15 / 51
第三章 役者の似絵と一抹の影
5.
しおりを挟む
桶の水を替えに入ってきた手代の勇助に喜乃を任せて、長喜は部屋を出た。
「やい、長喜! お喜乃は無事なのか? まだ眠っているのかよ。ちゃんと目覚めるんだろうな」
左七郎が、どかどかと廊下を歩いて来た。
「お喜乃は無事だよ。今は、ぐっすり寝ていらぁ。静かに歩きやがれ。それとな、俺の呼び名は、子興か長喜か、どっちかにしろ」
長喜は自分の部屋に向かう。左七郎が後を付いて来た。
「これからは、長喜と呼ぶぜ。お喜乃が、あんたを長喜兄さんと呼んでいたからな。子興って号は、今は使っちゃぁいねぇんだろ」
「まぁな。お前ぇ、お喜乃にずいぶんと肩入れしているなぁ。いつの間に、仲良くなったんだ?」
部屋に入り、どっかりと座り込む。目の前で、左七郎が胡坐を掻いた。
「お喜乃は、師匠が読売を読み終えるのを、隣で一緒に待ってくれたからな。絵を探すのを諦めろとも、止めろとも言わなかった。だから俺ぁ、お喜乃の味方だ。あいつが困っていたら、助けるぜ」
左七郎の言葉は真っ直ぐだ。無鉄砲で癇癪持ちの小僧は、もともと素直な性質なのだろう。石燕が憎めずに構う気持ちが、少しだけわかった。
「なるほどねぇ。ところで、お前ぇさん、仕事は何をしているんだ? 御武家の子けぇ?」
口調は町人のそれだが、立ち振舞いは商人や職人ではなさそうだ。左七郎は頷き、にやりと笑んだ。
「長喜は見る目があらぁ。俺の名は、滝沢左七郎興邦だ。奉公しながら戯作を書いてんだ。そのために、幽霊や妖怪の噂を集めていんのさ。今に、江戸一番の戯作者になるぜ」
長喜は首を捻った。
「師匠の絵を探していんのは、母親のためだろ? 本当は、戯作の種にしてぇのか?」
左七郎の顔から笑みが消えた。
「両方だ。でも今は、母上に見せてやりてぇ気持ちのほうが大きいよ。本当は、あんたに翁の絵探しを手伝ってもらいてぇ。けど、お喜乃が、あねぇな目に遭って、あんたの言葉の意味が分かった。俺は何ともなくとも、周りの誰かが傷付くかもしれねぇんだよな。そねぇな事体は望んじゃいねぇ。諦めは付かねぇけど、もう一遍、よく考えるよ」
左七郎が神妙な面持ちで語る。長喜は、小さく噴き出した。
「お前ぇさん、頭が良いなぁ。聞き分けも良い。ちゃぁんと、わかっているんだな」
左七郎が顔を顰めて、長喜を睨む。
「餓鬼扱いするねぃ。頭が良いから戯作が書けるんだ。常情くれぇ持ち合わせていらぁ」
悪い悪いと、長喜は笑った。
「あの絵はな、師匠にとっても殊更に大事なんだ。消えた時ぁ、俺と師匠でさんざ探し回ったが、影も形も見付からなかった。それから、時々には探していんだよ。年に数回、見廻りする程度だがな。だからよ、長い目で探す気ぃがあんのなら、俺が見廻る時に付いてきても良いぜ」
左七郎の顔が、明るくなっていく。
「付いていく! 一緒に探すぜ! 次は、いつだぃ? 俺ぁ、毎日だって、いいぜ」
前にのめり迫る左七郎を、手で押し戻す。
「年に数回って言っただろうが。次は、師走の初め頃だよ。闇雲に探したって何も出やしねぇ。お前ぇは次の見廻りまでに、噂や読売を集めておきな」
左七郎が、すっくと立ちあがった。
「合点承知でぇ! そうと決まれば、明日から種探しだ。俺に任せておけよ。最上の報せを持ってくるぜ。それじゃぁな!」
左七郎が部屋を飛び出す。大股に廊下を走って行った。
「騒がしい野郎だ。まるで、嵐が去ったみてぇだ。結局、面倒を見る羽目になったなぁ。師匠の思惑通りってぇなところかなぁ」
石燕の得意顔が浮かぶ。
(月沙に揶揄われるだろうなぁ。石鳥は、怒るかな。いやいや、あいつぁ、左七郎に同情していたし、安堵するかな)
想像すると笑みが零れた。
全くの行方知れずである浅草寺の絵は、長喜も石燕も、半ば諦めていた。暗闇の中にあった話に一筋の光明が差した気がした。
(兆しかもなぁ。見付かりゃぁいいが。ちぃっと気張って探すとするかね)
長喜は仕舞い込んでいた古い読売を棚の奥から引っ張り出した。
【補足情報】
この小五月蠅いガキンチョ(17歳だけど)が、のちの曲亭(滝沢)馬琴、『南総里見八犬伝』の生みの親です。自分で宣言した通り、江戸一番の戯作者になります。馬琴さんは御武家様のためか、割と資料が残っていますね。有名な文化人とは大体友達、みたいな人です。山東京伝(伝蔵)大好きで押しかけたり、蔦重のとこで手代やってたり、北斎(鉄蔵)と組んで戯作の挿絵描いてもらったり。鉄蔵とは一緒に住んでたこともあったみたいだけど、すぐ別々に暮らしてます。きっと性格が合わなかったんだろうなぁと思います。大胆に見えて肝は小さそうだし、きっちりした性格してそうなので、部屋が汚れたら引っ越します的な発想の北斎と合うはずがない。晩年の頃には二人とも大御所様になる訳ですが、そんな二人が売れなかった頃の自分を思い返して、どう感じるのかな、などと考えると、楽しいですね。この物語は北斎(鉄蔵)も馬琴(左七郎)も売れていなかった頃の話なので、なんというか滾ります。
「やい、長喜! お喜乃は無事なのか? まだ眠っているのかよ。ちゃんと目覚めるんだろうな」
左七郎が、どかどかと廊下を歩いて来た。
「お喜乃は無事だよ。今は、ぐっすり寝ていらぁ。静かに歩きやがれ。それとな、俺の呼び名は、子興か長喜か、どっちかにしろ」
長喜は自分の部屋に向かう。左七郎が後を付いて来た。
「これからは、長喜と呼ぶぜ。お喜乃が、あんたを長喜兄さんと呼んでいたからな。子興って号は、今は使っちゃぁいねぇんだろ」
「まぁな。お前ぇ、お喜乃にずいぶんと肩入れしているなぁ。いつの間に、仲良くなったんだ?」
部屋に入り、どっかりと座り込む。目の前で、左七郎が胡坐を掻いた。
「お喜乃は、師匠が読売を読み終えるのを、隣で一緒に待ってくれたからな。絵を探すのを諦めろとも、止めろとも言わなかった。だから俺ぁ、お喜乃の味方だ。あいつが困っていたら、助けるぜ」
左七郎の言葉は真っ直ぐだ。無鉄砲で癇癪持ちの小僧は、もともと素直な性質なのだろう。石燕が憎めずに構う気持ちが、少しだけわかった。
「なるほどねぇ。ところで、お前ぇさん、仕事は何をしているんだ? 御武家の子けぇ?」
口調は町人のそれだが、立ち振舞いは商人や職人ではなさそうだ。左七郎は頷き、にやりと笑んだ。
「長喜は見る目があらぁ。俺の名は、滝沢左七郎興邦だ。奉公しながら戯作を書いてんだ。そのために、幽霊や妖怪の噂を集めていんのさ。今に、江戸一番の戯作者になるぜ」
長喜は首を捻った。
「師匠の絵を探していんのは、母親のためだろ? 本当は、戯作の種にしてぇのか?」
左七郎の顔から笑みが消えた。
「両方だ。でも今は、母上に見せてやりてぇ気持ちのほうが大きいよ。本当は、あんたに翁の絵探しを手伝ってもらいてぇ。けど、お喜乃が、あねぇな目に遭って、あんたの言葉の意味が分かった。俺は何ともなくとも、周りの誰かが傷付くかもしれねぇんだよな。そねぇな事体は望んじゃいねぇ。諦めは付かねぇけど、もう一遍、よく考えるよ」
左七郎が神妙な面持ちで語る。長喜は、小さく噴き出した。
「お前ぇさん、頭が良いなぁ。聞き分けも良い。ちゃぁんと、わかっているんだな」
左七郎が顔を顰めて、長喜を睨む。
「餓鬼扱いするねぃ。頭が良いから戯作が書けるんだ。常情くれぇ持ち合わせていらぁ」
悪い悪いと、長喜は笑った。
「あの絵はな、師匠にとっても殊更に大事なんだ。消えた時ぁ、俺と師匠でさんざ探し回ったが、影も形も見付からなかった。それから、時々には探していんだよ。年に数回、見廻りする程度だがな。だからよ、長い目で探す気ぃがあんのなら、俺が見廻る時に付いてきても良いぜ」
左七郎の顔が、明るくなっていく。
「付いていく! 一緒に探すぜ! 次は、いつだぃ? 俺ぁ、毎日だって、いいぜ」
前にのめり迫る左七郎を、手で押し戻す。
「年に数回って言っただろうが。次は、師走の初め頃だよ。闇雲に探したって何も出やしねぇ。お前ぇは次の見廻りまでに、噂や読売を集めておきな」
左七郎が、すっくと立ちあがった。
「合点承知でぇ! そうと決まれば、明日から種探しだ。俺に任せておけよ。最上の報せを持ってくるぜ。それじゃぁな!」
左七郎が部屋を飛び出す。大股に廊下を走って行った。
「騒がしい野郎だ。まるで、嵐が去ったみてぇだ。結局、面倒を見る羽目になったなぁ。師匠の思惑通りってぇなところかなぁ」
石燕の得意顔が浮かぶ。
(月沙に揶揄われるだろうなぁ。石鳥は、怒るかな。いやいや、あいつぁ、左七郎に同情していたし、安堵するかな)
想像すると笑みが零れた。
全くの行方知れずである浅草寺の絵は、長喜も石燕も、半ば諦めていた。暗闇の中にあった話に一筋の光明が差した気がした。
(兆しかもなぁ。見付かりゃぁいいが。ちぃっと気張って探すとするかね)
長喜は仕舞い込んでいた古い読売を棚の奥から引っ張り出した。
【補足情報】
この小五月蠅いガキンチョ(17歳だけど)が、のちの曲亭(滝沢)馬琴、『南総里見八犬伝』の生みの親です。自分で宣言した通り、江戸一番の戯作者になります。馬琴さんは御武家様のためか、割と資料が残っていますね。有名な文化人とは大体友達、みたいな人です。山東京伝(伝蔵)大好きで押しかけたり、蔦重のとこで手代やってたり、北斎(鉄蔵)と組んで戯作の挿絵描いてもらったり。鉄蔵とは一緒に住んでたこともあったみたいだけど、すぐ別々に暮らしてます。きっと性格が合わなかったんだろうなぁと思います。大胆に見えて肝は小さそうだし、きっちりした性格してそうなので、部屋が汚れたら引っ越します的な発想の北斎と合うはずがない。晩年の頃には二人とも大御所様になる訳ですが、そんな二人が売れなかった頃の自分を思い返して、どう感じるのかな、などと考えると、楽しいですね。この物語は北斎(鉄蔵)も馬琴(左七郎)も売れていなかった頃の話なので、なんというか滾ります。
4
あなたにおすすめの小説
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる