156 / 439
お嬢と美乃梨の夏休み
美乃梨
しおりを挟むオヤジと爺ちゃんの言いつけとは言え、改めて考えるとどうやって美乃梨に声を掛けようかと悩んでしまった。
意識すればするほど不自然になりそうだ。こういうのはオヤジの方が適任じゃないのか? と思わなくもなかったが、案外簡単にそれは解決した。
昨日、ここに来てから一度も弾いていなかったピアノだが、本家の応接室にアップライトのピアノが置いてある。ここにいる間、そのピアノを僕は借りる事にしていた。
朝食が済んでから、僕はそのピアノに向かった。午前中は練習時間に充てるつもりだった。多分午後も弾いていると思う。
流石にここにいる間、全くピアノを弾かないという訳にはいかない。ここのピアノの感触はうちの家のピアノに似ているのでまだ弾きやすかった。
鍵盤に指を置いた時にこのピアノから伝わって来たイメージは、真一さんの幼い時からの思い出だった。
――このピアノは真一さんが弾いていたんだ――
どうやら彼も高校時代まではこのピアノを弾いていた様だ。それなりに真面目に練習していたようで、バッハの平均律クラヴィーア曲集を一生懸命練習している姿が見えた。プレリュード ハ長調 か……でもそんなに早く強く弾かなくても……と思わず突っ込みたくなった。
それに感化された訳でもないが、僕も久しぶりにバッハを弾いてみたくなった。
と、その瞬間にオヤジの姿が脳裏に浮かんだ。正確には高校時代のオヤジだった。
オヤジがまだ幼い真一さんにピアノを教えていた。黄バイエルが見えた。このピアノはオヤジも弾いた事があったようだ。そしてこの時はまだオヤジもピアニストを目指していた。
ちょっとだけ真一さんが羨ましかった。僕もオヤジにこうやって教わりたかったなぁ思ったが、もしそうなっていたらそれはそれで鬱陶しいと思ったかもしれない。
兎に角、今はバッハの気分だった。ツェルニーの50番を軽くさらってから、僕はこの部屋の本棚を漁り出した。
この応接間の本棚は楽譜だけは充実しているので助かった。本当にこれを全部真一さんが弾いたのだろうか? と疑問に思う楽譜もあったが、僕にとってはありがたい状況である事は間違いなかった。
バッハの曲集もあった。その中で『インヴェンションとシンフォニア曲集』が目に留まった。
同じものが僕の家にもあるが、こうやって他人の家で見つけると何故だかじっくりと見てしまう。
他人の楽譜はなんだか見ていると楽しい。
僕はその楽曲集を手に取った。案外綺麗なままの楽譜だった。
今日の午前中はこれを弾く事に決めた。
久しぶりに弾くバッハは、心が落ち着くような気がする。なんか荘厳な気分になる。バッハを弾いた後は暫くは他の曲を弾きたくなくなる。気持ちの切り替えが必要だ。
気が付くと僕は美乃梨の事も忘れてバッハを弾くことに熱中していた。
もう何曲弾いただろうか? いつもとは違う曲を弾いていると案外ムキになってしまうもんだ。
それにこの曲集は懐かしい。この頃あまりバッハを弾いていなかったので、色々と昔の事を思い出しながら弾いていた。
一呼吸おいて気持ちを切り替えて次の曲を弾こうと思った瞬間、背後で人の気配を感じた。
思わず振り返るとそこには、ソファに深く身体を預けて座っている美乃梨がいた。僕が唐突に振り返ったので驚いたような表情で僕を見つめていた。
「なんや、おったんや? 驚いたわ」
と僕は声を掛けた。
――なんと! 美乃梨の方からきっかけを作ってくれたわ――
と僕は心の中で喜んでいた。これで自然に美乃梨と会話ができる。
美乃梨はジーンズにTシャツ姿で、薄い黄色のカーディガンを羽織っていた。この辺は山奥なので夏と言っても朝方は少し冷える。
「あ、ゴメン。驚かすつもりはなかってん。うちが入ってきた事全然気づかんぐらい集中していたから、声を掛けるのを迷ってん」
と、上目遣いに僕を見ながら美乃梨は言った。
「そんなに集中しているとは思っていなかったんやけどなぁ……」
そう言い訳しながらも僕は、彼女がこの部屋に入ってきたことに全く気づけないほどには集中していた事を自覚した。
そして今は間違いなく完全にその集中力も切れてしまったので、少し休憩する事にした。
一度立ち上がって背伸びをしてから、今度は美乃梨に向かってピアノ椅子に座り直した。
「亮ちゃんってピアノ上手いよね」
美乃梨はソファの前のテーブルに広げられていた楽譜を手に取りながらそう言った。
その楽譜はさっきまで僕が見ていた楽譜だ。
「え? あぁ……ありがとう」
急に予想外の事を言われるとドキドキする。
「さっきからバッハばかり弾いているんやね」
「うん。バッハの曲集弾いているからな」
この楽譜を見ながらモーツァルトを弾く奴は、あまりいないだろう。
「そっかぁ……ねえ、亮ちゃん、ピアニストになるってホンマ?」
――それを一体誰に聞いたんだ?――
「うん。目指してはいるけど」
「それでも……凄いなぁ」
「なにが凄いねん……全然凄いこと無いわ……別にピアニストになった訳でもないし……まだ大学にも行ってないし」
「いや、もうちゃんと自分の進む道が決まっているというか、分かっているっていうのが凄いなぁって」
「ああ、そう言う事ね。まあ、今一番やりたい事がこれだったって言うだけなんやけどね」
「それでも、少し羨ましい」
「そう?」
「うん……ねぇ、大学って……音大に行くの?」
美乃梨は手にした楽譜から目を上げて聞いてきた。
「うん。そんなもんかな」
「もしかして……ピアニストってお父さんが目指していたから?」
「それはあんまり関係ないけど、ああ……でもそれも少しあるかもしれんなぁ……美乃梨はなんでそんなん知ってんの?」
改めて考えてみるとオヤジの影響も少しあったかもしれないと思い直しながら聞き返した。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
無属性魔法使いの下剋上~現代日本の知識を持つ魔導書と契約したら、俺だけが使える「科学魔法」で学園の英雄に成り上がりました~
黒崎隼人
ファンタジー
「お前は今日から、俺の主(マスター)だ」――魔力を持たない“無能”と蔑まれる落ちこぼれ貴族、ユキナリ。彼が手にした一冊の古びた魔導書。そこに宿っていたのは、異世界日本の知識を持つ生意気な魂、カイだった!
「俺の知識とお前の魔力があれば、最強だって夢じゃない」
主従契約から始まる、二人の秘密の特訓。科学的知識で魔法の常識を覆し、落ちこぼれが天才たちに成り上がる! 無自覚に甘い主従関係と、胸がすくような下剋上劇が今、幕を開ける!
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
耽溺愛ークールな准教授に拾われましたー
汐埼ゆたか
キャラ文芸
准教授の藤波怜(ふじなみ れい)が一人静かに暮らす一軒家。
そこに迷い猫のように住み着いた女の子。
名前はミネ。
どこから来たのか分からない彼女は、“女性”と呼ぶにはあどけなく、“少女”と呼ぶには美しい
ゆるりと始まった二人暮らし。
クールなのに優しい怜と天然で素直なミネ。
そんな二人の間に、目には見えない特別な何かが、静かに、穏やかに降り積もっていくのだった。
*****
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※他サイト掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる