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父さんの色
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その日、生まれて初めてオヤジに会った。もう少し正確に言うと15年振りにオヤジに会った。
懐かしさよりも不思議な感覚を味わった時間だった。
「この人が居たから俺がここにいる」
自分という存在を他人によって認識する事がある……という事を初めて知った。
それは突然の話だった。
「お前、父さんに会いたい?」
高校の入学式当日。家に帰ってきて学生服から私服に着替えてリビングで甘ったるい紅茶を飲んでいたら、マイセンの珈琲カップで焼酎のロックを飲んでいたオフクロが僕に言った。
僕はこの母親の事をガサツな母親だ……と思っているが他の人は「個性的な人だ」という。「それが魅力だ」ともいう。
そんな外面の良いガサツな母親から逃げたかったのか嫌気がさしたのか、オヤジは僕が生まれて間もなく出て行った。そう、二人は離婚した。
物心つく頃には父親が居ないのが当たり前の家庭が出来上がっていた。
だから父親の話題に触れる事はほとんど無かったし、離婚した本当の理由も聞いたことがない。
1歳頃までは一緒に暮らしていたらしいのだが、両親が離婚して以来オヤジには一度も会っていない。
勿論、オヤジに関する記憶は全くない。
そんな全く予想もしていなかった僕に唐突にオフクロはそう聞いてきた。
「なんで急に?」
「あんたも高校生なんだし、父親の顔ぐらい見ていても良いんじゃないのかと思ったんやけどね。どうする?」
正直に言ってどっちでも良かった……というか答えようが無かった。
唐突に「仮面ライダーに会いたいか?」と聞かれたような気分だった。
――アナタハ、ナニヲ言ッテイルノデスカ――
しかし一応会うのは父親だ。間違ってもライダーキックを喰らうことはない。
唐突ではあるがオフクロの言葉なのでそれなりに考えた。
会いたい気持ちも無いわけでもないが、今更…っていう気もしないでもない。
「もしかして……それって思いつきかぁ?」
「そう、思いつき……だから途中で気が変わるかもしれん」
「う~ん。だったら会ってやっても良えかな」
やはりオフクロの得意技である思いつきだった。しかしこのガサツなオフクロに「思いつき」とかいわれると、父親に会えるのがこれが最初で最後のチャンスのような気がして僕はオヤジに会う事にした。
「会ってやってもいいか……それでもあの人は喜ぶんやろうな」
オフクロが呟いた。
「何が?」
「こっちの事や。あんたも高校生なんやからその甘ったるい紅茶はやめて珈琲ぐらい飲んだら?」
「俺はこれが好きなんや」
「まだまだ子供やな。父さんに会う時は飲むんだったら珈琲にしいや。でないとガキ扱いされんで」
なんとなくオフクロのオヤジに対する対抗心みたいなものを感じた。甘やかせたと思われるのが嫌なんだろうか?
今更、僕に対する教育方針を振り返ってどうする。
「そもそも、珈琲も飲まずに昼間から焼酎を飲む奴が何をいうやら……」
「お母さんは大人だから良いんです。珈琲はお酒を飲んだ後に飲むから美味しいの」
その理屈は子供には分からんわ。
そもそも、突っ込まれたら言葉遣いが丁寧になるのは何故だ?
で、目の前にオヤジが居る。初めて会った実の父親。
同じ空間に父親がいるという違和感は半端ではない。クラクラしそうだ。これを存在感というのだろうか?
今まで何度か会いたいと思った事もあった。何故僕には父親がいないんだとオフクロに聞いた事もあった。聞いても教えてもらえなかったが……。
その父親が目の前にいる。
――この人が居たから僕が居る――
思った事はそれだけだった。
僕は父親に初めて会った事よりも、この男が何をして今まで生きてきたのかに興味が湧いていた。
もしかしたら僕は父親の存在よりも、父親の言葉が聞きたかったのかもしれない……とオヤジの顔を見ながらそう思った。
GW前のある日の夕方、オフクロに指示されたトアロードのカフェバーに僕はいた。
天井からぶら下がったJBLのスピーカーからはオフクロが好きな70年代の洋楽が流れていた。
それを店の一番奥まった席でブラック珈琲を高校生になって生じた変なプライドに従って無理して飲みながら聞いていた。あまり美味しい飲み方だとは思えなかった。
「お父ちゃんって呼んだらいいのかな?……いやいや、それは子供っぽいだろう。紅茶どころの騒ぎではないな…やっぱりお父さんか?…なんだか真面目ぶっているな…やはりここはオヤジだな。でもそれはおっさん臭くないか?……」
オフクロではないが、甘やかされて育ったとは思われたくなかった。別に甘やかされたとは思っていないが……
等と考えていたら急に名前を呼ばれた。
「亮平?」
見上げるとそこにオヤジの顔があった。
考えに没頭していてオヤジが店に入ってきた事に気がつかなかった。
第一印象は重要だと思っていたのに最初からこけた。不意を突かれた。
オヤジはテーブルの反対側に立って僕を見おろしていた。
「初めまして……父……です」
「初めまして……息子……です」
オヤジは不思議そうな顔をして僕を見ていた…なぜかそんな風に感じた。
僕も同じような顔をしていたのかもしれない。少なくとも虚を突かれて慌てふためいてはいたのは隠しようがなかった。
オヤジは思ったより若い……というか若く見える。
格好もとってもラフでサラリーマンには見えない。40代にも見えない。
ボタンダウンのシャツにジーンズ。濃いブルーのスタジアムジャンパーを羽織って立っていた。胸にはカルフォルニア大学バークレー校と刺繍がしてあった。
僕は座ったままだった事に気がついて慌てて立ち上がろうとしたが、オヤジは軽く手で制して
「アンちゃん、俺にも珈琲くれ」
とカウンターの方に少し首を傾けてマスターらしき人に声をかけながら、僕の向いの椅子に座った。
なんだか慣れた動作だった。たかが椅子に座るだけなのだが、なんだかこの店の雰囲気通りの座り方だった。
何故か大人だなぁと思った。僕のオヤジなんだから大人なのは当たり前の事なのだが、始めて見る動くオヤジだからか何を見ても新鮮だった。
マスターが聞く
「一平、ビールでなくてええんか?」
「ああ、ダメ人間になるにはまだ早すぎる」
「そうやな、しょっぱなからダメ親父をさらけ出さなくてもえーからな」
マスターは笑いながら応えた。
「そういう事や。後1時間は素面でいるわ」
そう言いながらオヤジはじっと僕の顔を見ていた。
視線を外せない。
目の奥まで覗き込まれているような、そして吸い込まれてしまいそうな瞳だった。
オヤジの威圧感というか迫力を全身で感じたような気がした。ちょっとビビった。
ふとオヤジは視線を外し天井に目をやった
「お母さんは元気か?」
と聞いてきた。
「う、うん。いつも焼酎飲んでいる」
こんなことを言っても良かったか?とは思ったが言った後に思ったところで仕方ない。
ちょっと声がうわっずっている。
「ふ~」とオヤジは息を吐いて視線を僕に戻した。
「そっか……お前は?」
「え?」
「お前はお母さんと一緒に飲んでないのか?」
「まだ高校生になったばかりの息子に聞くか?」
「そうか……そうやったな」
オヤジは軽く自嘲気味に笑って頷いた。
「父さんは高校時代に飲んでたんか?」
「いや…それは……ないな。うん。飲んでないな……飲んでないよ。亮平くぅん」
と眉間に皺を寄せ、ワザとらしい嘘臭い顔で僕に応えた。
結局、僕の口から出たのは「父さん」だった。
「お父ちゃん」でもなく「お父さん」でもなく「オヤジ」でも「オトン」でもなく「父さん」だった。
自分でも余りにも普通過ぎたので心の中で笑った。
「この小心者め」
しかし突っ込まれて標準語になるのは、オヤジの癖か?
やっぱりオフクロとオヤジはやっぱり夫婦だったんやな……そして僕の親だわ。
なんか妙な安心感を覚えた。ただオヤジもやっぱり酒飲みのようだ。
マスターがにやにやしながら珈琲を持ってきてくれた。
「お待たせ。お・と・う・さ・ん」
「何がお父さんや……お前にお父さん呼ばわりされる筋合いはないわ」
そう言うと僕に
「あ、亮平。こいつなぁ安藤っていうねんけど、父さんの中学校時代の同級生なんや」
と紹介してくれた。
「そう。このお・と・う・さ・んとは中学校時代から一緒。お母さんも良く知ってるよ。お・か・あ・さ・んも良く来るし……」
と安藤さんというそのマスターは教えてくれた。
見た目はちょっと怖そうな人だったが、本当はいい人なんだろうなあと思えた。
「じゃあ、ここでお・と・う・さ・んはお・か・あ・さ・んと会ってんの?」
と僕は聞いた。
「ああ。たまにな……でもお前まで真似せんでエ・エ・ぞぉ……」
オヤジはまた眉間に皺を寄せて、あえてワザとらしい怒った顔を見せた。
「あ、ごめん……つい」
なんだか意外だった。僕の知らないところで二人は会っていたりしていたんだ。
「会っていたらおかしいか?」
「いや、そういうわけではないんやけどね」
「そっか」
なんだ仲が悪いわけではないんだ。ちょっと安心した。
僕は珈琲カップに視線を落としてカップの中の珈琲を見ていた。
視線を上げるとオヤジは、珈琲カップの取っ手に中指を突っ込んで鷲掴みするように持ち、珈琲を一口飲んでいた。
なんだかオヤジぽくでカッコいいなと思ってしまった。
「一平、たまに元夫婦で逢引きしとんねんな」と安藤さんが口を挟む。
「ちゃうわ、逢引きゆうな」
マスターの安藤さんはオヤジをいぢくるのが楽しい様だ。
15坪程度の広さの店は、マスターと僕達だけだった。
古きイングランドのパブを模したこの店の居心地は良い。
二人の関係が良いからなのか、僕はこの空気感があるこの店が気に入った。
こういう店を気に入るっていう感覚が不思議だったが、何故か少し大人の空気を吸ったような気がした。
扉が開いた。カランカランとカウベルの音が店内に響く。
「一平が息子に会っているって?」
大きな声が店内に響いた。
「お?鈴原かぁ、そろそろ来ると思ってたわ」
マスターがカウンターに戻りながら、入ってきた男の人に笑いながら声をかけた。
「なんでお前が知ってんねん」
オヤジは軽く振り向いて入ってきた人に声をかけた。
「さっきそこで君の元嫁のユノに偶然会って聞いた」
その人はそのまま僕とオヤジのテーブルの前まで来て
「ほっほ~、一平君……おとんの顔になっとるのぉ」
と「あんたはどっかの仙人か……」と突っ込みたくなるような年寄り臭い声でオヤジに話しかけてきた。
「あほ。いつもの顔や」
「いやいや。ワシには分かるぞぉ…感激の親子の対面じゃ。のぉ一平君……」
「ふん」
と言いながらオヤジは笑っていた。これってやはり嬉しいのだろうか?
そもそもオヤジはいぢられキャラか?
オッサン3人に囲まれて僕は少し息が詰まった。
僕はさっきまで馴染み始めていたこの空間が、急によそよそしく感じられた。
阪神-巨人戦を甲子園球場に見に行って3塁側に座ったような居心地の悪さを感じ始めていたら、その人は急に僕の方に振り向き、
「お~亮平君かぁ。初めまして鈴原です。やっとちゃんと会えたわ、ホンマに……。お父さんもお母さんの雪乃さんも幼馴染で、昔から色々とお世話をして差し上げております」
と話しかけてきた。
ちょっと驚いた。
「けっ!」とオヤジが舌打ちをした。
その顔には「嫌味なやっちゃなあ……」とありありと書いてあった。
折角、いぢってもらえているので僕も椅子から立ち上がると
「そうなんですか。不束者の両親がいつもお世話になっております」
と応えた。
鈴原さんは僕の顔をじっと見て
「お前、ええ息子持ったなぁ……」
とオヤジの方に向き直った。
途端に
「うわ!こいつなんちゅう顔してんねん。気色悪い笑い方すんなぁ」
と叫んだ。
「いや、息子に『いつも両親がお世話になっております』なんて言われたことないから、なんかカンドーしてしもた」
確かにオヤジの顔は変な顔だった。
笑っているのか泣いているのか分からない不思議な顔だった。
「あ~その気持ちわかるなあぁ…日ごろ家庭にも子供にもかまってやる事のない鈴原のようなバカオヤジには判らんだろうが……」
と安藤さんが突っ込んだ。
「なんか反論できんのが悔しい……」
と鈴原さんは言いながら
「俺にも珈琲……いやビールくれ」
とマスターに注文した。そういうとカウンターの方に戻っていった。
僕は三塁側から一塁側の内野席に移ったような安心感を覚えた。この人達の空気感は暖かい。
「そう言えば鈴原んとこの冴子は亮平と確か同じ高校に行ったんやなかったけ?」
オヤジが鈴原さんに聞いた。
「あ、そうや。ユノがそんな事言うとったわ」
「え、鈴原冴子のお父さんですか?」
今度は僕が思わず聞いた。腰も浮いた。まさか同級生の鈴原冴子のお父さんがオヤジと同級生だとは知らなかった。
「そうやで。親同士、子供同士は同級生でよく会っているのに親子で会うのは初めてやなあ」
鈴原さんはカウンターでビアグラスを手にして応えてくれた。
「そうかぁ……初めてかぁ……」
オヤジは天井を見上げて呟いた。
オヤジの背中越しに
「そや。一平お前が悪い。お前のおかげでまともに会えんかったんやからな」
と鈴原さんは突き放すように言った。
「そっかぁ……気ぃ使わしとんのぉ……」
オヤジはまた呟いた。
「ま、親子の会話を邪魔するのは止めとくわ。一平、後で時間くれ。相談したい事があるねん」
と言うと鈴原さんはビールを煽った。
懐かしさよりも不思議な感覚を味わった時間だった。
「この人が居たから俺がここにいる」
自分という存在を他人によって認識する事がある……という事を初めて知った。
それは突然の話だった。
「お前、父さんに会いたい?」
高校の入学式当日。家に帰ってきて学生服から私服に着替えてリビングで甘ったるい紅茶を飲んでいたら、マイセンの珈琲カップで焼酎のロックを飲んでいたオフクロが僕に言った。
僕はこの母親の事をガサツな母親だ……と思っているが他の人は「個性的な人だ」という。「それが魅力だ」ともいう。
そんな外面の良いガサツな母親から逃げたかったのか嫌気がさしたのか、オヤジは僕が生まれて間もなく出て行った。そう、二人は離婚した。
物心つく頃には父親が居ないのが当たり前の家庭が出来上がっていた。
だから父親の話題に触れる事はほとんど無かったし、離婚した本当の理由も聞いたことがない。
1歳頃までは一緒に暮らしていたらしいのだが、両親が離婚して以来オヤジには一度も会っていない。
勿論、オヤジに関する記憶は全くない。
そんな全く予想もしていなかった僕に唐突にオフクロはそう聞いてきた。
「なんで急に?」
「あんたも高校生なんだし、父親の顔ぐらい見ていても良いんじゃないのかと思ったんやけどね。どうする?」
正直に言ってどっちでも良かった……というか答えようが無かった。
唐突に「仮面ライダーに会いたいか?」と聞かれたような気分だった。
――アナタハ、ナニヲ言ッテイルノデスカ――
しかし一応会うのは父親だ。間違ってもライダーキックを喰らうことはない。
唐突ではあるがオフクロの言葉なのでそれなりに考えた。
会いたい気持ちも無いわけでもないが、今更…っていう気もしないでもない。
「もしかして……それって思いつきかぁ?」
「そう、思いつき……だから途中で気が変わるかもしれん」
「う~ん。だったら会ってやっても良えかな」
やはりオフクロの得意技である思いつきだった。しかしこのガサツなオフクロに「思いつき」とかいわれると、父親に会えるのがこれが最初で最後のチャンスのような気がして僕はオヤジに会う事にした。
「会ってやってもいいか……それでもあの人は喜ぶんやろうな」
オフクロが呟いた。
「何が?」
「こっちの事や。あんたも高校生なんやからその甘ったるい紅茶はやめて珈琲ぐらい飲んだら?」
「俺はこれが好きなんや」
「まだまだ子供やな。父さんに会う時は飲むんだったら珈琲にしいや。でないとガキ扱いされんで」
なんとなくオフクロのオヤジに対する対抗心みたいなものを感じた。甘やかせたと思われるのが嫌なんだろうか?
今更、僕に対する教育方針を振り返ってどうする。
「そもそも、珈琲も飲まずに昼間から焼酎を飲む奴が何をいうやら……」
「お母さんは大人だから良いんです。珈琲はお酒を飲んだ後に飲むから美味しいの」
その理屈は子供には分からんわ。
そもそも、突っ込まれたら言葉遣いが丁寧になるのは何故だ?
で、目の前にオヤジが居る。初めて会った実の父親。
同じ空間に父親がいるという違和感は半端ではない。クラクラしそうだ。これを存在感というのだろうか?
今まで何度か会いたいと思った事もあった。何故僕には父親がいないんだとオフクロに聞いた事もあった。聞いても教えてもらえなかったが……。
その父親が目の前にいる。
――この人が居たから僕が居る――
思った事はそれだけだった。
僕は父親に初めて会った事よりも、この男が何をして今まで生きてきたのかに興味が湧いていた。
もしかしたら僕は父親の存在よりも、父親の言葉が聞きたかったのかもしれない……とオヤジの顔を見ながらそう思った。
GW前のある日の夕方、オフクロに指示されたトアロードのカフェバーに僕はいた。
天井からぶら下がったJBLのスピーカーからはオフクロが好きな70年代の洋楽が流れていた。
それを店の一番奥まった席でブラック珈琲を高校生になって生じた変なプライドに従って無理して飲みながら聞いていた。あまり美味しい飲み方だとは思えなかった。
「お父ちゃんって呼んだらいいのかな?……いやいや、それは子供っぽいだろう。紅茶どころの騒ぎではないな…やっぱりお父さんか?…なんだか真面目ぶっているな…やはりここはオヤジだな。でもそれはおっさん臭くないか?……」
オフクロではないが、甘やかされて育ったとは思われたくなかった。別に甘やかされたとは思っていないが……
等と考えていたら急に名前を呼ばれた。
「亮平?」
見上げるとそこにオヤジの顔があった。
考えに没頭していてオヤジが店に入ってきた事に気がつかなかった。
第一印象は重要だと思っていたのに最初からこけた。不意を突かれた。
オヤジはテーブルの反対側に立って僕を見おろしていた。
「初めまして……父……です」
「初めまして……息子……です」
オヤジは不思議そうな顔をして僕を見ていた…なぜかそんな風に感じた。
僕も同じような顔をしていたのかもしれない。少なくとも虚を突かれて慌てふためいてはいたのは隠しようがなかった。
オヤジは思ったより若い……というか若く見える。
格好もとってもラフでサラリーマンには見えない。40代にも見えない。
ボタンダウンのシャツにジーンズ。濃いブルーのスタジアムジャンパーを羽織って立っていた。胸にはカルフォルニア大学バークレー校と刺繍がしてあった。
僕は座ったままだった事に気がついて慌てて立ち上がろうとしたが、オヤジは軽く手で制して
「アンちゃん、俺にも珈琲くれ」
とカウンターの方に少し首を傾けてマスターらしき人に声をかけながら、僕の向いの椅子に座った。
なんだか慣れた動作だった。たかが椅子に座るだけなのだが、なんだかこの店の雰囲気通りの座り方だった。
何故か大人だなぁと思った。僕のオヤジなんだから大人なのは当たり前の事なのだが、始めて見る動くオヤジだからか何を見ても新鮮だった。
マスターが聞く
「一平、ビールでなくてええんか?」
「ああ、ダメ人間になるにはまだ早すぎる」
「そうやな、しょっぱなからダメ親父をさらけ出さなくてもえーからな」
マスターは笑いながら応えた。
「そういう事や。後1時間は素面でいるわ」
そう言いながらオヤジはじっと僕の顔を見ていた。
視線を外せない。
目の奥まで覗き込まれているような、そして吸い込まれてしまいそうな瞳だった。
オヤジの威圧感というか迫力を全身で感じたような気がした。ちょっとビビった。
ふとオヤジは視線を外し天井に目をやった
「お母さんは元気か?」
と聞いてきた。
「う、うん。いつも焼酎飲んでいる」
こんなことを言っても良かったか?とは思ったが言った後に思ったところで仕方ない。
ちょっと声がうわっずっている。
「ふ~」とオヤジは息を吐いて視線を僕に戻した。
「そっか……お前は?」
「え?」
「お前はお母さんと一緒に飲んでないのか?」
「まだ高校生になったばかりの息子に聞くか?」
「そうか……そうやったな」
オヤジは軽く自嘲気味に笑って頷いた。
「父さんは高校時代に飲んでたんか?」
「いや…それは……ないな。うん。飲んでないな……飲んでないよ。亮平くぅん」
と眉間に皺を寄せ、ワザとらしい嘘臭い顔で僕に応えた。
結局、僕の口から出たのは「父さん」だった。
「お父ちゃん」でもなく「お父さん」でもなく「オヤジ」でも「オトン」でもなく「父さん」だった。
自分でも余りにも普通過ぎたので心の中で笑った。
「この小心者め」
しかし突っ込まれて標準語になるのは、オヤジの癖か?
やっぱりオフクロとオヤジはやっぱり夫婦だったんやな……そして僕の親だわ。
なんか妙な安心感を覚えた。ただオヤジもやっぱり酒飲みのようだ。
マスターがにやにやしながら珈琲を持ってきてくれた。
「お待たせ。お・と・う・さ・ん」
「何がお父さんや……お前にお父さん呼ばわりされる筋合いはないわ」
そう言うと僕に
「あ、亮平。こいつなぁ安藤っていうねんけど、父さんの中学校時代の同級生なんや」
と紹介してくれた。
「そう。このお・と・う・さ・んとは中学校時代から一緒。お母さんも良く知ってるよ。お・か・あ・さ・んも良く来るし……」
と安藤さんというそのマスターは教えてくれた。
見た目はちょっと怖そうな人だったが、本当はいい人なんだろうなあと思えた。
「じゃあ、ここでお・と・う・さ・んはお・か・あ・さ・んと会ってんの?」
と僕は聞いた。
「ああ。たまにな……でもお前まで真似せんでエ・エ・ぞぉ……」
オヤジはまた眉間に皺を寄せて、あえてワザとらしい怒った顔を見せた。
「あ、ごめん……つい」
なんだか意外だった。僕の知らないところで二人は会っていたりしていたんだ。
「会っていたらおかしいか?」
「いや、そういうわけではないんやけどね」
「そっか」
なんだ仲が悪いわけではないんだ。ちょっと安心した。
僕は珈琲カップに視線を落としてカップの中の珈琲を見ていた。
視線を上げるとオヤジは、珈琲カップの取っ手に中指を突っ込んで鷲掴みするように持ち、珈琲を一口飲んでいた。
なんだかオヤジぽくでカッコいいなと思ってしまった。
「一平、たまに元夫婦で逢引きしとんねんな」と安藤さんが口を挟む。
「ちゃうわ、逢引きゆうな」
マスターの安藤さんはオヤジをいぢくるのが楽しい様だ。
15坪程度の広さの店は、マスターと僕達だけだった。
古きイングランドのパブを模したこの店の居心地は良い。
二人の関係が良いからなのか、僕はこの空気感があるこの店が気に入った。
こういう店を気に入るっていう感覚が不思議だったが、何故か少し大人の空気を吸ったような気がした。
扉が開いた。カランカランとカウベルの音が店内に響く。
「一平が息子に会っているって?」
大きな声が店内に響いた。
「お?鈴原かぁ、そろそろ来ると思ってたわ」
マスターがカウンターに戻りながら、入ってきた男の人に笑いながら声をかけた。
「なんでお前が知ってんねん」
オヤジは軽く振り向いて入ってきた人に声をかけた。
「さっきそこで君の元嫁のユノに偶然会って聞いた」
その人はそのまま僕とオヤジのテーブルの前まで来て
「ほっほ~、一平君……おとんの顔になっとるのぉ」
と「あんたはどっかの仙人か……」と突っ込みたくなるような年寄り臭い声でオヤジに話しかけてきた。
「あほ。いつもの顔や」
「いやいや。ワシには分かるぞぉ…感激の親子の対面じゃ。のぉ一平君……」
「ふん」
と言いながらオヤジは笑っていた。これってやはり嬉しいのだろうか?
そもそもオヤジはいぢられキャラか?
オッサン3人に囲まれて僕は少し息が詰まった。
僕はさっきまで馴染み始めていたこの空間が、急によそよそしく感じられた。
阪神-巨人戦を甲子園球場に見に行って3塁側に座ったような居心地の悪さを感じ始めていたら、その人は急に僕の方に振り向き、
「お~亮平君かぁ。初めまして鈴原です。やっとちゃんと会えたわ、ホンマに……。お父さんもお母さんの雪乃さんも幼馴染で、昔から色々とお世話をして差し上げております」
と話しかけてきた。
ちょっと驚いた。
「けっ!」とオヤジが舌打ちをした。
その顔には「嫌味なやっちゃなあ……」とありありと書いてあった。
折角、いぢってもらえているので僕も椅子から立ち上がると
「そうなんですか。不束者の両親がいつもお世話になっております」
と応えた。
鈴原さんは僕の顔をじっと見て
「お前、ええ息子持ったなぁ……」
とオヤジの方に向き直った。
途端に
「うわ!こいつなんちゅう顔してんねん。気色悪い笑い方すんなぁ」
と叫んだ。
「いや、息子に『いつも両親がお世話になっております』なんて言われたことないから、なんかカンドーしてしもた」
確かにオヤジの顔は変な顔だった。
笑っているのか泣いているのか分からない不思議な顔だった。
「あ~その気持ちわかるなあぁ…日ごろ家庭にも子供にもかまってやる事のない鈴原のようなバカオヤジには判らんだろうが……」
と安藤さんが突っ込んだ。
「なんか反論できんのが悔しい……」
と鈴原さんは言いながら
「俺にも珈琲……いやビールくれ」
とマスターに注文した。そういうとカウンターの方に戻っていった。
僕は三塁側から一塁側の内野席に移ったような安心感を覚えた。この人達の空気感は暖かい。
「そう言えば鈴原んとこの冴子は亮平と確か同じ高校に行ったんやなかったけ?」
オヤジが鈴原さんに聞いた。
「あ、そうや。ユノがそんな事言うとったわ」
「え、鈴原冴子のお父さんですか?」
今度は僕が思わず聞いた。腰も浮いた。まさか同級生の鈴原冴子のお父さんがオヤジと同級生だとは知らなかった。
「そうやで。親同士、子供同士は同級生でよく会っているのに親子で会うのは初めてやなあ」
鈴原さんはカウンターでビアグラスを手にして応えてくれた。
「そうかぁ……初めてかぁ……」
オヤジは天井を見上げて呟いた。
オヤジの背中越しに
「そや。一平お前が悪い。お前のおかげでまともに会えんかったんやからな」
と鈴原さんは突き放すように言った。
「そっかぁ……気ぃ使わしとんのぉ……」
オヤジはまた呟いた。
「ま、親子の会話を邪魔するのは止めとくわ。一平、後で時間くれ。相談したい事があるねん」
と言うと鈴原さんはビールを煽った。
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