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流転編
ルフィーネ内親王 2
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◆
ルフィーネが生まれて二ヶ月が過ぎた頃。
”ガラガラ””ゴロゴロ”
怜悧、冷徹、冷静と、三拍子揃っていそうな男前が、幼児用のオモチャを手にして笑顔を振りまいている。
「ルフィーネ、ルフィーネ! べろべろばー」
次は掌で顔を覆い、開いた時には面白顔をするという技を披露した男前だ。
「けっ……」
「ん? ……笑わないな……」
ルフィーネこと庵は現在いつもの豪奢な部屋で、父、デルフィーノ・アウグスト・リヒターに遊んでもらっていた。
とはいえ、ルフィーネは口元を結び目をジットリとさせて、あまつさえ「けっ」と言った。赤子にあるまじき無愛想である。
しかし考えてもみて欲しい。
ルフィーネは庵だ。
ということは、父親に興味があるわけも無い。
ましてや庵――ルフィーネは、
「自分以外の男は、この場にいらぬぅ!」
と、すでにここを自らのハーレムと位置付けているのだ。
父が来るなど、ルフィーネにとっては迷惑以外の何ものでもない。
もっとも、自分を男と思いたいルフィーネは、あくまでも可愛らしい姫なのだが。
「ふ、ふぇえ……びええええ……」
その時、おり悪くルフィーネは催してしまう。
「お、おお、ルフィーネ。オムツか? オムツならば……よし! この父が変えてやろう!」
「あら……デルフィーノさまはルフィーネのこととなると……なんでもしてあげたいのですね。この子がお嫁に行くとき、一体どうなってしまうのでしょうね? うふふ……」
「そ、そのようなこと、まだまだ遠い未来の事だ! ああ、嫌な事を言うな、マルガリータ! とにかく今はオムツを換えるっ!」
「クスクス」
微笑ましい第二王子夫妻の会話は、侍女達の顔を綻ばせる。
このような日々がずっと続けばよいと、皆、願わずにはいられなかった。
一方でルフィーネは、オムツの中がむずがゆくてたまらない。
(なんでもいいから、早く換えてくれ!)
と思っていた。
ただし、おむつ交換は侍女と楽しむ赤ちゃんプレイと思って憚らないルフィーネは、これから大変な目に遭うだろう。
ルフィーネの目に映る父母は、共に完璧超人だ。
父は白を基調として、金の刺繍が入った衣服を大体身に纏っている。そして長い黒髪を背中で纏めて、端整な顔は学者か医者を思わせる繊細なものだった。
実際のところデルフィーノはリヒターの第二王子であると同時に、二十四歳の若さにして大魔術師の称号を得た秀才でもあるから、ルフィーネのイメージに合致する。
もっともこの国においては、生まれた順番もだが、実力においてもデルフィーノは兄に及ばない。
デルフィーノの兄はマッティア・アウグスト・リヒター。
彼は二十歳の時に友である”黒騎士”ゴード・アルギュロスと共に、アルベルト火山に住まう火竜王を倒していた。
これにより竜王級の剣士になると同時に、治癒魔術にも精通していたマッティアは”聖騎士”を名乗る事を許される。
一方で友のゴードもこの時、”暗黒騎士”の称号を得ていた。
現在二人は共に二十八歳となっているが、大陸においてこの若さで”聖騎士”や”暗黒騎士”へと歩みを進めた人族は、かつていない。ゆえにデルフィーノがいかに優れていようと、兄の前には霞んでしまうのだった。
ルフィーネにとって母となるマルガリータ・アウグスト・リヒターは、隣国の姫君だった。
元を正せば、政略結婚といっても過言ではない父と母である。しかし二人の仲は睦まじく、誰もそれが政略結婚であった事を感じる者はいなかった。
といっても、そんなことをルフィーネが知る由もない。
ただ、リヒター王家に金髪はいない。その中で、輝くような金髪をもったマルガリータは目立つのだ。部屋に入ってきただけで、ルフィーネにもすぐに分かる。何より巨乳だから、ルフィーネはマルガリータが大好きだった。
波打つ金髪に蒼い瞳のマルガリータは、現在の所ルフィーネがもっとも希望する”おぱーい”である。
が、残念ながら王子の妃ともなると、自ら母乳を与えることはないようで、ルフィーネは常に臍を噛んでいるのだった。
(ヤ、ヤメロ! お、俺は男になんか……! くっ!)
今日もマルガリータの”おぱーい”を希望するルフィーネは、デルフィーノにオムツを外された。受難の時である。
――何が悲しくて男に下着を剥がされなければいけないのか――ルフィーネにとってこれは、屈辱以外のなにものでもない。
今までのオムツ交換は、侍女たちと楽しむ赤ちゃんプレイの一環だったのに。それが、無残なまでに奪われた。
ルフィーネは、顔を横に背ける。
「あら、この子――お父さまにオムツを変えてもらって、照れているのかしら?」
マルガリータが見当ハズレな意見を言う。
しかし未だ言葉の意味を理解しないルフィーネは、ふるふると首を揺らし、所在無げな視線を彷徨わせるだけだった。
◆◆
安田庵が此方の世界でルフィーネ・アウグスト・リヒターになってから、一年が過ぎた。
時折、不気味な夢を見る事もあるが、概ね順調な異世界ライフと言っていいだろう。
夢の内容は――自分がミスティ・ハーティスという魔王で、なにやら不気味なゴーレムに敗れて、死ぬ――という内容だった。
だが、不気味と言っても所詮はルフィーネの夢である。目が覚める頃には内容の大半を忘れ、
「ミスティたんのおぱーい大きいなぁ」
という事を思い出して終わりだ。基本的に彼女は腐っている。
だが、いかに中身が腐った三十五歳だとしても、外見はハートフルな一歳児であるルフィーネだ。
日々、ハイハイや掴まり立ちを見せて、侍女や父母を喜ばせていた。
また、流石に中身が三十五歳なだけあって、言葉を覚えるのも早い。
しかしどうしてか、「パパ」とは頑なに言わなかった。
「な、なんだ、このやろう」
これが父であるデルフィーノに、ルフィーネが初めて発した言葉である。
がっくりと膝を折ったデルフィーノは、その日、度数の高い酒を煽ったという。
さて――そんなルフィーネだが、どうあれ成長が早いと周囲からは目されている。
成長もなにも中身が三十五歳なのだから、本当は退化なのだが。
「ルフィーネさまは物覚えがお早い。天才かもしれませんな」
「ええ、ええ。魔術を習わせてみては如何でしょう?」
デルフィーノの下を訪れる廷臣達がこぞってルフィーネを褒めるものだから、ダメなおっさんは何処までも調子に乗る。
(て、天才か……漸く世界が俺に追いついた……)
もちろんこのオッサンは、周回後れに違いない。それに気付かないからこそ、幸せなのだ。
ただ、この時になって漸くルフィーネは、魔法の存在に気がついた。
今まで散々、周囲の明かりや温度調節で魔法のお世話になったのに、
(電気、あるんかな?)
などと暢気に考えていたルフィーネには、晴天の霹靂だ。
(魔法があるなら、是非習いたい! それでお、俺は、奴隷百合ハーレムを目指す!)
俄然希望が沸いてきたルフィーネの頭は、もはやお花畑も同然だった。
――――
周囲の評判に気をよくしていたのは、まったく娘と打ち解けられない父親も同様だった。
元々デルフィーノは大魔術師の称号を得る程の男だ。しかも現在の公職は、魔法兵団の副団長である。
「すまんが、ちょっと娘を見てやってくれんか?」
口元のニヤニヤを止められないまま、デルフィーノは兵団本部の隅で一人の部下に声を掛けた。言葉尻に「うちの子、天才らしくて」と付けなかったデルフィーノは、相当我慢をしたのだろう。
本来ならば自分で娘の指導をしたいところだが、王子自らが教えるのも少し躊躇われた。何よりデルフィーノは娘が可愛すぎて、厳しく出来ない。なので泣く泣く、優秀な部下に娘を託す事を考えたのである。
「はあ……」
気の無い変事を返した部下は、今年十四歳になる銀髪の少女だった。
デルフィーノは既にいっぱしの親バカで、娘の教育に男を付けるなどもっての他と考えている。そこで、この少女――エヴァリーナ・メルカに白羽の矢を立てたのだ。
彼女は二年前、勇者に、
「共に魔王討伐へ赴きませぬか?」
とまで言われた魔術師である。
そもそも魔術師の称号は、上から順に、
大魔導師。
魔導師。
大魔術師。
魔術師。
大魔法使い。
魔法使い。
と、なる。
十二歳の段階で大魔法使い、現在では魔術師にまで位階を上げているエヴァリーナは、デルフィーノに勝るとも劣らない逸材なのだった。
もっとも――エヴァリーナには問題もある。
基本的にやる気というものが無い。
そもそも勇者とは年齢も同じだったし、友人でもあった。にも関わらす、魔王討伐を断ったのは、
「東の果てとか、遠いし。それに魔王って、本当に悪いの?」
という理由だった。
さらに――
「魔導甲殻? 私、馬車だって酔うのよ? 乗れるわけないじゃない……」
といって、リヒター王国の威信をかけた最新兵器をにべもなく切り捨てたのである。
「面倒をみることはやぶさかではありませぬが、私も中々に忙しい身ですし……これ以上任務が増えては……いや、その、嫌という訳では……嫌ですが……」
なので、今回もエヴァリーナは断ろうとした。
そもそも他人に何かを教えるなど時間の無駄だと思っているエヴァリーナだから、当然だ。
この反応に慌てたデルフィーノは、わたわたと手を振り回しながら、部下を説得する。
「な、何もタダでルフィーネの面倒を見てくれとはいわん。休みだ、休みをやろう! 五日間、休んでいいぞ!」
「五日……」
「と、十日でどうだ?」
「畏まりました。姫さまのご面倒――及ばずながら、見させて頂きます」
エヴァリーナは口元の笑みを隠す為に、ことさら恭しく頭を下げる。
その動きで彼女の銀髪が肩口から流れる。その様は小さな滝のようで、デルフィーノは美しさに僅かばかり見惚れたのだった。
◆◆
十日の休日と引き換えてルフィーネに魔法を教える事となったエヴァリーナは、考えた。
(一歳の子供に、どうやって魔法を教えるんだ?)と。
顎に細い指を当てて、リヒターの王宮を歩くエヴァリーナは首を傾げる。
すれ違う宮廷人たちがエヴァリーナの服装を見て、怪訝そうに眉を顰めた。
軽装の革鎧に灰色のローブ――帯剣こそしていないものの、明らかに兵士の身なりをした者が、どうして王家の宮殿へと繋がる回廊を歩いているのかと、不思議に思うのも無理からぬことである。
漸くデルフィーノの離宮に到着したエヴァリーナは、そこでルフィーネを見つける事が出来なかった。
侍女の一人に事情を聞くと、最近のルフィーネは随分と活動的らしく、室内では飽き足らず、中庭までもハイハイで闊歩するのだという。
(めんどくせぇ)
エヴァリーナの想いは、これに尽きる。
といっても、ちょっと魔術を教えれば十日の休みだ。
エヴァリーナは拳を握り締めて、頑張ろうと思った。
エヴァリーナは、ルフィーネがいるという中庭を目指す。
流石にここまで来ると、魔術師の杖まで護衛兵に預けねばならない。
それから魔術を封印するスクロールをローブに張られ、一切の攻撃手段を封じられた。
(まあ、別に反逆者じゃないし、いいけどね)
そう思いつつ、肩の辺りに張られたスクロールをぼんやりと見つめたエヴァリーナは、なんだか心もとない気分になる。
そうして歩くうちに、エヴァリーナは妙に高速でハイハイをする、愛らしい幼児を見つけた。
もちろん幼児は一人しかいないので、彼女がルフィーネだろうとエヴァリーナは確信する。
「ひゃっはー! ひゃっはー! ゼハー、ゼハー!」
(そんなに息切れするなら、もっとゆっくり移動すればいいのに……)
そう思ったが、幼児は一人の兵士の足元へ急いでいたようだ。
「……だっこ」
兵士は白い絹の服を身に纏っている。ここは王家の中庭だ、故に華美な衣装を纏っていても武装は無い。
兵士の姿は彫像のようで、端整な白皙の頬には一片の傷さえ無かった。
夜の闇より深い黒き髪――海の深さを湛えた蒼き瞳――リヒター美女を称える詩の一説が、エヴァリーナの脳裏を過ぎる。
思えばリヒター美女からは、随分とかけ離れているエヴァリーナだ。
(美人さんだなぁ……彼女に抱っこして欲しかったから、ルフィーネさまは急いでいたのかぁ)
エヴァリーナも、どちらかと言えば美人の部類に入る少女だ。
しかし、ルフィーネが抱っこをせがむ人物に比べれば、数段劣ると自覚せざるを得ない。
「……仰せのままに、我が愛しき姫よ……」
美しい人影は、頷きルフィーネを抱えあげた。
口を半開きにしてその様を見つめるエヴァリーナは、瞬間――息を呑む。
(今、彼女の瞳の色が変わった? え? あれは、なに? 大きな魔力が、ルフィーネさまから……)
中庭にいる魔法兵がざわつく。
一般兵も、魔術の心得がある者は皆、ルフィーネを見た。
エヴァリーナは、咄嗟にルフィーネの側へ駆け寄った。
その理由は、自分でも分からない。
だが、一つ理解出来た事がある。
(あの力は、悪魔のもの――だったら、誤魔化さないと!)
「も、やだ」
エヴァリーナが近づくと、ルフィーネは美女の腕の中で、身体を捩って首を振っていた。
何かが気に触ったのだろうか――そう考えたエヴァリーナだが、そうではないようだ。
近づけば、美女に見えた人物は、美少年であった。
年齢は、エヴァリーナに近いだろう。だが、とにかく少年であった。
「我、ブラッドフォード・ノヴァーグは姫の忠実なる臣――仰せのままに」
少年は丁寧にルフィーネを下ろすと、そのまま傅く。
その瞳の色は、真紅に染まっていた。
エヴァリーナはルフィーネに近づき、しゃがむ。そして彼女の瞳を見ると、愕然とした。
(左目が、赤い――悪魔付き――それも、かなり高位の! しかもあれは”幻惑”だった! それなら――)
リヒター王国は、聖王国とも言われている。
だから悪魔付きと云われる者を、国内に置く事は無い。ましてや王都リヒテンシュタインは「魔族の翳り無し」と謳われる程の街だった。その中枢である王宮に”悪魔付き”がいる、となれば混乱は避けられないであろう。
(隠さないと!)
故にエヴァリーナの思考は、ある意味で反逆だった。だが、それでもルフィーネは王家の者。たとえ悪魔付きでもどうにかなる、と、瞬時にエヴァリーナは計算もしていた。
しかしそれは別としても、何故かルフィーネを守りたいと考えてしまったエヴァリーナは、自分をきょとんと見つめる幼女の頭を撫でる。
「ダメですよ、姫。”魅了”は誰にでも使っていい魔法じゃありません! めっ!」
エヴァリーナは内心の冷や汗をひた隠し、頬を膨らませてルフィーネを見つめる。
ルフィーネの瞳が輝いた。左目の色が赤から緑へと戻る。
そしてルフィーネは、エヴァリーナへ抱きついた。
「おぱーい」
ルフィーネとしては、酷く騙された思いだった。
美女と思って急ぎ駆け寄って抱っこをせがんだら、単なる美少年だった罠だ。
どこの狩人がこんな辛辣な罠を! と思ったルフィーネだが、必死の思いで怒りに耐えた。
そこに現われたのが、銀髪の天使だ。
エヴァリーナは紫水晶のような瞳を潤ませて、リスみたいに頬を膨らませながらルフィーネを睨んでいた。
そんな精神攻撃に、ルフィーネことゲスなおっさんが耐えられる訳もない。
(小さい、が、許そう。おぱーいに貴賎なし!)
そう思って、ルフィーネはエヴァリーナに抱きついたのである。
もっとも――
「ルフィーネ内親王殿下は、悪魔付き――」
王宮の隅から始まるこの噂はエヴァリーナの努力もむなしく、やがて大きなものへと変わってゆくのだった。
ルフィーネが生まれて二ヶ月が過ぎた頃。
”ガラガラ””ゴロゴロ”
怜悧、冷徹、冷静と、三拍子揃っていそうな男前が、幼児用のオモチャを手にして笑顔を振りまいている。
「ルフィーネ、ルフィーネ! べろべろばー」
次は掌で顔を覆い、開いた時には面白顔をするという技を披露した男前だ。
「けっ……」
「ん? ……笑わないな……」
ルフィーネこと庵は現在いつもの豪奢な部屋で、父、デルフィーノ・アウグスト・リヒターに遊んでもらっていた。
とはいえ、ルフィーネは口元を結び目をジットリとさせて、あまつさえ「けっ」と言った。赤子にあるまじき無愛想である。
しかし考えてもみて欲しい。
ルフィーネは庵だ。
ということは、父親に興味があるわけも無い。
ましてや庵――ルフィーネは、
「自分以外の男は、この場にいらぬぅ!」
と、すでにここを自らのハーレムと位置付けているのだ。
父が来るなど、ルフィーネにとっては迷惑以外の何ものでもない。
もっとも、自分を男と思いたいルフィーネは、あくまでも可愛らしい姫なのだが。
「ふ、ふぇえ……びええええ……」
その時、おり悪くルフィーネは催してしまう。
「お、おお、ルフィーネ。オムツか? オムツならば……よし! この父が変えてやろう!」
「あら……デルフィーノさまはルフィーネのこととなると……なんでもしてあげたいのですね。この子がお嫁に行くとき、一体どうなってしまうのでしょうね? うふふ……」
「そ、そのようなこと、まだまだ遠い未来の事だ! ああ、嫌な事を言うな、マルガリータ! とにかく今はオムツを換えるっ!」
「クスクス」
微笑ましい第二王子夫妻の会話は、侍女達の顔を綻ばせる。
このような日々がずっと続けばよいと、皆、願わずにはいられなかった。
一方でルフィーネは、オムツの中がむずがゆくてたまらない。
(なんでもいいから、早く換えてくれ!)
と思っていた。
ただし、おむつ交換は侍女と楽しむ赤ちゃんプレイと思って憚らないルフィーネは、これから大変な目に遭うだろう。
ルフィーネの目に映る父母は、共に完璧超人だ。
父は白を基調として、金の刺繍が入った衣服を大体身に纏っている。そして長い黒髪を背中で纏めて、端整な顔は学者か医者を思わせる繊細なものだった。
実際のところデルフィーノはリヒターの第二王子であると同時に、二十四歳の若さにして大魔術師の称号を得た秀才でもあるから、ルフィーネのイメージに合致する。
もっともこの国においては、生まれた順番もだが、実力においてもデルフィーノは兄に及ばない。
デルフィーノの兄はマッティア・アウグスト・リヒター。
彼は二十歳の時に友である”黒騎士”ゴード・アルギュロスと共に、アルベルト火山に住まう火竜王を倒していた。
これにより竜王級の剣士になると同時に、治癒魔術にも精通していたマッティアは”聖騎士”を名乗る事を許される。
一方で友のゴードもこの時、”暗黒騎士”の称号を得ていた。
現在二人は共に二十八歳となっているが、大陸においてこの若さで”聖騎士”や”暗黒騎士”へと歩みを進めた人族は、かつていない。ゆえにデルフィーノがいかに優れていようと、兄の前には霞んでしまうのだった。
ルフィーネにとって母となるマルガリータ・アウグスト・リヒターは、隣国の姫君だった。
元を正せば、政略結婚といっても過言ではない父と母である。しかし二人の仲は睦まじく、誰もそれが政略結婚であった事を感じる者はいなかった。
といっても、そんなことをルフィーネが知る由もない。
ただ、リヒター王家に金髪はいない。その中で、輝くような金髪をもったマルガリータは目立つのだ。部屋に入ってきただけで、ルフィーネにもすぐに分かる。何より巨乳だから、ルフィーネはマルガリータが大好きだった。
波打つ金髪に蒼い瞳のマルガリータは、現在の所ルフィーネがもっとも希望する”おぱーい”である。
が、残念ながら王子の妃ともなると、自ら母乳を与えることはないようで、ルフィーネは常に臍を噛んでいるのだった。
(ヤ、ヤメロ! お、俺は男になんか……! くっ!)
今日もマルガリータの”おぱーい”を希望するルフィーネは、デルフィーノにオムツを外された。受難の時である。
――何が悲しくて男に下着を剥がされなければいけないのか――ルフィーネにとってこれは、屈辱以外のなにものでもない。
今までのオムツ交換は、侍女たちと楽しむ赤ちゃんプレイの一環だったのに。それが、無残なまでに奪われた。
ルフィーネは、顔を横に背ける。
「あら、この子――お父さまにオムツを変えてもらって、照れているのかしら?」
マルガリータが見当ハズレな意見を言う。
しかし未だ言葉の意味を理解しないルフィーネは、ふるふると首を揺らし、所在無げな視線を彷徨わせるだけだった。
◆◆
安田庵が此方の世界でルフィーネ・アウグスト・リヒターになってから、一年が過ぎた。
時折、不気味な夢を見る事もあるが、概ね順調な異世界ライフと言っていいだろう。
夢の内容は――自分がミスティ・ハーティスという魔王で、なにやら不気味なゴーレムに敗れて、死ぬ――という内容だった。
だが、不気味と言っても所詮はルフィーネの夢である。目が覚める頃には内容の大半を忘れ、
「ミスティたんのおぱーい大きいなぁ」
という事を思い出して終わりだ。基本的に彼女は腐っている。
だが、いかに中身が腐った三十五歳だとしても、外見はハートフルな一歳児であるルフィーネだ。
日々、ハイハイや掴まり立ちを見せて、侍女や父母を喜ばせていた。
また、流石に中身が三十五歳なだけあって、言葉を覚えるのも早い。
しかしどうしてか、「パパ」とは頑なに言わなかった。
「な、なんだ、このやろう」
これが父であるデルフィーノに、ルフィーネが初めて発した言葉である。
がっくりと膝を折ったデルフィーノは、その日、度数の高い酒を煽ったという。
さて――そんなルフィーネだが、どうあれ成長が早いと周囲からは目されている。
成長もなにも中身が三十五歳なのだから、本当は退化なのだが。
「ルフィーネさまは物覚えがお早い。天才かもしれませんな」
「ええ、ええ。魔術を習わせてみては如何でしょう?」
デルフィーノの下を訪れる廷臣達がこぞってルフィーネを褒めるものだから、ダメなおっさんは何処までも調子に乗る。
(て、天才か……漸く世界が俺に追いついた……)
もちろんこのオッサンは、周回後れに違いない。それに気付かないからこそ、幸せなのだ。
ただ、この時になって漸くルフィーネは、魔法の存在に気がついた。
今まで散々、周囲の明かりや温度調節で魔法のお世話になったのに、
(電気、あるんかな?)
などと暢気に考えていたルフィーネには、晴天の霹靂だ。
(魔法があるなら、是非習いたい! それでお、俺は、奴隷百合ハーレムを目指す!)
俄然希望が沸いてきたルフィーネの頭は、もはやお花畑も同然だった。
――――
周囲の評判に気をよくしていたのは、まったく娘と打ち解けられない父親も同様だった。
元々デルフィーノは大魔術師の称号を得る程の男だ。しかも現在の公職は、魔法兵団の副団長である。
「すまんが、ちょっと娘を見てやってくれんか?」
口元のニヤニヤを止められないまま、デルフィーノは兵団本部の隅で一人の部下に声を掛けた。言葉尻に「うちの子、天才らしくて」と付けなかったデルフィーノは、相当我慢をしたのだろう。
本来ならば自分で娘の指導をしたいところだが、王子自らが教えるのも少し躊躇われた。何よりデルフィーノは娘が可愛すぎて、厳しく出来ない。なので泣く泣く、優秀な部下に娘を託す事を考えたのである。
「はあ……」
気の無い変事を返した部下は、今年十四歳になる銀髪の少女だった。
デルフィーノは既にいっぱしの親バカで、娘の教育に男を付けるなどもっての他と考えている。そこで、この少女――エヴァリーナ・メルカに白羽の矢を立てたのだ。
彼女は二年前、勇者に、
「共に魔王討伐へ赴きませぬか?」
とまで言われた魔術師である。
そもそも魔術師の称号は、上から順に、
大魔導師。
魔導師。
大魔術師。
魔術師。
大魔法使い。
魔法使い。
と、なる。
十二歳の段階で大魔法使い、現在では魔術師にまで位階を上げているエヴァリーナは、デルフィーノに勝るとも劣らない逸材なのだった。
もっとも――エヴァリーナには問題もある。
基本的にやる気というものが無い。
そもそも勇者とは年齢も同じだったし、友人でもあった。にも関わらす、魔王討伐を断ったのは、
「東の果てとか、遠いし。それに魔王って、本当に悪いの?」
という理由だった。
さらに――
「魔導甲殻? 私、馬車だって酔うのよ? 乗れるわけないじゃない……」
といって、リヒター王国の威信をかけた最新兵器をにべもなく切り捨てたのである。
「面倒をみることはやぶさかではありませぬが、私も中々に忙しい身ですし……これ以上任務が増えては……いや、その、嫌という訳では……嫌ですが……」
なので、今回もエヴァリーナは断ろうとした。
そもそも他人に何かを教えるなど時間の無駄だと思っているエヴァリーナだから、当然だ。
この反応に慌てたデルフィーノは、わたわたと手を振り回しながら、部下を説得する。
「な、何もタダでルフィーネの面倒を見てくれとはいわん。休みだ、休みをやろう! 五日間、休んでいいぞ!」
「五日……」
「と、十日でどうだ?」
「畏まりました。姫さまのご面倒――及ばずながら、見させて頂きます」
エヴァリーナは口元の笑みを隠す為に、ことさら恭しく頭を下げる。
その動きで彼女の銀髪が肩口から流れる。その様は小さな滝のようで、デルフィーノは美しさに僅かばかり見惚れたのだった。
◆◆
十日の休日と引き換えてルフィーネに魔法を教える事となったエヴァリーナは、考えた。
(一歳の子供に、どうやって魔法を教えるんだ?)と。
顎に細い指を当てて、リヒターの王宮を歩くエヴァリーナは首を傾げる。
すれ違う宮廷人たちがエヴァリーナの服装を見て、怪訝そうに眉を顰めた。
軽装の革鎧に灰色のローブ――帯剣こそしていないものの、明らかに兵士の身なりをした者が、どうして王家の宮殿へと繋がる回廊を歩いているのかと、不思議に思うのも無理からぬことである。
漸くデルフィーノの離宮に到着したエヴァリーナは、そこでルフィーネを見つける事が出来なかった。
侍女の一人に事情を聞くと、最近のルフィーネは随分と活動的らしく、室内では飽き足らず、中庭までもハイハイで闊歩するのだという。
(めんどくせぇ)
エヴァリーナの想いは、これに尽きる。
といっても、ちょっと魔術を教えれば十日の休みだ。
エヴァリーナは拳を握り締めて、頑張ろうと思った。
エヴァリーナは、ルフィーネがいるという中庭を目指す。
流石にここまで来ると、魔術師の杖まで護衛兵に預けねばならない。
それから魔術を封印するスクロールをローブに張られ、一切の攻撃手段を封じられた。
(まあ、別に反逆者じゃないし、いいけどね)
そう思いつつ、肩の辺りに張られたスクロールをぼんやりと見つめたエヴァリーナは、なんだか心もとない気分になる。
そうして歩くうちに、エヴァリーナは妙に高速でハイハイをする、愛らしい幼児を見つけた。
もちろん幼児は一人しかいないので、彼女がルフィーネだろうとエヴァリーナは確信する。
「ひゃっはー! ひゃっはー! ゼハー、ゼハー!」
(そんなに息切れするなら、もっとゆっくり移動すればいいのに……)
そう思ったが、幼児は一人の兵士の足元へ急いでいたようだ。
「……だっこ」
兵士は白い絹の服を身に纏っている。ここは王家の中庭だ、故に華美な衣装を纏っていても武装は無い。
兵士の姿は彫像のようで、端整な白皙の頬には一片の傷さえ無かった。
夜の闇より深い黒き髪――海の深さを湛えた蒼き瞳――リヒター美女を称える詩の一説が、エヴァリーナの脳裏を過ぎる。
思えばリヒター美女からは、随分とかけ離れているエヴァリーナだ。
(美人さんだなぁ……彼女に抱っこして欲しかったから、ルフィーネさまは急いでいたのかぁ)
エヴァリーナも、どちらかと言えば美人の部類に入る少女だ。
しかし、ルフィーネが抱っこをせがむ人物に比べれば、数段劣ると自覚せざるを得ない。
「……仰せのままに、我が愛しき姫よ……」
美しい人影は、頷きルフィーネを抱えあげた。
口を半開きにしてその様を見つめるエヴァリーナは、瞬間――息を呑む。
(今、彼女の瞳の色が変わった? え? あれは、なに? 大きな魔力が、ルフィーネさまから……)
中庭にいる魔法兵がざわつく。
一般兵も、魔術の心得がある者は皆、ルフィーネを見た。
エヴァリーナは、咄嗟にルフィーネの側へ駆け寄った。
その理由は、自分でも分からない。
だが、一つ理解出来た事がある。
(あの力は、悪魔のもの――だったら、誤魔化さないと!)
「も、やだ」
エヴァリーナが近づくと、ルフィーネは美女の腕の中で、身体を捩って首を振っていた。
何かが気に触ったのだろうか――そう考えたエヴァリーナだが、そうではないようだ。
近づけば、美女に見えた人物は、美少年であった。
年齢は、エヴァリーナに近いだろう。だが、とにかく少年であった。
「我、ブラッドフォード・ノヴァーグは姫の忠実なる臣――仰せのままに」
少年は丁寧にルフィーネを下ろすと、そのまま傅く。
その瞳の色は、真紅に染まっていた。
エヴァリーナはルフィーネに近づき、しゃがむ。そして彼女の瞳を見ると、愕然とした。
(左目が、赤い――悪魔付き――それも、かなり高位の! しかもあれは”幻惑”だった! それなら――)
リヒター王国は、聖王国とも言われている。
だから悪魔付きと云われる者を、国内に置く事は無い。ましてや王都リヒテンシュタインは「魔族の翳り無し」と謳われる程の街だった。その中枢である王宮に”悪魔付き”がいる、となれば混乱は避けられないであろう。
(隠さないと!)
故にエヴァリーナの思考は、ある意味で反逆だった。だが、それでもルフィーネは王家の者。たとえ悪魔付きでもどうにかなる、と、瞬時にエヴァリーナは計算もしていた。
しかしそれは別としても、何故かルフィーネを守りたいと考えてしまったエヴァリーナは、自分をきょとんと見つめる幼女の頭を撫でる。
「ダメですよ、姫。”魅了”は誰にでも使っていい魔法じゃありません! めっ!」
エヴァリーナは内心の冷や汗をひた隠し、頬を膨らませてルフィーネを見つめる。
ルフィーネの瞳が輝いた。左目の色が赤から緑へと戻る。
そしてルフィーネは、エヴァリーナへ抱きついた。
「おぱーい」
ルフィーネとしては、酷く騙された思いだった。
美女と思って急ぎ駆け寄って抱っこをせがんだら、単なる美少年だった罠だ。
どこの狩人がこんな辛辣な罠を! と思ったルフィーネだが、必死の思いで怒りに耐えた。
そこに現われたのが、銀髪の天使だ。
エヴァリーナは紫水晶のような瞳を潤ませて、リスみたいに頬を膨らませながらルフィーネを睨んでいた。
そんな精神攻撃に、ルフィーネことゲスなおっさんが耐えられる訳もない。
(小さい、が、許そう。おぱーいに貴賎なし!)
そう思って、ルフィーネはエヴァリーナに抱きついたのである。
もっとも――
「ルフィーネ内親王殿下は、悪魔付き――」
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