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第五章
第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《二》
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菰が取り去られた店先には、真新しい戸が入っていた。溢れんばかりに陽の光が入り込む戸口から、善次郎は外に出た。
「善次郎様! 待っておりやしたよ。早く、こっちに来てくだせぇ! 早く、早く!」
長七の声に、振り返る。道具の片付けをしていた長七が手を止め、善次郎に駆け寄った。
「出来上がったか!」
待ちきれないとばかりに、振り向こうとする善次郎の袖を引く。壁に背を向ける善次郎を、長七が向かいの板壁まで引っ張った。
「ここで、振り返ってくだせぇ!」
言われた通りに、善次郎が振り返る。皓月堂の壁の全面が、目の中一杯に飛び込んだ。
「何と……」
全面を見るや、善次郎は言葉を失った。
左下に広がる灰白の群雲から、厳かに顔を出す龍。体の所々に赤や黄の紅葉を纏う。右上に皓々と灯る月を見据える目は、今にも動き出しそうだ。漣紋の壁は、地に大胆な朱塗りを施している。だが、所々に入る紺青や黒のせいか、夜を思わせる。
陽の光を受けて輝く龍に、歩み寄る。
間近で見ると、龍の鱗の一つ一つまで細微に作られているのが、わかる。翻る紅葉の踊躍や、丸い月の陰影が色の濃淡で表される。
まるで屏風絵を見せられているような気になった。
「……見事だ」
善次郎は、ようやく言葉を零した。
色のない鏝絵の時も、充分、驚いた。色が載り、長七の鏝絵の本当の素晴らしさを、全身で感じていた。
隣に立つ長七が、ほっとした顔で、息を吐いた。
「俺も、満足のいく仕上がりになりやした。気に入ってもらえて良かった」
長七を振り返る。平素は明るい江戸っ子の長七が、とても落ち着いた目で、微笑んでいた。全身が纏う気は、長七が作り上げた鏝絵と同じに見えた。
「こんだけのもんを、この短い間で作り上げちまうんだから。大ぇしたもんだ」
店の戸口から顔を出した皓月が、壁を見上げて、うっとりと目を細める。皓月も、気に入ったのだろう。
善次郎は長七に向き合った。
「皓月堂の壁をこれほど立派に仕上げてもらい、本当に感謝する。どう、礼をしたらいいか」
「いやいや、これぁ、俺からの礼でさぁ。大事な道具を手入れしてもらって、お鴇まで助けてもらったんだ。足りねぇくらいでさぁ。これ以上、善次郎様に礼を貰っちゃぁ、あべこべになっちまう」
照れながら頭を掻く長七は、とても嬉しそうだ。
「皓月さんも気に入ってくれやしたし。その上、こんだけ善次郎様が気に入ってくれりゃぁ、俺ぁ、もう充分だ。最高の礼を貰った気分ですよ」
長七が、にっかりと笑って見せた。
(この鏝絵は、長七そのものだ)
壁が仕上がっていく成行を見ながら、善次郎は多くの真理を長七から感じ取った。心剣も、その一つだ。
善次郎はもう一度、壁の鏝絵を見上げた。丁寧に全体を隈なく鑑賞する。
(やはり、長七にしか、頼めぬ)
福徳稲荷社で縫殿助と約束した、狛犬の修復。長七でなければ、きっと直せない。仕上がった壁を見て、善次郎は改めて感じた。
「頼みたい仕事が、もう一つ、ある。引き受けてくれまいか」
長七に向き直る。善次郎の顔を見た長七が、笑みを仕舞った。
「善次郎様の頼みなら、何でも、引き受けやすよ」
即答した長七に、善次郎は驚いた。
「まだ、仕事の内実を、話しておらぬが」
「構わねぇ。善次郎様が真面目な顔で相談なさる仕事なら。俺を見込んで頼んでくださるんでしょう。内実を聞くのは、引き受けてからで、遅くねぇ」
善次郎が目を見開く。長七が、悪戯っ子のように笑った。
「俺ぁ、どうやら善次郎様に、惚れたみてぇだ。善次郎様が喜んでくださると、気持ちが弾むんでさぁ」
「それなら、儂も同じだ。長七の人柄にも、鏝絵にも、すっかり惚れた」
善次郎が手を差し出す。長七が、力強く手を握り返した。
「これからも、よろしく頼む」
頷く長七を眺める善次郎の胸の内に、一つの決意が芽生えた。
「皆さん、お酒の準備が、できましたよ」
店の中から出てきたお鴇と、目が合う。お鴇は、気恥ずかし気に目を逸らした。が、すぐに目を上げた。ほんのり朱に染まった頬で、善次郎に笑みを向ける。
先ほどの始末を思い出し、善次郎の耳が熱くなった。
(何を狼狽する。やましい気持ちなど、ない。……ないぞ)
勝手に速まる動悸に気付かぬ振りをして、平生を保つ。
「酒? 酒宴でも、するのか?」
「壁が仕上がった祝いを、ね。皆で、しようと思いやして。今日にも二人は、長屋に帰りやすから」
向いた皓月の瞳が、別の意を物語る。
(二人が帰れば、いよいよ怨霊の討伐だからな)
明後日の決闘については、まだ誰にも話していない。だが、支度を整えるようには、伝えてある。潺への労いを兼ねた宴だろう。二人が帰るのを切掛にした、皓月の気遣いだ。
討伐への気概とは別に、善次郎の中に少しだけ、もの悲しい気持ちが湧いた。
お鴇が、きゃっ、と上げた小さな悲鳴に、善次郎は振り返った。すぐさま駆け寄る。
壁を向いていたお鴇の目が、ふと緩んだ。
不思議に思い、壁に目を向ける。龍の目が、きょろきょろと動いていた。
「長七は、鏝絵に斯様な妙技まで、施せるのか?」
驚く善次郎に、長七が手を振る。
「違いやすよ。こいつぁ、悪戯です」
長七が、くくっと笑う。お鴇も、同じ顔で笑った。
「心太ちゃんも、気に入ってくれたみたいですね」
じっと龍を見つめる。龍の目から、座敷ぼっこと同じ気這いを感じた。
「神や妖もが好む、との噂は、本当なのだな」
長七という男の蠱惑に、善次郎は、改めて感じ入った。
心太が龍の目を、くるくると回す。なんだか可笑しくなって、善次郎も声を上げて笑った。
暖かい陽に包まれた穏やかな時が、冴えた風と共に流れていた。
「善次郎様! 待っておりやしたよ。早く、こっちに来てくだせぇ! 早く、早く!」
長七の声に、振り返る。道具の片付けをしていた長七が手を止め、善次郎に駆け寄った。
「出来上がったか!」
待ちきれないとばかりに、振り向こうとする善次郎の袖を引く。壁に背を向ける善次郎を、長七が向かいの板壁まで引っ張った。
「ここで、振り返ってくだせぇ!」
言われた通りに、善次郎が振り返る。皓月堂の壁の全面が、目の中一杯に飛び込んだ。
「何と……」
全面を見るや、善次郎は言葉を失った。
左下に広がる灰白の群雲から、厳かに顔を出す龍。体の所々に赤や黄の紅葉を纏う。右上に皓々と灯る月を見据える目は、今にも動き出しそうだ。漣紋の壁は、地に大胆な朱塗りを施している。だが、所々に入る紺青や黒のせいか、夜を思わせる。
陽の光を受けて輝く龍に、歩み寄る。
間近で見ると、龍の鱗の一つ一つまで細微に作られているのが、わかる。翻る紅葉の踊躍や、丸い月の陰影が色の濃淡で表される。
まるで屏風絵を見せられているような気になった。
「……見事だ」
善次郎は、ようやく言葉を零した。
色のない鏝絵の時も、充分、驚いた。色が載り、長七の鏝絵の本当の素晴らしさを、全身で感じていた。
隣に立つ長七が、ほっとした顔で、息を吐いた。
「俺も、満足のいく仕上がりになりやした。気に入ってもらえて良かった」
長七を振り返る。平素は明るい江戸っ子の長七が、とても落ち着いた目で、微笑んでいた。全身が纏う気は、長七が作り上げた鏝絵と同じに見えた。
「こんだけのもんを、この短い間で作り上げちまうんだから。大ぇしたもんだ」
店の戸口から顔を出した皓月が、壁を見上げて、うっとりと目を細める。皓月も、気に入ったのだろう。
善次郎は長七に向き合った。
「皓月堂の壁をこれほど立派に仕上げてもらい、本当に感謝する。どう、礼をしたらいいか」
「いやいや、これぁ、俺からの礼でさぁ。大事な道具を手入れしてもらって、お鴇まで助けてもらったんだ。足りねぇくらいでさぁ。これ以上、善次郎様に礼を貰っちゃぁ、あべこべになっちまう」
照れながら頭を掻く長七は、とても嬉しそうだ。
「皓月さんも気に入ってくれやしたし。その上、こんだけ善次郎様が気に入ってくれりゃぁ、俺ぁ、もう充分だ。最高の礼を貰った気分ですよ」
長七が、にっかりと笑って見せた。
(この鏝絵は、長七そのものだ)
壁が仕上がっていく成行を見ながら、善次郎は多くの真理を長七から感じ取った。心剣も、その一つだ。
善次郎はもう一度、壁の鏝絵を見上げた。丁寧に全体を隈なく鑑賞する。
(やはり、長七にしか、頼めぬ)
福徳稲荷社で縫殿助と約束した、狛犬の修復。長七でなければ、きっと直せない。仕上がった壁を見て、善次郎は改めて感じた。
「頼みたい仕事が、もう一つ、ある。引き受けてくれまいか」
長七に向き直る。善次郎の顔を見た長七が、笑みを仕舞った。
「善次郎様の頼みなら、何でも、引き受けやすよ」
即答した長七に、善次郎は驚いた。
「まだ、仕事の内実を、話しておらぬが」
「構わねぇ。善次郎様が真面目な顔で相談なさる仕事なら。俺を見込んで頼んでくださるんでしょう。内実を聞くのは、引き受けてからで、遅くねぇ」
善次郎が目を見開く。長七が、悪戯っ子のように笑った。
「俺ぁ、どうやら善次郎様に、惚れたみてぇだ。善次郎様が喜んでくださると、気持ちが弾むんでさぁ」
「それなら、儂も同じだ。長七の人柄にも、鏝絵にも、すっかり惚れた」
善次郎が手を差し出す。長七が、力強く手を握り返した。
「これからも、よろしく頼む」
頷く長七を眺める善次郎の胸の内に、一つの決意が芽生えた。
「皆さん、お酒の準備が、できましたよ」
店の中から出てきたお鴇と、目が合う。お鴇は、気恥ずかし気に目を逸らした。が、すぐに目を上げた。ほんのり朱に染まった頬で、善次郎に笑みを向ける。
先ほどの始末を思い出し、善次郎の耳が熱くなった。
(何を狼狽する。やましい気持ちなど、ない。……ないぞ)
勝手に速まる動悸に気付かぬ振りをして、平生を保つ。
「酒? 酒宴でも、するのか?」
「壁が仕上がった祝いを、ね。皆で、しようと思いやして。今日にも二人は、長屋に帰りやすから」
向いた皓月の瞳が、別の意を物語る。
(二人が帰れば、いよいよ怨霊の討伐だからな)
明後日の決闘については、まだ誰にも話していない。だが、支度を整えるようには、伝えてある。潺への労いを兼ねた宴だろう。二人が帰るのを切掛にした、皓月の気遣いだ。
討伐への気概とは別に、善次郎の中に少しだけ、もの悲しい気持ちが湧いた。
お鴇が、きゃっ、と上げた小さな悲鳴に、善次郎は振り返った。すぐさま駆け寄る。
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驚く善次郎に、長七が手を振る。
「違いやすよ。こいつぁ、悪戯です」
長七が、くくっと笑う。お鴇も、同じ顔で笑った。
「心太ちゃんも、気に入ってくれたみたいですね」
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長七という男の蠱惑に、善次郎は、改めて感じ入った。
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