぞ? ラーフも遠くまで行くことは年に何回かあるが。ここ最近。いや、ずっと前から馬鹿みたいに帰りが遅いなんてなかっただろ? しかも、あの暗さで歩き回るなんて……」
「ですが、燈明がいらないほどには明るかったのでは?」
少女の指摘に手持ち無沙汰のダロンは。
「雷のお陰だ。それだって、分かりきってる里の範囲しか歩けない……。 仮に道に迷ったとしても、ラーフなら狼の力で直ぐに方角を見つけられるはずだし……」
ダロンの指摘にヒースの顔色が暗さを帯びる。
我が子に振り返るダロンは、お前何か知らないのか? と問い詰める。
しかしノックも首を横に振り、記憶にあることを口に出すのも失念して、不安によって視線の置き場さえ決められない。
扉はすでに閉めたが、ダロンと一緒に入ってきた冷気も相まって、さっきまでの暖かい空気が冷める。
ダロンはあからさまに目が泳ぐが、意を決したように口を開く。
「ここ最近、獣の被害が出てるのは知ってるかヒース」
「ああ、聞き及んでいる。だけど、シャフルとラーフなら獣が近づいたら直ぐに気が付く。そして、全速力で走れば、大体の場合逃げ切れるはずだ……」
「親父、あまり不安にさせんな……」
「うるせぇガキは……」
ノックの言葉を退けようと思ったダロンだが、ヒースの表情が暗い場所へと引っ張られているのを目にして、言葉を詰まらせ、取り繕うように頷いた。
「そ、そうだな。すまん。うちの馬鹿息子と同列に扱っちまった」
「腹立つが、ここはぐっと堪えて同意する。そう、ラーフは馬鹿じゃないし。あいつは実際、夜の道だろうとシャフルがいれば日中と同じくらい問題ない。それに、コレボクからもらった魔法の灯も持ってる。あれさえあれば月のない夜だって昼間みたいに明るく照らせる。だから、心配なんていらない」
「なんだよ、それを先に言え馬鹿野郎」
「あんたは発言にいちいち“馬鹿”が必要なのか?」
「ああ残念ながら家の馬鹿息子は馬鹿の中の馬鹿の馬鹿でな。生まれる前に知ってたら名前も“バカ”ってつけてたのによ!」
他人の家で喧嘩を始めようと接近する親子2人にヘイミルは愛想笑いで近づき、割って入る。
「まあまあ、家主を目の前にして争うのは些か拙いかと存じます」
そしてメリアを含めて客人は家主の顔色を窺う。
ダロンとノックは、本当に互いにいがみ合ってはいたが、頭の端には、家主の不安を紛らわせようという心遣いもあったのだろう。
親子は表情も戻して、視線は家主に揃っていた。
しかし、その願いも虚しくヒースは険しい表情のまま頷いた。
「確かに、ダロンの言う通りだ……。ラーフの力を信頼してたから考えが甘くなっていた。少し探しに行ってみる」
「だけど。場所は分かるの? 雨と風もあるなら、狼で匂いを探ろうにも……」
ノックの指摘を受けても行動を止めないヒースは、鹿角の壁掛けから薄手の外套を取る。
「今ならラーフの足跡をまだ追えるかもしれない」
「でも親父を見ろよ。外の嵐は尋常じゃない。ラーフが探しに行くならまだしも……」
突如ノックは痛みを堪える様に強く目を瞑り、自分の額を拳で打って、ごめん言い間違えた……、と謝罪する。
ヒースは柔和な笑みを作った。
「いいやノックの言う通りだ。ラーフに比べたら私の紋章術は稚拙だ。けど、もう十分待った。これ以上は限界だ。いや、のんびりしすぎた私の落ち度だ」
「ならば、私もご助力させていただきたい」
とヘイミルが一歩前に出る。
ですが……、とヒースは断ろうと口を開くが。
ヘイミルは引かない。
「ご恩に報いることができるのなら、多少の雨風など気にしません」
ダロンは老人の前に回り込み、その装備の精妙さに目を見張るが、思考は鈍らなかった。
「あんたが、どれほど凄い人なのか知らんが。あの嵐の中、しかも夜に出歩くのは拙い。ヒースも落ち着け。焚きつけたのは俺だが……」
「もし、夜が怖いならこれを使えばいい」
いつの間にかノックは、書籍が詰まった寝台の引き出しをもう一度開け、奥から陶器の小瓶を取り出す。
なんですかそれは? とメリアがノックに尋ねる。
「こいつはコレボク特製の、通称……“穴熊嚇シ”、いわゆる魔法の燈明だよ。一度使うと一日は持つって」
ヒースは思い出したようだ。
「ああ、ラーフが言っていたやつか。でも、私は……」
「安心して、こいつは霊薬ってやつで魔法の知識がなくても使い方さえ分かれば光が灯る……。ただ、気力っていうか、まだ効能があるかは分からない。でも、使えれば松明より役に立つ」
ダロンは。
「あの雨で消えちまわないのか?」
「魔法だから水につけても問題ない」
息子の反論に、ほんとかよ? とダロンは疑いながら軽く驚く。
話を戻すノック。
「ラーフがここまで遅いってことは森に入ってる。ならこれが必要だ。コニリーやフルーリと一緒に行くなら、足元がしっかり見えていれば問題ない、はず」
「なら、足に荒縄を巻き付けていけ、雨で濡れた石を踏んで滑って怪我でもしたら……」
ダロンの助言にヒースは頷いた。
「分かった。そうするよ。ヘイミルさんは」
「私も向かいます」
「しかし、強い雨だ。あいにく雨具は……」
「ご心配なく。雨に降られても濡れることをある程度防ぐ加護……、呪いの心得がございます」
え? と息を呑む里の者達だったが、ノックはいち早く事情を呑み込み、メリアと目が合う。
微笑むヘイミルは。
「隠し立てするつもりはなかったのですが。無害な魔法といえど知らぬ人には不安を与えてしまう。無用な恐れを抱かせたくありませんので、先ほどこちらに来た時も、使うのを躊躇しました。ですので、ご内密に……」
メリアも……、と少女が立ち上がる。
ヘイミルは。
「メリアはここにいなさい。火の番を頼む。それと行き違いでラーフ殿が帰還したとき事情を説明してほしい。そのあとは……、宿に帰って火を頼む。ダロン殿は……」
口を開いたダロンだったが、話し出したのは息子ノックだった。
「親父はいったん家に帰ってくれ。俺は……」
「お前も一緒に帰ってこい。じゃないと俺も動かんぞ」
とダロンは腕を組み、肩幅に足を広げ意志を示す。
顔が険しくなるノックは。
「メリアを1人にさせるつもりか? そして母ちゃんも……」
怯んだダロンの代わりに少女が、メリアは1人で大丈夫です……、と答える。
ノックは。
「そうかもしれない。けど、余所者でもある。この中でメリアとヘイミルさんを疑う馬鹿はいないが、何も知らない連中が変な噂を立てることもありうる。それに……、俺は、ラーフに話があるんだ……」
ダロンは唇を結ぶ。
ヘイミルは頷く。
「確かに、ノック殿が一緒にいてくれれば、今後逗留するにあたって、まだ交流のない里人のいらぬ誤解を防げると思われます。ただ……」
老人の目を受けてダロンは息子に近づく。
「お前こそ、余所者と一緒にいたら変な噂に巻き込まれるぞ? それともメリアちゃんと一緒に居たいってか? 何するつもりだ?」
嘲りを向けてみたダロンだが、我が子の顔は真剣さを失わない。
それがダロンの表情を奪い、思考を理性の方向へ引き込み、さらには後悔の入口へ押し出す。
「メリアは……、俺なんかが何をしようとも大丈夫だ。そうだろ?」
ノックに同意を求められたメリアは、大人たちに目配せする。
「ええ、御じい様から、剣と武術の手ほどきを受けておりますゆえ。ノックなら……、勿論ノック殿は誠実な人ですから心配いりませんが……。悪鬼魔道が近づいたら、切り伏せて見せます」
少女が言葉の最後に見せる剣呑で冷徹無慈悲な面持ちに、祖父以外は息を詰まらせる。
それも束の間、メリアは平素の表情に戻し、ダロンに尋ねる。
「それで、これから御尊父はいかがなさいますか? ノック殿と一緒にここにいて奥方を1人家に残すので?」
それは……、と言葉が途切れるダロンにヒースも訴える。
「身重の妻を1人にするのはいかにも拙いんじゃないか? ノックも臍を曲げて居座るわけじゃないんだし」
話の中心人物ノックも父の正面に立つ。
「お願いだ。今日だけ……、ラーフが帰ってきたら直ぐに帰る。そうしたら母ちゃんに全部謝るから。今だけは、ここにいさせてくれ」
どうして……、とダロンは今までと違い、弱った口調で尋ねる。
視線が下がるノックは、口ごもりそうになったが、意を決した。
「……謝らないといけないんだ。あいつに……」
一瞬目を大きくするダロンは言い伏せようとするが、口も瞼も閉じてから、頷き、改めて我が子を見る。
「分かった。それじゃ……」
その時、蹲っていた狼たちが耳を跳ね、頭を上げる。
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ヒースは狼達に近づき、そして、戸に耳を押し付ける。
嵐に負けずやってきた遠吠えが耳に届く。
皆にも聞こえたそれは明らかに狼の所業で、ヒースとノックは互いに喜びの顔を向けた。
あれって……、とノックが言いさす。
笑顔で頷くヒース。
「ああ間違いないシャフルだ! はは……ッ、いろいろ準備したが必要なかったな」
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「すぐ近くにいる。これで十分さ!」
まるで若返ったかのように快活になったヒースは、雨風と入れ替わって外に飛び出す。
戸口を半開きに保つダロンが呆れ顔に微笑みを足した。
ヒースが持ち出した燈明は陶器製で、釉薬による艶やかな内側が火を反射し、大きな三方の口が光を出す。
近くを照らすのには十分だったが遠くは見えないし、外套で守ってやらないと火が持たない。
けど、半開きの戸口から出る光もあり、向こうから影がやってくるのを察し、元気に呼びかける。
「シャフル……! ラーフ……」
大きな影が乏しい光に照らされ、額を染める血を浮き彫りにした。
表情を失うヒースは駆け寄って、どうしたんだ? と問い質すつもりだった。
狼の背に横たわる人物を見るまでは。
一瞬、まったく思考が消える。直感を否定するため、燈明を掲げる。
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何が起こっているかも知らずに。
「ラーフ……ッ!!」
嵐の尖兵たる風雨の軍団は、男の叫び声で蹴散らされ、聞いた者は表情を打ち砕かれる。
男の呼び声の悲壮感たるや、死者への手向けを思わせた。
覗き込むだけに留めようと戸口をそっと開けたダロンを退け、ノックが戸をこじ開ける。
おい……ッ、と声を荒げる父など眼中にないノックは、押し寄せる風雨も気にせず走り出す。
そして、全開の戸口からあふれる光が真っすぐ道行きを照らし、十数歩先にいる影を緋色に描く。
途中で立ち止まるノックは、見たくない気持ちと見るべきという使命感が鬩ぎ合い、一歩、光から退く。
暖かい家の光は、絶望に染まる男の顔と傷つく獣に乗せられた少年の体を残酷なほど精緻に浮かび上がらせた。
凍り付くノックの肩を掴んで揺さぶったダロン。
「ノック!」
立ち尽くす少年は自分の名前はおろか呼吸の仕方さえ失念していた。
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「何があった……ッ?!」
わからない……ッ、とヒースは震えているが我が子に覆いかぶさり雨と風から守る。
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放心していたノックは背筋を跳ね伸ばし、目が合った父親に命令をもらう。
「すぐにお湯を沸かせ! きれいな布を用意しろ! 酷い出血だ!」
「わ、分かった……分かった!」
ノックと入れ替わって老人と孫娘が外に出る。
そして少女は、目を見開き、道を譲ることしかできなかった。
ヘイミルは音を立てて両手を密着させる。
「《ステゴ・ヴェントゥス》ッ」
一言発して合わせた両手を天へ向けた瞬間、手中から萌黄色の泡が一つ膨張し、透明な表面に、湧き立つ雲を思わせる白銀の粒子の奔流を浮かび上がらせる。
老人を中心に広がった泡の天幕は負傷者を内包し戸口に達する。
あれほど降り注いだ風雨が消えた。
ダロンが空を見上げるが晴れたわけではなく、雨粒の激しさも健在で稲光が浮き彫りにした黒雲も天高く居座っている。
しかし、それ以上の存在感の天幕が、雷鳴以外を退けた。
ダロンはひとまず泡の天幕の存在を無視し、大きな狼の不安定な前進を助けることに専念する。
天幕の頂点へ白銀の粒子を両手から贈るヘイミルは、慎重に……、と呼びかける。
だが、少年の悲惨な姿を目に焼き付けた父親2人は思わず急いて傷ついた狼を押してしまう。
我が子の名を呼んでも返事をもらえないヒース。
甕から水を掬った鍋を暖炉の火に預けたノックは、土間から桶を持ってきたところで、家族の呼び声にも反応しない友を目にし、呆然としてしまう。
全員入りました……、と孫娘に言われヘイミルは両手を下げ戸口に身を引く。
泡は頂点から弾けて粘り気を感じさせる速度で溶けて消える。
泡が押し止めていた雨と風は、一気に温かい部屋へなだれ込もうとするが。
ヘイミルが入った直後、メリアが扉を閉ざして、冷たい部外者は拒まれた。
ノックは食卓も椅子も何もかも押しやることで、寝台までの障害を取り除いた。
あとは負傷者の到着を待つだけ。狼と男たちの力を信じる。
しかし、シャフルは部屋の中ほどに到達し、糸が切れたように倒れ伏す。
「シャフル!」
ノックと3頭の血族が駆け寄るが伸ばした手それと鼻先が届く前に。
「よく頑張ったぞ狼!」
ダロンがシャフルを労い、ラーフの体を慎重に抱え、移動する。
その時、ラーフの肩に下がっていた帯が途切れ、吊るしていた鞄が落下し、半開きだった口から無垢な本が出て、勝手に開く。
何も書かれず白いままだった紙は、今は赤黒い染料で主の身に起こった悲劇を端的に記述していた。
蒼白になるノックの前を運ばれたラーフから、小さな石の破片が転がる。
石に蹲る巻貝を目にし、ノックは、友人がどこまで行って、何をしていたのか、理解した。
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お姉ちゃんの秘密の悩みです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
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妻から手紙が来た。
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友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
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パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
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卒業パーティーのその後は
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魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな
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