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お嬢と美乃梨の夏休み
亜麻色の髪の乙女
しおりを挟む右手が軽く鍵盤に触れた。いや右手を静かに鍵盤の上に置いたという感じだった。
優しい音の粒が飛び出して僕はスコットランドの可愛い少女を見つけた。
オヤジが弾いた曲はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だった。
見つけたのは夏の陽の中でひばりと共に歌う愛の天使だった。一目で恋に落ち、自分の気持ちに葛藤し、そしてその想いを胸に立ち去って行く。
オヤジが奏でるピアノの音は恐ろしいほど優しいタッチだった。鍵盤を慈しむような柔らかいタッチだったが、この曲の全てを余すことなく表現していた。細かいところまで隙も無く丁寧に弾いている。それなのにすっきりとした音だ。こんな繊細なタッチのピアノを僕は聞いた事が無い。素面のオヤジはこんな音を出せるんだ……僕は一瞬オヤジの狂気を感じたような気がした。
夏の草原をそよ風が軽く吹き抜ける。それに乗ってオヤジの奏でた音は部屋の窓から空へと飛んで行った。
なんて切なくて甘い音の粒なんだろう。間違ってもピアノをやめたという人間の音ではない。
オヤジが穏やかな表情で最後の一音を鳴らした。そしてゆっくりと僕の顔を見ると軽く口元が緩んだ。
――お前には宏美ちゃんがおるからな、美乃梨に手を出すなよ――
と言われているような気がしたが、その瞬間に
「あ、これはドビュッシーの気持ちか!」
と理解した。
ドビュッシーがこれを作曲した時の年齢は今のオヤジとそんなに変わらないはずだ。勿論ドビュッシーはその当時すでに結婚して娘もいた。
この曲は十九世紀フランスの象徴派詩人ルコント・ド・リルの詩集からインスパイアされて書かれたというが、この詩を目にしたドビュッシーには若かりし頃の感性がよみがえり、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになったのかもしれない。目の前にその情景が広がっていたのだろう。
過ぎ去りし思い出の中から取り出された甘く甘美な想いは、今だからこそ湧き上がる想いである。
――オッサン同士の想いがシンクロしたか――
とオヤジのピアノの音に感動しながらもどこか僕にはまだ理解しかねる感情を感じ取っていた。
今日のオヤジのピアノの音は作曲者の精神をそのまま反映した上にオヤジ同士のノスタルジックな感情がシンクロして、若い僕たちにはそこはかとなくでしか分からない青春の残照の影が見える音の粒だった。
僕には間違ってもこの音の粒はまだ出せない。この切なく微かに枯れた音は出せない。出せたら怖い。
僕は横に座っている美乃梨に視線を移した。
美乃梨は泣いていた。うっすらと涙が頬を伝わっていた。
なんで? 一瞬で僕は頭の中が真っ白になった。オッサンの青春時代の残照にやられたか?
「え? なに?……あ!?」
美乃梨自身も泣いている事に気が付いていなかったようだ。
「どうしたん?」
僕は思わず聞いた。
「ううん。この曲を聞いていたら、凄く切ない気持ちになって来てん。本当にどうしようもない、胸が締め付けられるような気がして、気が付いたら涙が出ていたん」
と美乃梨は人差し指で涙を拭った。間違いなくオッサンの若かりし頃の忘れ物までしっかりと受け取ってしまったようだ。
「この曲で泣けるかぁ……」
何となく分かるような気もするが、気がするだけかもしれない。
「ピアノでこんなに気持ちが揺さぶられたの初めて……おじさん……なんでピアノをやめたの?」
まだ少し湿った声で美乃梨はオヤジに聞いた。
その眼は何故かオヤジを責めているような感じがした。
「まぁ……何となくかなぁ……」
とオヤジは言葉を濁した。女子高生のストレートな質問にはさすがのオヤジもどう返事して良いのか分からない様だ。
「うそ!」
美乃梨は間髪入れずに否定した。オヤジのその場しのぎの返答は一瞬で見破られた。
「いやぁ……まあ、若気の至りという奴だわ」
とオヤジは頭を掻きながら乾いた声で笑った。純情無垢な女子高生の瞳で凝視されたオヤジは視線が泳いでいた。
美乃梨はそれ以上オヤジに突っ込まなかったが、黙ってオヤジが弾いたピアノの鍵盤を見つめていた。
「私ももう一度ピアノ弾こうかなぁ……」
「え?」
思わず僕は聞き返した。
「ううん。なんでもない。ピアノってこんな音が出せるんやね。驚いたわ」
そう言うと美乃梨は立ち上がって
「お姉ちゃんとご飯食べてくる。亮ちゃん、またね」
と言って部屋を出て行こうとした。
「おじさん。ピアノを弾いてくれてありがとう。でも、また聞かせてね」
と振り向き様にオヤジに言った。
「おぅ。またな」
オヤジは笑ってそう答えた。美乃梨はその返事に頷くと嬉しそうな笑顔で部屋を出て行った。
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