潺の鈴 御庭番怪異禄

霞花怜

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第四章

第四章 怨霊の、正体見たり《一》

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 皓月堂を出た時には晴れていた空が、黒雲に覆われている。重く垂れ込めた雲の隙間に時折、稲光が走る。

 円空が空を見上げた。胸が悪くなるような禍々しい瘴気が充満していた。

「ここで間違いなさそうですね。怨霊は、姿を隠す気すら、ないようです」

 気這いを探りながら浅草方面に向かうつもりで歩き出した。

 だが、その必用もないほどに、黒雲は三社権現の真上を占得している。

「あたしが溜を出た時より、悪い気這いが増しているよ。まるで、漂っていたもんが全部ここに集まったみてぇだ」

 環がぞっとした声で、息を飲んだ。

 二人と並んで鳥居の前に立った善次郎も、喉を締めて息を飲み込んだ。気を尖らせるまでもない。境内から流れてくる瘴気が肌を刺して、痛いくらいだ。

(何という濃い瘴気だ。壊された獅子に纏わりついていた恨みの念と、同じだ。だが、恨みの深さは、あれの比ではない)

 鳥居を潜ろうと急く一足を出した善次郎を、円空が遮った。

「善次郎様、こちらをお持ちください」

 円空が、紐の通った一枚の木札を差し出した。受け取り見ると、護法神が彫られている。

「これほどの瘴気、善次郎様のお体に障ります。首から掛けていれば、多少の守りになるかと」

「多少どころか、大いに助かる。円空が得意とする護法神の守りであれば、尚更だ」

 木札の懸守を首に下げた時。雲間が光り、一際大きな雷が空を割った。轟く雷鳴が、頭の芯まで響く。

 善次郎は二人に眼を向けた。円空と環が頷く。

先陣を切った善次郎が鳥居を潜る。境内に飛び込んだ刹那、風が一変した。

(現から切り離された隙間にでも、落ちた気分だ。あの夜に囚われた幻影と似ておる)

 見える景色も、まるで様変わりしていた。

 どんよりと重く生温い風が、辺りに漂う。境内に人の姿は一人もない。まだ昼八つにもならない刻限だ。ここまで人気がないのは、あまりにも異様だ。

「神が御自ら、結界を張られているようです。人が入らぬよう、社全体を御隠しになったのでしょう」

 辺りの気這いを注意深く探りながら、円空が本殿に眼を向ける。最奥に鎮座する本殿の中央から神々しい光が漏れていた。

「なるほど、そうか。三社権現の御神は、怨霊に屈する気など、ないらしい。頼もしい限りだ」

 広い境内を奥に向かい、善次郎は走り出した。円空と環が後に続く。

 三社権現の狛犬は、鳥居と本殿のちょうど真ん中に鎮座している。社を囲むえんじゅの木々が、狛犬に陰を落とす。

(狛犬も、向かいの獅子も、無事か)

 地面に伸びる影は獅子の姿を保っている。気這いからも、壊された形跡は感じない。

 あと一歩、善次郎が獅子に近づいた。落雷が足下を掠めるのと、環が善次郎の腕を引いたのは、ほぼ同時だった。

「善次郎様、お怪我は⁈」

「大事ねぇ。それよりも、あれを見よ」

 善次郎が指さした先には、禍々しい瘴気の塊がうごめいていた。

『一人殺せば、また一人、また一人と。紀州の犬は次から次へと湧いて出る。鬱陶しい。本に鬱陶しい』

 地の底を這う低い呻きは、強い焦心を孕んでいる。

『殺しても尚、死霊と化し儂を縛る忌々しい犬を、ようやく始末したばかりが。まだ邪魔をするか、飼い犬風情が小癪な!』

 怒号が風を震わせる。旋風せんぷうに飛ばされそうになるのを、踏ん張って耐える。 

「死霊を……? まさか、兄上を……」

 善次郎の呟きに、環の纏う気が変わった。隠しきれない強い怒りを、びりびりと感じる。

「環、早まるな。迂闊に手を出せば、飲まれる」

 ぎりりと歯軋りし、環が飛び出しそうになる足に力を籠める。足下の敷石が罅割れた。

『どうした? この儂が、憎かろう。ここで儂を斬れば、総て終わるぞ。それとも、獅子の御霊を大人しく寄越すか。荒魂と解合えば、大勢を殺せような。薄汚い犬のみならず、大岡も、儂を愚弄した無能どもも!』

 旋風が強さを増す。瘴気が大きくうねり、形を変え始めた。

(大岡とは、出雲守様か? 御庭番のみでなく、御側御用取次の出雲守様にまで恨みを抱く怨霊。いったい、何者だ)

 善次郎の頭上に、雷鳴が轟き走った。咄嗟に横に飛び、落雷を退ける。敷石が黒く焼け焦げた。

「余計な思案は、命取りか」

善次郎は眼を閉じた。

(あの瘴気は、三つの社の獅子に膠着していた恨みの念と同じだ。儂を幻影に引き込んだ輩で間違いない。だが、まだ何か、いる)

 瞑った瞼の裏に、赤い灯火が浮かんだ。

 薄らと目を開く。大きな瘴気の塊から、赤い炎を纏った獅子が、にゅるりと飛び出した。

 自らを炎に包んだ赤い獅子が、善次郎ら三人を目掛けて駆け出した。

「あの獅子が、荒魂の塊だ。二人とも、油断するな!」

 叫びながら抜刀する善次郎の脇をすり抜け、環が飛び出した。

「これ以上、狛犬を壊されて、堪るか!」

 自分の背丈ほどもある金棒を振り上げ、環が獅子を殴りつける。がつん、と大きな音がして、金棒が弾かれた。獅子が環に向かい咆哮を上げる。衝戟しょうげきで、環の体が吹っ飛んだ。

「この、化け物獅子が! なんてぇ硬さだ」

 空中で、ひらりと身を翻し、降下る。金棒を持つ環の手が、小刻みに震えていた。

「力一杯殴ったが、傷一つ付きやしねぇ。こっちの手が痺れちまう」

 獅子を吐き出した瘴気が、不気味に笑う。うねる塊だった瘴気がぐにゃりと歪み、人の形を縁取った。顔の見えない怨霊が、下卑た笑みを漏らす。

『無能が何人集まろうと、無能じゃのぅ。お前の兄、宇八郎も無能じゃ。獅子に殺されただけでは飽き足らず、死霊となっても、まだ儂に始末されに、のこのことやって来きおった。弟も同じよのぅ。儂に殺されに、わざわざやって来た』

 高笑いする怨霊を睨み据える。柄を握る手に力が籠り、怒りで切っ先が震えた。善次郎の前に陣取る環と円空が殺気立ち、体が前に傾く。

「易い張発に乗るな。まずはあの獅子を斬り、御霊を解き放つ」

 怒りで、声まで震えた。善次郎の声音に、今にも飛び出しそうだった二人が足を止め、構えを落ち着ける。

 善次郎の眼の先が獅子に向く。怨霊が笑いを収め、声を低めた。

『つまらぬが、まぁ、良い。もがき苦しみ殺してくれと懇願するほどの痛みと恐怖。その苦しみを味わわせたいのは、うぬではない。さっさと逝ね』

 怨霊が善次郎を指さす。それを合図に、獅子が善次郎に飛び込んだ。

「円空!」

 叫んで走り出す。頷いた円空が、善次郎の後ろに回り込んだ。

(林の中で狛犬の妖を斬ったように。あの時と同じ法なら、斬れる)

 気を研ぎ澄まし、刀を下段に構える。地を蹴って飛び上がった善次郎の体を、円空の手が押し上げた。

 円空の神速を借りた善次郎の体が加速して、風より早く獅子の懐に入った。下がった切っ先を上げ、獅子の口に押し当てる。そのまま滑らせるように横に撫で斬る。

 獅子の体が、口から真っ二つに裂けた。

「このまま一太刀で斬り捨てる!」

 獅子の後ろに立つ怨霊が、片笑んで見えた。刹那、がつん、と強い衝戟に刀が止まった。薙ぎ払おうとしても、刀は微動だにしない。

 胴まで裂けた獅子の体を凝視する。腹の辺りに、青い灯火が見えた。刀は灯火に妨げられ、動かない。

(赤い恨みの念とは、違う。この灯火の気は、福徳稲荷の狛犬の涙と、同じだ)

 咄嗟に刀を引こうとした。だが、青い気に絡まって、刀が抜けない。

「善次郎様、後ろです!」

 環の叫び声に、後ろを振り向く。斬り裂いたはずの獅子の口が、ぐにゃりぐにゃりと動き、見る間に元の姿に戻った。

 獅子が、首を真後ろに向けた。善次郎に向かい、大きく口を開ける。

「あの姿は、さながらぬえだ。首と尾が伸びます。躱してください」

 走りながら円空が叫ぶ。善次郎は刀を手放そうとした。しかし何故か、柄から手が離れない。

(まるで、張り付いて。いや、引き寄せられておるのか)

 刀ごと引き込もうとでもしているのか、善次郎は身動きが取れない。

 鋭さを増して襲い来る尾を、体を躱して避ける。だが、尾は軌道を変えて善次郎を目掛け飛んでくる。

 ひらり、と目の前に黒い布が舞った。円空の纏う布が壁となり、尾の動きを止める。布は尾に絡まって、完全に動きを止めた。

「環、頭を潰せ」

 息つく間もなく、円空が叫ぶ。獅子の口から飛び出る鋭い牙が、善次郎に迫る。

「わかっていらぁ!」

 金棒を振り上げた環が既に走り込んで、獅子の頭を目掛け飛び上がった。同時に、轟音を響かせた落雷が、環の真上に落ちた。

「ぎゃあぁ!」

 悲鳴を上げた環の体が、その場に落ちる。ばったりと倒れ込んだまま、動かなくなった。

「環! 待っておれ。今、助ける!」

 刀を引き抜こうと力を籠めるが、動かない。手を離そうにも、ぴたりと吸い付いて、離れない。

 黒い布を脱ぎ去れば、円空の力が途切れ、尾が放たれてしまう。身動きの取れない円空が、背に隠した鉈を引き抜く。その腕を、別の尾が絡み止めた。

「尾が、もう一本!」

 獅子の体が過度に変体する。裂けんばかりの大きな口が、善次郎の頭に食らいつこうとした、刹那。

 眼界が、真っ白になった。

 肉と骨を断つ微かな音が聞こえ、白刃が振り下ろされる。どさり、と鈍い音がして、獅子の首が地に転がった。

善次郎は、ゆっくりと目を上げた。

「……兄上……」

 幻影から放たれた時と同じ真っ白の姿。白刃を下げた宇八郎が、背を向けて、善次郎の目の前に立っていた。

 すっと、気が抜けたが如く、手から柄が離れた。善次郎は柄を握り直し、刀身を獅子の体から引き抜く。

 円空を拘束していた尾も消えた。獅子の体が、どさりと地面に倒れ込んだ。

(間違いない、兄上だ。兄上の死霊は消されてなど、いなかった)

 宇八郎に向かい、手を伸ばす。途端に、後ろに立つ怨霊が、瘴気を噴き出した。

込み上げる想いを、ぐっと飲み込み、善次郎は伸ばした手を引いた。

『今もって現におったか、宇八郎。殺され足りぬか。儂も殺したりぬ。何度でも生殺しにしてくれるわ。決して許しはせぬ。儂から総てを奪った己を、許しはせぬぞ!』

 稲光が幾重にも走り、雷鳴が怒号のように轟く。人の形をした赤黒い瘴気が薄れ、怨霊の顔が徐々に鮮明になる。やがて、はっきりと人の姿になった。

 吊り上がった眼と大きく裂けた口が怒りに震える。まるで人とは似つかない形相の怨霊が身に付けているのは、黒い裃だ。その家紋に、強直した。

「丸に釘抜きの紋。まさか、あの怨霊は……」

 善次郎は目を見開き、憮然となった。頭に浮かび上がった名を口にするのを、躊躇う。

『松平左近将監乗邑』

 隣に立つ宇八郎が、はっきりと言い放った。

『あれに生前の誇りはない。恨みに取り憑かれ、我を失い、怨霊に身を落とした』

 宇八郎に眼を向ける。姿は総じて真っ白だが、生前と同じ顔をした宇八郎が、乗邑の怨霊を見据える。善次郎は、心の奥で安堵した。

 聞きたい話は山とある。だが今は、目の前の怨霊だ。

善次郎も宇八郎と同じく乗邑に眼を向け、刀を構えた。

 二人に刀を突きつけられ、乗邑は後退った。

『ふっ、はは! 犬が何頭も群れようが同じこと。獅子の荒魂を本復し、必ずや息の根を止めてくれる。無能な小便公方など儂は認めぬ。三河より徳川宗家に仕えた誇り高き大給松平家の。その宗家たるこの儂を貶めた者どもの総てに、思い知らせてくれるわ!』

 獅子の体が、ふわりと空に浮く。辺りの風に溶けるように、すぅと消えた。

 同じように、乗邑の体が透けていく。

「待て! このまま取り逃がすと思うか!」

 駆け出し、乗邑の体に一太刀を浴びせる。怨霊の体が歪んだが、すぐに元に戻った。

『浅い、と教えてやったろう。飼い犬の剣など、儂には届かぬ。何度も同じ言葉を吐かすな、下賤。焦らず待っておれ。直ぐに殺しに来ようぞ』

 不穏な言葉だけを残し、乗邑は風に消えた。

「宇八郎様のお姿が! 宇八郎様、まだ、逝っちゃ駄目だ!」

 焼け焦げた体で何とか起き上がった環が、悲鳴の混じった声で叫んだ。

 振り返ると、宇八郎の体も透けている。善次郎は宇八郎に駆け寄った。

「兄上、お待ちくだされ。まだ、お聞きしとう話が。まだ、どうか!」

 再び出会えたのに、宇八郎からは大事な話を、まだ何も聞いていない。

『三社権現様の神力を借り、形を成したが、もう、保たぬようじゃ……善次郎……世話を、かける、な……』

 宇八郎が薄く笑んだ。どくん、と善次郎の胸の奥が、嫌な音を立てる。

「三社権現の神々様、どうか兄上を、もうしばし、現に留めてくだされ!」

体が薄霧に包まれた宇八郎が、ゆっくりと目を閉じた。体の端から白い粒が、さらさらと流れ始める。

『……獅子……の、狛犬を……お鴇に……鈴を……』

 声が所々途切れて、うまく聞き取れない。善次郎は走り、懸命に手を伸ばす。

『……頼んだ』

 宇八郎の体の総てが白い粒になり、弾けた。辺りに散った白光が、きらきらと風に流れる。

 善次郎の手は、届かなかった。
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