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ピアノ
悲愴
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歩きながらの宏美とのメールのやり取りとりは流石に面倒だったので、家に帰ってから改めて宏美に電話する事にした。
ピアノは嫌いではないがピアニストを目指すというのは考えた事もないし、そもそもそんなつもりで今までピアノを弾いてきたのではなかった。
しかし、だからと言って他にしたい事がある訳でもなかったが、コンクールで何度か優勝したからと言ってピアニストという選択肢を選ぶという事は安直過ぎる。
本当なら軽き聞き流せばいいような話なんだろうけど、何故か頭の片隅にこびりついて離れない。
家に帰ったら誰も居なかった。オフクロはまだ帰ってきていなかった。
僕はリビングのソファーに力なく座った。そこからは嫌でもピアノが目に入る。
壁際にたたずんでいるピアノを見るとはなくに見つめていたら、無性に弾いてみたくなった。
――なんでピアノを辞めたの?――
長沼先生の言葉が頭に響く。
辞めたつもりはないのだが辞めた事になるんだろうなぁ……
僕はピアノの横にある本棚から適当に一冊抜き取った。それはベートーヴェン ピアノソナタ第8番 ハ短調 『悲愴』の楽譜だった。
――よりによってこれか――
僕は苦笑しながら楽譜を開いてみた。
この曲は楽譜を見なくてもまだ弾けると思う。表紙は結構ボロボロだった。角が欠けていたり破けていたりしていた。
広げてみると楽譜に色々と書き込みがある。懐かしさもこみ上げながら僕は楽譜を読んだ。
たまに判読が出来ない意味不明な自分の書き込みにも遭遇するが、大体はどんな状況でこれを書いたかは覚えている。
元々、楽譜に書き込みを入れるのは好きじゃなかったが、吹奏楽をやっている奴らの楽譜には色々な書き込みがあって、それを見ていたら羨ましくなったんだった。
ピアノって案外孤独な楽器だ。ほとんどの場合独りきりだ。
バイオリンと一緒に弾いたこともない訳ではないが、基本的にソリストだった。
宏美や冴子の書いた限りなく落書きに近い書き込みも発見した。
ああ、懐かしい。
僕はしばらくその書きなぐられたコメント達を見ていたが指を鍵盤にそっとおいて、悲愴を第一楽章から弾き始めた。
――本当に悲愴感が漂ってきたかも――
弾きながらも楽譜よりもそこに書き込まれたコメントを読んでいた。
楽譜をめくるタイミングも覚えていた。やはり楽譜がなくても弾けたなと再確認した。
しかし明らかにピアノの腕は落ちていた。ピアノを弾いている最中にそれは分かった。
指がいう事をきかない。
毎日弾くわけでもなく、週に2~3回気が向いた時に30分ほど弾いていたが、その程度では技術は維持できない。
先走りしそうになる指を抑えることに気を取られ、正確な音が出せていない。鍵盤を叩く指の力にも納得できない。
いや、先生に言われなかったら、この程度でも別に何も感じなかっただろうと思う。
――こんなもんだろう――
で終わっていたと思う。
まるで指たちが反乱を起こして、僕の意思とは違う勝手な動きをしているような感覚に陥りそうになった。
一気に第3楽章まで弾いたが、弾き終わった後しばらく鍵盤を黙って見ていた。
鍵盤の上には動かなくなった僕の両手が乗ったままだ。
――やっぱり真面目に練習しないとダメだな――
ハノンが僕を呼んでいる。ツェルニーが100番で僕を待っている。
よくよく考えたらそう言う事だ。
昔の様に毎日何時間も弾いていたら馬鹿でも上手くなる。
練習していないんだからこんなもんだろう……先生に言われて少し考え過ぎてしまったようだ。
しかしそれよりも何よりもショックだったのは、音の流れが悪すぎる事だった。
出したい音が出せなかった。
音の強さもタイミングもキレも全然違う。頭では分かっていたが、指がついていってない。
指先が僕の意思に反抗して動いてくれない。
自分の指なのに、まるで暫く相手をしなかったガールフレンドのように拗ねている。宏美の事を言った訳ではない。念のために。
ひとことで言って僕のピアノの音は『だらしない下品な音』だった。
それがどうしても許せなかった。
その時、オフクロの声がした。
僕は我に戻った。
「あんたの悲愴を聞くんは久しぶりやわ。でもホンマに悲愴な音をかき鳴らしてたね」
僕は驚いて譜面から顔を上げた。
オフクロはリビングの入り口にオフクロが腕を組んで立っていた。
いつの間に帰って来ていた。
「イライラしながら弾いとった?」
そう言ったオフクロの口元がシニカルに笑っている気がした。
「うん。少し……。まるで弾けんかった。弾けば弾くほどイラついた」
「そう? そこまでは酷くはなかったと思うけど、あんたが苦しそうに弾いとるのだけは分かったわ」
「そうなん?」
オフクロには僕が憤りながらピアノを弾いていたのを見破られていた。
流石長年僕のピアノを聞いてきただけある。
「まるでコンクール前のイケていないピアニストみたいな感じやったわよ」
「そうかぁ……そんな風にみえたんや」
「うん。それはそれで絵になってたけどね」
そう言うとオフクロは苦悶に満ちたピアニストを嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
僕はその言い方がちょっとムカついた。だから少しむきになって
「コンクール前のピアニストって見た事あんのかぁ?」
と言い返した。
「あるわよ。あんたがピアノを弾いている姿なんてお父さんそっくりよ。その頃のお父さんはイケていたけど……」
ピアノは嫌いではないがピアニストを目指すというのは考えた事もないし、そもそもそんなつもりで今までピアノを弾いてきたのではなかった。
しかし、だからと言って他にしたい事がある訳でもなかったが、コンクールで何度か優勝したからと言ってピアニストという選択肢を選ぶという事は安直過ぎる。
本当なら軽き聞き流せばいいような話なんだろうけど、何故か頭の片隅にこびりついて離れない。
家に帰ったら誰も居なかった。オフクロはまだ帰ってきていなかった。
僕はリビングのソファーに力なく座った。そこからは嫌でもピアノが目に入る。
壁際にたたずんでいるピアノを見るとはなくに見つめていたら、無性に弾いてみたくなった。
――なんでピアノを辞めたの?――
長沼先生の言葉が頭に響く。
辞めたつもりはないのだが辞めた事になるんだろうなぁ……
僕はピアノの横にある本棚から適当に一冊抜き取った。それはベートーヴェン ピアノソナタ第8番 ハ短調 『悲愴』の楽譜だった。
――よりによってこれか――
僕は苦笑しながら楽譜を開いてみた。
この曲は楽譜を見なくてもまだ弾けると思う。表紙は結構ボロボロだった。角が欠けていたり破けていたりしていた。
広げてみると楽譜に色々と書き込みがある。懐かしさもこみ上げながら僕は楽譜を読んだ。
たまに判読が出来ない意味不明な自分の書き込みにも遭遇するが、大体はどんな状況でこれを書いたかは覚えている。
元々、楽譜に書き込みを入れるのは好きじゃなかったが、吹奏楽をやっている奴らの楽譜には色々な書き込みがあって、それを見ていたら羨ましくなったんだった。
ピアノって案外孤独な楽器だ。ほとんどの場合独りきりだ。
バイオリンと一緒に弾いたこともない訳ではないが、基本的にソリストだった。
宏美や冴子の書いた限りなく落書きに近い書き込みも発見した。
ああ、懐かしい。
僕はしばらくその書きなぐられたコメント達を見ていたが指を鍵盤にそっとおいて、悲愴を第一楽章から弾き始めた。
――本当に悲愴感が漂ってきたかも――
弾きながらも楽譜よりもそこに書き込まれたコメントを読んでいた。
楽譜をめくるタイミングも覚えていた。やはり楽譜がなくても弾けたなと再確認した。
しかし明らかにピアノの腕は落ちていた。ピアノを弾いている最中にそれは分かった。
指がいう事をきかない。
毎日弾くわけでもなく、週に2~3回気が向いた時に30分ほど弾いていたが、その程度では技術は維持できない。
先走りしそうになる指を抑えることに気を取られ、正確な音が出せていない。鍵盤を叩く指の力にも納得できない。
いや、先生に言われなかったら、この程度でも別に何も感じなかっただろうと思う。
――こんなもんだろう――
で終わっていたと思う。
まるで指たちが反乱を起こして、僕の意思とは違う勝手な動きをしているような感覚に陥りそうになった。
一気に第3楽章まで弾いたが、弾き終わった後しばらく鍵盤を黙って見ていた。
鍵盤の上には動かなくなった僕の両手が乗ったままだ。
――やっぱり真面目に練習しないとダメだな――
ハノンが僕を呼んでいる。ツェルニーが100番で僕を待っている。
よくよく考えたらそう言う事だ。
昔の様に毎日何時間も弾いていたら馬鹿でも上手くなる。
練習していないんだからこんなもんだろう……先生に言われて少し考え過ぎてしまったようだ。
しかしそれよりも何よりもショックだったのは、音の流れが悪すぎる事だった。
出したい音が出せなかった。
音の強さもタイミングもキレも全然違う。頭では分かっていたが、指がついていってない。
指先が僕の意思に反抗して動いてくれない。
自分の指なのに、まるで暫く相手をしなかったガールフレンドのように拗ねている。宏美の事を言った訳ではない。念のために。
ひとことで言って僕のピアノの音は『だらしない下品な音』だった。
それがどうしても許せなかった。
その時、オフクロの声がした。
僕は我に戻った。
「あんたの悲愴を聞くんは久しぶりやわ。でもホンマに悲愴な音をかき鳴らしてたね」
僕は驚いて譜面から顔を上げた。
オフクロはリビングの入り口にオフクロが腕を組んで立っていた。
いつの間に帰って来ていた。
「イライラしながら弾いとった?」
そう言ったオフクロの口元がシニカルに笑っている気がした。
「うん。少し……。まるで弾けんかった。弾けば弾くほどイラついた」
「そう? そこまでは酷くはなかったと思うけど、あんたが苦しそうに弾いとるのだけは分かったわ」
「そうなん?」
オフクロには僕が憤りながらピアノを弾いていたのを見破られていた。
流石長年僕のピアノを聞いてきただけある。
「まるでコンクール前のイケていないピアニストみたいな感じやったわよ」
「そうかぁ……そんな風にみえたんや」
「うん。それはそれで絵になってたけどね」
そう言うとオフクロは苦悶に満ちたピアニストを嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
僕はその言い方がちょっとムカついた。だから少しむきになって
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