北野坂パレット

うにおいくら

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お嬢と美乃梨の夏休み

ショパンを弾いた

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 昼食後も僕はピアノの前に座っていた。
ハッキリ言ってこの街には何もない。いや、山陰の鄙びた街だがそれなりの店はある事はあるのだが、僕が心惹かれる店やモノが見当たらなかった。
唯一ヒマつぶしが出来る安藤さんの店もここにはない。

 おじさんの畑仕事を手伝う事もあるが、それはほとんどが午前中だ。
昼間はこの炎天下誰も畑に出ていない。

 要するにピアノを弾くしかないという喜ばしい環境が出来上がっている。
明日は午前中は畑仕事を手伝おうと、オヤジと食事をしながら心の中で決めていた。

 そして食後の最初の一曲に僕は『ショパン 華麗なる大円舞曲』を弾いた。
それは指慣らし程度の軽い気持ちで弾いたのだが、ちょっと舐め過ぎていた。やはり久しぶりに弾いて満足いく演奏ができる程甘くない。
だからと言ってもう一度弾く気にもなれなかった。

 代わりに次に弾きたくなった曲は同じくショパンの『英雄ポロネーズ 』だった。
僕は譜面置きの楽譜をめくって、過去嫌というほど練習したこの曲を思い出していた。
技巧的には結構難しい曲だ。主部の一オクターブ+3度を鳴らしきった時は爽快だが、ハッキリ言って鬱陶しい。

そんな事を思い出して僕は、背筋を伸ばしてから鍵盤に指を置いた。
午後の練習は午前中と違ってソファには美乃梨ではなくオヤジが座っていた。

「なんや、ショパン国際ピアノコンクールにでも出るんかぁ?」
弾き終わるとオヤジがボソッと世界的なピアノコンクールの名前を出した。

「え? 分かる?」
その声に僕は振り向いて笑いながら聞き返した。勿論そんな事を考えてこの曲を弾いたのではなかった。

「バッハ弾いてショパンを弾いたら、そりゃそう思うわ……けど気が早や過ぎひんかぁ」
とオヤジは呆れたように笑った。

「そう? 今から準備しようかなぁ……って」

「四年後目指して今から?」

「心の準備だけでもって……やっぱり気が早いかな」

「早や過ぎやろって、そもそも出られんの?」

「多分……渚さんは大丈夫だと言っていたけど……」

「ふん……それなら去年出れば良いモノを……」

「うん。でもその時はピアノにそれほど興味なかったから……」

「そうやったなぁ……アホやなぁ」

「ホンマに……オヤジの子やからなぁ……」

僕とオヤジは声を上げて笑った。オヤジとこんな会話をするなんて昔は思ってもいなかった。

「父さんはそれには出たん……」
と言いかけて僕は気が付いた。しかし遅かった。僕の声はオヤジの耳にきっちりと届いていた。

「いや、出とらん」
と、ひとことだけオヤジは言った。

「あ、ゴメン」
 このコンクールは五年に一度。参加資格は十六歳以上から三十歳まで。オヤジがピアノをやめたのが高校三年生の秋だったはずだから、翌年八十年のコンクールの時は既にオヤジはピアノをやめていた。その前の七十五年のコンクールは資格を満たしていなかった。

「ああ、気にせんでええ。もう終わった事や。それに今はお前が出るショパン国際コンクールを見てみたいな」
オヤジは僕の失言を気にかける様子もなくそのまま流してくれた。

「うん」
僕は少しだけ救われた気持ちになったが、相変わらずの口の軽さに自己嫌悪に陥っていた。

――冗談ではなく、本当にコンクールに出たろか――
と本当にオヤジをワルシャワに連れて行きたくなった。思っただけで行けるほど、甘い世界ではないのは理解している。だけど、今の不用意なひとことで、僕は自分を少し追い込んでみたくなった。

「さてと……」
唐突にオヤジはソファーから立ち上がった。

「ちょっくらお嬢に会いに行ってやるかな」
と言って出て行こうとした。

「今から?」

「ああ」

「俺も行って良い?」

「うん? ああ、エエけど。ピアノ練習せんでええんかぁ。ショパンが待っとんぞ」

「後でまた続けるからええねん」

「そっか。じゃあ、ついて来いや」

そう言うとオヤジはドアを開けて出て行った。僕は慌ててその後に続いた。


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