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第四章
第四章 怨霊の、正体見たり《三》
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皓月堂に戻った善次郎は、店の表を見て、どきりとした。
戸の代わりに覆った菰が取り去られ、朱塗りの壁がなくなっている。剥き出しの土壁に、長七が熱心に漆喰を塗っていた。
「何事か、あったのか? まさか、怨霊がここに来たか?」
駆け寄った善次郎に長七が、びくりと肩を上げて振り返った。
「善次郎様? おけぇりなせぇませ。って、環さん、どうしたってぇんだ! 体も着物も丸焦げだぜ!」
善次郎の後ろで円空に背負われている環を見付け、血相を変える。
「ちぃっと雷に撃たれちまった。大した怪我じゃぁないさね」
円空の背中から、ひょいと飛び降り、環が壁の前に立つ。漆喰の塗られた壁を、じっと見つめて、にこりとした。
「へぇ、こいつぁ見事だ。波打つ文様が漣みてぇで、美しいねぇ」
うっとりと見惚れる環の腕を、長七が引っ張る。
「んなこたぁ、いいから! 早く中に入って怪我の手当てをしねぇと。おーい、お鴇! 布団を敷いてくんな!」
店先から声を張る。お鴇が返事をしながら、小さな足音を立てて出てきた。
「兄ちゃん、どうしたの? きゃぁ! 環さん、丸焦げよ! 早く手当しなくちゃ!」
環の姿を一目見て、お鴇が顔色を変える。
「慌てなくっても、大した怪我じゃぁねぇし、直ぐに治るよ」
「軽くみるのは禁物よ! 放っておいて跡でも残ったら、どうするの! 傷が膿んで病にでもなったら、大事よ!」
有無を言わせぬ勢いで、ぐいぐいと環の腕を引っ張る。
「跡も残りゃぁ、しねぇんだがねぇ。今はお鴇ちゃんに、甘えようかね」
環は大人しく店の中に連れて行かれた。
「ああいう時のお鴇は、頼もしいってぇのか。何とも力強いな」
呆気にとられる善次郎に、長七が顔を強張らせた。
「いってぇ何事がありましたんで? お二人は、大丈夫なんですかぃ?」
「大事ねぇ。浅草で酷い雷に遭っただけだ。それより、これはどうしたのだ?」
塗りかけの壁を指すと、長七が頭を掻いた。
「いやぁね、兄妹ですっかり世話んなっちまったし、礼の一つもしてぇと思いやして。戸は知り合いの大工が明日にも拵えてくれるってぇんで。俺ぁ、壁を塗り替えさしてもらうって話になったんでさ。皓月さんも、助かるって喜んでくれやしたんでね」
「そうであったか。この壁も随分と傷んでおったからな。かえって有難い。気を遣わせたな」
壊されたのではないと知り、ひっそりと安堵する。乗邑の魔手が皓月堂にまで及んでは、お鴇や長七を守りきれるか、わからない。
(それだけは是が非でも、避けねば)
善次郎の胸中を知らない長七が、ははっと照れ笑いする。
「とんでもねぇ。俺がやりたくて、やらしてもらっているんだ。気にしねぇでくだせぇよ。それより、壁の漆喰は今日にも塗り終わりやすぜ」
「それほどに、早くできるものなのか」
感心する善次郎に、長七が胸を張る。
「早くて綺麗が自慢でしてね。勿論、手抜きなんざ、しやせんよ」
二人の話を黙って聞いていた円空が、塗りたての壁に顔を寄せる。じっと見つめてから、顔を引き、全体を眺めた。
「これほどに美しく精巧な漣文様を、たったの二刻で、ここまで?」
壁は八割方を塗り終えている。善次郎たちが皓月堂を出た時分には、店先は元のままだった。円空の感心した問いに、長七は首を振った。
「一刻程度でさ。この壁は、さほど大きくもねぇし、そんなに時は掛かりやせんよ」
感嘆を隠さない円空の瞳が、再び壁に向いた。
善次郎も素直に感心した。只、漆喰を塗るだけなら、一刻ほどで仕上がるのは普通かもしれない。だが、漣の文様はとても細かく、一つ一つが形を変えて、全体の調和を取っている。
知識のない善次郎でも、環と円空が感心する気持ちが、わかった。
「この、文様のない所は、意味があるのか?」
壁の右上と左下に、平坦に塗られた部分がある。
「そこにゃぁ、鏝絵を入れようと考えているんでさ。絵柄は、皓月さんと話して決めてありやす。今日中に壁塗りを終わらせて、明日からは絵を入れやすよ。何ができるかは、見てのお楽しみってね」
長七が悪戯っ子のように笑う。無性に楽しい気持ちが、滲み出ている。
(本当に鏝絵が好きなのだな。どんな鏝絵が入るのか、鑑賞したい)
善次郎も、長七の鏝絵が楽しみになった。
「以前、皓月に長七の鏝絵の評判を聞いてな。その時から一度、じっくり見たいと思っていた。楽しみにしている」
腕捲りした長七が、ぐっと拳を握る。
「任せてくだせぇよ。きっと善次郎様も気に入る、とびきりを作りやすから! そうなりゃぁ俺ぁ、残りの壁を塗っちまいやすんで。日暮れまでにゃぁ、終わらせねぇと」
漆喰に手を伸ばした長七が、ふと、動きを止めた。
「そういや、皓月さんから言付けを預かっていたんだ。戻ったら、円空さんに作業場に来てほしいと伝えてくれってさ」
円空が店の中に眼を向ける。
「今、俺の道具の砥ぎをしてくれているんでさ。明日の朝まで出てこねぇって。それから籠りっきりだ」
円空は黙って頷き、店の中に消えて行った。
(半妖と化した道具の瘴気を砥ぎ落とすなら、円空の力を借りるが賢明か。一晩では終わらぬやもしれぬな)
円空の背中を見送る善次郎の隣で、長七がせっせと、壁塗りの続きを始める。善次郎は黙って、その姿を眺めていた。
木板に漆喰を載せ、鏝先で掬い取る。通常より細長く、先が上に少し曲がった鏝で、器用に模様を施していく。
長七の手の動きに、善次郎は強直した。
模様を描きながらの塗りの速さが、尋常ではない。だがそれ以上に、長七の手先から目が離せなかった。
長七の身から溢れ出る気が、手先に集中する。更にその気は鏝先まで流れ、塗った壁に吸い込まれていく。
(いや、吸い込まれているのではない。送り込んでおるのだ)
長七が自らの意思で、気を注ぎ込んでいる。善次郎には、そう見えた。長七の纏う気は、とても静かで、穏やかだ。しかし、壁を見る眼は鋭気に満ちている。
(真反対の気を同時に、しかも、これほど巧みに操る術を持つとは)
あまりに見事な鏝捌きを、善次郎は固唾を飲んで見守る。見詰めているうちに、手に持つ鏝までが、長七の体の一部に見えてきた。
(この感じを、儂は知っておる)
林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。今日、三社権現で獅子の体を斬った時も。刀が体の一部のように感じた。
(獅子の体は斬り裂けた。しかし、怨霊の身に儂の刃は通らなんだ)
今の善次郎の力では、乗邑を斬れない。それを感じているからこそ乗邑は、善次郎の剣を「浅い」と、くさしたのだろう。
それに、獅子の腹の中にあった青い灯火。あれは福徳稲荷の獅子の御霊だ。恐らくは、あの御霊が核となり、解合った荒魂を繋いでいる。
(あの二つを斬らねば、件は終わらぬ。兄上も、救えぬ。しかし、どうすれば)
今の自分に何が足りないのか、わからない。善次郎は再び、長七の仕事を凝視した。
長七の仕事は速く、あっという間に残りの壁を塗り終わった。仕事を終えて、一つ、息を吐く。溢れ出ていた気が身の内に収まり、鏝から気が消えた。
(壁を塗っている時とは、全く違う。手の延長だった鏝が、只の道具になった)
見入っている善次郎に気が付いた長七が、びくりと肩を上げた。
「わわ! 善次郎様、ずっと見ていらしたんですかぃ? 気が付かねぇで、すいやせん」
ぺこりと頭を下げる長七は、いつもの調子だ。
(仕事中は、まるで別人だ。何かが乗移っているようだった)
あまりの豹変振りに、善次郎はすぐに言葉が出なかった。
「仕事に入ると、どうも周りが見えなくなっちまう。お鴇にも、いつも叱られるんですがね。こればっかりは、どうにもできねぇ」
ははっと困った風に笑う長七に、善次郎が躙り寄った。
「教えてくれ、長七。其方はどういった心持で鏝を握る? 気を注ぎ込むのは自分の意思か? 其方は気を自在に操れるのか? その術はどうして体得できた?」
矢継ぎ早な問いに、長七が仰け反った。
「善次郎様? いってぇ、どうなすったんで?」
当惑する長七に、善次郎は尚も迫る。
「力を使う仕法を、儂に伝授してくれ。頼む、この通りだ」
深々と頭を下げる。長七が、一層困った声で怯んだ。
「待ってくだせぇ。頭を上げてくだせぇよ。頼みやすから」
長七にやんわりと肩を持ち上げられ、善次郎は顔を上げた。長七の困り顔に、はっとする。
「唐突に、すまなかった。だが、どうしても其方の教えが必用だ。どんな話でもいい。教えてくれまいか」
善次郎の顔付きに気付いた長七が、表情を変える。眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
「教えって言われましてもねぇ。どう言ったらいいもんか……。その辺りは俺も、特に気にしてやっちゃぁ、いねぇからなぁ」
難しい顔になる長七に、善次郎は驚く。
「あれほどの妙技を、気にせずに施しておるのか?」
ぽかんと口を開け、忙然とする。長七が申し訳なさげに頭を掻いた。
「妙技ってぇもんじゃぁ、ありやせん。ただね、俺の塗った壁や拵えた鏝絵が、人や場所を守って幸せにしてくれりゃぁいいと。そんな風に思って、やっておりやすよ。だから、一つ一つ、どんなに小せぇ仕事でも、気は抜かねぇ。俺ん中にある全部を注ぎ込むってな心持で作っておりやす」
善次郎の胸の中で、何かが、すとんと落ちた。
「鏝を、扱う時は、どうだ。何か、考えておるか?」
口をついて出た問いに、長七がまた難しい顔をして、腕を組んだ。
「鏝を持っている時ぁ……、そうですねぇ。あんまり道具を手にしているってぇな気じゃぁ、ねぇかもしれやせんね。鏝は、俺の手や指みてぇなもんだ。俺そのものでさぁ」
からっと言い切る長七は、まるで当たり前の事実を話しているように見える。
善次郎は感得した。
(儂は、最も大事な父上の教えを、忘れていた)
死神と話し、林の中で狛犬を斬った時。父の教えである「心眼」を思い出した。同じくらい、或いは、それ以上に大事な父の教えを、今、思い出した。
『心剣は、誰にでも振るえる剣ではない。明楽家の人間のみが振るう、邪を斬る剣だ』
明楽家では真剣を、時に心剣といった。怪異の絡む密勅を全うするための、至要の剣技だ。それ以上の内実を、善次郎は知らない。だが、たった今、長七が目の前で成し、真理を与えてくれた。
(これが、きっと糸口になる。否、してみせる。体得できねば、源壽院の怨霊は斬れぬ)
黙り込んだ善次郎の顔を、長七がそっと覗き込んだ。
「こんな話しか、できねぇで、すいやせん。お役に立ちましたかねぇ」
憂慮する長七の手をしっかりと握り、善次郎は強く頷いた。
「充分に役立った。長七のお陰で、忘れていた大事な教えを思い出した。礼を言う」
深く頭を下げる善次郎に、長七が恐縮した声を上げる。
「いやいやいや、そういうのは勘弁してくだせぇ。俺ぁ、ただ自分の話をしただけでさぁ。こんな話でも、善次郎様のお役に立てたんなら、ほっと致しやすよ」
安堵して笑う長七に釣られて、善次郎の口元も緩む。
「また、仕事を見せてもらっても、良いか。長七が鏝絵を作っている様子を見たい。邪魔でなければで、良いのだが」
長七は快く頷いた。
「いつでも見に来てくだせぇよ。ああ、でも、仕事に入ると、さっきみてぇに何にも話さねぇでしょうが」
「それで構わぬ。むしろ、それが見たい」
「でしたら、いつでも。明日からは、この壁に鏝絵を拵えやすんで、好きな時に見に来てくだせぇな」
善次郎の申し入れに不思議そうにしながらも、長七は嫌な顔をしなかった。
長七との出会いが、自分の中の何かを変える。漠然とした胸中に確かな思いを、善次郎は抱いていた。
戸の代わりに覆った菰が取り去られ、朱塗りの壁がなくなっている。剥き出しの土壁に、長七が熱心に漆喰を塗っていた。
「何事か、あったのか? まさか、怨霊がここに来たか?」
駆け寄った善次郎に長七が、びくりと肩を上げて振り返った。
「善次郎様? おけぇりなせぇませ。って、環さん、どうしたってぇんだ! 体も着物も丸焦げだぜ!」
善次郎の後ろで円空に背負われている環を見付け、血相を変える。
「ちぃっと雷に撃たれちまった。大した怪我じゃぁないさね」
円空の背中から、ひょいと飛び降り、環が壁の前に立つ。漆喰の塗られた壁を、じっと見つめて、にこりとした。
「へぇ、こいつぁ見事だ。波打つ文様が漣みてぇで、美しいねぇ」
うっとりと見惚れる環の腕を、長七が引っ張る。
「んなこたぁ、いいから! 早く中に入って怪我の手当てをしねぇと。おーい、お鴇! 布団を敷いてくんな!」
店先から声を張る。お鴇が返事をしながら、小さな足音を立てて出てきた。
「兄ちゃん、どうしたの? きゃぁ! 環さん、丸焦げよ! 早く手当しなくちゃ!」
環の姿を一目見て、お鴇が顔色を変える。
「慌てなくっても、大した怪我じゃぁねぇし、直ぐに治るよ」
「軽くみるのは禁物よ! 放っておいて跡でも残ったら、どうするの! 傷が膿んで病にでもなったら、大事よ!」
有無を言わせぬ勢いで、ぐいぐいと環の腕を引っ張る。
「跡も残りゃぁ、しねぇんだがねぇ。今はお鴇ちゃんに、甘えようかね」
環は大人しく店の中に連れて行かれた。
「ああいう時のお鴇は、頼もしいってぇのか。何とも力強いな」
呆気にとられる善次郎に、長七が顔を強張らせた。
「いってぇ何事がありましたんで? お二人は、大丈夫なんですかぃ?」
「大事ねぇ。浅草で酷い雷に遭っただけだ。それより、これはどうしたのだ?」
塗りかけの壁を指すと、長七が頭を掻いた。
「いやぁね、兄妹ですっかり世話んなっちまったし、礼の一つもしてぇと思いやして。戸は知り合いの大工が明日にも拵えてくれるってぇんで。俺ぁ、壁を塗り替えさしてもらうって話になったんでさ。皓月さんも、助かるって喜んでくれやしたんでね」
「そうであったか。この壁も随分と傷んでおったからな。かえって有難い。気を遣わせたな」
壊されたのではないと知り、ひっそりと安堵する。乗邑の魔手が皓月堂にまで及んでは、お鴇や長七を守りきれるか、わからない。
(それだけは是が非でも、避けねば)
善次郎の胸中を知らない長七が、ははっと照れ笑いする。
「とんでもねぇ。俺がやりたくて、やらしてもらっているんだ。気にしねぇでくだせぇよ。それより、壁の漆喰は今日にも塗り終わりやすぜ」
「それほどに、早くできるものなのか」
感心する善次郎に、長七が胸を張る。
「早くて綺麗が自慢でしてね。勿論、手抜きなんざ、しやせんよ」
二人の話を黙って聞いていた円空が、塗りたての壁に顔を寄せる。じっと見つめてから、顔を引き、全体を眺めた。
「これほどに美しく精巧な漣文様を、たったの二刻で、ここまで?」
壁は八割方を塗り終えている。善次郎たちが皓月堂を出た時分には、店先は元のままだった。円空の感心した問いに、長七は首を振った。
「一刻程度でさ。この壁は、さほど大きくもねぇし、そんなに時は掛かりやせんよ」
感嘆を隠さない円空の瞳が、再び壁に向いた。
善次郎も素直に感心した。只、漆喰を塗るだけなら、一刻ほどで仕上がるのは普通かもしれない。だが、漣の文様はとても細かく、一つ一つが形を変えて、全体の調和を取っている。
知識のない善次郎でも、環と円空が感心する気持ちが、わかった。
「この、文様のない所は、意味があるのか?」
壁の右上と左下に、平坦に塗られた部分がある。
「そこにゃぁ、鏝絵を入れようと考えているんでさ。絵柄は、皓月さんと話して決めてありやす。今日中に壁塗りを終わらせて、明日からは絵を入れやすよ。何ができるかは、見てのお楽しみってね」
長七が悪戯っ子のように笑う。無性に楽しい気持ちが、滲み出ている。
(本当に鏝絵が好きなのだな。どんな鏝絵が入るのか、鑑賞したい)
善次郎も、長七の鏝絵が楽しみになった。
「以前、皓月に長七の鏝絵の評判を聞いてな。その時から一度、じっくり見たいと思っていた。楽しみにしている」
腕捲りした長七が、ぐっと拳を握る。
「任せてくだせぇよ。きっと善次郎様も気に入る、とびきりを作りやすから! そうなりゃぁ俺ぁ、残りの壁を塗っちまいやすんで。日暮れまでにゃぁ、終わらせねぇと」
漆喰に手を伸ばした長七が、ふと、動きを止めた。
「そういや、皓月さんから言付けを預かっていたんだ。戻ったら、円空さんに作業場に来てほしいと伝えてくれってさ」
円空が店の中に眼を向ける。
「今、俺の道具の砥ぎをしてくれているんでさ。明日の朝まで出てこねぇって。それから籠りっきりだ」
円空は黙って頷き、店の中に消えて行った。
(半妖と化した道具の瘴気を砥ぎ落とすなら、円空の力を借りるが賢明か。一晩では終わらぬやもしれぬな)
円空の背中を見送る善次郎の隣で、長七がせっせと、壁塗りの続きを始める。善次郎は黙って、その姿を眺めていた。
木板に漆喰を載せ、鏝先で掬い取る。通常より細長く、先が上に少し曲がった鏝で、器用に模様を施していく。
長七の手の動きに、善次郎は強直した。
模様を描きながらの塗りの速さが、尋常ではない。だがそれ以上に、長七の手先から目が離せなかった。
長七の身から溢れ出る気が、手先に集中する。更にその気は鏝先まで流れ、塗った壁に吸い込まれていく。
(いや、吸い込まれているのではない。送り込んでおるのだ)
長七が自らの意思で、気を注ぎ込んでいる。善次郎には、そう見えた。長七の纏う気は、とても静かで、穏やかだ。しかし、壁を見る眼は鋭気に満ちている。
(真反対の気を同時に、しかも、これほど巧みに操る術を持つとは)
あまりに見事な鏝捌きを、善次郎は固唾を飲んで見守る。見詰めているうちに、手に持つ鏝までが、長七の体の一部に見えてきた。
(この感じを、儂は知っておる)
林の中で狛犬の妖を斬った、あの時。今日、三社権現で獅子の体を斬った時も。刀が体の一部のように感じた。
(獅子の体は斬り裂けた。しかし、怨霊の身に儂の刃は通らなんだ)
今の善次郎の力では、乗邑を斬れない。それを感じているからこそ乗邑は、善次郎の剣を「浅い」と、くさしたのだろう。
それに、獅子の腹の中にあった青い灯火。あれは福徳稲荷の獅子の御霊だ。恐らくは、あの御霊が核となり、解合った荒魂を繋いでいる。
(あの二つを斬らねば、件は終わらぬ。兄上も、救えぬ。しかし、どうすれば)
今の自分に何が足りないのか、わからない。善次郎は再び、長七の仕事を凝視した。
長七の仕事は速く、あっという間に残りの壁を塗り終わった。仕事を終えて、一つ、息を吐く。溢れ出ていた気が身の内に収まり、鏝から気が消えた。
(壁を塗っている時とは、全く違う。手の延長だった鏝が、只の道具になった)
見入っている善次郎に気が付いた長七が、びくりと肩を上げた。
「わわ! 善次郎様、ずっと見ていらしたんですかぃ? 気が付かねぇで、すいやせん」
ぺこりと頭を下げる長七は、いつもの調子だ。
(仕事中は、まるで別人だ。何かが乗移っているようだった)
あまりの豹変振りに、善次郎はすぐに言葉が出なかった。
「仕事に入ると、どうも周りが見えなくなっちまう。お鴇にも、いつも叱られるんですがね。こればっかりは、どうにもできねぇ」
ははっと困った風に笑う長七に、善次郎が躙り寄った。
「教えてくれ、長七。其方はどういった心持で鏝を握る? 気を注ぎ込むのは自分の意思か? 其方は気を自在に操れるのか? その術はどうして体得できた?」
矢継ぎ早な問いに、長七が仰け反った。
「善次郎様? いってぇ、どうなすったんで?」
当惑する長七に、善次郎は尚も迫る。
「力を使う仕法を、儂に伝授してくれ。頼む、この通りだ」
深々と頭を下げる。長七が、一層困った声で怯んだ。
「待ってくだせぇ。頭を上げてくだせぇよ。頼みやすから」
長七にやんわりと肩を持ち上げられ、善次郎は顔を上げた。長七の困り顔に、はっとする。
「唐突に、すまなかった。だが、どうしても其方の教えが必用だ。どんな話でもいい。教えてくれまいか」
善次郎の顔付きに気付いた長七が、表情を変える。眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
「教えって言われましてもねぇ。どう言ったらいいもんか……。その辺りは俺も、特に気にしてやっちゃぁ、いねぇからなぁ」
難しい顔になる長七に、善次郎は驚く。
「あれほどの妙技を、気にせずに施しておるのか?」
ぽかんと口を開け、忙然とする。長七が申し訳なさげに頭を掻いた。
「妙技ってぇもんじゃぁ、ありやせん。ただね、俺の塗った壁や拵えた鏝絵が、人や場所を守って幸せにしてくれりゃぁいいと。そんな風に思って、やっておりやすよ。だから、一つ一つ、どんなに小せぇ仕事でも、気は抜かねぇ。俺ん中にある全部を注ぎ込むってな心持で作っておりやす」
善次郎の胸の中で、何かが、すとんと落ちた。
「鏝を、扱う時は、どうだ。何か、考えておるか?」
口をついて出た問いに、長七がまた難しい顔をして、腕を組んだ。
「鏝を持っている時ぁ……、そうですねぇ。あんまり道具を手にしているってぇな気じゃぁ、ねぇかもしれやせんね。鏝は、俺の手や指みてぇなもんだ。俺そのものでさぁ」
からっと言い切る長七は、まるで当たり前の事実を話しているように見える。
善次郎は感得した。
(儂は、最も大事な父上の教えを、忘れていた)
死神と話し、林の中で狛犬を斬った時。父の教えである「心眼」を思い出した。同じくらい、或いは、それ以上に大事な父の教えを、今、思い出した。
『心剣は、誰にでも振るえる剣ではない。明楽家の人間のみが振るう、邪を斬る剣だ』
明楽家では真剣を、時に心剣といった。怪異の絡む密勅を全うするための、至要の剣技だ。それ以上の内実を、善次郎は知らない。だが、たった今、長七が目の前で成し、真理を与えてくれた。
(これが、きっと糸口になる。否、してみせる。体得できねば、源壽院の怨霊は斬れぬ)
黙り込んだ善次郎の顔を、長七がそっと覗き込んだ。
「こんな話しか、できねぇで、すいやせん。お役に立ちましたかねぇ」
憂慮する長七の手をしっかりと握り、善次郎は強く頷いた。
「充分に役立った。長七のお陰で、忘れていた大事な教えを思い出した。礼を言う」
深く頭を下げる善次郎に、長七が恐縮した声を上げる。
「いやいやいや、そういうのは勘弁してくだせぇ。俺ぁ、ただ自分の話をしただけでさぁ。こんな話でも、善次郎様のお役に立てたんなら、ほっと致しやすよ」
安堵して笑う長七に釣られて、善次郎の口元も緩む。
「また、仕事を見せてもらっても、良いか。長七が鏝絵を作っている様子を見たい。邪魔でなければで、良いのだが」
長七は快く頷いた。
「いつでも見に来てくだせぇよ。ああ、でも、仕事に入ると、さっきみてぇに何にも話さねぇでしょうが」
「それで構わぬ。むしろ、それが見たい」
「でしたら、いつでも。明日からは、この壁に鏝絵を拵えやすんで、好きな時に見に来てくだせぇな」
善次郎の申し入れに不思議そうにしながらも、長七は嫌な顔をしなかった。
長七との出会いが、自分の中の何かを変える。漠然とした胸中に確かな思いを、善次郎は抱いていた。
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■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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