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第四章
第四章 怨霊の、正体見たり《一》
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皓月堂を出た時には晴れていた空が、黒雲に覆われている。重く垂れ込めた雲の隙間に時折、稲光が走る。
円空が空を見上げた。胸が悪くなるような禍々しい瘴気が充満していた。
「ここで間違いなさそうですね。怨霊は、姿を隠す気すら、ないようです」
気這いを探りながら浅草方面に向かうつもりで歩き出した。
だが、その必用もないほどに、黒雲は三社権現の真上を占得している。
「あたしが溜を出た時より、悪い気這いが増しているよ。まるで、漂っていたもんが全部ここに集まったみてぇだ」
環がぞっとした声で、息を飲んだ。
二人と並んで鳥居の前に立った善次郎も、喉を締めて息を飲み込んだ。気を尖らせるまでもない。境内から流れてくる瘴気が肌を刺して、痛いくらいだ。
(何という濃い瘴気だ。壊された獅子に纏わりついていた恨みの念と、同じだ。だが、恨みの深さは、あれの比ではない)
鳥居を潜ろうと急く一足を出した善次郎を、円空が遮った。
「善次郎様、こちらをお持ちください」
円空が、紐の通った一枚の木札を差し出した。受け取り見ると、護法神が彫られている。
「これほどの瘴気、善次郎様のお体に障ります。首から掛けていれば、多少の守りになるかと」
「多少どころか、大いに助かる。円空が得意とする護法神の守りであれば、尚更だ」
木札の懸守を首に下げた時。雲間が光り、一際大きな雷が空を割った。轟く雷鳴が、頭の芯まで響く。
善次郎は二人に眼を向けた。円空と環が頷く。
先陣を切った善次郎が鳥居を潜る。境内に飛び込んだ刹那、風が一変した。
(現から切り離された隙間にでも、落ちた気分だ。あの夜に囚われた幻影と似ておる)
見える景色も、まるで様変わりしていた。
どんよりと重く生温い風が、辺りに漂う。境内に人の姿は一人もない。まだ昼八つにもならない刻限だ。ここまで人気がないのは、あまりにも異様だ。
「神が御自ら、結界を張られているようです。人が入らぬよう、社全体を御隠しになったのでしょう」
辺りの気這いを注意深く探りながら、円空が本殿に眼を向ける。最奥に鎮座する本殿の中央から神々しい光が漏れていた。
「なるほど、そうか。三社権現の御神は、怨霊に屈する気など、ないらしい。頼もしい限りだ」
広い境内を奥に向かい、善次郎は走り出した。円空と環が後に続く。
三社権現の狛犬は、鳥居と本殿のちょうど真ん中に鎮座している。社を囲む槐の木々が、狛犬に陰を落とす。
(狛犬も、向かいの獅子も、無事か)
地面に伸びる影は獅子の姿を保っている。気這いからも、壊された形跡は感じない。
あと一歩、善次郎が獅子に近づいた。落雷が足下を掠めるのと、環が善次郎の腕を引いたのは、ほぼ同時だった。
「善次郎様、お怪我は⁈」
「大事ねぇ。それよりも、あれを見よ」
善次郎が指さした先には、禍々しい瘴気の塊が蠢いていた。
『一人殺せば、また一人、また一人と。紀州の犬は次から次へと湧いて出る。鬱陶しい。本に鬱陶しい』
地の底を這う低い呻きは、強い焦心を孕んでいる。
『殺しても尚、死霊と化し儂を縛る忌々しい犬を、ようやく始末したばかりが。まだ邪魔をするか、飼い犬風情が小癪な!』
怒号が風を震わせる。旋風に飛ばされそうになるのを、踏ん張って耐える。
「死霊を……? まさか、兄上を……」
善次郎の呟きに、環の纏う気が変わった。隠しきれない強い怒りを、びりびりと感じる。
「環、早まるな。迂闊に手を出せば、飲まれる」
ぎりりと歯軋りし、環が飛び出しそうになる足に力を籠める。足下の敷石が罅割れた。
『どうした? この儂が、憎かろう。ここで儂を斬れば、総て終わるぞ。それとも、獅子の御霊を大人しく寄越すか。荒魂と解合えば、大勢を殺せような。薄汚い犬のみならず、大岡も、儂を愚弄した無能どもも!』
旋風が強さを増す。瘴気が大きくうねり、形を変え始めた。
(大岡とは、出雲守様か? 御庭番のみでなく、御側御用取次の出雲守様にまで恨みを抱く怨霊。いったい、何者だ)
善次郎の頭上に、雷鳴が轟き走った。咄嗟に横に飛び、落雷を退ける。敷石が黒く焼け焦げた。
「余計な思案は、命取りか」
善次郎は眼を閉じた。
(あの瘴気は、三つの社の獅子に膠着していた恨みの念と同じだ。儂を幻影に引き込んだ輩で間違いない。だが、まだ何か、いる)
瞑った瞼の裏に、赤い灯火が浮かんだ。
薄らと目を開く。大きな瘴気の塊から、赤い炎を纏った獅子が、にゅるりと飛び出した。
自らを炎に包んだ赤い獅子が、善次郎ら三人を目掛けて駆け出した。
「あの獅子が、荒魂の塊だ。二人とも、油断するな!」
叫びながら抜刀する善次郎の脇をすり抜け、環が飛び出した。
「これ以上、狛犬を壊されて、堪るか!」
自分の背丈ほどもある金棒を振り上げ、環が獅子を殴りつける。がつん、と大きな音がして、金棒が弾かれた。獅子が環に向かい咆哮を上げる。衝戟で、環の体が吹っ飛んだ。
「この、化け物獅子が! なんてぇ硬さだ」
空中で、ひらりと身を翻し、降下る。金棒を持つ環の手が、小刻みに震えていた。
「力一杯殴ったが、傷一つ付きやしねぇ。こっちの手が痺れちまう」
獅子を吐き出した瘴気が、不気味に笑う。うねる塊だった瘴気がぐにゃりと歪み、人の形を縁取った。顔の見えない怨霊が、下卑た笑みを漏らす。
『無能が何人集まろうと、無能じゃのぅ。お前の兄、宇八郎も無能じゃ。獅子に殺されただけでは飽き足らず、死霊となっても、まだ儂に始末されに、のこのことやって来きおった。弟も同じよのぅ。儂に殺されに、わざわざやって来た』
高笑いする怨霊を睨み据える。柄を握る手に力が籠り、怒りで切っ先が震えた。善次郎の前に陣取る環と円空が殺気立ち、体が前に傾く。
「易い張発に乗るな。まずはあの獅子を斬り、御霊を解き放つ」
怒りで、声まで震えた。善次郎の声音に、今にも飛び出しそうだった二人が足を止め、構えを落ち着ける。
善次郎の眼の先が獅子に向く。怨霊が笑いを収め、声を低めた。
『つまらぬが、まぁ、良い。もがき苦しみ殺してくれと懇願するほどの痛みと恐怖。その苦しみを味わわせたいのは、己ではない。さっさと逝ね』
怨霊が善次郎を指さす。それを合図に、獅子が善次郎に飛び込んだ。
「円空!」
叫んで走り出す。頷いた円空が、善次郎の後ろに回り込んだ。
(林の中で狛犬の妖を斬ったように。あの時と同じ法なら、斬れる)
気を研ぎ澄まし、刀を下段に構える。地を蹴って飛び上がった善次郎の体を、円空の手が押し上げた。
円空の神速を借りた善次郎の体が加速して、風より早く獅子の懐に入った。下がった切っ先を上げ、獅子の口に押し当てる。そのまま滑らせるように横に撫で斬る。
獅子の体が、口から真っ二つに裂けた。
「このまま一太刀で斬り捨てる!」
獅子の後ろに立つ怨霊が、片笑んで見えた。刹那、がつん、と強い衝戟に刀が止まった。薙ぎ払おうとしても、刀は微動だにしない。
胴まで裂けた獅子の体を凝視する。腹の辺りに、青い灯火が見えた。刀は灯火に妨げられ、動かない。
(赤い恨みの念とは、違う。この灯火の気は、福徳稲荷の狛犬の涙と、同じだ)
咄嗟に刀を引こうとした。だが、青い気に絡まって、刀が抜けない。
「善次郎様、後ろです!」
環の叫び声に、後ろを振り向く。斬り裂いたはずの獅子の口が、ぐにゃりぐにゃりと動き、見る間に元の姿に戻った。
獅子が、首を真後ろに向けた。善次郎に向かい、大きく口を開ける。
「あの姿は、さながら鵺だ。首と尾が伸びます。躱してください」
走りながら円空が叫ぶ。善次郎は刀を手放そうとした。しかし何故か、柄から手が離れない。
(まるで、張り付いて。いや、引き寄せられておるのか)
刀ごと引き込もうとでもしているのか、善次郎は身動きが取れない。
鋭さを増して襲い来る尾を、体を躱して避ける。だが、尾は軌道を変えて善次郎を目掛け飛んでくる。
ひらり、と目の前に黒い布が舞った。円空の纏う布が壁となり、尾の動きを止める。布は尾に絡まって、完全に動きを止めた。
「環、頭を潰せ」
息つく間もなく、円空が叫ぶ。獅子の口から飛び出る鋭い牙が、善次郎に迫る。
「わかっていらぁ!」
金棒を振り上げた環が既に走り込んで、獅子の頭を目掛け飛び上がった。同時に、轟音を響かせた落雷が、環の真上に落ちた。
「ぎゃあぁ!」
悲鳴を上げた環の体が、その場に落ちる。ばったりと倒れ込んだまま、動かなくなった。
「環! 待っておれ。今、助ける!」
刀を引き抜こうと力を籠めるが、動かない。手を離そうにも、ぴたりと吸い付いて、離れない。
黒い布を脱ぎ去れば、円空の力が途切れ、尾が放たれてしまう。身動きの取れない円空が、背に隠した鉈を引き抜く。その腕を、別の尾が絡み止めた。
「尾が、もう一本!」
獅子の体が過度に変体する。裂けんばかりの大きな口が、善次郎の頭に食らいつこうとした、刹那。
眼界が、真っ白になった。
肉と骨を断つ微かな音が聞こえ、白刃が振り下ろされる。どさり、と鈍い音がして、獅子の首が地に転がった。
善次郎は、ゆっくりと目を上げた。
「……兄上……」
幻影から放たれた時と同じ真っ白の姿。白刃を下げた宇八郎が、背を向けて、善次郎の目の前に立っていた。
すっと、気が抜けたが如く、手から柄が離れた。善次郎は柄を握り直し、刀身を獅子の体から引き抜く。
円空を拘束していた尾も消えた。獅子の体が、どさりと地面に倒れ込んだ。
(間違いない、兄上だ。兄上の死霊は消されてなど、いなかった)
宇八郎に向かい、手を伸ばす。途端に、後ろに立つ怨霊が、瘴気を噴き出した。
込み上げる想いを、ぐっと飲み込み、善次郎は伸ばした手を引いた。
『今もって現におったか、宇八郎。殺され足りぬか。儂も殺したりぬ。何度でも生殺しにしてくれるわ。決して許しはせぬ。儂から総てを奪った己を、許しはせぬぞ!』
稲光が幾重にも走り、雷鳴が怒号のように轟く。人の形をした赤黒い瘴気が薄れ、怨霊の顔が徐々に鮮明になる。やがて、はっきりと人の姿になった。
吊り上がった眼と大きく裂けた口が怒りに震える。まるで人とは似つかない形相の怨霊が身に付けているのは、黒い裃だ。その家紋に、強直した。
「丸に釘抜きの紋。まさか、あの怨霊は……」
善次郎は目を見開き、憮然となった。頭に浮かび上がった名を口にするのを、躊躇う。
『松平左近将監乗邑』
隣に立つ宇八郎が、はっきりと言い放った。
『あれに生前の誇りはない。恨みに取り憑かれ、我を失い、怨霊に身を落とした』
宇八郎に眼を向ける。姿は総じて真っ白だが、生前と同じ顔をした宇八郎が、乗邑の怨霊を見据える。善次郎は、心の奥で安堵した。
聞きたい話は山とある。だが今は、目の前の怨霊だ。
善次郎も宇八郎と同じく乗邑に眼を向け、刀を構えた。
二人に刀を突きつけられ、乗邑は後退った。
『ふっ、はは! 犬が何頭も群れようが同じこと。獅子の荒魂を本復し、必ずや息の根を止めてくれる。無能な小便公方など儂は認めぬ。三河より徳川宗家に仕えた誇り高き大給松平家の。その宗家たるこの儂を貶めた者どもの総てに、思い知らせてくれるわ!』
獅子の体が、ふわりと空に浮く。辺りの風に溶けるように、すぅと消えた。
同じように、乗邑の体が透けていく。
「待て! このまま取り逃がすと思うか!」
駆け出し、乗邑の体に一太刀を浴びせる。怨霊の体が歪んだが、すぐに元に戻った。
『浅い、と教えてやったろう。飼い犬の剣など、儂には届かぬ。何度も同じ言葉を吐かすな、下賤。焦らず待っておれ。直ぐに殺しに来ようぞ』
不穏な言葉だけを残し、乗邑は風に消えた。
「宇八郎様のお姿が! 宇八郎様、まだ、逝っちゃ駄目だ!」
焼け焦げた体で何とか起き上がった環が、悲鳴の混じった声で叫んだ。
振り返ると、宇八郎の体も透けている。善次郎は宇八郎に駆け寄った。
「兄上、お待ちくだされ。まだ、お聞きしとう話が。まだ、どうか!」
再び出会えたのに、宇八郎からは大事な話を、まだ何も聞いていない。
『三社権現様の神力を借り、形を成したが、もう、保たぬようじゃ……善次郎……世話を、かける、な……』
宇八郎が薄く笑んだ。どくん、と善次郎の胸の奥が、嫌な音を立てる。
「三社権現の神々様、どうか兄上を、もうしばし、現に留めてくだされ!」
体が薄霧に包まれた宇八郎が、ゆっくりと目を閉じた。体の端から白い粒が、さらさらと流れ始める。
『……獅子……の、狛犬を……お鴇に……鈴を……』
声が所々途切れて、うまく聞き取れない。善次郎は走り、懸命に手を伸ばす。
『……頼んだ』
宇八郎の体の総てが白い粒になり、弾けた。辺りに散った白光が、きらきらと風に流れる。
善次郎の手は、届かなかった。
円空が空を見上げた。胸が悪くなるような禍々しい瘴気が充満していた。
「ここで間違いなさそうですね。怨霊は、姿を隠す気すら、ないようです」
気這いを探りながら浅草方面に向かうつもりで歩き出した。
だが、その必用もないほどに、黒雲は三社権現の真上を占得している。
「あたしが溜を出た時より、悪い気這いが増しているよ。まるで、漂っていたもんが全部ここに集まったみてぇだ」
環がぞっとした声で、息を飲んだ。
二人と並んで鳥居の前に立った善次郎も、喉を締めて息を飲み込んだ。気を尖らせるまでもない。境内から流れてくる瘴気が肌を刺して、痛いくらいだ。
(何という濃い瘴気だ。壊された獅子に纏わりついていた恨みの念と、同じだ。だが、恨みの深さは、あれの比ではない)
鳥居を潜ろうと急く一足を出した善次郎を、円空が遮った。
「善次郎様、こちらをお持ちください」
円空が、紐の通った一枚の木札を差し出した。受け取り見ると、護法神が彫られている。
「これほどの瘴気、善次郎様のお体に障ります。首から掛けていれば、多少の守りになるかと」
「多少どころか、大いに助かる。円空が得意とする護法神の守りであれば、尚更だ」
木札の懸守を首に下げた時。雲間が光り、一際大きな雷が空を割った。轟く雷鳴が、頭の芯まで響く。
善次郎は二人に眼を向けた。円空と環が頷く。
先陣を切った善次郎が鳥居を潜る。境内に飛び込んだ刹那、風が一変した。
(現から切り離された隙間にでも、落ちた気分だ。あの夜に囚われた幻影と似ておる)
見える景色も、まるで様変わりしていた。
どんよりと重く生温い風が、辺りに漂う。境内に人の姿は一人もない。まだ昼八つにもならない刻限だ。ここまで人気がないのは、あまりにも異様だ。
「神が御自ら、結界を張られているようです。人が入らぬよう、社全体を御隠しになったのでしょう」
辺りの気這いを注意深く探りながら、円空が本殿に眼を向ける。最奥に鎮座する本殿の中央から神々しい光が漏れていた。
「なるほど、そうか。三社権現の御神は、怨霊に屈する気など、ないらしい。頼もしい限りだ」
広い境内を奥に向かい、善次郎は走り出した。円空と環が後に続く。
三社権現の狛犬は、鳥居と本殿のちょうど真ん中に鎮座している。社を囲む槐の木々が、狛犬に陰を落とす。
(狛犬も、向かいの獅子も、無事か)
地面に伸びる影は獅子の姿を保っている。気這いからも、壊された形跡は感じない。
あと一歩、善次郎が獅子に近づいた。落雷が足下を掠めるのと、環が善次郎の腕を引いたのは、ほぼ同時だった。
「善次郎様、お怪我は⁈」
「大事ねぇ。それよりも、あれを見よ」
善次郎が指さした先には、禍々しい瘴気の塊が蠢いていた。
『一人殺せば、また一人、また一人と。紀州の犬は次から次へと湧いて出る。鬱陶しい。本に鬱陶しい』
地の底を這う低い呻きは、強い焦心を孕んでいる。
『殺しても尚、死霊と化し儂を縛る忌々しい犬を、ようやく始末したばかりが。まだ邪魔をするか、飼い犬風情が小癪な!』
怒号が風を震わせる。旋風に飛ばされそうになるのを、踏ん張って耐える。
「死霊を……? まさか、兄上を……」
善次郎の呟きに、環の纏う気が変わった。隠しきれない強い怒りを、びりびりと感じる。
「環、早まるな。迂闊に手を出せば、飲まれる」
ぎりりと歯軋りし、環が飛び出しそうになる足に力を籠める。足下の敷石が罅割れた。
『どうした? この儂が、憎かろう。ここで儂を斬れば、総て終わるぞ。それとも、獅子の御霊を大人しく寄越すか。荒魂と解合えば、大勢を殺せような。薄汚い犬のみならず、大岡も、儂を愚弄した無能どもも!』
旋風が強さを増す。瘴気が大きくうねり、形を変え始めた。
(大岡とは、出雲守様か? 御庭番のみでなく、御側御用取次の出雲守様にまで恨みを抱く怨霊。いったい、何者だ)
善次郎の頭上に、雷鳴が轟き走った。咄嗟に横に飛び、落雷を退ける。敷石が黒く焼け焦げた。
「余計な思案は、命取りか」
善次郎は眼を閉じた。
(あの瘴気は、三つの社の獅子に膠着していた恨みの念と同じだ。儂を幻影に引き込んだ輩で間違いない。だが、まだ何か、いる)
瞑った瞼の裏に、赤い灯火が浮かんだ。
薄らと目を開く。大きな瘴気の塊から、赤い炎を纏った獅子が、にゅるりと飛び出した。
自らを炎に包んだ赤い獅子が、善次郎ら三人を目掛けて駆け出した。
「あの獅子が、荒魂の塊だ。二人とも、油断するな!」
叫びながら抜刀する善次郎の脇をすり抜け、環が飛び出した。
「これ以上、狛犬を壊されて、堪るか!」
自分の背丈ほどもある金棒を振り上げ、環が獅子を殴りつける。がつん、と大きな音がして、金棒が弾かれた。獅子が環に向かい咆哮を上げる。衝戟で、環の体が吹っ飛んだ。
「この、化け物獅子が! なんてぇ硬さだ」
空中で、ひらりと身を翻し、降下る。金棒を持つ環の手が、小刻みに震えていた。
「力一杯殴ったが、傷一つ付きやしねぇ。こっちの手が痺れちまう」
獅子を吐き出した瘴気が、不気味に笑う。うねる塊だった瘴気がぐにゃりと歪み、人の形を縁取った。顔の見えない怨霊が、下卑た笑みを漏らす。
『無能が何人集まろうと、無能じゃのぅ。お前の兄、宇八郎も無能じゃ。獅子に殺されただけでは飽き足らず、死霊となっても、まだ儂に始末されに、のこのことやって来きおった。弟も同じよのぅ。儂に殺されに、わざわざやって来た』
高笑いする怨霊を睨み据える。柄を握る手に力が籠り、怒りで切っ先が震えた。善次郎の前に陣取る環と円空が殺気立ち、体が前に傾く。
「易い張発に乗るな。まずはあの獅子を斬り、御霊を解き放つ」
怒りで、声まで震えた。善次郎の声音に、今にも飛び出しそうだった二人が足を止め、構えを落ち着ける。
善次郎の眼の先が獅子に向く。怨霊が笑いを収め、声を低めた。
『つまらぬが、まぁ、良い。もがき苦しみ殺してくれと懇願するほどの痛みと恐怖。その苦しみを味わわせたいのは、己ではない。さっさと逝ね』
怨霊が善次郎を指さす。それを合図に、獅子が善次郎に飛び込んだ。
「円空!」
叫んで走り出す。頷いた円空が、善次郎の後ろに回り込んだ。
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気を研ぎ澄まし、刀を下段に構える。地を蹴って飛び上がった善次郎の体を、円空の手が押し上げた。
円空の神速を借りた善次郎の体が加速して、風より早く獅子の懐に入った。下がった切っ先を上げ、獅子の口に押し当てる。そのまま滑らせるように横に撫で斬る。
獅子の体が、口から真っ二つに裂けた。
「このまま一太刀で斬り捨てる!」
獅子の後ろに立つ怨霊が、片笑んで見えた。刹那、がつん、と強い衝戟に刀が止まった。薙ぎ払おうとしても、刀は微動だにしない。
胴まで裂けた獅子の体を凝視する。腹の辺りに、青い灯火が見えた。刀は灯火に妨げられ、動かない。
(赤い恨みの念とは、違う。この灯火の気は、福徳稲荷の狛犬の涙と、同じだ)
咄嗟に刀を引こうとした。だが、青い気に絡まって、刀が抜けない。
「善次郎様、後ろです!」
環の叫び声に、後ろを振り向く。斬り裂いたはずの獅子の口が、ぐにゃりぐにゃりと動き、見る間に元の姿に戻った。
獅子が、首を真後ろに向けた。善次郎に向かい、大きく口を開ける。
「あの姿は、さながら鵺だ。首と尾が伸びます。躱してください」
走りながら円空が叫ぶ。善次郎は刀を手放そうとした。しかし何故か、柄から手が離れない。
(まるで、張り付いて。いや、引き寄せられておるのか)
刀ごと引き込もうとでもしているのか、善次郎は身動きが取れない。
鋭さを増して襲い来る尾を、体を躱して避ける。だが、尾は軌道を変えて善次郎を目掛け飛んでくる。
ひらり、と目の前に黒い布が舞った。円空の纏う布が壁となり、尾の動きを止める。布は尾に絡まって、完全に動きを止めた。
「環、頭を潰せ」
息つく間もなく、円空が叫ぶ。獅子の口から飛び出る鋭い牙が、善次郎に迫る。
「わかっていらぁ!」
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「ぎゃあぁ!」
悲鳴を上げた環の体が、その場に落ちる。ばったりと倒れ込んだまま、動かなくなった。
「環! 待っておれ。今、助ける!」
刀を引き抜こうと力を籠めるが、動かない。手を離そうにも、ぴたりと吸い付いて、離れない。
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「尾が、もう一本!」
獅子の体が過度に変体する。裂けんばかりの大きな口が、善次郎の頭に食らいつこうとした、刹那。
眼界が、真っ白になった。
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善次郎は、ゆっくりと目を上げた。
「……兄上……」
幻影から放たれた時と同じ真っ白の姿。白刃を下げた宇八郎が、背を向けて、善次郎の目の前に立っていた。
すっと、気が抜けたが如く、手から柄が離れた。善次郎は柄を握り直し、刀身を獅子の体から引き抜く。
円空を拘束していた尾も消えた。獅子の体が、どさりと地面に倒れ込んだ。
(間違いない、兄上だ。兄上の死霊は消されてなど、いなかった)
宇八郎に向かい、手を伸ばす。途端に、後ろに立つ怨霊が、瘴気を噴き出した。
込み上げる想いを、ぐっと飲み込み、善次郎は伸ばした手を引いた。
『今もって現におったか、宇八郎。殺され足りぬか。儂も殺したりぬ。何度でも生殺しにしてくれるわ。決して許しはせぬ。儂から総てを奪った己を、許しはせぬぞ!』
稲光が幾重にも走り、雷鳴が怒号のように轟く。人の形をした赤黒い瘴気が薄れ、怨霊の顔が徐々に鮮明になる。やがて、はっきりと人の姿になった。
吊り上がった眼と大きく裂けた口が怒りに震える。まるで人とは似つかない形相の怨霊が身に付けているのは、黒い裃だ。その家紋に、強直した。
「丸に釘抜きの紋。まさか、あの怨霊は……」
善次郎は目を見開き、憮然となった。頭に浮かび上がった名を口にするのを、躊躇う。
『松平左近将監乗邑』
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『あれに生前の誇りはない。恨みに取り憑かれ、我を失い、怨霊に身を落とした』
宇八郎に眼を向ける。姿は総じて真っ白だが、生前と同じ顔をした宇八郎が、乗邑の怨霊を見据える。善次郎は、心の奥で安堵した。
聞きたい話は山とある。だが今は、目の前の怨霊だ。
善次郎も宇八郎と同じく乗邑に眼を向け、刀を構えた。
二人に刀を突きつけられ、乗邑は後退った。
『ふっ、はは! 犬が何頭も群れようが同じこと。獅子の荒魂を本復し、必ずや息の根を止めてくれる。無能な小便公方など儂は認めぬ。三河より徳川宗家に仕えた誇り高き大給松平家の。その宗家たるこの儂を貶めた者どもの総てに、思い知らせてくれるわ!』
獅子の体が、ふわりと空に浮く。辺りの風に溶けるように、すぅと消えた。
同じように、乗邑の体が透けていく。
「待て! このまま取り逃がすと思うか!」
駆け出し、乗邑の体に一太刀を浴びせる。怨霊の体が歪んだが、すぐに元に戻った。
『浅い、と教えてやったろう。飼い犬の剣など、儂には届かぬ。何度も同じ言葉を吐かすな、下賤。焦らず待っておれ。直ぐに殺しに来ようぞ』
不穏な言葉だけを残し、乗邑は風に消えた。
「宇八郎様のお姿が! 宇八郎様、まだ、逝っちゃ駄目だ!」
焼け焦げた体で何とか起き上がった環が、悲鳴の混じった声で叫んだ。
振り返ると、宇八郎の体も透けている。善次郎は宇八郎に駆け寄った。
「兄上、お待ちくだされ。まだ、お聞きしとう話が。まだ、どうか!」
再び出会えたのに、宇八郎からは大事な話を、まだ何も聞いていない。
『三社権現様の神力を借り、形を成したが、もう、保たぬようじゃ……善次郎……世話を、かける、な……』
宇八郎が薄く笑んだ。どくん、と善次郎の胸の奥が、嫌な音を立てる。
「三社権現の神々様、どうか兄上を、もうしばし、現に留めてくだされ!」
体が薄霧に包まれた宇八郎が、ゆっくりと目を閉じた。体の端から白い粒が、さらさらと流れ始める。
『……獅子……の、狛犬を……お鴇に……鈴を……』
声が所々途切れて、うまく聞き取れない。善次郎は走り、懸命に手を伸ばす。
『……頼んだ』
宇八郎の体の総てが白い粒になり、弾けた。辺りに散った白光が、きらきらと風に流れる。
善次郎の手は、届かなかった。
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長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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