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第四章
第四章 怨霊の、正体見たり《七》
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陽が傾きかけ、風が冷たく感じられる、暮八つ半。
善次郎は谷中にいた。
忠光の指示した水茶屋≪鍵屋≫は、感応寺境内の笠森稲荷の鳥居脇にある。地主は御庭番の倉地家だ。
(これ以上に安全な場所は、ない)
寺社奉行である青山因幡守忠朝と昵懇であり、御庭番を統括する御側御用取次の忠光だ。鍵屋なら、話が他者に漏れる懸念はない。
(つまりは、それだけ大事な話をなさるおつもりで、いらっしゃるのだ)
獅子の荒魂を狙い、乗邑の怨霊が襲ってくる懸念は拭えない。だが、今となっては、どこにいようと同じだ。それに今日は、傍に善次郎が控えている。
刀の鞘をぐっと握り、腹に力を籠めた。
鍵屋の中を窺う。善次郎を見つけた店主の五兵衛が、駆け寄った。
「邪魔する。ここで人と待ち合わせをしておるのだが。中で、待たせてもらえるか」
五兵衛は、にっこりとして、善次郎を促した。
「既に、御到着でございます。奥の座敷へ、お上がりください」
善次郎は、そそくさと五兵衛の後を付いて行った。忠光を待たせるわけにはいかないと、早く来たつもりだったが、遅かったらしい。
案内された座敷は、八畳間だ。既に忠光が湯呑を傾けながら、待っていた。
「お待たせを致しました。申し訳ございませぬ」
善次郎が平伏すると、忠光は相好を緩ませた。
「気にするな。儂が先に来ておっただけだ。しばらく振りに、ここの茶を、ゆるりと愉しみたくてな。其方こそ、随分と早かったな」
忠光の笑みが、湯呑の中の揺れる茶を眺める。目には、若干の憂いが混じって見えた。
ゆらゆらと手の中で揺らしていた湯呑を置く。忠光が、善次郎に向き合った。
善次郎は居直り、真っ直ぐに忠光を見詰める。
「まずは、仔細を報せよ。余すことなく、細密に頼む」
忠光の言葉に小さく一つ、頭を下げる。善次郎は、八朔に御下命を拝してからの顛末を、できる限り委曲かに、忠光に話して聞かせた。
「目安箱に紛れていた文字については、まだ何も掴めておりませぬ。故に引き続き、調べを進めております」
一通り善次郎の話を聞いた忠光が、難しい顔をして押し黙った。
善次郎は固唾を飲んで忠光の言葉を待った。
「……公方様を認めぬと、源壽院様が仰ったのか? いや、怨霊に堕ち、隠した本音が、あからさまに出たのか……」
独り言のように呟く忠光に、善次郎は頷く。
「兄……宇八郎は、源壽院様の怨霊に生前の誇りはない、と。恨みに飲まれ怨霊に堕ちたと、申しておりました」
腕を組み、忠光が硬く目を瞑る。
「宇八郎が言うのなら、間違いなかろうな」
やはり小さな声で呟いて、忠光は細く目を開いた。
「源壽院様が厳罰に処された当時に、御府内に流れた噂を知っておるか?」
善次郎は、静かに頷いた。
吉宗が推し進めた御改革で大きな功績を残した一翼が、松平左近将監乗邑だ。乗邑は自身に傾倒する幕閣を使い、特に農政を掌握していた。
乗邑一派の最たる人物が勘定奉行・神尾若狭守春央である。春英は「左近将監ほど人を良く使う人はなし、あの如く使われては誰にても働かねばならぬと云える」と乗邑の人使いを良くも悪くも評している。また「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という春英の言には、乗邑の政の一端が見て取れる。
吉宗の腹心として政を牽引した乗邑であったが、延享二年、突如、失脚の憂き目にあった。吉宗が退位して大御所となり、嫡男・家重の襲位を表明した直後であった。
幕閣の大変革と表しても過言でない一大事は、当時、江戸城内のみならず、御府内を駆け巡った。
世間は、さほど驚きもしなかった。乗邑一派の強引な年貢増嵩政綱に、業を煮やしていたのは百姓町人だけではなかった。煽りを喰った旗本や大名も数多くいた。
「恐れながら、公方様の廃立を企てたが故、との噂なら、耳に致しました」
乗邑の失脚に、胸のすく思いがした者も、嘲笑う者も多かったろう。そうした世間が、徒徒しく作り上げた噂、だったのかもしれない。
善次郎はこの時、宇八郎の頓死を受け、明楽家当主を継いだ直後だった。自分の仕事に手一杯だったせいか、妙に冷めた目で周囲を眺めていたのを、覚えている。
「あれは浮言だ。とはいえ、根も葉もない、とは言い難い。源壽院様が田安中納言様を贔屓にされていたのは事実。だが、如何に宿老といえど、将軍継嗣に口を挟むような愚鈍ではない。源壽院様は才智の能吏であった」
忠光がここまで言い切る乗邑の才に、善次郎も疑いの余地はない。それだけの功績を上げた事実は知っている。
「能吏では、あったが。過度であった。どれほど御公儀の財を蓄えても、民百姓や家臣の不満を高めては、政は続かぬ。源壽院様の才智と人為は、別物であった。意に添わぬ相手を暗に蹴落とし罠に嵌める汚い仕法も、厭わぬお人で、あったからな」
事実、忠光の遠縁にあたる大岡越前守忠相も害を被ったと聞く。
これまで老中が中心であった政が、吉宗により御側御用取次を重んじる趣向となった。老中が軽んじられた状態に対する、乗邑のささやかな抗いだったかもしれない。しかし、害を被った側からすれば、心には歪なしこりが残るものだ。
忠光の眼に、陰りが落ちた。
「政において、清濁を使い分けるは、時に肝要だ。しかし、濁りきった目に、未来の泰平は映るまい。当時の源壽院様の眼は、濁り過ぎておった。それでも、厳罰を受け入れ、総てを胸に仕舞い、黙して逝かれた源壽院様は御立派であったと、思うておる」
如何にも忠光らしい見解だと思った。物事や人を、一側面のみで判断するのではなく、多方面から見る。平静かつ公平でありながら、芯のある私見も持っている。
善次郎の尊慕する忠光だ。
落ちていた忠光の目の先が、善次郎に向いた。
「源壽院様の厳罰の内実は、いくつかあった。そのうちの一つが、宇八郎の頓死だ」
突然に躍り出た兄の名に、善次郎は目を見開いた。
「何故、兄上が……」
口走って、思い当った。宇八郎の遠国御用が、乗邑の見張りであったとしたら。
たらりと、嫌な汗が背中を流れた。
善次郎の表情を見て取り、忠光は頷いた。
「宇八郎は有徳院様の御指図で、其方の父、嘉太夫殿と共に、源壽院様に張り付いておった。民の声を何より大事になさっていた有徳院様だ。頼りにする腹心ではあったが、源壽院様の陰での悪辣も心得ておられた。その振舞いを見過ごすはずもない」
内実は知らなかったが、兄と父が共に御役目に勤しんでいた事実は知っている。部屋住だった善次郎は、二人が仕事に出向く背中を、羨ましく眺めていた。
「何故、明楽家に、その御役目が、指示されたのですか」
御庭番十七家の中でも、明楽家は怪異を得意とする家柄だ。乗邑ほどの重役を相手取るなら、川村家や村垣家など、御庭番を束ねる立場にある家柄が向いている。
「内々に、妙な噂があった。源壽院様が生霊となりて獅子を従え、人を殺している、とな」
ぞわり、と全身が総毛立った。
「真偽のわからぬ噂など、多く有しておられた源壽院様だ。斯様な話を鵜呑みにする者はなかったが、有徳院様だけは違った。当時まだ御用取次見習いであった儂に問うた。宇八郎は適任であるか、と」
忠光と嘉太夫の間に、密かな親交があった事実を知っての問いであろう。自身が紀州より呼び寄せた、信を置く御庭番の質を更に確かめるのは、如何にも吉宗らしい。
「むしろ他に適任はない、と答えた。だが、それが、宇八郎の命を縮める顛末を招いた」
忠光の話が進むに連れ、心ノ臓が嫌な音を立て始めた。ざわりざわりと、不穏な勘が頭の隅に擡げてくる。
「延享二年、文月も初めの頃だ。源壽院様は日光社参に参られた。宇八郎と嘉太夫殿も内々に張り付いていた。宇八郎が、獅子に切り裂かれて絶命した、との報を受けたのは、源壽院様が江戸に戻るより早く。命辛々戻った嘉太夫殿の報せであった」
ぽたり、と握った拳の上に汗が垂れた。気付けば、額と首筋に、ねっとりした汗が噴き出していた。
「あの時は、獅子が噂通り源壽院様の使役する妖かは、定かではなかった。だが、江戸にお戻りになった源壽院様が、わざわざ儂を訪ねてきた。あの顔を見て、儂は感得した。何を言われたか、覚えておらぬ。だが、あの顔だけは、今でも鮮明に頭に浮かぶ」
握り締めた拳と、絞り出す声が、忠光の憤りを如実に表している。
善次郎は愕然とした。
(兄上は、源壽院様に殺された、のか。長七とお鴇を庇って死んだのでは、なかったのか)
忠光に問おうにも、怒りに震える喉から、声が出ない。
(問うまでもない。出雲守様の話なら、長七とお鴇は偶然に、巻き込まれただけだ。獅子の狙いは、明らかだ)
得も言われぬ憎しみが、善次郎の中に沸々と湧き上がる。
「しかし、儂より怒りを顕わにされたのは、有徳院様であった。後の神無月、源壽院様は、処罰としか取れぬ扱いで罷免された。沙汰を下されたのは公方様だが、後押しをされたのは有徳院様であった。宇八郎の一件が、源壽院様の断罪を有徳院様に決意させるに至る、決め手となった」
驕りが過ぎた結末といえば、その通りだ。乗邑には他にも、吉宗に処される訳など、いくらでもあったろう。家重が乗邑を疎んじていたのも、事実だ。
(三社権現で、怨霊は兄上に、儂から総てを奪った、と吐き捨てた。内実は、これか)
家重や忠光を名指ししていたのも、今なら頷ける。
奥歯を噛みしめ、震える拳を何とか制する。
善次郎の姿を、忠光は沈痛な面持ちで見詰めた。
「その後、有徳院様は直ぐに其方に当家を継がせ、嘉太夫殿には隠居を命じられた。嘉太夫殿も大層な深手をおった故に、養生せよとの配慮であった。翌年、源之助に別家を持たせたのも、有徳院様と公方様の御配慮だ。明楽家を守るためであった」
三男である源之助は、延享三年に別家を許されている。二人の息子が明楽家を繋いだ顛末を見届けて、嘉太夫は死去した。
「斯様な事実を、儂は、何一つ……何一つ知らずに、今の今まで……」
溢れる思いが、口をついて出た。
歯痒さや悔しさが波のように押し寄せて、抑えきれなかった。
兄の犠牲の上に家督を継いだ。にも拘わらず、この六年、まともな仕事もできなかった。そんな自分が情けなく、腹立たしい。
「知らなんだのは、当然だ。其方が堅実に育つまで知らせてくれるな、というが知己たる嘉太夫殿からの、今際の際の願いだった。儂とて、同じ過ちを繰り返す気は、なかった。故に、其方に振る仕事を選んでおったのだ」
潤みかけた目を拭い、善次郎は低頭した。
「出雲守様の御心に、感謝致します。此度の大事な御役目を、善次郎めに御指示くださった公方様にも、感謝の仕様もござりませぬ」
詰まる喉から懸命に言葉を発する。小刻みに肩が震えるのを止めることは、できなかった。
「善次郎、今の其方になら、迷いなく御役目を指示できる。嘉太夫殿の許しも得られよう。源壽院の怨霊を討ち、獅子の御霊を解き放て。死霊となってまで御役目を全うし続ける宇八郎の御霊を、どうか救ってやってくれ」
忠光の言葉は下命であり、懇願であった。宇八郎の死霊への懺悔にすら、聞こえた。
善次郎は改めて平伏した。
「新たに賜りました御役目、善次郎が必ずや、成し遂げて参ります。良き報せを持ち帰ると、御約束致します」
額の汗が、押し付けた畳に滲む。善次郎の胸には以前にも増して、確固たる決意が漲っていた。
善次郎は谷中にいた。
忠光の指示した水茶屋≪鍵屋≫は、感応寺境内の笠森稲荷の鳥居脇にある。地主は御庭番の倉地家だ。
(これ以上に安全な場所は、ない)
寺社奉行である青山因幡守忠朝と昵懇であり、御庭番を統括する御側御用取次の忠光だ。鍵屋なら、話が他者に漏れる懸念はない。
(つまりは、それだけ大事な話をなさるおつもりで、いらっしゃるのだ)
獅子の荒魂を狙い、乗邑の怨霊が襲ってくる懸念は拭えない。だが、今となっては、どこにいようと同じだ。それに今日は、傍に善次郎が控えている。
刀の鞘をぐっと握り、腹に力を籠めた。
鍵屋の中を窺う。善次郎を見つけた店主の五兵衛が、駆け寄った。
「邪魔する。ここで人と待ち合わせをしておるのだが。中で、待たせてもらえるか」
五兵衛は、にっこりとして、善次郎を促した。
「既に、御到着でございます。奥の座敷へ、お上がりください」
善次郎は、そそくさと五兵衛の後を付いて行った。忠光を待たせるわけにはいかないと、早く来たつもりだったが、遅かったらしい。
案内された座敷は、八畳間だ。既に忠光が湯呑を傾けながら、待っていた。
「お待たせを致しました。申し訳ございませぬ」
善次郎が平伏すると、忠光は相好を緩ませた。
「気にするな。儂が先に来ておっただけだ。しばらく振りに、ここの茶を、ゆるりと愉しみたくてな。其方こそ、随分と早かったな」
忠光の笑みが、湯呑の中の揺れる茶を眺める。目には、若干の憂いが混じって見えた。
ゆらゆらと手の中で揺らしていた湯呑を置く。忠光が、善次郎に向き合った。
善次郎は居直り、真っ直ぐに忠光を見詰める。
「まずは、仔細を報せよ。余すことなく、細密に頼む」
忠光の言葉に小さく一つ、頭を下げる。善次郎は、八朔に御下命を拝してからの顛末を、できる限り委曲かに、忠光に話して聞かせた。
「目安箱に紛れていた文字については、まだ何も掴めておりませぬ。故に引き続き、調べを進めております」
一通り善次郎の話を聞いた忠光が、難しい顔をして押し黙った。
善次郎は固唾を飲んで忠光の言葉を待った。
「……公方様を認めぬと、源壽院様が仰ったのか? いや、怨霊に堕ち、隠した本音が、あからさまに出たのか……」
独り言のように呟く忠光に、善次郎は頷く。
「兄……宇八郎は、源壽院様の怨霊に生前の誇りはない、と。恨みに飲まれ怨霊に堕ちたと、申しておりました」
腕を組み、忠光が硬く目を瞑る。
「宇八郎が言うのなら、間違いなかろうな」
やはり小さな声で呟いて、忠光は細く目を開いた。
「源壽院様が厳罰に処された当時に、御府内に流れた噂を知っておるか?」
善次郎は、静かに頷いた。
吉宗が推し進めた御改革で大きな功績を残した一翼が、松平左近将監乗邑だ。乗邑は自身に傾倒する幕閣を使い、特に農政を掌握していた。
乗邑一派の最たる人物が勘定奉行・神尾若狭守春央である。春英は「左近将監ほど人を良く使う人はなし、あの如く使われては誰にても働かねばならぬと云える」と乗邑の人使いを良くも悪くも評している。また「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という春英の言には、乗邑の政の一端が見て取れる。
吉宗の腹心として政を牽引した乗邑であったが、延享二年、突如、失脚の憂き目にあった。吉宗が退位して大御所となり、嫡男・家重の襲位を表明した直後であった。
幕閣の大変革と表しても過言でない一大事は、当時、江戸城内のみならず、御府内を駆け巡った。
世間は、さほど驚きもしなかった。乗邑一派の強引な年貢増嵩政綱に、業を煮やしていたのは百姓町人だけではなかった。煽りを喰った旗本や大名も数多くいた。
「恐れながら、公方様の廃立を企てたが故、との噂なら、耳に致しました」
乗邑の失脚に、胸のすく思いがした者も、嘲笑う者も多かったろう。そうした世間が、徒徒しく作り上げた噂、だったのかもしれない。
善次郎はこの時、宇八郎の頓死を受け、明楽家当主を継いだ直後だった。自分の仕事に手一杯だったせいか、妙に冷めた目で周囲を眺めていたのを、覚えている。
「あれは浮言だ。とはいえ、根も葉もない、とは言い難い。源壽院様が田安中納言様を贔屓にされていたのは事実。だが、如何に宿老といえど、将軍継嗣に口を挟むような愚鈍ではない。源壽院様は才智の能吏であった」
忠光がここまで言い切る乗邑の才に、善次郎も疑いの余地はない。それだけの功績を上げた事実は知っている。
「能吏では、あったが。過度であった。どれほど御公儀の財を蓄えても、民百姓や家臣の不満を高めては、政は続かぬ。源壽院様の才智と人為は、別物であった。意に添わぬ相手を暗に蹴落とし罠に嵌める汚い仕法も、厭わぬお人で、あったからな」
事実、忠光の遠縁にあたる大岡越前守忠相も害を被ったと聞く。
これまで老中が中心であった政が、吉宗により御側御用取次を重んじる趣向となった。老中が軽んじられた状態に対する、乗邑のささやかな抗いだったかもしれない。しかし、害を被った側からすれば、心には歪なしこりが残るものだ。
忠光の眼に、陰りが落ちた。
「政において、清濁を使い分けるは、時に肝要だ。しかし、濁りきった目に、未来の泰平は映るまい。当時の源壽院様の眼は、濁り過ぎておった。それでも、厳罰を受け入れ、総てを胸に仕舞い、黙して逝かれた源壽院様は御立派であったと、思うておる」
如何にも忠光らしい見解だと思った。物事や人を、一側面のみで判断するのではなく、多方面から見る。平静かつ公平でありながら、芯のある私見も持っている。
善次郎の尊慕する忠光だ。
落ちていた忠光の目の先が、善次郎に向いた。
「源壽院様の厳罰の内実は、いくつかあった。そのうちの一つが、宇八郎の頓死だ」
突然に躍り出た兄の名に、善次郎は目を見開いた。
「何故、兄上が……」
口走って、思い当った。宇八郎の遠国御用が、乗邑の見張りであったとしたら。
たらりと、嫌な汗が背中を流れた。
善次郎の表情を見て取り、忠光は頷いた。
「宇八郎は有徳院様の御指図で、其方の父、嘉太夫殿と共に、源壽院様に張り付いておった。民の声を何より大事になさっていた有徳院様だ。頼りにする腹心ではあったが、源壽院様の陰での悪辣も心得ておられた。その振舞いを見過ごすはずもない」
内実は知らなかったが、兄と父が共に御役目に勤しんでいた事実は知っている。部屋住だった善次郎は、二人が仕事に出向く背中を、羨ましく眺めていた。
「何故、明楽家に、その御役目が、指示されたのですか」
御庭番十七家の中でも、明楽家は怪異を得意とする家柄だ。乗邑ほどの重役を相手取るなら、川村家や村垣家など、御庭番を束ねる立場にある家柄が向いている。
「内々に、妙な噂があった。源壽院様が生霊となりて獅子を従え、人を殺している、とな」
ぞわり、と全身が総毛立った。
「真偽のわからぬ噂など、多く有しておられた源壽院様だ。斯様な話を鵜呑みにする者はなかったが、有徳院様だけは違った。当時まだ御用取次見習いであった儂に問うた。宇八郎は適任であるか、と」
忠光と嘉太夫の間に、密かな親交があった事実を知っての問いであろう。自身が紀州より呼び寄せた、信を置く御庭番の質を更に確かめるのは、如何にも吉宗らしい。
「むしろ他に適任はない、と答えた。だが、それが、宇八郎の命を縮める顛末を招いた」
忠光の話が進むに連れ、心ノ臓が嫌な音を立て始めた。ざわりざわりと、不穏な勘が頭の隅に擡げてくる。
「延享二年、文月も初めの頃だ。源壽院様は日光社参に参られた。宇八郎と嘉太夫殿も内々に張り付いていた。宇八郎が、獅子に切り裂かれて絶命した、との報を受けたのは、源壽院様が江戸に戻るより早く。命辛々戻った嘉太夫殿の報せであった」
ぽたり、と握った拳の上に汗が垂れた。気付けば、額と首筋に、ねっとりした汗が噴き出していた。
「あの時は、獅子が噂通り源壽院様の使役する妖かは、定かではなかった。だが、江戸にお戻りになった源壽院様が、わざわざ儂を訪ねてきた。あの顔を見て、儂は感得した。何を言われたか、覚えておらぬ。だが、あの顔だけは、今でも鮮明に頭に浮かぶ」
握り締めた拳と、絞り出す声が、忠光の憤りを如実に表している。
善次郎は愕然とした。
(兄上は、源壽院様に殺された、のか。長七とお鴇を庇って死んだのでは、なかったのか)
忠光に問おうにも、怒りに震える喉から、声が出ない。
(問うまでもない。出雲守様の話なら、長七とお鴇は偶然に、巻き込まれただけだ。獅子の狙いは、明らかだ)
得も言われぬ憎しみが、善次郎の中に沸々と湧き上がる。
「しかし、儂より怒りを顕わにされたのは、有徳院様であった。後の神無月、源壽院様は、処罰としか取れぬ扱いで罷免された。沙汰を下されたのは公方様だが、後押しをされたのは有徳院様であった。宇八郎の一件が、源壽院様の断罪を有徳院様に決意させるに至る、決め手となった」
驕りが過ぎた結末といえば、その通りだ。乗邑には他にも、吉宗に処される訳など、いくらでもあったろう。家重が乗邑を疎んじていたのも、事実だ。
(三社権現で、怨霊は兄上に、儂から総てを奪った、と吐き捨てた。内実は、これか)
家重や忠光を名指ししていたのも、今なら頷ける。
奥歯を噛みしめ、震える拳を何とか制する。
善次郎の姿を、忠光は沈痛な面持ちで見詰めた。
「その後、有徳院様は直ぐに其方に当家を継がせ、嘉太夫殿には隠居を命じられた。嘉太夫殿も大層な深手をおった故に、養生せよとの配慮であった。翌年、源之助に別家を持たせたのも、有徳院様と公方様の御配慮だ。明楽家を守るためであった」
三男である源之助は、延享三年に別家を許されている。二人の息子が明楽家を繋いだ顛末を見届けて、嘉太夫は死去した。
「斯様な事実を、儂は、何一つ……何一つ知らずに、今の今まで……」
溢れる思いが、口をついて出た。
歯痒さや悔しさが波のように押し寄せて、抑えきれなかった。
兄の犠牲の上に家督を継いだ。にも拘わらず、この六年、まともな仕事もできなかった。そんな自分が情けなく、腹立たしい。
「知らなんだのは、当然だ。其方が堅実に育つまで知らせてくれるな、というが知己たる嘉太夫殿からの、今際の際の願いだった。儂とて、同じ過ちを繰り返す気は、なかった。故に、其方に振る仕事を選んでおったのだ」
潤みかけた目を拭い、善次郎は低頭した。
「出雲守様の御心に、感謝致します。此度の大事な御役目を、善次郎めに御指示くださった公方様にも、感謝の仕様もござりませぬ」
詰まる喉から懸命に言葉を発する。小刻みに肩が震えるのを止めることは、できなかった。
「善次郎、今の其方になら、迷いなく御役目を指示できる。嘉太夫殿の許しも得られよう。源壽院の怨霊を討ち、獅子の御霊を解き放て。死霊となってまで御役目を全うし続ける宇八郎の御霊を、どうか救ってやってくれ」
忠光の言葉は下命であり、懇願であった。宇八郎の死霊への懺悔にすら、聞こえた。
善次郎は改めて平伏した。
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【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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