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コンクールの二人
冴子の演奏
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「はい」
冴子は返事をすると椅子から立ち上がって『やっと呼ばれた』というように少しホッとしたような表情を僕に見せた。
僕は冴子を見上げながらそれに笑顔で返した。
冴子は僕の瞳をじっと見て頷くと踵を返して舞台そでに向かって歩き出した……が、直ぐに立ち止まって振り返った。
「行ってくるわ」
と笑って言った。まるで言い忘れていた言葉を思い出したかのように……。
僕は宏美がいつもやっていた様に両手の拳を胸の前で握りしめて
「頑張って!」
と目を見開いて言ってやった。
「お前は松岡修造か!」
そう言って冴子は笑いながら、まっすぐに舞台へと向かって行った。
いつもの冴子の台詞でいつもの冴子の表情だった。そしていつもの姿勢のいい歩き方だった。
冴子は控室から出て行った。僕は一人取り残されたような気分になった……と、同時に観客席にいる宏美の事が気になった。
――今頃ドキドキしながら見ているんだろうか? それともいつものようにあっけらかんと楽しんでいるのだろうか?――
そう思うと僕もどうしても冴子の演奏が聞きたくなって、控室を飛び出してホールに潜り込んだ。
壁際に佇んで僕はホールを眺めた。宏美はどこに座っているかなんて全く分からなかった。
冴子はステージに上がると客席に向かって挨拶をして、静かに椅子に座った。
椅子の高さ調整が終わると、黙って鍵盤を見つめて呼吸を整え始めた。
冴子は鍵盤にそっと指を置くとすぐには弾かず、そのままの姿勢でまだ鍵盤を見つめていた。
その姿に観客が注視し始めたその瞬間、ホールを満たすように微かに聞こえるピアノの音。音のさざ波が静かに流れだした。
最初の曲はラヴェルの『水の戯れ』だった。
この曲はフランスの作曲家モーリス・ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲で、ピアノ音楽における印象主義の幕開けを告げた作品として高い評価を受けている曲だ。
そしてこの曲は冴子の好きな曲の一つでもある。勿論、難易度も高い曲だ。
今日の冴子の音はとても優しい。そして素直な音だ。演奏の入り方もとてもいい。自然に観客の気持ちをその腕に抱きかかえて持って行ってしまった。
変な力みは全くなかった。無事に彼女は水の流れに乗った。二音のピアニッシモも綺麗に響いている。ラヴェルの嫌がらせのようなパッセージを難なくこなしていた。
そして僕はこの音を以前にも聞いた事がるような気がしていた。どこかで聞いた音の粒と流れを感じる。
冴子とは三歳のころから一緒にピアノを習ているので『どこかで聞いた音』なのは当たり前なのだが、今聞いている音色は冴子のピアノの音として聞いた記憶がないように思えて仕方なかった。
音の一つ一つが丁寧に奏でられている深みのある良い音色だった。
――冴子はここまで自分の音を高めたのか? でもこの音はどっかで聞いたことがあるような気がする――
そう思いつつも、
――この音の流れを出すために彼女はどれほど練習をしたのだろうか?――
という事の方が気がかりだった。
流れているこの音色は、今までの冴子の音の粒を捨て去って、それを改めて再構築しているかのような……そんな冴子の決意を感じるような調べだった。
――私の音がちゃんとあんたに届いとぉか? これが私の音や! 聞いとぉか!――
冴子の声が聞こえる。それと同時に冴子のこの曲に対する思いも伝わってくる。
規則正しく吹き上がる噴水の水音が聞こえる。もう季節は秋だが、ここだけは夏の明るさが蘇ったようだ。
勢いよく噴き出た水は陽の光を浴びて虹を作っている。霧のしずくが水滴が気持ちよく頬にあたる。
色とりどりの噴水。
水辺で戯れる子供達。優しい水の流れ、透き通った水、これは冴子と一緒に遊んだ僕達の姿だ。
噴水のへりから水の中へ飛び込む僕。飛沫が掛かって怒る冴子。宏美も和樹もいる。
僕達の想い出が詰め込まれた演奏。
彼女は今、自分の持っている全ての感情をこの曲に乗せて演奏している。それでいて何度も出てくる第二主題のパッセージは軽やかにそして規則正しく最後までテンポも変えずに弾き切った。
遊び疲れた僕達はいつしか木陰でそのまま昼寝をしてしまった。
冴子は目を閉じて鍵盤から静かに腕を上げた。
ひと時の静寂……次の演奏への期待……そして咳。緊張感が漂う間合い。
冴子は天井を見上げてから、呼吸を整えるようにゆっくりとピアノに視線を落とした。
冴子は返事をすると椅子から立ち上がって『やっと呼ばれた』というように少しホッとしたような表情を僕に見せた。
僕は冴子を見上げながらそれに笑顔で返した。
冴子は僕の瞳をじっと見て頷くと踵を返して舞台そでに向かって歩き出した……が、直ぐに立ち止まって振り返った。
「行ってくるわ」
と笑って言った。まるで言い忘れていた言葉を思い出したかのように……。
僕は宏美がいつもやっていた様に両手の拳を胸の前で握りしめて
「頑張って!」
と目を見開いて言ってやった。
「お前は松岡修造か!」
そう言って冴子は笑いながら、まっすぐに舞台へと向かって行った。
いつもの冴子の台詞でいつもの冴子の表情だった。そしていつもの姿勢のいい歩き方だった。
冴子は控室から出て行った。僕は一人取り残されたような気分になった……と、同時に観客席にいる宏美の事が気になった。
――今頃ドキドキしながら見ているんだろうか? それともいつものようにあっけらかんと楽しんでいるのだろうか?――
そう思うと僕もどうしても冴子の演奏が聞きたくなって、控室を飛び出してホールに潜り込んだ。
壁際に佇んで僕はホールを眺めた。宏美はどこに座っているかなんて全く分からなかった。
冴子はステージに上がると客席に向かって挨拶をして、静かに椅子に座った。
椅子の高さ調整が終わると、黙って鍵盤を見つめて呼吸を整え始めた。
冴子は鍵盤にそっと指を置くとすぐには弾かず、そのままの姿勢でまだ鍵盤を見つめていた。
その姿に観客が注視し始めたその瞬間、ホールを満たすように微かに聞こえるピアノの音。音のさざ波が静かに流れだした。
最初の曲はラヴェルの『水の戯れ』だった。
この曲はフランスの作曲家モーリス・ラヴェルがパリ音楽院在学中の1901年に作曲したピアノ曲で、ピアノ音楽における印象主義の幕開けを告げた作品として高い評価を受けている曲だ。
そしてこの曲は冴子の好きな曲の一つでもある。勿論、難易度も高い曲だ。
今日の冴子の音はとても優しい。そして素直な音だ。演奏の入り方もとてもいい。自然に観客の気持ちをその腕に抱きかかえて持って行ってしまった。
変な力みは全くなかった。無事に彼女は水の流れに乗った。二音のピアニッシモも綺麗に響いている。ラヴェルの嫌がらせのようなパッセージを難なくこなしていた。
そして僕はこの音を以前にも聞いた事がるような気がしていた。どこかで聞いた音の粒と流れを感じる。
冴子とは三歳のころから一緒にピアノを習ているので『どこかで聞いた音』なのは当たり前なのだが、今聞いている音色は冴子のピアノの音として聞いた記憶がないように思えて仕方なかった。
音の一つ一つが丁寧に奏でられている深みのある良い音色だった。
――冴子はここまで自分の音を高めたのか? でもこの音はどっかで聞いたことがあるような気がする――
そう思いつつも、
――この音の流れを出すために彼女はどれほど練習をしたのだろうか?――
という事の方が気がかりだった。
流れているこの音色は、今までの冴子の音の粒を捨て去って、それを改めて再構築しているかのような……そんな冴子の決意を感じるような調べだった。
――私の音がちゃんとあんたに届いとぉか? これが私の音や! 聞いとぉか!――
冴子の声が聞こえる。それと同時に冴子のこの曲に対する思いも伝わってくる。
規則正しく吹き上がる噴水の水音が聞こえる。もう季節は秋だが、ここだけは夏の明るさが蘇ったようだ。
勢いよく噴き出た水は陽の光を浴びて虹を作っている。霧のしずくが水滴が気持ちよく頬にあたる。
色とりどりの噴水。
水辺で戯れる子供達。優しい水の流れ、透き通った水、これは冴子と一緒に遊んだ僕達の姿だ。
噴水のへりから水の中へ飛び込む僕。飛沫が掛かって怒る冴子。宏美も和樹もいる。
僕達の想い出が詰め込まれた演奏。
彼女は今、自分の持っている全ての感情をこの曲に乗せて演奏している。それでいて何度も出てくる第二主題のパッセージは軽やかにそして規則正しく最後までテンポも変えずに弾き切った。
遊び疲れた僕達はいつしか木陰でそのまま昼寝をしてしまった。
冴子は目を閉じて鍵盤から静かに腕を上げた。
ひと時の静寂……次の演奏への期待……そして咳。緊張感が漂う間合い。
冴子は天井を見上げてから、呼吸を整えるようにゆっくりとピアノに視線を落とした。
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