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異世界へ

#6 目覚め

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 気が付けば俺の体は随分と大きいものになっていた。部屋を脱出した時は四十センチに満たなかった俺の体長も、今や百七十センチに迫る大きさになっている。
 これもナノマシンの持つ自己増殖機能のお陰だ。俺の体はエネルギーを消費することでナノマシンを分裂させることが出来る。それを利用すれば生物の様に、細胞の世代交代をナノマシンという無生物が行えることになる。つまり、生物学的進化や退化が可能になる。
 これはとんでもなくチートじみた機能だ。しかし、これは万能という訳でもない。分裂を行ったナノマシンは燃料を使い果たし、機能が停止する。あまり多くの分裂を繰り返すと、燃料の供給が追い付かなくなってしまい、自分の身を文字通り滅ぼしてしまうのだ。
 だから俺はこの分裂、もとい増殖を行うときは周りに燃料となる有機物を確保してからするように心に決めていた。まあ、それは今しがた破られたわけだが……。
 とはいえ、俺は少女を助けたことに後悔はしていない。だから、あの時見捨てておけば……何て思うことは無いし、もし見捨てていたならば自己嫌悪に陥るこそすれ、彼女を責めることは無いはずだ。
 ということで俺は猛烈に腹が減っている。空腹で今にも餓死してしまいそうだ。四年の訓練で俺は増殖を極力少なくしていた。それを今こうして大胆に破り捨てたのだから、残りの寿命六年がめりめりと目減りしていく。
 少女の顔だけ出した、もぞもぞと這っていくスライムを見かけたら人は何と言うのであろうか?

『間違いなく未確認生物だと思われるでしょう』

 だよなあ。絶対ニュースのトップを飾る。もう既に俺は全人類の注目の的なのだから今更なのかもしれないが……。だが、そんなことよりご飯をくれ。俺は猛烈に腹が減っている。何が未確認生物だ、笑わせてくれるな。
 少女たちが下って来たと思われる階段にはロープが上へ続いていた。俺はそれを辿っていくことにした。彼女らがどうしてロープ何て垂らしているのかは良くわからないが、まあいいだろう。
 道の分かり辛さ、という点から見れば洞窟と同じように見たくなるのもわかる。何故かこの施設は行き止まりの通路が異常に多い。
 俺は空間をサーチ出来るから、あまり迷わずに来れたが、それでも二三回は道を引き返した。彼女らの判断は正しいものだ。
 だから辿る。恐らく俺の予想が正しければ、このロープは出口まで続いているはずだ。そして、俺の予想は正しかった。
 ロープはこの施設の出口の所に結わえ付けられていた。外へと続く階段を駆け上がり、俺は逸る気持ちを抑えられずに勢いよく出口から飛び出した。
 外には荒涼とした草原が広がっていた。風が心地よく、太陽も暖かい。俺は驚きのあまり、脱出の嬉しさなど吹き飛んでしまった。機巧核も固まってしまっている。

「ここはどこだ?」

『どこでしょう?』

「人工衛星とかの位置情報は使えないのか?」

『それが、何度も交信しているのですが返信がありません。というより、人工衛星がありません』

「どういうことだ?」

『わたしにもわかりません』

 俺は少女が寝返りを打つのを感じながら、気張っていた体を出来る限り緩めることにした。暫く草でも食べて有機物を摂取しておこう。本当はきちんとした食べ物がいいが、四の五の言ってはられない。
 ぶっちゃけると、摂取する有機物は何でもいい。この体で食べ物の味覚がわかるとも思えないので、あまり気にしなくてよさそうだ。
 二時間ほど経過した頃だろうか。俺の耳に誰かの寝言が聞こえてきた。

「うーん……むにゃむにゃ」

 確実に少女のものだ。俺は試しに少女の背中を軽く突き上げてみた。最初の方は無反応だった彼女も回を重ねる毎に鬱陶しく思ったのか、嫌がる素振りを見せ始める。
 そんなに嫌なら起きろよ。何故にそんな頑ななんだ。

「――!」

 遂に少女が目を覚ました。俺の体から上半身だけむくりと起き上がり、眠そうな眼を擦っている。随分とまあ暢気のんきなものだ。ついニ三時間前まで本当に死んでいたとは思えない陽気っぷりである。この天気では仕方がないとも思うが。

「起きたか? 調子はどうだ? 体に痛い所はないか?」

 少女はまだ寝ぼけているのか俺の言葉には無反応だった。仕方がない。もう少ししてから話しかけてみるか。
 俺は少女の露になった乳房に、スライムの欠片を被せて簡易的な胸当てにし、彼女の様子を観察してみることにした。
 少女は寝ぼけ眼で辺りをぼんやりと見ていたかと思うと、小さくくしゃみをした。自分の状況に気が付いたようだ。
 少女が俺の知らない言葉で何事かを叫ぶ。俺の体を引き剥がそうと一所懸命にもがいているが、生憎俺の体は、体を鍛えているといえど少女程度の力には負けないだけの馬力があるのだ。
 それに無理に引き剥がしても少女は全裸なので、野放しにするのもどうかと思う。だから俺は少女に抵抗し、少女の体をなるべく優しく包み込んだ。
 少女が自分の格好に気が付いたようだ。何となく抵抗が弱くなったような気がする。少女が泣き出した。大粒の涙を俺の体に落とし、誰かに向けて語りだした。いや、違うな。祈りだした、の方が近い。
 なあ、機巧核さんや。この子が何を言っているのかわかりますか?

『わかりません。私には地球上のあらゆる言語が収録されていますが、どれにも当てはまらない言語です。ですが、発音を解析してみるとそこまで複雑な発音はなさそうです。日常会話程度なら数時間で習得できるでしょう』

 頼もしいな。解析を頼む。

『頼まれました』

 その間俺はコミュニケーションを取ろうと考えた。この少女は俺のことを得体のしれないモンスターか何かだと思っているに違いない。ではそれを正さねば。それに聞きたいことも山ほどある。
 切り分けたナノマシンを少女の胸と腰に纏わり付かせ、俺は少女から離れた。そして、むにむに、と形を変え続け一つの形に落ち着く。俺は豹の姿になる事にした。本当は猫が良かったが、体長百七十センチの猫はいないので、妥協案としての豹だった。
 何故豹かって? 俺が好きだから。それに人間の姿になってみろ。絶対にまともな会話は出来ない。女性になっても良かったが、何故かそれは抵抗があった。特に意味は無いが、これをやってしまうと後戻りが出来なくなるような気がした。
 少女は俺の姿に驚いていたようだったが、俺が寝転がって攻撃の意思がないことを示すと、少し落ち着いてくれた。
 少女は胸と腰のスライムに思うところがあるのか、時々スライムを触って顔を赤らめている。安心しろ、俺にその様な下心はない、と言いたかったが言葉が通じないので、放っておくことにした。

「君の名前は?」

 俺は低く響く声に調整した合成音声で、少女に尋ねた。言葉が通じないのはわかり切っているので、だからこそ反応を待った。
 俺は一刻も早く少女の言葉を覚えたい。だからこその質問だった。
 少女は目を見開いて俺の顔をまじまじと見つめた。沢山のことを俺に向けて話しているが、全く何を言っているのかわからない。
 一通り喋り終えた頃に、俺は足元の草を爪で千切りかき集めて少女の前にまとめて置いた。
 短い単語を言いながら少女が怪訝そうな顔をしてそれを手に持つ。それを顔の高さまで持ち上げると匂いを嗅いだ。
 何を言っているのかはよく分からないが、こんな草の塊を目の前に置かれた少女も、俺の行動に困惑している筈だ。そして、そういうときに出る言葉というものは、往々にして予想しやすいものだったりする。

『これは何?』

 きっとこのようなことを言っているのだろう。ただでさえ混乱した頭できちんと理論立てされた話が出来るとも思えない。となると、必然シンプルな言葉に落ち着くわけだ。
 よし。これで俺も少女の話す言語を一つ習得できた。”何”を意味する単語が判れば後は簡単だ。適当なものを指さしてその単語を発音すればいい。

『お見事です、マスター。賢いですね』

 何か癪に障るなあ。
 俺は機巧核のことは放っておいて、少女とのコミュニケーションに戻った。次々に近くにあるものを前足で示しながら少女の使う言語で、『何?』と言った。
 少女は始めのうちは驚いていたが、俺が何度も同じことを聞くので慣れたのか、俺の質問に答えてくれた。
 こうして俺は数多くの単語を覚えることに成功した。一度聞いた単語は機巧核のデータベースに登録されていくので忘れる心配もない。
 そうして暫く単語を覚えていると、機巧核の解析も終わった。それを俺と共有することで、もっと深い内容が聞けるようになった。

「君の名前は?」

 俺は少女の言語で尋ねた。

「驚いたわ。もう言葉が話せるようになるなんて。私の名前はエリシャよ。あなたの名前は?」

「俺の名前は……」

 そこで俺の思考が止まる。あれ? 俺の名前って何だっけ? あれ? そんなはずは……。四年も過ごしたんだ、自分の名前を忘れているなんてことあるわけが……。
 しかし、どうやっても俺は自身の名前を思い出すことが出来なかった。

『それも移植時のイレギュラーによるものです』

 どうしてそれを言ってくれなかったんだ。

『聞かれませんでしたので』

 何ともつれない返事だ。俺はわだかまるもやもやとした気持ちを抑え、エリシャと名乗った少女に向き直る。

「どうしたの? あなたの名前は?」

「わからない。俺は自分の名前を忘れてしまった」

「……そんな。それじゃあ何て呼べばいいの?」

「名付けてくれるとありがたいな」

「そうねえ、うーん。あなたの名前は何がいいかしら? あっ! いい名前が思いついたわ。あなたの名前はネモよ」

「ネモ?」

 ネモと言えば海底二万マイルに出てくる潜水艦ノーチラス号のキャプテンじゃないか。確かその意味は……。

「意味は何者でもないって意味なの。昔の書物に書かれていたわ」

「ネモ、か。いいんじゃないか? 気に入ったよそれにしよう」

「やったあ。私こう見えて名前を付けるセンスは致命的だと言われて来たけど、とっても嬉しいわ!」

「だが、一つ聞いてもいいか?」

「何? 何でもどうぞ」

「その昔の書物の題名は覚えているか?」

「何だったかなあ? あれを読んだのは随分昔だし……確か、何とかマンマイル、とかいう書物だったわ」

「それは、ひょっとすると『海底二万マイル』じゃないか?」

「……! どうして!? そうよ! その通りよ! 思い出したわ! 『海底二万マイル』かあ。意味は分からないけれど、不思議な題名で私のお気に入りの書物だったの」

 もし俺が、人間の姿に変身していたならば、これ以上ないくらいの変顔をしていただろう。そして、続けて何故それを知っている? と詰め寄ったかもしれない。しかし、俺は豹であった。何より詰め寄ったりでもしたら怖がれてしまう、と思ったのでしなかった。
 だから、静かにエリシャの話を聞いていた。
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