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11.断食を断念しました
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結局、魔族と出会ってから、その彼女たちに助けられたおかげで、戦わずとも魔物に命を取られずに済んだアスター。この奇妙な経験は、何よりも彼に刺激を与えた。
城に着くまでの数十分の間、一パーセントには満たないが、この二人なら信用しても良いのではないかという気持ちが芽生えつつあった。事実、何事もなく無事に城まで戻ってこれた。
マゼンタは厨房の一番目の部屋・作業テーブルの上に、リンゴの入った籠を置く。
「こちらは明日の朝にいただきましょう。一応アスターさんにも教えておきますが、一番奥は食料の保管庫になっております。今日採ってきたものはいつでも食べて構いませんので、その気になったらどうぞ。もしお料理できるのでしたら、私たちにご馳走してくださると嬉しいですねー☆」
「いや、俺、料理はできないんだ」
「あ、そうでしたか。いえいえお気になさらずに。ならば従来通り、私が腕を振るうと致しましょう! ……明日」
これから食べさせられるのかと思って、身構えるところだったアスターは、安心で逆にズッコケそうになった。確かに彼は食べなかったが、ここでのマゼンタの役目は、皿洗いを除いて終わったのだ。食後のデザートも、何らかの道具を使わずともそのまま丸齧りできるものが、そこにある。技術を披露するのは、別の日で良いのだ。
「なんだよ。早速怪しげな現場を目撃しちまうのかと思った。それに……」
──俺は料理『する方』じゃなくて『される方』では──?
言いかけて、やめた。マゼンタは人間を含めた動物の、命を繋ぐものの保管場所を教えてくれた。魔族が人間に対し、食料の情報を提供するという珍事に、どう答えたら良いものか。アスターに小さな悩みがまた増えた。
「?」
何でも言ってください、と言わんばかりのマゼンタの顔を直視できたのは、わずか三秒ほど。
作り笑いすら無理なアスターの横で、クロエが伸びをした。それを見てマゼンタは、
「クロエ様、そろそろお休みになりますか?」
「んー……」
魔物をほぼ一撃で倒した者とは思えないほど、気の抜けた顔をするクロエと一緒に厨房を出る。アスターも、なんとなくの気持ちで後に続いた。
「今日は色々あってお疲れでしょうから、ぐっすり眠れそうですね」
「……うん」
だらりん、と立ち、一日の終わりに言う挨拶をすると、マゼンタも同じ言葉を返す。
「アスターも、おやすみー」
「え? あ、あぁ…………おやすみ」
心臓が跳ね上がりそうになるアスター。まさか自分にも挨拶してくれるとは、思ってもみなかったのだ。
クロエはノロノロと、自室の方へ歩いていった。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、マゼンタが言った。
「クロエ様、今日は本当に楽しかったようです。いつもなら最後までもっとこう……シャキッとなさってるんですけどね。珍しく夕食後にも外出なさって、あんなに目を輝かせて、アスターさんのこともそれとなくお守りして……」
──俺は守られていた? あぁ、今思えばそうなのかもしれないな──
「あんまり暇を持て余しているうちに、本当にどうかしてしまったみたいです、私たち。アスターさんがあまりにも平凡すぎるというのもあるんでしょうね。それならそれで、オーラを感じてました。殺しても旨みがない、生かしておいても害ではないという。別の意味で反応に困ってしまうような」
「困るのはこっちだ。どんなオーラだよ。あんまり嬉しくねえ」
「それが、あなたを今も生かしている理由です。もしあなたが、魔王様を倒した勇者・アズールの一味だったら……どうしていたでしょうね?」
ドキン、とアスターの心臓が跳ねそうになる。
「今ここにはいない……とか?」
「そうですねー……とりあえず地下牢にでも放り込んでおいてますかね。どうせ未来はないのですから、いつ葬っても良いワケでして。どう殺すか、色々検討しているところでしょう。とどめを刺す権利で揉めたりして」
「もし俺が勇者の仲間だったら、だよな?」
マゼンタは肯定した。
「つまり、その勇者と関係なければ、俺は明日も生きる権利を得られるんだな!?」
「ええ、まぁ。あ、でもアスターさん、よく見るとお顔が似ているかも……」
マゼンタはグッと顔を近づけてきた。反射的に後退すると、アスターの背中が壁にぶつかった。
──俺の兄貴なんだから、似ていて当然だ──
早くも勇者の身内とバレてしまうのか。そうしたら最悪、投獄を通り越して即座に殺されてしまうのか。滝のような汗を流しつつ、アスターは展開を待った。
「……ちょっと似ている人くらい、普通にいますよね。それを言ったら魔物なんかは、同じ種族であれば大体同じような顔をしていますから。それに比べたら、ほんの些細なことですよね。驚かせてごめんなさい」
──謝った!? 魔族が人間に──!?
「アスターさんも、もう休んだ方が良いですね。ですがお部屋がありませんので……」
それなら、野宿しろとでも言われるのだろうかと、アスターは不安になる。これまでこの世界へ乗り込んできた数多くの冒険者の中には、野宿をした者もいるかもしれない。兄・アズールもその一人だったのだろうか? だが同じ経験をアスター自身は……したくなかった。
夜は魔物の動きが活発になる。アズールはそう言っていた。そんな中に放り出すというのなら、さすが魔族とまずは言い、その次に断固拒否。雨風は凌げるので、とりあえず城内にはいるが、玉座の間か厨房でうっかり寝てしまうか否かが問題だった。
寝る、つまり無防備になる。こうなれば魔族の思う壺。これまでのことはやはり演技で、アスターの人生が彼や魔族の行動如何で簡単に終わってしまう可能性がある。
それを未然に防ぐための最良の策が、徹夜だった。今日のアスターにとっては辛い。しかし明日も生きるためには仕方がなかった。
「あそこしかありませんね。案内しますので、ついて来てください」
マゼンタが廊下を進み始めた。どうやら野宿ではないらしい。
コツ、コツとヒールの音が鳴る。薄暗い廊下の先には、地下への階段があった。
「こちらです」
マゼンタに続いて階段を下りる。彼女が掌から出した丸い魔力の集合体は、ただの照明。これのおかげで足元が見える。手すりがないので、アスターは壁に手をつけ、転ばないよう注意しながら、未知の空間へ足を踏み入れる。
幅の広い通路の先に牢屋が一つ。マゼンタは鉄格子を開けて言った。
「今夜はこちらでお休みください」
「休めねーよ!」
アスターは素早くツッコミを入れた。
野宿の件はなくなった(アスターの思い込みで、元々あちらにそのつもりはない)が、徹夜は免れそうにないと 、凹んでしまった。
広さは五坪ほど。石の壁に石の床。片隅には獣の毛皮で作られた薄茶色の毛布が一枚。疲れた身体を癒す場には、とても見えない。しかしアスターは、これ以上の選択肢は浮かばず、妥協する以外になかった。
「鍵は開けておきますね。コレ、外からしか施錠できないようになっていますから。それと、起床時間は特に設けていないので、好きなだけ眠っていいですよ。私はその間、お邪魔しませんので。では私はこれで。おやすみなさいませ~。……ウフフ、さて、今夜もクロエ様の寝顔を覗きに行きますか♪」
マゼンタは軽い足取りで、地下牢を去っていった。
アスターが何か言いたそうな顔をしても、気づくことはなかった。
──こんな環境でグッスリ眠れるワケがないだろう!──
「……最後にアイツ、何て言った?」
去り際のマゼンタは、確かにゲス顏だった。
牢内は寒かったが、清潔さに期待が持てず、毛布は遠慮した。
鉄格子を前にして、しばらくはただじっと座って、考え事をしていた。
もう、今日という一日が終わるらしいが、クロエたちは今後も本当に自分を匿うつもりなのか、それとも、油断させるために良き者を演じているだけなのか。
肉の時にしろリンゴの時にしろ、なぜあの二人は、魔物に遭遇した時にアスターを差し出さなかったのか。自分たちの手で殺したかったのだろうか。
ただの村人でしかないので、やろうと思えばいつだってできる。それをあえてしないのは、長く置いておくことで精神的に追い詰めるつもりだからか。
今夜はとても大事な夜。剣がなくとも言葉がある。有事の際は何を話して切り抜けるか、それを考えておきたかった。
朝が来るまで何時間もある。ただいたずらに時間が過ぎていくだけで済むとは限らない。クロエが、あるいはまだ見ぬ他の者が、スヤスヤと寝息を立てているとも限らない。何があるがわからないので、アスターは今、備えたかった。
ところが──
アスターはものの数分で睡魔との勝負に敗れ、堅い床の上で眠り、そのまま何時間もの時を費やした。
「──しまった!」
アスターはガバッと跳ね起き、一瞬見慣れない光景に驚き、牢の中で一夜を過ごしたことを思い出す。
うっかり寝てしまったことに溜め息をついてすぐ、あることに気がついた。
首から上、右腕、左腕、右脚、左脚。それらが全て、胴体についていた。背中に痛みがあるが、石床の上で直に寝たので当然である。
「よかった、俺生きてる……」
今は彼一人だが、知らぬ間に何者かが侵入した形跡があった。
鉄格子の外に、リンゴが一つあった。ただ置かれているのではなく、白い皿の上にちょこんと載せられている。更に丸い金属製のトレイが下に敷いてあった。
アスターは全く気がつかなかった。それだけ熟睡していたのだった。
「邪魔しないって言ったわりには……。魔族ってのは平気で嘘もつくのかよ」
ブツブツ言いながらも、扉は簡単に開けることができた。
──あ、でも──
施錠せずに戻っていったことに関しては、評価しても良いと思った。トレイごと引き寄せ、座り直す。扉は開け放したままだ。
このリンゴは、昨日収穫したものと見た。空腹のまま夜を明かしたからか、アスターの腹の虫もグッタリしていた。
赤い果実に手を出そうとはしない。今日、人間界に帰れるかもしれないから。そうでなければ明日かもしれない。そうでなければ……何も食べずに何日この身体がもつか、実験してみてもいい。アスターは改めて食欲との勝負を始めた。
時間を知る手段がない地下牢で、どれくらい経っただろうか。徐々にアスターの心は折れ始めていた。
色、ツヤといい、このリンゴが人間界で採れたものなら、有無を言わさず食べていたに違いない。それなのに、魔界産というだけで、アスターはここまで抗ってしまっているのだ。
口の中に唾液が溜まるたびに、飲み込んで自分を誤魔化してきた。が、そろそろ限界が近いようだ。目を閉じ、呪文のように決意を呟く。
──俺は食べないぞ、絶対食べないぞ──
リンゴに気を取られていたアスターは、代わりに足音には鈍感になってしまっていたらしく、その主──クロエに名前を何度か呼ばれて、
「あーもう何だよ! ……って、お前かよ」
必要のない怒りを、ついぶつけてしまった。
「おはよ。……ね、そろそろ観念したら? もうね、言ってることとやってることが一致してるようには見えないし」
「ハハ、何言って……う……」
アスターは無意識のうちに、リンゴを右手に持っていた。
「だってよ、起きたら目の前にうまそうなリンゴが置いてあるんだぜ。誰だって食うだろ普通。けど……俺の心は折れないからな。ヒビは入ってるかもしんねーけど。俺はコイツには絶対……」
「ヨダレ出てるよ」
鉄格子の横の壁に背をもたれて立つクロエの、痛恨の指摘。
「うおッ!?」
慌てて服の袖で口元を拭うアスター。
「……一口だけなら、害はないよな?」
「あっさり折れてんじゃん。何口でもドウゾー。私はさっき三個食べたけどね」
──人間界産だとしても、そこまで食べる気にはならねーよ──
一日の始めから食欲の旺盛さを語るクロエを前に、ついに負けを認めたアスターは、リンゴを一口齧ってみた。
食感もさることながら、果汁の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、アスターの頑固なリミッターは外れた。齧る→噛む→飲み込むという一連の動作は、可食部分がなくなるまで続いた。
アスターは何度も「うまい」と言った。
城に着くまでの数十分の間、一パーセントには満たないが、この二人なら信用しても良いのではないかという気持ちが芽生えつつあった。事実、何事もなく無事に城まで戻ってこれた。
マゼンタは厨房の一番目の部屋・作業テーブルの上に、リンゴの入った籠を置く。
「こちらは明日の朝にいただきましょう。一応アスターさんにも教えておきますが、一番奥は食料の保管庫になっております。今日採ってきたものはいつでも食べて構いませんので、その気になったらどうぞ。もしお料理できるのでしたら、私たちにご馳走してくださると嬉しいですねー☆」
「いや、俺、料理はできないんだ」
「あ、そうでしたか。いえいえお気になさらずに。ならば従来通り、私が腕を振るうと致しましょう! ……明日」
これから食べさせられるのかと思って、身構えるところだったアスターは、安心で逆にズッコケそうになった。確かに彼は食べなかったが、ここでのマゼンタの役目は、皿洗いを除いて終わったのだ。食後のデザートも、何らかの道具を使わずともそのまま丸齧りできるものが、そこにある。技術を披露するのは、別の日で良いのだ。
「なんだよ。早速怪しげな現場を目撃しちまうのかと思った。それに……」
──俺は料理『する方』じゃなくて『される方』では──?
言いかけて、やめた。マゼンタは人間を含めた動物の、命を繋ぐものの保管場所を教えてくれた。魔族が人間に対し、食料の情報を提供するという珍事に、どう答えたら良いものか。アスターに小さな悩みがまた増えた。
「?」
何でも言ってください、と言わんばかりのマゼンタの顔を直視できたのは、わずか三秒ほど。
作り笑いすら無理なアスターの横で、クロエが伸びをした。それを見てマゼンタは、
「クロエ様、そろそろお休みになりますか?」
「んー……」
魔物をほぼ一撃で倒した者とは思えないほど、気の抜けた顔をするクロエと一緒に厨房を出る。アスターも、なんとなくの気持ちで後に続いた。
「今日は色々あってお疲れでしょうから、ぐっすり眠れそうですね」
「……うん」
だらりん、と立ち、一日の終わりに言う挨拶をすると、マゼンタも同じ言葉を返す。
「アスターも、おやすみー」
「え? あ、あぁ…………おやすみ」
心臓が跳ね上がりそうになるアスター。まさか自分にも挨拶してくれるとは、思ってもみなかったのだ。
クロエはノロノロと、自室の方へ歩いていった。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、マゼンタが言った。
「クロエ様、今日は本当に楽しかったようです。いつもなら最後までもっとこう……シャキッとなさってるんですけどね。珍しく夕食後にも外出なさって、あんなに目を輝かせて、アスターさんのこともそれとなくお守りして……」
──俺は守られていた? あぁ、今思えばそうなのかもしれないな──
「あんまり暇を持て余しているうちに、本当にどうかしてしまったみたいです、私たち。アスターさんがあまりにも平凡すぎるというのもあるんでしょうね。それならそれで、オーラを感じてました。殺しても旨みがない、生かしておいても害ではないという。別の意味で反応に困ってしまうような」
「困るのはこっちだ。どんなオーラだよ。あんまり嬉しくねえ」
「それが、あなたを今も生かしている理由です。もしあなたが、魔王様を倒した勇者・アズールの一味だったら……どうしていたでしょうね?」
ドキン、とアスターの心臓が跳ねそうになる。
「今ここにはいない……とか?」
「そうですねー……とりあえず地下牢にでも放り込んでおいてますかね。どうせ未来はないのですから、いつ葬っても良いワケでして。どう殺すか、色々検討しているところでしょう。とどめを刺す権利で揉めたりして」
「もし俺が勇者の仲間だったら、だよな?」
マゼンタは肯定した。
「つまり、その勇者と関係なければ、俺は明日も生きる権利を得られるんだな!?」
「ええ、まぁ。あ、でもアスターさん、よく見るとお顔が似ているかも……」
マゼンタはグッと顔を近づけてきた。反射的に後退すると、アスターの背中が壁にぶつかった。
──俺の兄貴なんだから、似ていて当然だ──
早くも勇者の身内とバレてしまうのか。そうしたら最悪、投獄を通り越して即座に殺されてしまうのか。滝のような汗を流しつつ、アスターは展開を待った。
「……ちょっと似ている人くらい、普通にいますよね。それを言ったら魔物なんかは、同じ種族であれば大体同じような顔をしていますから。それに比べたら、ほんの些細なことですよね。驚かせてごめんなさい」
──謝った!? 魔族が人間に──!?
「アスターさんも、もう休んだ方が良いですね。ですがお部屋がありませんので……」
それなら、野宿しろとでも言われるのだろうかと、アスターは不安になる。これまでこの世界へ乗り込んできた数多くの冒険者の中には、野宿をした者もいるかもしれない。兄・アズールもその一人だったのだろうか? だが同じ経験をアスター自身は……したくなかった。
夜は魔物の動きが活発になる。アズールはそう言っていた。そんな中に放り出すというのなら、さすが魔族とまずは言い、その次に断固拒否。雨風は凌げるので、とりあえず城内にはいるが、玉座の間か厨房でうっかり寝てしまうか否かが問題だった。
寝る、つまり無防備になる。こうなれば魔族の思う壺。これまでのことはやはり演技で、アスターの人生が彼や魔族の行動如何で簡単に終わってしまう可能性がある。
それを未然に防ぐための最良の策が、徹夜だった。今日のアスターにとっては辛い。しかし明日も生きるためには仕方がなかった。
「あそこしかありませんね。案内しますので、ついて来てください」
マゼンタが廊下を進み始めた。どうやら野宿ではないらしい。
コツ、コツとヒールの音が鳴る。薄暗い廊下の先には、地下への階段があった。
「こちらです」
マゼンタに続いて階段を下りる。彼女が掌から出した丸い魔力の集合体は、ただの照明。これのおかげで足元が見える。手すりがないので、アスターは壁に手をつけ、転ばないよう注意しながら、未知の空間へ足を踏み入れる。
幅の広い通路の先に牢屋が一つ。マゼンタは鉄格子を開けて言った。
「今夜はこちらでお休みください」
「休めねーよ!」
アスターは素早くツッコミを入れた。
野宿の件はなくなった(アスターの思い込みで、元々あちらにそのつもりはない)が、徹夜は免れそうにないと 、凹んでしまった。
広さは五坪ほど。石の壁に石の床。片隅には獣の毛皮で作られた薄茶色の毛布が一枚。疲れた身体を癒す場には、とても見えない。しかしアスターは、これ以上の選択肢は浮かばず、妥協する以外になかった。
「鍵は開けておきますね。コレ、外からしか施錠できないようになっていますから。それと、起床時間は特に設けていないので、好きなだけ眠っていいですよ。私はその間、お邪魔しませんので。では私はこれで。おやすみなさいませ~。……ウフフ、さて、今夜もクロエ様の寝顔を覗きに行きますか♪」
マゼンタは軽い足取りで、地下牢を去っていった。
アスターが何か言いたそうな顔をしても、気づくことはなかった。
──こんな環境でグッスリ眠れるワケがないだろう!──
「……最後にアイツ、何て言った?」
去り際のマゼンタは、確かにゲス顏だった。
牢内は寒かったが、清潔さに期待が持てず、毛布は遠慮した。
鉄格子を前にして、しばらくはただじっと座って、考え事をしていた。
もう、今日という一日が終わるらしいが、クロエたちは今後も本当に自分を匿うつもりなのか、それとも、油断させるために良き者を演じているだけなのか。
肉の時にしろリンゴの時にしろ、なぜあの二人は、魔物に遭遇した時にアスターを差し出さなかったのか。自分たちの手で殺したかったのだろうか。
ただの村人でしかないので、やろうと思えばいつだってできる。それをあえてしないのは、長く置いておくことで精神的に追い詰めるつもりだからか。
今夜はとても大事な夜。剣がなくとも言葉がある。有事の際は何を話して切り抜けるか、それを考えておきたかった。
朝が来るまで何時間もある。ただいたずらに時間が過ぎていくだけで済むとは限らない。クロエが、あるいはまだ見ぬ他の者が、スヤスヤと寝息を立てているとも限らない。何があるがわからないので、アスターは今、備えたかった。
ところが──
アスターはものの数分で睡魔との勝負に敗れ、堅い床の上で眠り、そのまま何時間もの時を費やした。
「──しまった!」
アスターはガバッと跳ね起き、一瞬見慣れない光景に驚き、牢の中で一夜を過ごしたことを思い出す。
うっかり寝てしまったことに溜め息をついてすぐ、あることに気がついた。
首から上、右腕、左腕、右脚、左脚。それらが全て、胴体についていた。背中に痛みがあるが、石床の上で直に寝たので当然である。
「よかった、俺生きてる……」
今は彼一人だが、知らぬ間に何者かが侵入した形跡があった。
鉄格子の外に、リンゴが一つあった。ただ置かれているのではなく、白い皿の上にちょこんと載せられている。更に丸い金属製のトレイが下に敷いてあった。
アスターは全く気がつかなかった。それだけ熟睡していたのだった。
「邪魔しないって言ったわりには……。魔族ってのは平気で嘘もつくのかよ」
ブツブツ言いながらも、扉は簡単に開けることができた。
──あ、でも──
施錠せずに戻っていったことに関しては、評価しても良いと思った。トレイごと引き寄せ、座り直す。扉は開け放したままだ。
このリンゴは、昨日収穫したものと見た。空腹のまま夜を明かしたからか、アスターの腹の虫もグッタリしていた。
赤い果実に手を出そうとはしない。今日、人間界に帰れるかもしれないから。そうでなければ明日かもしれない。そうでなければ……何も食べずに何日この身体がもつか、実験してみてもいい。アスターは改めて食欲との勝負を始めた。
時間を知る手段がない地下牢で、どれくらい経っただろうか。徐々にアスターの心は折れ始めていた。
色、ツヤといい、このリンゴが人間界で採れたものなら、有無を言わさず食べていたに違いない。それなのに、魔界産というだけで、アスターはここまで抗ってしまっているのだ。
口の中に唾液が溜まるたびに、飲み込んで自分を誤魔化してきた。が、そろそろ限界が近いようだ。目を閉じ、呪文のように決意を呟く。
──俺は食べないぞ、絶対食べないぞ──
リンゴに気を取られていたアスターは、代わりに足音には鈍感になってしまっていたらしく、その主──クロエに名前を何度か呼ばれて、
「あーもう何だよ! ……って、お前かよ」
必要のない怒りを、ついぶつけてしまった。
「おはよ。……ね、そろそろ観念したら? もうね、言ってることとやってることが一致してるようには見えないし」
「ハハ、何言って……う……」
アスターは無意識のうちに、リンゴを右手に持っていた。
「だってよ、起きたら目の前にうまそうなリンゴが置いてあるんだぜ。誰だって食うだろ普通。けど……俺の心は折れないからな。ヒビは入ってるかもしんねーけど。俺はコイツには絶対……」
「ヨダレ出てるよ」
鉄格子の横の壁に背をもたれて立つクロエの、痛恨の指摘。
「うおッ!?」
慌てて服の袖で口元を拭うアスター。
「……一口だけなら、害はないよな?」
「あっさり折れてんじゃん。何口でもドウゾー。私はさっき三個食べたけどね」
──人間界産だとしても、そこまで食べる気にはならねーよ──
一日の始めから食欲の旺盛さを語るクロエを前に、ついに負けを認めたアスターは、リンゴを一口齧ってみた。
食感もさることながら、果汁の甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、アスターの頑固なリミッターは外れた。齧る→噛む→飲み込むという一連の動作は、可食部分がなくなるまで続いた。
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