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第6章 追い詰められたネズミとネコ
②
しおりを挟む「何、これ?」
「今回の婚約破棄に関する慰謝料の請求書。透が納得行ったら、示談書作って、精算したい」
「慰謝料…咲良は、人の気持ちをお金に換算するの?」
透は皮肉に笑って、やっと目を通した。
「…換算出来るわけないじゃない!」
今も、悔しいし惨めだし、なんで?って疑問は消えない。きっと一生。
それでも、私は過去を悔やむより、前を向いて歩きたい。
忘れるわけじゃないけれど、チャラにする、あるいは気持ちをリセットして切り替えるための慰謝料なんだと思う。
もちろん、相手に目一杯後悔させたい、痛い目に遭わせたい、ってのもあるけど。
「100万て…待ってよ、こんな額急に払えるわけないだろ?」
じっくりと書類に目を通してた透は、急に声を荒らげた。
「私が今回受けた精神的苦痛に対する損害賠償よ、当然の対価でしょ?」
私も透に負けじと、ワインを口にした。意外といいワインなのか、濃厚な酸味と苦みが喉を伝っていく。
「それにしたって…。弁護士なんて雇ってるの?」
下段の冴木弁護士事務所の文字に気が付いて、透が忌々し気に舌打ちした。逃げられないと悟ったのかもしれない。
「とにかく払ってもらうから」
私が断言すると、透はじぃっと私を睨み付けてから、わざとらしいくらいの大きなため息をついた。
「ここまでする女だとはね…」
「私を怒らせた貴方が悪いんでしょ?」
「柏木課長に言われたよ。遠からず、俺は異動だって。何処飛ばされるんだろうな。降格減給間違いないって。部長にも、すげーやな顔された。けど、咲良は今の部署に残れるんだろ?」
「まだ決定じゃないもん、わかんないよ」
それに――だ。
残る方だって、つらい立場なのは変わらない。私と透の関係は、部内のみんなが知ってる。
「私が透を追い出したみたいな言い方しないでよ」
「…どうだかな。課長、昔からお前に甘くて、俺に冷たいから」
意地悪く口元を歪め、透は意味深に笑った。
「まあ、どっちみち俺の人生、終わったも同然かもな。少なくとも今の会社にいる限り、出世の目はない。
けど、俺はお前と結婚するって選択肢をしなくて良かった、って今こそ強く思うよ。こんな人を陥れるためなら手段を選ばず、どんなひどいことも平気な顔で出来る女なんだもんな」
追い詰められたネズミは猫をも噛むって言う。それと似たような、負け惜しみに近いものだとわかっていても、透の言葉の刃は、次々に私の胸を刺していく。
「……」
平気でなんてしてない。好きで愛してて信じてて…だからこそ、裏切られたら憎くて、復讐なんて考えないと、やってられなかった。何でもいい。心を保つよすがになるものが欲しかった。
私を選べばこんなことなかったのに、と透を後悔させたかった。
それなのに、今、透から放たれた言葉は、私の想定と真逆だ。
「私だって、思ってる! あのままあなたと結婚しなくて良かった…って」
「そう。お互いさまだね。――これ」
透は立ち上がりながら、テーブルの上に置かれたままだった紙を拾い上げた。
「相場も妥当性も俺にはわからないから、俺は俺で弁護士に相談して、その上で返事をする…いいよね?」
「…どうぞ」
冴木さんに言われてたんだった。
話し合いの場は、飽くまで冷静に。そして、相手に主導権握らせないこと。
全然、出来てない。透のペースになってない?
ホームを離れるんじゃなかった。悔やんでも、もう遅い。
言い終えると、もう用はない、と言わんばかりに透は私を置いて、席を離れた。
あーあ。何やってんだかなあ。
自己嫌悪に陥りながら、ふらっと店を出た。
家に帰って今の報告をするべきなんだろうけれど、その前に頭を冷やしたくて、足はいつものカフェに向かってた。
マスターに冴木さんを紹介してくれたお礼も言いたいし。
自分に言い訳するみたいに、カフェの入り口に立つ。いつもの癖で、ひょいっと窓越しに中の様子を窺うと、中は薄暗くて、誰もいなかった。
あれ? と首を傾げて、改めて見ると、入口のドアも開かなくなっていて、店休日の札が掛かってる。よく見たら、マスター手書きの黒板も今日は出されていない。
土曜って、お休みだったっけ。いや、そんなことなかった。
どうしたんだろうと不思議に思って、店の裏手に回ると、聞き覚えのある声がした。
「飲食店なんだから、具合悪かったら、お店開けちゃだめじゃない。お客様に菌ばらまいてるようなものなんだから。智ちゃんがお店で、食中毒出しても、弁護なんてしないわよ?」
「光さんは大袈裟なんですよ…」
そんな会話をしながら、裏口から出てきたのは、マスターと冴木さんだった…。
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