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お正月の頃の物語
店の明かり
しおりを挟む――音が変わった……か――
言われてみれば確かにそうだ。
僕もお嬢の影響がなければ聞こえない音だった。気づきもしない音が聞こえるようになった。
ついでにピアノに込められた演奏者の想いまで伝わってくる。
そして今まで弾いてきた経験と技術があるからその音を弾ける……いや、それなりの音を出せるという事だ……でも、まだ『それなり』だと思っている。
お嬢に会っていなければ今まで通りの音を奏でていたと思う。正確さだけが取り柄の面白くもなんともない音を、ラスボス攻略するように奏でていただろう。
勿論ピアニストななる事なんか考えもせず……いや、表現する事の面白さに気が付くことはなかっく、いつの間にかピアノも弾かなくなってしまったかもしれない。
しかし、原因はどうあれ気が付いてしまった今、その音を出したいという思いが強い。
まるで真実を知ってしまって黙っている事が出来なくなったソクラテスのように、僕は本当の音を奏でたいという欲求を抑えられなくなっていた。
そしてまだまだ自分に技術は全然足りないということにも気がついていた。
想いにテクニックが追い付かないというのもあるのだろうが、もっと根本的に違う何かだと思っている。
理解は出来ているのに表現が出来ない。分かっちゃいるが何だったか思い出せない。喉の奥に何かが引っ掛かっているような気分。それが今の僕。
本当に奏でたい音が出ない。後一歩足りない。音の深みが足りない。それは技術以外の何かだと思っている。
「あ、亮ちゃん。ここでええわ。ありがとう。送ってくれて」
気が付いたら冴子の家の前まで来ていた。冴子が僕に素直にありがとうって言ったのはいつ以来だろうか?
「ああ。じゃあな」
「気ぃ付けて帰りや」
そう言うと冴子は門の中へ消えていった。
何度来てもこの家の門は広いと感心する。
僕は暫く冴子の後姿を見送ってから、トアロードを下っていくつもりだった。
「うん?」
交差点の信号で立ち止まっていると、安藤さんの店に明かりが灯っているのが見えた。
「まさか正月から店を開けるなんて?」
と思ったが気になったので覗いてみた。
扉のガラス越しに見た店内にオヤジが居た。カウンターに座って安藤さんと話しこんでいるようだった。
どうしようか一瞬迷ったが僕は店の中へ入って行った。
扉のカウベルがカランカランと鳴る。オヤジと安藤さんが同時にこちらを見た。
「なんや亮平やんか? どないしたんや?」
とオヤジが意外そうな表情で僕に声を掛けてきた。
「いや、店の前を通ったら明かりが点いていたんで入って来た」
「そうなんや。今日はホンマはこの店休みやねんけどな。安ちゃんが仕事したいって言うから俺が付き合ってやってんねん」
「それ逆な」
安藤さんがそう言わなくても僕も、オヤジの言っている事は真逆だと分かっていた。
「まあ、座れ」
僕はオヤジの横の席に座った。
オヤジは珍しくお猪口で日本酒を飲んでいた。
僕の視線に気が付いたのか
「ああこれか? 正月ぐらいはな。美味しい純米大吟醸の酒が手に入ったから持って来たんや」
と僕が聞く前に応えてくれた。
「ここは持ち込み禁止やぞ」
「ええやないか。お前も飲んどるんやから。それにこれは生酒やからな。早よ飲まなな」
と安藤さんのツッコミもオヤジには虚しくかわされていた。
「まあ、正月ぐらいお前もいけよ」
とオヤジは安藤さんから新しいお猪口を貰うと徳利からお酒を注いで僕に渡した。
「ほい。亮平あけましておめでとう」
「うん。おめでとう……あ、父さん、誕生日もおめでとう」
僕は今日がオヤジの誕生日だというのを思い出した。
生田神社で飲んでいる時はちゃんと言えなかったので改めて今言ってみた。
「おお、あ、ありがとうな」
というと変な顔をして笑っていた。引きつった笑いというか泣きそうな笑いというかよく分からないが兎に角、変な笑い顔だった。
「ええもんやなぁ……息子に誕生日おめでとうって言われんのも」
オヤジはしみじみと軽く頷きながら呟いた。
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