北野坂パレット

うにおいくら

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クリスマスの演奏会

アヴェ・マリア

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 僕は静かに鍵盤に指を置いた。久しぶりにこのピアノの感触を確かめた。このサロンは子供の頃から何度も来ているし、このピアノも何度か弾いたことがあった。ただ、高校生になってから弾くのはこれが初めてだった。

 ピアノから伝わってきたのは昔の僕達の情景だった。冴子の家は僕たちの遊び場でもあった。この屋敷の常識を逸した広さは子供たちが探検したくなるには十分の広さだった。僕は懐かしい気持ちでいっぱいになった。

 今日のこのサロンはいつものように弾いて良いと僕にピアノは囁いていた。ピアノの位置も文句ない。この場所はベストポジションだ。
あまり重くならないようなタッチで情感を乗せ過ぎないように弾いたら良いのだろう。

 僕が弾く今日最初の曲はシューベルト作、リスト編曲の『アヴェ・マリア』だった。
この曲は美奈子先生からのリクエストだった。

「クリスマスなんだからね」
と言う一言で決まった。多分それ以外の深い意味は無いと思う。

 僕はこの部屋の空気から『もう弾いてよい』というサインを感じるのを待っていた。
それを感じた瞬間僕の指は勝手に動き出す。

 全身でこの部屋の空気を感じながらそのタイミングを僕は待った。部屋の空気が一瞬止まった。僕の指は静かに鍵盤に沈んでいった。

音の粒が静かに流れだす。その音の粒を眺めていたら、このピアノで同じ曲を弾いている高校生のオヤジを感じた。

――オヤジもこの曲をここで弾いていたんや――

何故か僕は嬉しくなった。

――そう言えばうちのリビングでこの曲をオフクロと仁美さんの前で弾いた事があったなぁ――

と今年の春先にあった出来事を思い出していた。あの時、僕は二人の前でオヤジのピアノの音を再現した。

――あの音をもう一度聞きたいなぁ――

と同時にあのオヤジの弾いたアヴェ・マリアの旋律をここにいる人たちに聞いてもらいたくなった。
あの音は世に出すべき音だ。オヤジはそれを永遠に放棄したが、僕はその音を無性にここで再現したくなった。

 僕はオヤジの幻影に全てを任せて弾きたくなった。
既に一度弾いた事のあるオヤジの旋律だ。大丈夫だ。何の問題もない。

僕は二回り目からあの時のオヤジのピアノを再び弾くことにした。

 自分でも分かるぐらいに音が変わった。ピアノからはオヤジの音が溢れ出ている。

 僕の音ではないが僕の音の基本となる音の粒だ。そして僕が大好きな音の粒たち。
オフクロが思わずスケッチブックに写し取ったオヤジのピアノを弾く姿。
多分それはオヤジのピアノを弾く姿の美しさに感動したというよりも、あのオヤジの旋律がどうしようもなく愛しかったからなんだろうなぁと今なら分かる。

 そんな事を思い出しながら僕はピアノを弾いた。音の粒の色が変わった。僕の音と違って柔らかな暖かい色合いだ。途中からオヤジの音を奏でるなんて初めてやってみたが、なかなか面白い。

 同時にオヤジが弾いた同じピアノで、オヤジと寸分と違わぬ同じ旋律を奏でている自分自身に少し感動していた。

――オヤジもここでこういう風に弾いていたんやなぁ――

 この曲をここで弾いた時のオヤジは、まだピアノを辞める事など微塵も考えていない頃だ。
音が優しさで満ちている。これはオフクロへの気持ちか?

 前回弾いた時とは違って、この旋律を僕自身が一番楽しんで聞いている事を自覚しながら弾いていた。
音の粒を僕は見上げながら至福な時間を一人堪能していた。
そう、このオヤジの音を一番間近で感じているのは僕自身だ。

――やっぱり、オヤジのピアノは良いよなぁ――

 改めて僕はオヤジのピアノの音を堪能した。自分の弾く音と比べていたが、僕はこの音の方が好きかもしれない。
それと同時に僕はオヤジのアヴェマリアを弾きながらオヤジ自身のこの曲に対する絶対的な自信みたいなものを感じていた。僕にはまだない感覚だった。

――まだまだ、僕はこの曲を自分のものに出来ていないな――

と僕は天井を見上げながら、音の粒を目で追った。

 そしてオヤジがかつてやったように、そっと左手を右手に重なる様にして最後の音の粒を紡ぎ出すと、僕は鍵盤においた指の力を抜いて静かに離した。

 大きな拍手と歓声だった。指笛が響く。
先生の前振りのお陰もあるんだろうけど、このオヤジの旋律は感動するでしょう。
 僕はオヤジの音をそのまま弾いただけ……ま、その辺りは誰にも分からない事なんだけど。

それにやっぱり全国クラスのコンクールでの実績っていう前振りのアドバンテージもあるんだろうか? この歓声を聞いて初めてそんな事を考えた。
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