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第1話 夕希
⑫
しおりを挟む「み、峰さんは…っ」
「俺は明日休みだから平気だけど、いとちゃん明日も早いのかな、って思って」
ネコの写真が可愛くて、衝動買いした自分のスケジュール帳に書いた予定を思い出す。
明日は法科院の講義が午前中から夕方まで入っている。けれど、逆に言えばそれだけだ。
講義は遅刻しても、欠席しても、自分が損をするだけで、誰かに迷惑が掛かるわけではない。
「あ…平気です。明日は講義も午後からなので」
初めて一緒に明かす夜なのだ。講義は自分で取返せるけれど、この時間は絶対に戻って来ない。夕希は嘘を吐く。
「そう。じゃあ、もうちょっと話しててもいい?」
「…はい」
言ってから、夕希はくすっと笑った。
「なんか、不思議です。峰さんとこんな風にしてるの?」
「…イヤ?」
「イヤじゃないです。そんなわけ、ないじゃないですか」
ぎゅっと淳弥のTシャツを掴んで、更に身体を密着させた。淳弥の鼓動はさっきよりテンポアップしている。
この先、どうするんだろ、どうなるんだろ。一瞬先も、一寸先も、どうなるかわかんなくって。
例えば、淳弥がさっき往来でしたみたいな激しさで、夕希にキスしてきたら、きっと夕希はもう淳弥のされるがままに流されてしまう予感はある。
けれど、淳弥の方にその気はないのか、夕希が近づいた以上に、身体を密着させてはこない。
そのことに、安心していいのか、もどかしく苛ついているのか。
「峰さん…」
「ん?」
「あの…」
(うー、私、何聞いてるんだろ。恥ずかし)
夕希の台詞は途中で消えてしまう。
(だってだって、『しないんですか?』なんて聞けない)
会ったばっかりだし、まだお互い良く知らないんだし、峰さんの対応の方が自然だよ。
自分はこんなに、お手軽に恋を始めて、進められるキャラでもない。
思いつめた夕希の声で、淳弥の方も夕希の心に引っかかってるわだかまりを理解したらしい。
夕希が恥ずかしさと後悔で悶絶していたら、暁闇の中で、淳弥の手が、夕希に伸びてきた。
「いとちゃん、可愛い」
まだ乾き切っていない前髪をかきあげて、淳弥は夕希の額にそっと唇を落とす。
「いとちゃん、俺…」
淳弥の言葉が闇の中に途切れてしまう。
「……峰、さん?」
夕希は下から彼の頬に手を伸ばす。褐色の艶のいい肌。スポーツ用品店勤務だと言っていたが、自分も何かスポーツをやっていたのだろうか、淳弥の肌は年齢よりも若々しいし、今こうして夕希の上にある四肢も引き締まってる。
淳弥に向けて手を伸ばすと、淳弥はその手を取って、頬に張り付かせる。限界まで細められた目は優しい。彼の愛情はひしひしと感じ取れるのに。
「お休み、いとちゃん」
淳弥はそんなセリフで、夕希とのこれ以上の接触は拒絶した。
「…おやすみなさい」
落ち込んだ低い声に、夕希は自分で驚いた。
(あれ、何で私、がっかりしてるんだろ)
ドキドキして損しちゃった。うん、それだけなんだから。抱いて欲しかったわけじゃなくて。
(求められたかった。さっきの言葉が嘘ではないと、確かめたかっただけ)
自分の感情をそう結論づけ、夕希は納得しようとする。淳弥にくっついて横向きになった体勢を仰向けに戻し、瞳を閉じて、夕希は眠ろうとした。けれど。
「いとちゃん」
突然、名を呼ばれ、布団の中で手を握られて、再び夕希の心臓は暴れだした。
「…は、はい」
「怒ってる?」
「え、怒るってどうしてですか?」
怒るというよ、落胆が正しい。
「あ、俺、自意識過剰だよね。ごめん。ん~。なんていうかごめんね、いとちゃん。俺、臆病なんだ」
夕希にとっては意外な一言を、淳弥は苦笑と一緒に吐き出した。
臆病。そうかなあ。ここまでの彼のアプローチは割と強引なものだったと、夕希が思い起こしていると、夕希の手に淳弥は手を重ねてきた。
「誰かと眠るの久しぶり。…手、握ってもいい?」
「…はい」
「俺、いっつも思うんだけど。いとちゃんの手って、あったかいよね」
布団の中で5本の指同士がしっかりと絡められる。
近づいてくると思うと、遠ざかって。拒否されたと思うと、また抱きしめられる。峰さんのことは、よくわかんないな…。
「臆病」なのだと淳弥は自分を評したが、それは正しくない気がする。寧ろ、積極的に線を引かれてるように思えてならない。
それでも、繋いだ手の温もりに、満足して、夕希はいつしか深く眠りに落ちていった――。
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