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42話
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「──ここだよ!!」
田中に引っ張られて辿り着いたのは、楽器店だった。
「俺さ、ここでギター買ったんだけど。短時間なら通えるんじゃないか?
ほら、“30分なら練習OK”って書いてあるし、細切れに弾く分には文句言われないだろ」
そう言って、店の奥へ案内される。
そこにあったのは、年季の入った家庭用ピアノ。
艶の剥げた木目、少し黄ばんだ鍵盤──でも、不思議と温かみがあった。
「今のお前にちょうどいいだろ」
促されるまま椅子に腰を下ろす。
何年ぶりかで対峙する88鍵は、思ったより小さく見えた。
まるで小学校の机に触れているような、懐かしい感覚。
ただ、背も手も大きくなった自分との距離感に戸惑いを覚える。
「……弾いてみろよ」
田中の声に、ひとつ息を吐く。
──独りじゃない。
その事実が少しだけ肩の力を抜かせる。
けれど、指先はなかなか動かなかった。
押せば音が鳴る。それを分かっているのに、最初の一歩が重い。
田中は文句も急かしもせず、ただ隣にいてくれる。
情けない、と苦笑いしたとき──隣の電子ピアノに、5歳くらいの女の子が座った。
迷いも準備もなく、白鍵を押す。始まったのは拙い「きらきら星」。
ゆっくり、ぽつぽつと響く音。
そのメロディに導かれるように、気づけば自分の指も鍵盤を押していた。
少女の旋律に、自然と伴奏が浮かぶ。
──音が、戻ってくる。
少女の瞳がパッとこちらを見た。
驚いたように瞬きをしたあと、ふっと花が咲くように笑い、また視線を鍵盤に戻す。
小さな肩がわずかに上下しながら、ぎこちない指が音を紡ぎ続ける。
その後ろには、母親らしき女性の姿。
静かに頭を下げるのが見え、こちらも小さく会釈を返した。
──音は途切れない。
その純粋さが胸の奥を揺らす。
少女の「きらきら星」に、自分の左手が低音を添える。
ポン、ポンと刻む拍が、やがて右手の和音へと広がっていく。
簡単な伴奏は、次第に旋律を包み込み、音に厚みを与える。
右手は彼女のメロディを追い、左手は低音の階段を静かに上り下りする。
店内の空気が変わった。
楽譜も準備もないのに、指先は迷わず鍵盤を渡り歩く。
気づけば、少女の小さな音は自分の響きと溶け合い、ひとつの曲として息づいていた。
音が重なり合うたび、失われていたはずの感覚が少しずつ蘇ってくる。
──ああ、まだ弾ける。
胸の奥で、確かにそう呟く声がした。
最後の和音が静かに空気に溶けていく。
少女はぱっと笑みを浮かべ、「お兄ちゃん、すごいのね」と無邪気に言った。
けれど、本当にすごいのは──
「ありがとう。……君のおかげで、俺は自分を取り戻せそうだ」
そう告げて差し出した手に、少女はちょこんと指先だけを触れさせ、きゅっと握ると、椅子を降りて母親のもとへ戻っていく。
母親も軽く会釈し、その背を追って奥へと消えた。
残された耳には、まだ音がやさしく残響している。
手のひらはじんわりと熱を帯び、指先には確かに弾いた感触が残っていた。
「……お前、今の、めちゃくちゃヤバかったぞ!?
なんでだよ、俺のほうが泣きそうなんだけど!」
隣で突っ立っていた田中が、袖で目元をぬぐっている。
「これなら、ロロに聞かせられるのもすぐじゃないか?」
「いや……全然ダメだ」
褒め言葉を、素直に受け取れなかった。
思ったように指は動かず、まるで錆びついたみたいに硬い。
「そうなのか?」
「テンポがゆっくりだったから、何とかついていけただけだ」
時間はないのに、技術は追いつかない。
焦燥が胸を締めつける。
それでも──胸の奥に、温かい灯がともっていた。
もう二度と鳴らせないと思っていた音が、確かにここにあった。
忘れたはずの感覚が、指先からゆっくりと蘇っていく。
──まだ、終わっていない。
そう思った瞬間、心の奥底で、止まっていた歯車が再び動き出した。
それからの日々、東雲は楽器屋に通い続けた。
放課後、制服のままピアノに向かう日。
バイトの休憩時間を削って、30分だけ指を鍵盤に滑らせる日。
朝の開店直後、まだ誰もいない店内で、音を確かめるように弾く日。
最初は、指が思うように動かず、鍵盤を押すたびに違和感が走った。
でも、一音ごとに「大丈夫だ」と指先が思い出していく。
忘れていた曲の断片が、少しずつ、手の中で形を取り戻していった。
田中は、そんな東雲の横でギターをつま弾いたり、スマホで録音したり、
時には「はい、休憩」と無理やり缶コーヒーを渡してきたりした。
ピアノの音は、毎日ほんのわずかずつ澄んでいく。
そして東雲の心も、少しずつ空港のストリートピアノへと近づいていった──。
「……俺が、ロロに何の曲を弾いたのか覚えてないんだ」
沈黙を破った東雲の言葉に、田中が目を丸くする。
「えっ!?ロロのこと、思い出せたんじゃなかったのかよ!」
「ロロと会ったことは思い出した。でも、何を弾いたかまでは…」
声は自然と小さくなる。
当時の記憶を掘り起こそうとすればするほど、霞がかかったみたいに断片だけが浮かび上がっては消えていく。
フランスでの日々は、まさにピアノ漬けだった。
1日8時間以上練習する日なんてザラにあったし、弾いた曲は数え切れない。
どれもが自分の中で当たり前すぎて、特別な一曲なんて選べなかった。
「……だから、もし間違えたら、ロロは気づかないかもしれない」
その言葉には、自分でも気づかないうちに滲んだ弱気が混じっていた。
けれど田中は、まるで聞かなかったかのように笑って肩を叩いた。
「大丈夫だって、絶対に思い出せる! お前が弾いたんだからな!
……って言っても、俺も曲名までは聞いてないんだよな」
肩をすくめながら、田中は当時の記憶をたぐり寄せる。
「最初は軽くて速い感じの曲。それから、すっごい有名な曲に切り替わって……最後に、異国っぽい旋律が始まったって言ってたんだよな。だから、たぶん3曲だったと思う」
「──なるほどな。今ので……2曲は分かった気がする」
「えっ!? マジで!?」
「最初の2曲は、ウォーミングアップのときに弾いてたやつだろうから」
「じゃあ3曲目は?」
「全く記憶にない。異国の旋律って……日本っぽいってことだろ? そんなの5万とあるけど、どれも弾いた覚えがない」
田中に引っ張られて辿り着いたのは、楽器店だった。
「俺さ、ここでギター買ったんだけど。短時間なら通えるんじゃないか?
ほら、“30分なら練習OK”って書いてあるし、細切れに弾く分には文句言われないだろ」
そう言って、店の奥へ案内される。
そこにあったのは、年季の入った家庭用ピアノ。
艶の剥げた木目、少し黄ばんだ鍵盤──でも、不思議と温かみがあった。
「今のお前にちょうどいいだろ」
促されるまま椅子に腰を下ろす。
何年ぶりかで対峙する88鍵は、思ったより小さく見えた。
まるで小学校の机に触れているような、懐かしい感覚。
ただ、背も手も大きくなった自分との距離感に戸惑いを覚える。
「……弾いてみろよ」
田中の声に、ひとつ息を吐く。
──独りじゃない。
その事実が少しだけ肩の力を抜かせる。
けれど、指先はなかなか動かなかった。
押せば音が鳴る。それを分かっているのに、最初の一歩が重い。
田中は文句も急かしもせず、ただ隣にいてくれる。
情けない、と苦笑いしたとき──隣の電子ピアノに、5歳くらいの女の子が座った。
迷いも準備もなく、白鍵を押す。始まったのは拙い「きらきら星」。
ゆっくり、ぽつぽつと響く音。
そのメロディに導かれるように、気づけば自分の指も鍵盤を押していた。
少女の旋律に、自然と伴奏が浮かぶ。
──音が、戻ってくる。
少女の瞳がパッとこちらを見た。
驚いたように瞬きをしたあと、ふっと花が咲くように笑い、また視線を鍵盤に戻す。
小さな肩がわずかに上下しながら、ぎこちない指が音を紡ぎ続ける。
その後ろには、母親らしき女性の姿。
静かに頭を下げるのが見え、こちらも小さく会釈を返した。
──音は途切れない。
その純粋さが胸の奥を揺らす。
少女の「きらきら星」に、自分の左手が低音を添える。
ポン、ポンと刻む拍が、やがて右手の和音へと広がっていく。
簡単な伴奏は、次第に旋律を包み込み、音に厚みを与える。
右手は彼女のメロディを追い、左手は低音の階段を静かに上り下りする。
店内の空気が変わった。
楽譜も準備もないのに、指先は迷わず鍵盤を渡り歩く。
気づけば、少女の小さな音は自分の響きと溶け合い、ひとつの曲として息づいていた。
音が重なり合うたび、失われていたはずの感覚が少しずつ蘇ってくる。
──ああ、まだ弾ける。
胸の奥で、確かにそう呟く声がした。
最後の和音が静かに空気に溶けていく。
少女はぱっと笑みを浮かべ、「お兄ちゃん、すごいのね」と無邪気に言った。
けれど、本当にすごいのは──
「ありがとう。……君のおかげで、俺は自分を取り戻せそうだ」
そう告げて差し出した手に、少女はちょこんと指先だけを触れさせ、きゅっと握ると、椅子を降りて母親のもとへ戻っていく。
母親も軽く会釈し、その背を追って奥へと消えた。
残された耳には、まだ音がやさしく残響している。
手のひらはじんわりと熱を帯び、指先には確かに弾いた感触が残っていた。
「……お前、今の、めちゃくちゃヤバかったぞ!?
なんでだよ、俺のほうが泣きそうなんだけど!」
隣で突っ立っていた田中が、袖で目元をぬぐっている。
「これなら、ロロに聞かせられるのもすぐじゃないか?」
「いや……全然ダメだ」
褒め言葉を、素直に受け取れなかった。
思ったように指は動かず、まるで錆びついたみたいに硬い。
「そうなのか?」
「テンポがゆっくりだったから、何とかついていけただけだ」
時間はないのに、技術は追いつかない。
焦燥が胸を締めつける。
それでも──胸の奥に、温かい灯がともっていた。
もう二度と鳴らせないと思っていた音が、確かにここにあった。
忘れたはずの感覚が、指先からゆっくりと蘇っていく。
──まだ、終わっていない。
そう思った瞬間、心の奥底で、止まっていた歯車が再び動き出した。
それからの日々、東雲は楽器屋に通い続けた。
放課後、制服のままピアノに向かう日。
バイトの休憩時間を削って、30分だけ指を鍵盤に滑らせる日。
朝の開店直後、まだ誰もいない店内で、音を確かめるように弾く日。
最初は、指が思うように動かず、鍵盤を押すたびに違和感が走った。
でも、一音ごとに「大丈夫だ」と指先が思い出していく。
忘れていた曲の断片が、少しずつ、手の中で形を取り戻していった。
田中は、そんな東雲の横でギターをつま弾いたり、スマホで録音したり、
時には「はい、休憩」と無理やり缶コーヒーを渡してきたりした。
ピアノの音は、毎日ほんのわずかずつ澄んでいく。
そして東雲の心も、少しずつ空港のストリートピアノへと近づいていった──。
「……俺が、ロロに何の曲を弾いたのか覚えてないんだ」
沈黙を破った東雲の言葉に、田中が目を丸くする。
「えっ!?ロロのこと、思い出せたんじゃなかったのかよ!」
「ロロと会ったことは思い出した。でも、何を弾いたかまでは…」
声は自然と小さくなる。
当時の記憶を掘り起こそうとすればするほど、霞がかかったみたいに断片だけが浮かび上がっては消えていく。
フランスでの日々は、まさにピアノ漬けだった。
1日8時間以上練習する日なんてザラにあったし、弾いた曲は数え切れない。
どれもが自分の中で当たり前すぎて、特別な一曲なんて選べなかった。
「……だから、もし間違えたら、ロロは気づかないかもしれない」
その言葉には、自分でも気づかないうちに滲んだ弱気が混じっていた。
けれど田中は、まるで聞かなかったかのように笑って肩を叩いた。
「大丈夫だって、絶対に思い出せる! お前が弾いたんだからな!
……って言っても、俺も曲名までは聞いてないんだよな」
肩をすくめながら、田中は当時の記憶をたぐり寄せる。
「最初は軽くて速い感じの曲。それから、すっごい有名な曲に切り替わって……最後に、異国っぽい旋律が始まったって言ってたんだよな。だから、たぶん3曲だったと思う」
「──なるほどな。今ので……2曲は分かった気がする」
「えっ!? マジで!?」
「最初の2曲は、ウォーミングアップのときに弾いてたやつだろうから」
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