44 / 46
43話
それからの東雲は、鍵盤に向かうたび、スマホを横に置くようになった。スマホから流れるその音を耳で追いかける。
目は譜面ではなく画面の向こう──耳に届く音だけを頼りに、指を動かす。
間違えた音も、迷いのあるフレーズも、少しずつ修正され、形になっていく。
田中は、その様子を黙って見ていた。
鍵盤の上で迷いなく動く指先、音に合わせて微かに揺れる肩。
何度か息を呑む瞬間があった。
「……やっぱ……お前、耳いいんだな」
それは、感嘆とも、驚きともつかない声。
自分でも気づかぬうちに、どこか感動していた。
東雲は何も答えず、ただ次の音を追いかけた。
響きが胸に広がるたび、あの日の景色が、少しずつ輪郭を取り戻していくような気がしていた。
⸻
あの日、ロロに何の曲を贈ったんだろう。
──でも、きっと、あれは。
ロロにとって特別な音だった。
ただの偶然で選んだ旋律なら、あんなふうに笑ったり、あんな目をして聴いたりしなかったはずだ。
けれど、どうしても思い出せない。
手を伸ばせば届きそうなのに、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。
1番ロロに聞かせたい、肝心の“異国のメロディ”にはまだ辿り着けない。
あの日のロロの笑顔が、遠くで手を振っているように見えて──
それでも、指先は諦めることなく、次の音を探し続けた。
「もう、明日だってよ。ロロが帰国する日。」
「……まだ、何を弾いたか分からないんだけどな」
「もう思い出せなくても、行くしかないだろ」
空港へ向かうバスに揺られながら、東雲は窓の外を見つめた。
記憶の奥でロロの笑顔が滲んでいるのに、肝心の曲だけが霞んでいる。
焦燥だけが募り、胸の奥が重くなる。
──その時。
車内のどこかで、小さな着信音が鳴った。
耳が、勝手にその旋律を追う。
何気なく脳内で鍵盤の音色に置き換えた瞬間、心臓が跳ねた。
(……これだ)
胸がきゅっと締めつけられる。
次の瞬間、押し寄せる記憶の波。
石畳の街角。
金色の髪が陽を受けて、きらきらと揺れる。
泣きそうな顔の少年。
そっと指で鍵盤に触れ──
「“シャルロット“って綺麗な音だよ。俺は好きな音だ」
自分の声と、あの日の旋律が、鮮やかに蘇る。
「どうした?」
田中の声が遠くに聞こえる。
東雲は震える息を吐き、短く答えた。
「……思い出した!」
そう叫んだ瞬間、遠くで金属が軋むような大きな音が響いた。
バスの中に、一瞬ざわめきが広がる。
前方で、運転手が短く無線に何かを告げた。
車両事故──その言葉が、周囲の乗客の口から漏れる。
速度が落ち、やがて完全に止まるバス。
窓の外には、赤色灯がゆらゆらと揺れている。
(……嘘だろ)
焦りで呼吸が浅くなる。
時計の針は容赦なく進み、空港までの残り時間が頭の中で計算されていく。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、ついさっき蘇った旋律が、その鼓動に押し流されそうになる。
田中が隣で、険しい顔をした。
「……やばいな、これ」
動かない景色。
空港に辿り着けないかもしれない。
そのもどかしさが、胸の奥で膨らんでいく。
「一か八かに賭けるか…」
田中が窓の外の赤色灯を睨みながら、小さく呟いた。
そして唐突に、東雲の方へ向き直る。
「なぁ東雲、お前、走れるよな?」
「……は?」
何を言われたのか理解できず、瞬きする。
田中はニヤリと口角を上げた。
「お前さ、この間の三千メートルぶっちぎりだったよな?
俺はあの時負けたの絶対リベンジしてやるって思ってたんだぞ。」
その言葉で、田中の頭の中が一気に読めた。
──今から走って空港へ行けってことか。
信号の向こう、遠くに霞む滑走路のライトが頭に浮かぶ。
胸の鼓動が早まるのは、焦りか、それとも覚悟か。
「……マジで言ってんのか?」
「マジだ。今のこの渋滞を抜けるのを待つよりは、絶対に早い」
握った拳に力がこもる。
間に合わなければ、ロロには二度と会えないかもしれない。
その現実が、背中を強く押した。
東雲は、しばらく黙って田中の顔を見た。
冗談半分の軽口ではないことは、その真っ直ぐな視線で分かる。
「……降りるぞ」
静かにそう告げて、東雲は立ち上がった。
すぐさま田中も荷物を肩にかけ、バスの後方ドアへ向かう。
「すいませーん!!ここで降ろしてください!」
「えっ?この辺り、空港まではまだ距離ありますよ?」と運転手が振り向く。
「分かってます。でも、走れば──間に合うかもしれないんです!どうか、お願いします!!」
田中の圧に気圧されたのか、運転手は眉をひそめたが、しばし沈黙したあと、ハザードを点滅させた。
「……自己責任ですよ」
ドアが開くと、湿った夏の空気が押し寄せる。
東雲は肩掛けのバッグを握り直し、田中と短く目を合わせた。
エンジン音の途切れた道路には、赤色灯の光だけが滲んでいる。
数歩走り出しただけで、アスファルトから跳ね返る固い感触が、足の裏を通じて全身に伝わる。
──間に合わなければ、すべて終わる。
今、この瞬間を逃せば、ロロに何も伝えられない。
その思いだけが、脚に力をくれた。
東雲は一度も振り返らず、空港の方向へ駆け出した。
田中の足音が、すぐ後ろで力強く響いていた。
目は譜面ではなく画面の向こう──耳に届く音だけを頼りに、指を動かす。
間違えた音も、迷いのあるフレーズも、少しずつ修正され、形になっていく。
田中は、その様子を黙って見ていた。
鍵盤の上で迷いなく動く指先、音に合わせて微かに揺れる肩。
何度か息を呑む瞬間があった。
「……やっぱ……お前、耳いいんだな」
それは、感嘆とも、驚きともつかない声。
自分でも気づかぬうちに、どこか感動していた。
東雲は何も答えず、ただ次の音を追いかけた。
響きが胸に広がるたび、あの日の景色が、少しずつ輪郭を取り戻していくような気がしていた。
⸻
あの日、ロロに何の曲を贈ったんだろう。
──でも、きっと、あれは。
ロロにとって特別な音だった。
ただの偶然で選んだ旋律なら、あんなふうに笑ったり、あんな目をして聴いたりしなかったはずだ。
けれど、どうしても思い出せない。
手を伸ばせば届きそうなのに、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。
1番ロロに聞かせたい、肝心の“異国のメロディ”にはまだ辿り着けない。
あの日のロロの笑顔が、遠くで手を振っているように見えて──
それでも、指先は諦めることなく、次の音を探し続けた。
「もう、明日だってよ。ロロが帰国する日。」
「……まだ、何を弾いたか分からないんだけどな」
「もう思い出せなくても、行くしかないだろ」
空港へ向かうバスに揺られながら、東雲は窓の外を見つめた。
記憶の奥でロロの笑顔が滲んでいるのに、肝心の曲だけが霞んでいる。
焦燥だけが募り、胸の奥が重くなる。
──その時。
車内のどこかで、小さな着信音が鳴った。
耳が、勝手にその旋律を追う。
何気なく脳内で鍵盤の音色に置き換えた瞬間、心臓が跳ねた。
(……これだ)
胸がきゅっと締めつけられる。
次の瞬間、押し寄せる記憶の波。
石畳の街角。
金色の髪が陽を受けて、きらきらと揺れる。
泣きそうな顔の少年。
そっと指で鍵盤に触れ──
「“シャルロット“って綺麗な音だよ。俺は好きな音だ」
自分の声と、あの日の旋律が、鮮やかに蘇る。
「どうした?」
田中の声が遠くに聞こえる。
東雲は震える息を吐き、短く答えた。
「……思い出した!」
そう叫んだ瞬間、遠くで金属が軋むような大きな音が響いた。
バスの中に、一瞬ざわめきが広がる。
前方で、運転手が短く無線に何かを告げた。
車両事故──その言葉が、周囲の乗客の口から漏れる。
速度が落ち、やがて完全に止まるバス。
窓の外には、赤色灯がゆらゆらと揺れている。
(……嘘だろ)
焦りで呼吸が浅くなる。
時計の針は容赦なく進み、空港までの残り時間が頭の中で計算されていく。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、ついさっき蘇った旋律が、その鼓動に押し流されそうになる。
田中が隣で、険しい顔をした。
「……やばいな、これ」
動かない景色。
空港に辿り着けないかもしれない。
そのもどかしさが、胸の奥で膨らんでいく。
「一か八かに賭けるか…」
田中が窓の外の赤色灯を睨みながら、小さく呟いた。
そして唐突に、東雲の方へ向き直る。
「なぁ東雲、お前、走れるよな?」
「……は?」
何を言われたのか理解できず、瞬きする。
田中はニヤリと口角を上げた。
「お前さ、この間の三千メートルぶっちぎりだったよな?
俺はあの時負けたの絶対リベンジしてやるって思ってたんだぞ。」
その言葉で、田中の頭の中が一気に読めた。
──今から走って空港へ行けってことか。
信号の向こう、遠くに霞む滑走路のライトが頭に浮かぶ。
胸の鼓動が早まるのは、焦りか、それとも覚悟か。
「……マジで言ってんのか?」
「マジだ。今のこの渋滞を抜けるのを待つよりは、絶対に早い」
握った拳に力がこもる。
間に合わなければ、ロロには二度と会えないかもしれない。
その現実が、背中を強く押した。
東雲は、しばらく黙って田中の顔を見た。
冗談半分の軽口ではないことは、その真っ直ぐな視線で分かる。
「……降りるぞ」
静かにそう告げて、東雲は立ち上がった。
すぐさま田中も荷物を肩にかけ、バスの後方ドアへ向かう。
「すいませーん!!ここで降ろしてください!」
「えっ?この辺り、空港まではまだ距離ありますよ?」と運転手が振り向く。
「分かってます。でも、走れば──間に合うかもしれないんです!どうか、お願いします!!」
田中の圧に気圧されたのか、運転手は眉をひそめたが、しばし沈黙したあと、ハザードを点滅させた。
「……自己責任ですよ」
ドアが開くと、湿った夏の空気が押し寄せる。
東雲は肩掛けのバッグを握り直し、田中と短く目を合わせた。
エンジン音の途切れた道路には、赤色灯の光だけが滲んでいる。
数歩走り出しただけで、アスファルトから跳ね返る固い感触が、足の裏を通じて全身に伝わる。
──間に合わなければ、すべて終わる。
今、この瞬間を逃せば、ロロに何も伝えられない。
その思いだけが、脚に力をくれた。
東雲は一度も振り返らず、空港の方向へ駆け出した。
田中の足音が、すぐ後ろで力強く響いていた。
あなたにおすすめの小説
(完結)君のことは愛さない 〜死に戻りの伯爵令息は幸せになるため生き直します〜
蒼井梨音
BL
ルーシェ・ディオラントは、先祖返りで、王家の印と言われる薄い水色を帯びた銀髪と浅葱色の瞳をもつ美しいオメガ。しかし、正妻との子どもでないため、伯爵家では虐げられて育てられてきた。
そんなルーシェは、アルファである冷徹無比といわれる騎士団長のサイラス・ヴァルフォードと結婚することになった。
どんなに冷遇されようと、伯爵家での生活よりは、いいはず。
もしかしたら、これから恋に落ちるのかもしれない、と思うと、ルーシェはとても幸福に満ちていた。
しかし、結婚生活は、幸せとはほど遠いものであった。
ーーなんで、サイラス様は、僕の手をとってくれないの?
愛することも愛されることも知らない2人が、すれ違いを経て、やり直した人生でようやく愛を知る・・・
※基本ルーシェ視点ですが、たまに別な視点が入ります。
※無事に完結しました。ありがとうございました。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
【8話完結】僕の大切な人はBLゲームの主人公でした。〜モブは主人公の幸せのためなら、この恋も諦められます〜
キノア9g
BL
転生先は、まさかのBLゲームの世界。
モブであるリセルは、恋を自覚した瞬間、幼馴染・セスがこの世界の“主人公”だと気づいてしまう。
このまま一緒にいても、いつか彼は攻略対象に惹かれていく運命——それでも、今だけは傍にいたい。
「諦める覚悟をしたのに、どうしてこんなにも君が愛おしいんだろう」
恋の終わりを知っているモブと、想いを自覚していく主人公。
甘さと切なさが胸を締めつける、すれ違いから始まる運命の物語。
全8話。
生まれ変わりは嫌われ者
青ムギ
BL
無数の矢が俺の体に突き刺さる。
「ケイラ…っ!!」
王子(グレン)の悲痛な声に胸が痛む。口から大量の血が噴きその場に倒れ込む。意識が朦朧とする中、王子に最後の別れを告げる。
「グレン……。愛してる。」
「あぁ。俺も愛してるケイラ。」
壊れ物を大切に包み込むような動作のキス。
━━━━━━━━━━━━━━━
あの時のグレン王子はとても優しく、名前を持たなかった俺にかっこいい名前をつけてくれた。いっぱい話しをしてくれた。一緒に寝たりもした。
なのにー、
運命というのは時に残酷なものだ。
俺は王子を……グレンを愛しているのに、貴方は俺を嫌い他の人を見ている。
一途に慕い続けてきたこの気持ちは諦めきれない。
★表紙のイラストは、Picrew様の[見上げる男子]ぐんま様からお借りしました。ありがとうございます!
完結|好きから一番遠いはずだった
七角
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
脱落モブ男が人気アイドルに愛されるわけがない
綿毛ぽぽ
BL
アイドルを夢見るも、デビューできずオーディション番組に出演しても脱落ばかりの地味男、亀谷日翔はついに夢を諦めた。そしてひょんなことから事務所にあるカフェで働き始めると、かつて出演していた番組のデビューメンバーと再会する。テレビでも引っ張りだこで相変わらずビジュアルが強い二人は何故か俺に対して距離が近い。
━━━━━━━━━━━
現役人気アイドル×脱落モブ男
表紙はくま様からお借りしました
https://www.pixiv.net/artworks/84182395
元カレ先輩に、もう一度恋をする。 ━━友だちからやり直すはずだった再会愛【BL】
毬村 緋紗子
BL
中学三年になる春。
俺は好きな人に嘘をついて別れた。
そして一年。
高校に入学後、校内で、その元カレと再会する。
遠くから見ているだけでいいと思っていたのに……。
先輩は言った。
「友だちに戻ろう」
まだ好きなのに。
忘れられないのに。
元恋人から始まる、再スタートの恋。
(登場人物)
渋沢 香名人 シブサワ カナト 高1
山名 貴仁 ヤマナ タカヒト 高3
表紙は、生成AIによる、自作です。 (替わるかもです。。)
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。