潺の鈴 御庭番怪異禄

霞花怜

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第四章

第四章 怨霊の、正体見たり《七》

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 陽が傾きかけ、風が冷たく感じられる、暮八つ半。

 善次郎は谷中にいた。

 忠光の指示した水茶屋≪鍵屋≫は、感応寺境内の笠森稲荷の鳥居脇にある。地主は御庭番の倉地家だ。

(これ以上に安全な場所は、ない)

 寺社奉行である青山因幡守忠朝と昵懇じっこんであり、御庭番を統括する御側御用取次の忠光だ。鍵屋なら、話が他者に漏れる懸念はない。

(つまりは、それだけ大事な話をなさるおつもりで、いらっしゃるのだ)

 獅子の荒魂を狙い、乗邑の怨霊が襲ってくる懸念は拭えない。だが、今となっては、どこにいようと同じだ。それに今日は、傍に善次郎が控えている。

 刀の鞘をぐっと握り、腹に力を籠めた。

 鍵屋の中を窺う。善次郎を見つけた店主の五兵衛が、駆け寄った。

「邪魔する。ここで人と待ち合わせをしておるのだが。中で、待たせてもらえるか」

 五兵衛は、にっこりとして、善次郎を促した。

「既に、御到着でございます。奥の座敷へ、お上がりください」

 善次郎は、そそくさと五兵衛の後を付いて行った。忠光を待たせるわけにはいかないと、早く来たつもりだったが、遅かったらしい。

 案内された座敷は、八畳間だ。既に忠光が湯呑を傾けながら、待っていた。

「お待たせを致しました。申し訳ございませぬ」

 善次郎が平伏すると、忠光は相好を緩ませた。

「気にするな。儂が先に来ておっただけだ。しばらく振りに、ここの茶を、ゆるりと愉しみたくてな。其方こそ、随分と早かったな」

 忠光の笑みが、湯呑の中の揺れる茶を眺める。目には、若干の憂いが混じって見えた。

 ゆらゆらと手の中で揺らしていた湯呑を置く。忠光が、善次郎に向き合った。

 善次郎は居直り、真っ直ぐに忠光を見詰める。

「まずは、仔細を報せよ。余すことなく、細密に頼む」

 忠光の言葉に小さく一つ、頭を下げる。善次郎は、八朔に御下命を拝してからの顛末を、できる限り委曲つばらかに、忠光に話して聞かせた。

「目安箱に紛れていた文字については、まだ何も掴めておりませぬ。故に引き続き、調べを進めております」

 一通り善次郎の話を聞いた忠光が、難しい顔をして押し黙った。

善次郎は固唾を飲んで忠光の言葉を待った。

「……公方様を認めぬと、源壽院様が仰ったのか? いや、怨霊に堕ち、隠した本音が、あからさまに出たのか……」

 独り言のように呟く忠光に、善次郎は頷く。

「兄……宇八郎は、源壽院様の怨霊に生前の誇りはない、と。恨みに飲まれ怨霊に堕ちたと、申しておりました」

 腕を組み、忠光が硬く目を瞑る。

「宇八郎が言うのなら、間違いなかろうな」

 やはり小さな声で呟いて、忠光は細く目を開いた。

「源壽院様が厳罰に処された当時に、御府内に流れた噂を知っておるか?」

 善次郎は、静かに頷いた。

 吉宗が推し進めた御改革で大きな功績を残した一翼が、松平左近将監乗邑だ。乗邑は自身に傾倒する幕閣を使い、特に農政を掌握していた。

 乗邑一派の最たる人物が勘定奉行・神尾かんお若狭守春央はるひでである。春英は「左近将監ほど人を良く使う人はなし、あの如く使われては誰にても働かねばならぬと云える」と乗邑の人使いを良くも悪くも評している。また「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という春英の言には、乗邑の政の一端が見て取れる。

 吉宗の腹心として政を牽引した乗邑であったが、延享二年、突如、失脚の憂き目にあった。吉宗が退位して大御所となり、嫡男・家重の襲位を表明した直後であった。

 幕閣の大変革と表しても過言でない一大事は、当時、江戸城内のみならず、御府内を駆け巡った。

 世間は、さほど驚きもしなかった。乗邑一派の強引な年貢増嵩政綱に、業を煮やしていたのは百姓町人だけではなかった。煽りを喰った旗本や大名も数多くいた。

「恐れながら、公方様の廃立を企てたが故、との噂なら、耳に致しました」

 乗邑の失脚に、胸のすく思いがした者も、嘲笑う者も多かったろう。そうした世間が、徒徒しく作り上げた噂、だったのかもしれない。

 善次郎はこの時、宇八郎の頓死を受け、明楽家当主を継いだ直後だった。自分の仕事に手一杯だったせいか、妙に冷めた目で周囲を眺めていたのを、覚えている。

「あれは浮言だ。とはいえ、根も葉もない、とは言い難い。源壽院様が田安中納言様を贔屓にされていたのは事実。だが、如何に宿老といえど、将軍継嗣に口を挟むような愚鈍ではない。源壽院様は才智の能吏であった」

 忠光がここまで言い切る乗邑の才に、善次郎も疑いの余地はない。それだけの功績を上げた事実は知っている。

「能吏では、あったが。過度であった。どれほど御公儀の財を蓄えても、民百姓や家臣の不満を高めては、政は続かぬ。源壽院様の才智と人為は、別物であった。意に添わぬ相手を暗に蹴落とし罠に嵌める汚い仕法も、厭わぬお人で、あったからな」

 事実、忠光の遠縁にあたる大岡越前守忠相も害を被ったと聞く。

 これまで老中が中心であった政が、吉宗により御側御用取次を重んじる趣向となった。老中が軽んじられた状態に対する、乗邑のささやかな抗いだったかもしれない。しかし、害を被った側からすれば、心には歪なしこりが残るものだ。

 忠光の眼に、陰りが落ちた。

「政において、清濁を使い分けるは、時に肝要だ。しかし、濁りきった目に、未来の泰平は映るまい。当時の源壽院様の眼は、濁り過ぎておった。それでも、厳罰を受け入れ、総てを胸に仕舞い、黙して逝かれた源壽院様は御立派であったと、思うておる」

 如何にも忠光らしい見解だと思った。物事や人を、一側面のみで判断するのではなく、多方面から見る。平静かつ公平でありながら、芯のある私見も持っている。

 善次郎の尊慕する忠光だ。

 落ちていた忠光の目の先が、善次郎に向いた。

「源壽院様の厳罰の内実は、いくつかあった。そのうちの一つが、宇八郎の頓死だ」

 突然に躍り出た兄の名に、善次郎は目を見開いた。

「何故、兄上が……」

 口走って、思い当った。宇八郎の遠国御用が、乗邑の見張りであったとしたら。

たらりと、嫌な汗が背中を流れた。

 善次郎の表情を見て取り、忠光は頷いた。

「宇八郎は有徳院様の御指図で、其方の父、嘉太夫殿と共に、源壽院様に張り付いておった。民の声を何より大事になさっていた有徳院様だ。頼りにする腹心ではあったが、源壽院様の陰での悪辣も心得ておられた。その振舞いを見過ごすはずもない」

 内実は知らなかったが、兄と父が共に御役目に勤しんでいた事実は知っている。部屋住だった善次郎は、二人が仕事に出向く背中を、羨ましく眺めていた。

「何故、明楽家に、その御役目が、指示されたのですか」

 御庭番十七家の中でも、明楽家は怪異を得意とする家柄だ。乗邑ほどの重役を相手取るなら、川村家や村垣家など、御庭番を束ねる立場にある家柄が向いている。

「内々に、妙な噂があった。源壽院様が生霊となりて獅子を従え、人を殺している、とな」

 ぞわり、と全身が総毛立った。

「真偽のわからぬ噂など、多く有しておられた源壽院様だ。斯様な話を鵜呑みにする者はなかったが、有徳院様だけは違った。当時まだ御用取次見習いであった儂に問うた。宇八郎は適任であるか、と」

 忠光と嘉太夫の間に、密かな親交があった事実を知っての問いであろう。自身が紀州より呼び寄せた、信を置く御庭番の質を更に確かめるのは、如何にも吉宗らしい。

「むしろ他に適任はない、と答えた。だが、それが、宇八郎の命を縮める顛末を招いた」

 忠光の話が進むに連れ、心ノ臓が嫌な音を立て始めた。ざわりざわりと、不穏な勘が頭の隅に擡げてくる。

「延享二年、文月も初めの頃だ。源壽院様は日光社参に参られた。宇八郎と嘉太夫殿も内々に張り付いていた。宇八郎が、獅子に切り裂かれて絶命した、との報を受けたのは、源壽院様が江戸に戻るより早く。命辛々戻った嘉太夫殿の報せであった」

 ぽたり、と握った拳の上に汗が垂れた。気付けば、額と首筋に、ねっとりした汗が噴き出していた。

「あの時は、獅子が噂通り源壽院様の使役する妖かは、定かではなかった。だが、江戸にお戻りになった源壽院様が、わざわざ儂を訪ねてきた。あの顔を見て、儂は感得した。何を言われたか、覚えておらぬ。だが、あの顔だけは、今でも鮮明に頭に浮かぶ」

 握り締めた拳と、絞り出す声が、忠光の憤りを如実に表している。

 善次郎は愕然とした。

(兄上は、源壽院様に殺された、のか。長七とお鴇を庇って死んだのでは、なかったのか)

 忠光に問おうにも、怒りに震える喉から、声が出ない。

(問うまでもない。出雲守様の話なら、長七とお鴇は偶然に、巻き込まれただけだ。獅子の狙いは、明らかだ)

 得も言われぬ憎しみが、善次郎の中に沸々と湧き上がる。

「しかし、儂より怒りを顕わにされたのは、有徳院様であった。後の神無月、源壽院様は、処罰としか取れぬ扱いで罷免された。沙汰を下されたのは公方様だが、後押しをされたのは有徳院様であった。宇八郎の一件が、源壽院様の断罪を有徳院様に決意させるに至る、決め手となった」

 驕りが過ぎた結末といえば、その通りだ。乗邑には他にも、吉宗に処される訳など、いくらでもあったろう。家重が乗邑を疎んじていたのも、事実だ。

(三社権現で、怨霊は兄上に、儂から総てを奪った、と吐き捨てた。内実は、これか)

 家重や忠光を名指ししていたのも、今なら頷ける。

 奥歯を噛みしめ、震える拳を何とか制する。

 善次郎の姿を、忠光は沈痛な面持ちで見詰めた。

「その後、有徳院様は直ぐに其方に当家を継がせ、嘉太夫殿には隠居を命じられた。嘉太夫殿も大層な深手をおった故に、養生せよとの配慮であった。翌年、源之助に別家を持たせたのも、有徳院様と公方様の御配慮だ。明楽家を守るためであった」

 三男である源之助は、延享三年に別家を許されている。二人の息子が明楽家を繋いだ顛末を見届けて、嘉太夫は死去した。

「斯様な事実を、儂は、何一つ……何一つ知らずに、今の今まで……」

 溢れる思いが、口をついて出た。

 歯痒さや悔しさが波のように押し寄せて、抑えきれなかった。

 兄の犠牲の上に家督を継いだ。にも拘わらず、この六年、まともな仕事もできなかった。そんな自分が情けなく、腹立たしい。

「知らなんだのは、当然だ。其方が堅実に育つまで知らせてくれるな、というが知己たる嘉太夫殿からの、今際の際の願いだった。儂とて、同じ過ちを繰り返す気は、なかった。故に、其方に振る仕事を選んでおったのだ」

 潤みかけた目を拭い、善次郎は低頭した。

「出雲守様の御心に、感謝致します。此度の大事な御役目を、善次郎めに御指示くださった公方様にも、感謝の仕様もござりませぬ」

 詰まる喉から懸命に言葉を発する。小刻みに肩が震えるのを止めることは、できなかった。

「善次郎、今の其方になら、迷いなく御役目を指示できる。嘉太夫殿の許しも得られよう。源壽院の怨霊を討ち、獅子の御霊を解き放て。死霊となってまで御役目を全うし続ける宇八郎の御霊を、どうか救ってやってくれ」

 忠光の言葉は下命であり、懇願であった。宇八郎の死霊への懺悔にすら、聞こえた。

 善次郎は改めて平伏した。

「新たに賜りました御役目、善次郎が必ずや、成し遂げて参ります。良き報せを持ち帰ると、御約束致します」

 額の汗が、押し付けた畳に滲む。善次郎の胸には以前にも増して、確固たる決意が漲っていた。

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