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第一章
第一章 善次郎、気鬱を拝す 《五》
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十五歳で御庭番に就いた時。善次郎の最初の御役目は『病もなく前兆もなく死ぬ者が増えている。真相を探れ』だった。
結局この死神が、寿命でもない人を勝手に黄泉に連れ込んでいた。
「もう、寿命でもない者を勝手に殺すような真似は、しておらぬだろうな」
善次郎は揶揄を込めて聞いた。
あの時は、死神にも事情があった。
当時、飢饉や疫癘で死ぬ人間が相次ぎ、まだ寿命がある者に『死人と一緒に連れて行ってほしい』と、強く懇願された。死神は憐憫から黄泉へ連れて行く羽目になった。
死神の姿が見える人間は珍しい。だが、善次郎のように特殊な目を持っていたり、寿命が近かったり、死への思いが強いと、見えることがあるという。
善次郎の揶揄い混じりの声に、死神は苦い顔で笑った。
「お前さんに止められて黄泉に帰ったら、閻魔様に、こっぴどく叱られてなぁ。危うく消されちまうところだったよぉ。お前さんのお陰で生き延びたがねぇ」
間延びした口調のせいで、言葉ほどの切迫した心情は伝わってこない。
「そう、か。良かったな」
内心で安堵しながら、わざと素っ気なく返した。
(そもそも此奴は、悪いものではない)
死神、というと悪い神に聞こえるが、奴らも人と同様に其々だ。六年前の初会から、目の前の死神に悪い気這いは感じていなかった。
それにしても、死神が生き延びたなど、落とし噺のようで可笑しな話だ。口角を上げたまま、もう一口、水を含む。悪心が少しずつ治まってきた。
ちらりと隣を伺う。死神は何を聞くわけでも話すわけでもなく、ただ隣に座っている。横顔を見ていたら、胸に痞える粋然たる問いを、ぶつけてみたくなった。
「お主は何故、儂に声を掛ける?」
手に握った竹筒を眺めなら、呟く。死神が、善次郎を振り向いた。
「妖の類は大概、儂を避ける。なのに、お主は自分から声を掛けた。随分な変わり者だと思うぞ」
「俺は死神だもの」
間髪入れない返答に顔を上げる。死神は何とも暖気な顔をしている。
「こんな形だが、神の端くれだからねぇ。妖よりゃまぁ、力は強いよ」
「それは、そうだろが。妖より力の強い神なら平気、ということか」
「だってお前さん、神社や寺に入れなかったことは、ないだろう」
「境内にか? 入れなかったことは、ないな。今も、三つの社を廻ってきたところだ」
「なら、そういうことだよ」
つまりは、妖にだけ避けられているわけだ。
(力の弱い妖に避けられるのは、何故なのだ)
聡明な善次郎でも、こればかりは難解だ。この六年、あらゆる工夫を試してきたが、どれも成果はなかった。それどころか、一層、避けられるようになったとさえ感じる。
善次郎の顔を眺めていた死神が、からからと笑い出した。
「何を笑う?」
じっとりした声で睨めつける。
「いいや、すまないねぇ。面白い顔で悩んでいるから、つい、ねぇ」
死神が零れる笑いを懸命に抑える。
面白尽の死神を眺めていた善次郎の胸に、小さな苛立ちが湧いた。すぐに負の感情を飲み込むと、諦めた心地で小さく息を吐いた。
「実のところ、儂には神と妖の境がわからぬ。寺社に祀られていれば、それは神だ。しかし道端の小さな祠にも神はある。その手のものは、あまり妖と変わりがないと、思うのだ」
心の奥に押し込めていた疑問を思いきって吐露した。朋輩にもしたことがない話だ。
「まぁ、お前さんの言う通り、妖も神も、そう違いはないけどねぇ。ただ他の生きもんは、妖と神ってぇのを、自ずと隔てて感じるもんだよ」
冷たい何かが胸中を流れるような觖望が襲う。
「そういうものか。儂にわからぬのは、……未熟な、ためか?」
口籠ったのは、認めたくないからだ。だが、向き合わねば前には進めない。身に澱む觖望を振り切って顔を上げると、死神が首を横に振った。
「逆さね。お前さんは他のもんより、よっぽど敏い。だから妖と神を同じように感じられるのさ。妖も神も、元は同じ。自然の一片、だからねぇ。だが、お前さんみたいな人間は、稀有なもんだよ」
さり気ない口調で淡々と話す死神の横顔を見て、善次郎は思わず口を噤んだ。胸の内を流れていた冷たさが、すっと消えていく。
「もっと言えば、人だって、自然の一片さね。だから怨霊にも生霊にも、神にだって、なれるのさ」
「怨霊に、生霊……か」
ふと、狛犬に纏わりついた恨みの念を思い出す。
善次郎の呟きに、死神はわざとらしく、両手で口元を隠した。
「おっと、話し過ぎたねぇ。いけない、いけない。俺らはあんまり、俗世に関わっちゃぁならぬもの、なのにねぇ」
変わらず面白尽の目で死神が、にやりとする。
「お主は俗世に関わってばかりだろうに。今とて儂に声を掛け、水まで……」
呆れ声で言いかけて、気が付いた。死神のお陰で、自分は窮地を救われた。竹筒を、ぎゅっと握って死神に向かい、頭を下げる。
「先に礼を言うべきだった。お主のお陰で助かった。恩に着る」
死神の笑んだ目から、揶揄が消えた。
「なぁに、俺にしちゃぁ、大したことじゃぁないよ。お前さんには、助けてもらったからねぇ。まぁ、お返しってぇところだね」
「随分と律儀な死神だな、お主は」
ふふん、と鼻を鳴らして、死神が得意な顔をする。
「律儀ついでに言うとなぁ。お前さんが自分を未熟だと感じるのは、持て余した力を使いこなせていないからさぁ。妖に好かれないんじゃぁない。彼奴らはお前さんに怯えているのさ」
「妖が、儂にか? 危害を加えた覚えなど、これまで一度もないのだが」
妖に敵愾を持った覚えすらも、一度もない。死神は、やけに神妙な面持ちで、深く頷く。
「実際にどぅこぅってぇ話じゃぁないさ。例えば、抜き身の刀を意味もなく、ぶんぶん振り回している人間がいたら、おっかないって、思うだろう」
「まぁ、そうだな」
善次郎なら不逞の輩を止める術も心得ている。だが、町人であれば確かに恐ろしいだろう。今は死神の言葉に素直に頷いた。
「妖は、そう力のある者ばかりじゃぁない。力がある者も、そりゃ少しはあるがねぇ。それに良くも悪くも純粋で正直だ。自分に刃を向けるかもしれない輩が近づきゃぁ、怖いし逃げるし、時には威喝も、するやぁね」
「なるほど、そうだったか」
社を廻る前に出会った白猫を思い出し、得心する。
「抑えるなり、使いこなすなりの術があればよいのだが。どうにも巧くいかず難儀しておる」
今までに試した法を顧みて、呻る。死神は善次郎と同じ思案顔で、顎を擦った。
「こればっかりは自分で見つけるしかないけどねぇ。なんてぇか、こう……心の内側で感じるように見る、てぇのか……」
突然、口を閉じた死神の眼が細まり、善次郎の後ろに向く。同時に、ぞくりとした嫌な気這いが背を伝った。
即座に振り返ると、体勢を整え、鯉口を切る。
(この悍ましい気は、狛犬にこびり付いていた瘴気と同じだ)
林の中に姿は見えない。だが、確実に「何か」がいる。気を研ぎ澄まし、正体を探る。
鯉口を切った刹那、頭の中に声が響いた。
『善次郎、良いか。目だけで見ようとするな。心の眼を開け』
幼かった善次郎に父が言い聞かせた言葉だ。昔のことで、すっかり忘れていた。
(心眼、か。父が儂に何度も説いていた教えだ。何故、今になって、あの言葉が……)
気の緩んだ隙に、「何か」が動いた。
「右か!」
低い体勢から一足飛び、抜刀する。刃が空を切る音が聞こえただけで、手応えがない。気這いは既に、反対側に移っている。
(他とは、違う。見えぬ妖は、今までいなかった)
瘴気や気這いにあてられても、姿が見えない妖や神には会った経験がない。言い得ぬ不気味な様子に、じんわりと嫌な汗が首筋を伝う。
ゆらりふわりと放縦に、気這いは動く。善次郎は目を閉じた。
(心眼。心の奥の眼で、見るのだ)
研ぎ澄ました気の総てを気這いに注ぐ。
瞼の裏側に、ぼんやりと青白い火が灯った。ゆらりと揺れる灯火を、じっくりと追う。
(まだだ、まだ……。焦るな。一刀で、必ず仕留める)
青白い火を逃がさぬように見据え、じりじりと間合いを詰める。ゆるりと動いていた灯火が、動きを止めた刹那。
(今だ!)
かっと両目を見開き、構えた刀を大きく横に薙ぎ払う。
しゅう、と湯気が上がるような音とともに、地面にごろりと大きな岩が転がった。
「これは、狛犬だぞ」
思わず驚嘆の声が零れた。地面に転がっているのは、首と胴が真二つに分かれた阿の狛犬だった。
(巡った三社の、どの狛犬とも違う。だが、纏う瘴気は同じだ)
確かめようと手を伸ばした善次郎を、後ろから死神が止めた。
「触れねぇほうがいい。ほら、見てみなぁよ」
眼の先の狛犬は、禍々しい瘴気に捲かれながら石の塊になり、やがて消え失せた。
「これは、いったい、どういうことだ」
愕然として、言葉を詰まらせた。不意に林の向こうから強い気を感じ、眼を凝らす。
「あの人影は、まさか……!」
駆け出した善次郎に気が付いた影は、林に潜み、姿をくらました。
消えた影を追う気には、なれなかった。顔から血の気が引いていく。
「ありゃ、人じゃぁねぇもんだと思うが、知り合いかぃ?」
死神の声が聞こえたが、善次郎は何も言えなかった。
(兄上の顔に、見えた。まさか、件に兄上が関わっておるのか。いや、まさか。兄上は既に他界しておる)
怨霊や悪霊。先ほど死神と交わした言葉を思い返し、どきりとする。
(兄上が、怨霊に……? そんなはずはない。そのような訳もない。あるはずがない!)
浮かんだ思考を吹き飛ばすように、ぶんぶんと強く首を振る。
何も言わず眺めていた死神が突然、善次郎の肩をぽんと、叩いた。
「あれが何に見えたか知らないが、決めつけぬがいいよ。ああいったもんは、相手に寄って姿形を変えるもんだからねぇ」
はっと息を飲んだ。確かに、そのような法で人心を惑わす妖もある。
(儂の心に付け入るなら、兄上の姿になっても、おかしくはない)
善次郎は大きく息を吸い、吐き出した。ぱん、と頬を叩き、活を入れる。
「礼を言う。危うく取り乱すところであった。お主にはまた、助けられたな」
死神は得意げに、にやりと笑った。
「それよりお前さん、さほど悩むことも、なさそうだねぇ。随分前から、心得ていたようだ」
言葉の意味が解せず、首を傾げる。死神が、狛犬の消えた跡を指さした。
「あれを斬ったんだ。使いこなす術は、しっかと持っているだろうさ」
はっとして、狛犬と対峙した時の自分を思い返した。
(確かに、青白い灯火が、見えた。心眼を開くとは、ああいった法、なのか)
実感は湧かない。だが、確かに手応えはあった。忘れていた父の声も聞こえた。
(あれは、明楽家の大事な教えだ。儂は何故、忘れていたのだ)
恥ずかしく、悔しい思いを噛み潰す。胸に手を当てて、静かに目を閉じた。
(父上の教え、二度と忘れませぬ)
しかと胸に刻むため、とんと胸を叩く。今の出来事をじっくりと心に焼き付けた。
「やれやれ、こいつぁ思ったより難事になりそうだねぇ。この界隈は俺の領分だってぇのになぁ」
ぽそりと呟く死神に眼を向ける。死神は、苦い顔で笑った。
「これも乗りかかった船ってねぇ。最後に一つだけ、教えてやるよぉ。お前さんにとって、良いことか悪いことか、わからないがねぇ」
勿体つける死神を、訝しい目で見据える。
「狛犬が壊れているのは、お前さんが巡った三社だけじゃぁないってぇ話だよ」
先ほどより低い声に不穏が混じる。善次郎の心の奥に、ざわりと嫌な感が擡げた。
「何? まだ他に狙われた社があるのか? 今、斬った狛犬と関わりがあるのか?」
矢継ぎ早に問い質し、迫る。死神が、にやりとした。
「こいつぁ聞くより見るが早かろうからねぇ。福徳稲荷に行ってみなぁよ。今より何か、わかるかもしれないからねぇ」
「日本橋のか? 他の三社に比べ、随分小さな社だが、何故……」
善次郎の言葉を遮り、死神がすっと後ろに下がった。
「おっと、朋輩が着きなすったようだ。随分と長く馬鹿咄をしちまったからねぇ、俺はそろそろ行くとするよぉ」
旋風に捲かれて、死神は音もなく消えた。
「待て、話はまだ……と。もう、いないか」
神出鬼没は、如何にも死神らしい。手元に残った竹筒を眺める。
「水を、返し忘れたな。だが奴なら、またどこかで会えそうだ」
自然と笑みが零れた。
(思い出した父の教えを今一度、深思しよう。忘れてはならぬ教えが、他にもあったはずだ)
気鬱の種を取り除く糸口を掴み、少しだけ心が軽くなった。
一方で、人でない影に兄を見た。死神の忠言に、一度は納得したが。
(あの顔は確かに兄上だった。気這いまでは感じ取れなんだが、贋物と決めつけて、良いのだろうか)
胸の騒つきが、どうにも治まらない。善次郎の気鬱が綺麗に晴れる訳には、いかなかった。
結局この死神が、寿命でもない人を勝手に黄泉に連れ込んでいた。
「もう、寿命でもない者を勝手に殺すような真似は、しておらぬだろうな」
善次郎は揶揄を込めて聞いた。
あの時は、死神にも事情があった。
当時、飢饉や疫癘で死ぬ人間が相次ぎ、まだ寿命がある者に『死人と一緒に連れて行ってほしい』と、強く懇願された。死神は憐憫から黄泉へ連れて行く羽目になった。
死神の姿が見える人間は珍しい。だが、善次郎のように特殊な目を持っていたり、寿命が近かったり、死への思いが強いと、見えることがあるという。
善次郎の揶揄い混じりの声に、死神は苦い顔で笑った。
「お前さんに止められて黄泉に帰ったら、閻魔様に、こっぴどく叱られてなぁ。危うく消されちまうところだったよぉ。お前さんのお陰で生き延びたがねぇ」
間延びした口調のせいで、言葉ほどの切迫した心情は伝わってこない。
「そう、か。良かったな」
内心で安堵しながら、わざと素っ気なく返した。
(そもそも此奴は、悪いものではない)
死神、というと悪い神に聞こえるが、奴らも人と同様に其々だ。六年前の初会から、目の前の死神に悪い気這いは感じていなかった。
それにしても、死神が生き延びたなど、落とし噺のようで可笑しな話だ。口角を上げたまま、もう一口、水を含む。悪心が少しずつ治まってきた。
ちらりと隣を伺う。死神は何を聞くわけでも話すわけでもなく、ただ隣に座っている。横顔を見ていたら、胸に痞える粋然たる問いを、ぶつけてみたくなった。
「お主は何故、儂に声を掛ける?」
手に握った竹筒を眺めなら、呟く。死神が、善次郎を振り向いた。
「妖の類は大概、儂を避ける。なのに、お主は自分から声を掛けた。随分な変わり者だと思うぞ」
「俺は死神だもの」
間髪入れない返答に顔を上げる。死神は何とも暖気な顔をしている。
「こんな形だが、神の端くれだからねぇ。妖よりゃまぁ、力は強いよ」
「それは、そうだろが。妖より力の強い神なら平気、ということか」
「だってお前さん、神社や寺に入れなかったことは、ないだろう」
「境内にか? 入れなかったことは、ないな。今も、三つの社を廻ってきたところだ」
「なら、そういうことだよ」
つまりは、妖にだけ避けられているわけだ。
(力の弱い妖に避けられるのは、何故なのだ)
聡明な善次郎でも、こればかりは難解だ。この六年、あらゆる工夫を試してきたが、どれも成果はなかった。それどころか、一層、避けられるようになったとさえ感じる。
善次郎の顔を眺めていた死神が、からからと笑い出した。
「何を笑う?」
じっとりした声で睨めつける。
「いいや、すまないねぇ。面白い顔で悩んでいるから、つい、ねぇ」
死神が零れる笑いを懸命に抑える。
面白尽の死神を眺めていた善次郎の胸に、小さな苛立ちが湧いた。すぐに負の感情を飲み込むと、諦めた心地で小さく息を吐いた。
「実のところ、儂には神と妖の境がわからぬ。寺社に祀られていれば、それは神だ。しかし道端の小さな祠にも神はある。その手のものは、あまり妖と変わりがないと、思うのだ」
心の奥に押し込めていた疑問を思いきって吐露した。朋輩にもしたことがない話だ。
「まぁ、お前さんの言う通り、妖も神も、そう違いはないけどねぇ。ただ他の生きもんは、妖と神ってぇのを、自ずと隔てて感じるもんだよ」
冷たい何かが胸中を流れるような觖望が襲う。
「そういうものか。儂にわからぬのは、……未熟な、ためか?」
口籠ったのは、認めたくないからだ。だが、向き合わねば前には進めない。身に澱む觖望を振り切って顔を上げると、死神が首を横に振った。
「逆さね。お前さんは他のもんより、よっぽど敏い。だから妖と神を同じように感じられるのさ。妖も神も、元は同じ。自然の一片、だからねぇ。だが、お前さんみたいな人間は、稀有なもんだよ」
さり気ない口調で淡々と話す死神の横顔を見て、善次郎は思わず口を噤んだ。胸の内を流れていた冷たさが、すっと消えていく。
「もっと言えば、人だって、自然の一片さね。だから怨霊にも生霊にも、神にだって、なれるのさ」
「怨霊に、生霊……か」
ふと、狛犬に纏わりついた恨みの念を思い出す。
善次郎の呟きに、死神はわざとらしく、両手で口元を隠した。
「おっと、話し過ぎたねぇ。いけない、いけない。俺らはあんまり、俗世に関わっちゃぁならぬもの、なのにねぇ」
変わらず面白尽の目で死神が、にやりとする。
「お主は俗世に関わってばかりだろうに。今とて儂に声を掛け、水まで……」
呆れ声で言いかけて、気が付いた。死神のお陰で、自分は窮地を救われた。竹筒を、ぎゅっと握って死神に向かい、頭を下げる。
「先に礼を言うべきだった。お主のお陰で助かった。恩に着る」
死神の笑んだ目から、揶揄が消えた。
「なぁに、俺にしちゃぁ、大したことじゃぁないよ。お前さんには、助けてもらったからねぇ。まぁ、お返しってぇところだね」
「随分と律儀な死神だな、お主は」
ふふん、と鼻を鳴らして、死神が得意な顔をする。
「律儀ついでに言うとなぁ。お前さんが自分を未熟だと感じるのは、持て余した力を使いこなせていないからさぁ。妖に好かれないんじゃぁない。彼奴らはお前さんに怯えているのさ」
「妖が、儂にか? 危害を加えた覚えなど、これまで一度もないのだが」
妖に敵愾を持った覚えすらも、一度もない。死神は、やけに神妙な面持ちで、深く頷く。
「実際にどぅこぅってぇ話じゃぁないさ。例えば、抜き身の刀を意味もなく、ぶんぶん振り回している人間がいたら、おっかないって、思うだろう」
「まぁ、そうだな」
善次郎なら不逞の輩を止める術も心得ている。だが、町人であれば確かに恐ろしいだろう。今は死神の言葉に素直に頷いた。
「妖は、そう力のある者ばかりじゃぁない。力がある者も、そりゃ少しはあるがねぇ。それに良くも悪くも純粋で正直だ。自分に刃を向けるかもしれない輩が近づきゃぁ、怖いし逃げるし、時には威喝も、するやぁね」
「なるほど、そうだったか」
社を廻る前に出会った白猫を思い出し、得心する。
「抑えるなり、使いこなすなりの術があればよいのだが。どうにも巧くいかず難儀しておる」
今までに試した法を顧みて、呻る。死神は善次郎と同じ思案顔で、顎を擦った。
「こればっかりは自分で見つけるしかないけどねぇ。なんてぇか、こう……心の内側で感じるように見る、てぇのか……」
突然、口を閉じた死神の眼が細まり、善次郎の後ろに向く。同時に、ぞくりとした嫌な気這いが背を伝った。
即座に振り返ると、体勢を整え、鯉口を切る。
(この悍ましい気は、狛犬にこびり付いていた瘴気と同じだ)
林の中に姿は見えない。だが、確実に「何か」がいる。気を研ぎ澄まし、正体を探る。
鯉口を切った刹那、頭の中に声が響いた。
『善次郎、良いか。目だけで見ようとするな。心の眼を開け』
幼かった善次郎に父が言い聞かせた言葉だ。昔のことで、すっかり忘れていた。
(心眼、か。父が儂に何度も説いていた教えだ。何故、今になって、あの言葉が……)
気の緩んだ隙に、「何か」が動いた。
「右か!」
低い体勢から一足飛び、抜刀する。刃が空を切る音が聞こえただけで、手応えがない。気這いは既に、反対側に移っている。
(他とは、違う。見えぬ妖は、今までいなかった)
瘴気や気這いにあてられても、姿が見えない妖や神には会った経験がない。言い得ぬ不気味な様子に、じんわりと嫌な汗が首筋を伝う。
ゆらりふわりと放縦に、気這いは動く。善次郎は目を閉じた。
(心眼。心の奥の眼で、見るのだ)
研ぎ澄ました気の総てを気這いに注ぐ。
瞼の裏側に、ぼんやりと青白い火が灯った。ゆらりと揺れる灯火を、じっくりと追う。
(まだだ、まだ……。焦るな。一刀で、必ず仕留める)
青白い火を逃がさぬように見据え、じりじりと間合いを詰める。ゆるりと動いていた灯火が、動きを止めた刹那。
(今だ!)
かっと両目を見開き、構えた刀を大きく横に薙ぎ払う。
しゅう、と湯気が上がるような音とともに、地面にごろりと大きな岩が転がった。
「これは、狛犬だぞ」
思わず驚嘆の声が零れた。地面に転がっているのは、首と胴が真二つに分かれた阿の狛犬だった。
(巡った三社の、どの狛犬とも違う。だが、纏う瘴気は同じだ)
確かめようと手を伸ばした善次郎を、後ろから死神が止めた。
「触れねぇほうがいい。ほら、見てみなぁよ」
眼の先の狛犬は、禍々しい瘴気に捲かれながら石の塊になり、やがて消え失せた。
「これは、いったい、どういうことだ」
愕然として、言葉を詰まらせた。不意に林の向こうから強い気を感じ、眼を凝らす。
「あの人影は、まさか……!」
駆け出した善次郎に気が付いた影は、林に潜み、姿をくらました。
消えた影を追う気には、なれなかった。顔から血の気が引いていく。
「ありゃ、人じゃぁねぇもんだと思うが、知り合いかぃ?」
死神の声が聞こえたが、善次郎は何も言えなかった。
(兄上の顔に、見えた。まさか、件に兄上が関わっておるのか。いや、まさか。兄上は既に他界しておる)
怨霊や悪霊。先ほど死神と交わした言葉を思い返し、どきりとする。
(兄上が、怨霊に……? そんなはずはない。そのような訳もない。あるはずがない!)
浮かんだ思考を吹き飛ばすように、ぶんぶんと強く首を振る。
何も言わず眺めていた死神が突然、善次郎の肩をぽんと、叩いた。
「あれが何に見えたか知らないが、決めつけぬがいいよ。ああいったもんは、相手に寄って姿形を変えるもんだからねぇ」
はっと息を飲んだ。確かに、そのような法で人心を惑わす妖もある。
(儂の心に付け入るなら、兄上の姿になっても、おかしくはない)
善次郎は大きく息を吸い、吐き出した。ぱん、と頬を叩き、活を入れる。
「礼を言う。危うく取り乱すところであった。お主にはまた、助けられたな」
死神は得意げに、にやりと笑った。
「それよりお前さん、さほど悩むことも、なさそうだねぇ。随分前から、心得ていたようだ」
言葉の意味が解せず、首を傾げる。死神が、狛犬の消えた跡を指さした。
「あれを斬ったんだ。使いこなす術は、しっかと持っているだろうさ」
はっとして、狛犬と対峙した時の自分を思い返した。
(確かに、青白い灯火が、見えた。心眼を開くとは、ああいった法、なのか)
実感は湧かない。だが、確かに手応えはあった。忘れていた父の声も聞こえた。
(あれは、明楽家の大事な教えだ。儂は何故、忘れていたのだ)
恥ずかしく、悔しい思いを噛み潰す。胸に手を当てて、静かに目を閉じた。
(父上の教え、二度と忘れませぬ)
しかと胸に刻むため、とんと胸を叩く。今の出来事をじっくりと心に焼き付けた。
「やれやれ、こいつぁ思ったより難事になりそうだねぇ。この界隈は俺の領分だってぇのになぁ」
ぽそりと呟く死神に眼を向ける。死神は、苦い顔で笑った。
「これも乗りかかった船ってねぇ。最後に一つだけ、教えてやるよぉ。お前さんにとって、良いことか悪いことか、わからないがねぇ」
勿体つける死神を、訝しい目で見据える。
「狛犬が壊れているのは、お前さんが巡った三社だけじゃぁないってぇ話だよ」
先ほどより低い声に不穏が混じる。善次郎の心の奥に、ざわりと嫌な感が擡げた。
「何? まだ他に狙われた社があるのか? 今、斬った狛犬と関わりがあるのか?」
矢継ぎ早に問い質し、迫る。死神が、にやりとした。
「こいつぁ聞くより見るが早かろうからねぇ。福徳稲荷に行ってみなぁよ。今より何か、わかるかもしれないからねぇ」
「日本橋のか? 他の三社に比べ、随分小さな社だが、何故……」
善次郎の言葉を遮り、死神がすっと後ろに下がった。
「おっと、朋輩が着きなすったようだ。随分と長く馬鹿咄をしちまったからねぇ、俺はそろそろ行くとするよぉ」
旋風に捲かれて、死神は音もなく消えた。
「待て、話はまだ……と。もう、いないか」
神出鬼没は、如何にも死神らしい。手元に残った竹筒を眺める。
「水を、返し忘れたな。だが奴なら、またどこかで会えそうだ」
自然と笑みが零れた。
(思い出した父の教えを今一度、深思しよう。忘れてはならぬ教えが、他にもあったはずだ)
気鬱の種を取り除く糸口を掴み、少しだけ心が軽くなった。
一方で、人でない影に兄を見た。死神の忠言に、一度は納得したが。
(あの顔は確かに兄上だった。気這いまでは感じ取れなんだが、贋物と決めつけて、良いのだろうか)
胸の騒つきが、どうにも治まらない。善次郎の気鬱が綺麗に晴れる訳には、いかなかった。
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ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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