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第四章 現を楽しく写す
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天明八年五月一日(一七八八年六月四日)。
喜乃が耕書堂に居住を始めてから、五年が経つ。長喜は今日も、文机を庭に向けて、紫陽花の絵を描いていた。
「すっかり夏だなぁ。緑が濃くって気持ちがいいや。花の色も鮮やかだ。描き甲斐があらぁ」
軽快に筆を滑らせていると、数人の話し声が聞こえてきた。
「おーい、勇助! 帰ぇったぞ! 茶ぁ、淹れろぃ! 皆に、土産を配りな!」
重三郎の大声が響く。日光参りから帰ってきたようだ。店の中がざわつく。騒がしい最中から抜け出した足音が、長喜の部屋の前で止まった。
「よぉ、長喜。今、帰ぇったぜ。景気は、どうでぇ。変わりねぇように見えるが」
ひょっこりと顔を出した伝蔵が、にっと笑む。
「仰る通り、変わりねぇよ。お前ぇは、いっつも一言が多いよなぁ。日光は楽しかったかぇ」
荷を下ろして、伝蔵が縁側廊下に腰を下ろした。
「江戸より寒かったなぁ。中禅寺湖に行ったんだが、着くまでに、いくつも滝があってな。方等滝に般若滝、裏っ側に入れる裏見ノ滝なんか、面白くってよ。飛沫が掛かるくれぇ水が近ぇんだ! 霧降ノ滝ってぇのもあったなぁ」
伝蔵が鼻息を荒くする。
「霧降ノ滝なら、確か、鉄蔵も話していたなぁ。いつか描きてぇって賛していたよ」
「鉄蔵の気持ちは、わかるぜ。けど俺は、華厳の滝を賛するね! 水勢が怖ぇくれぇでよ。滝壷が深くって、ぞっとしたぜ。 あすこにゃぁ、きっと何か、住んでいるぜ。長喜なら、人魚くれぇ見付けただろうに。一緒に来りゃぁ良かったんだ」
伝蔵が童のように口を窄めた。
「お前ぇだって見えるんだから、いくらだって人魚を探せるだろ。俺も行きたかったが、絵の仕事があったしなぁ。伝蔵は、大丈夫なのかよ。黄表紙の仕事が溜まっているだろ」
にしし、と面白尽に笑う。
山東京伝は今や、押しも押されもせぬ寵子の作家だ。江戸中の人々が京伝の本を読んでいると言っても過言ではない。戯作だけでなく、本の挿絵も描いている。伝蔵の絵の腕前は、めきめき伸びて、戯作に負けず人気があった。
「仕事よりも要用の頼まれ事があったからよ。ほれ、大事な土産だ。鉄蔵は、まだ帰らねぇのかぇ」
伝蔵が、小さな包みを懐から取り出す。
「今頃、日銭を稼いでいるんだろうぜ。昼間は、お前ぇも鉄蔵もいねぇから、静かに感じるよ」
伝蔵は、昨年の冬頃から耕書堂の居住をやめて京橋の実家に戻っていた。弟子入り志願者が増えたのが一番の事情だ。
「何でぇ、寂しいのか? 蔦重さんとの談合に来た時に、顔を合わせるだろうに」
「いやぁ、寂しいのは、俺じゃぁなくってな。お喜乃が、やっぱり少し、元気がねぇように見えるぜ」
十歳になった喜乃は、今でも耕書堂の下働きを続けている。仕事の合間に、長喜や伝蔵の部屋で本を読むのも変わっていない。伝蔵がいなくなった今は、長喜の部屋に入り浸るようになった。
伝蔵が、ふぅんと気のない返事をした。
「本なら、俺の部屋でなくとも読めるだろう。今は絵描きが好きなんだし、お前ぇが石燕先生の庵に、連れて行ってやれよ」
「毎日のように通っていらぁ。そうじゃぁなくってよ。お喜乃は、お前ぇに会えねぇのが寂しいんだよ。わかっているだろうが。せめて、耕書堂に顔を出した時くれぇは、相手にしてやれよ」
「居住していた時と同じに、話しているぜ。長喜はお喜乃の話になると、真面目過ぎるねぇ。お前ぇは俺と同じ質だと思っていたんだがなぁ。どうにも、お喜乃には肩入れしてぇようだな」
長喜は、むっと口を窄めた。
「肩入れなんざ、しちゃぁいねぇよ。一緒に住んでいりゃぁ、それなりに構うだろ。関わりゃぁ、顔色もわかる。元気がなけりゃぁ、気にもなるだろ」
今度は伝蔵が、にししと笑った。
「御高説、どうも。俺が居住していた時、そねぇに構ってくれたかねぇ。覚えがねぇなぁ」
とぼけた顔に、長喜は、あからさまに不機嫌な顔をして見せた。伝蔵が眉を下げて笑った。
「お喜乃が俺を好いてんのは、知っているけどよ。俺ぁ、そろそろ嫁を取るつもりだし、構ったら余計に可哀想だろ。それにな、お喜乃には悪ぃが、本気で相手にゃぁ、できねぇよ」
長喜は、ちらりと伝蔵に目を向けた。
「お喜乃本人に難はねぇ。難儀なのは事情よ。もう五年も丁稚をしているが、俺らはお喜乃の出自も何も知らねぇ。御武家の子だろうとは思うが、女子をこねぇに他所に出すもんかね。縁談があってもおかしくねぇ歳だぜ。何かあると勘ぐるだろ」
確かにその通りだと、長喜も思う。
ほんの一月か二月、というならまだしも、喜乃はもう五年も耕書堂にいる。十郎兵衛が時々には顔を見に来るが、それだけだ。家に戻る話は一つも出ない。
「だからって相手にしねぇんじゃぁ、お喜乃が可哀想だ。あいつの気持ちもわかってやれよ」
言葉に勢いがなくなった。伝蔵の話は、よく理解できる。
「これまで通り、踏み込みすぎねぇ関りが、互いのためだよ。俺ぁ、お喜乃よりお前ぇを案じているぜ。長喜、お喜乃には深入りすんなよ。友人としての忠告だ」
元より、あっさりした友好を好む伝蔵が、忠告などしてくるのは珍しい。
「案じられるほど、深入りしちゃぁいねぇよ。お前ぇこそ、考えすぎだろ」
伝蔵が真面目な目で長喜を見詰めた。
「考えねぇ訳じゃぁ、ねぇんだろ。引き返せるうちに、ちゃぁんと考えておけよ」
否むか頷くか、昏惑した。とっさに判じられない自分は、伝蔵と同じ考えを持っている。だが、喜乃を放ってもおけない。答えが出なかった。
廊下の向こうから、床が割れんばかりの足音が響いた。
「帰ぇったぞ! お喜乃は、まだ仕事だな。間に合ったな。伝蔵も帰ぇっていたのけぇ。例のもんは買ってきたんだろうな」
鉄蔵が大股で部屋に入ってきた。赤い着物に頭巾を被り、背中に作り物の唐辛子を背負ったまま、どっかりと腰を下ろした。
「まぁた唐辛子売りしていたのけぇ。いつ見ても可笑しいや。全く似合っていねぇ姿が、殊更に可笑しいなぁ」
伝蔵が遠慮もなく声を出して笑う。
鉄蔵が、あからさまに顔を顰めて、伝蔵を小突いた。
「煩せぇ! 好きでしているんじゃぁねぇや。口を塞いでやる。こっちに来やがれ!」
鉄蔵が伝蔵に飛び掛かる。
伝蔵は、なおも笑ったまま、長喜の後ろに隠れた。
「長喜も何とか言ってやれよ。何のかんのと、鉄蔵は唐辛子姿が気に入っているんだぜ。お喜乃に見せてやりてぇんだろ?」
鉄蔵の姿を眺めていた長喜は、ぷっと噴き出した。
「俺ぁ、良いと思うぜ。何度も見ているから、馴染んできた。鉄蔵も好きでやっている仕事だろ?」
「違わぃ! 二人して揶揄いやがって! 今日は一日、唐辛子売りだから、着替えるのが手間なんだ。用が済んだら、仕事に戻るんだよ! 手前ぇは、さっさと俺の頼んだ物を出しやがれ!」
鉄蔵が顔を真っ赤にして拳を振り上げる。
頭を庇いながら、伝蔵が包みを渡した。
「怖ぇ怖ぇ。ほれ、鉄蔵気に入りの筆師が作った筆だ。わざわざ日光まで行かずとも、筆師なら江戸にいくらでもいるだろうに」
鉄蔵が、包みを解く。細い桐箱が現れた。
蓋の隅に「喜乃」の二文字が刻まれている。
「これが、良いんだよ。お前ぇらも、納得尽だろうが。この筆は、俺ら三人からの贈物だ。欲しいもんも買わずに金を貯めていた、お喜乃への褒美ってな」
今日、ここに三人を呼び出したのは、喜乃だった。鉄蔵に筆を返すためだ。それに合わせて、三人は喜乃に贈物を用意した次第だ。勿論、喜乃には秘密にしている。
伝蔵が、楽しそうに含み笑いをした。
「筆を返してもらうのに、筆を贈るなんざ、いかにも鉄蔵らしい思い付きだよな」
「いいだろうが。お喜乃は本気で絵を描いてんだ。筆は、いくらあっても、邪魔にゃぁならねぇよ」
「今は、俺や伝蔵の使い古しの筆で絵を描いているから、お喜乃は、きっと喜ぶぜ」
喜乃の計らいとはいえ、三人が集まるのは久し振りだ。少し前の耕書堂の賑わいが戻ったようで、長喜の心は弾んだ。
【補足情報】
鉄蔵の唐辛子売りは、ちゃんと資料にも残っている史実です。破門になって絵だけでは食べて行けなくて、鉄蔵さんはいくつもアルバイトをしていました。その中の一つが唐辛子売りで、当時は赤い着物を着て唐辛子の被り物を頭に被って「とん♪とん♪とんがらしは~」みたいに歌いながら売り歩くスタイルでした。目立たないと売れないからね。江戸時代は着ぐるみとか被り物が結構たくさんありまして、錦絵にも残っていたりします。
ちなみに前半に日光の滝の話が出てきますが、鉄蔵(北斎)はのちに霧降ノ滝の絵を描いています。ご興味ありましたら検索してみてください。
喜乃が耕書堂に居住を始めてから、五年が経つ。長喜は今日も、文机を庭に向けて、紫陽花の絵を描いていた。
「すっかり夏だなぁ。緑が濃くって気持ちがいいや。花の色も鮮やかだ。描き甲斐があらぁ」
軽快に筆を滑らせていると、数人の話し声が聞こえてきた。
「おーい、勇助! 帰ぇったぞ! 茶ぁ、淹れろぃ! 皆に、土産を配りな!」
重三郎の大声が響く。日光参りから帰ってきたようだ。店の中がざわつく。騒がしい最中から抜け出した足音が、長喜の部屋の前で止まった。
「よぉ、長喜。今、帰ぇったぜ。景気は、どうでぇ。変わりねぇように見えるが」
ひょっこりと顔を出した伝蔵が、にっと笑む。
「仰る通り、変わりねぇよ。お前ぇは、いっつも一言が多いよなぁ。日光は楽しかったかぇ」
荷を下ろして、伝蔵が縁側廊下に腰を下ろした。
「江戸より寒かったなぁ。中禅寺湖に行ったんだが、着くまでに、いくつも滝があってな。方等滝に般若滝、裏っ側に入れる裏見ノ滝なんか、面白くってよ。飛沫が掛かるくれぇ水が近ぇんだ! 霧降ノ滝ってぇのもあったなぁ」
伝蔵が鼻息を荒くする。
「霧降ノ滝なら、確か、鉄蔵も話していたなぁ。いつか描きてぇって賛していたよ」
「鉄蔵の気持ちは、わかるぜ。けど俺は、華厳の滝を賛するね! 水勢が怖ぇくれぇでよ。滝壷が深くって、ぞっとしたぜ。 あすこにゃぁ、きっと何か、住んでいるぜ。長喜なら、人魚くれぇ見付けただろうに。一緒に来りゃぁ良かったんだ」
伝蔵が童のように口を窄めた。
「お前ぇだって見えるんだから、いくらだって人魚を探せるだろ。俺も行きたかったが、絵の仕事があったしなぁ。伝蔵は、大丈夫なのかよ。黄表紙の仕事が溜まっているだろ」
にしし、と面白尽に笑う。
山東京伝は今や、押しも押されもせぬ寵子の作家だ。江戸中の人々が京伝の本を読んでいると言っても過言ではない。戯作だけでなく、本の挿絵も描いている。伝蔵の絵の腕前は、めきめき伸びて、戯作に負けず人気があった。
「仕事よりも要用の頼まれ事があったからよ。ほれ、大事な土産だ。鉄蔵は、まだ帰らねぇのかぇ」
伝蔵が、小さな包みを懐から取り出す。
「今頃、日銭を稼いでいるんだろうぜ。昼間は、お前ぇも鉄蔵もいねぇから、静かに感じるよ」
伝蔵は、昨年の冬頃から耕書堂の居住をやめて京橋の実家に戻っていた。弟子入り志願者が増えたのが一番の事情だ。
「何でぇ、寂しいのか? 蔦重さんとの談合に来た時に、顔を合わせるだろうに」
「いやぁ、寂しいのは、俺じゃぁなくってな。お喜乃が、やっぱり少し、元気がねぇように見えるぜ」
十歳になった喜乃は、今でも耕書堂の下働きを続けている。仕事の合間に、長喜や伝蔵の部屋で本を読むのも変わっていない。伝蔵がいなくなった今は、長喜の部屋に入り浸るようになった。
伝蔵が、ふぅんと気のない返事をした。
「本なら、俺の部屋でなくとも読めるだろう。今は絵描きが好きなんだし、お前ぇが石燕先生の庵に、連れて行ってやれよ」
「毎日のように通っていらぁ。そうじゃぁなくってよ。お喜乃は、お前ぇに会えねぇのが寂しいんだよ。わかっているだろうが。せめて、耕書堂に顔を出した時くれぇは、相手にしてやれよ」
「居住していた時と同じに、話しているぜ。長喜はお喜乃の話になると、真面目過ぎるねぇ。お前ぇは俺と同じ質だと思っていたんだがなぁ。どうにも、お喜乃には肩入れしてぇようだな」
長喜は、むっと口を窄めた。
「肩入れなんざ、しちゃぁいねぇよ。一緒に住んでいりゃぁ、それなりに構うだろ。関わりゃぁ、顔色もわかる。元気がなけりゃぁ、気にもなるだろ」
今度は伝蔵が、にししと笑った。
「御高説、どうも。俺が居住していた時、そねぇに構ってくれたかねぇ。覚えがねぇなぁ」
とぼけた顔に、長喜は、あからさまに不機嫌な顔をして見せた。伝蔵が眉を下げて笑った。
「お喜乃が俺を好いてんのは、知っているけどよ。俺ぁ、そろそろ嫁を取るつもりだし、構ったら余計に可哀想だろ。それにな、お喜乃には悪ぃが、本気で相手にゃぁ、できねぇよ」
長喜は、ちらりと伝蔵に目を向けた。
「お喜乃本人に難はねぇ。難儀なのは事情よ。もう五年も丁稚をしているが、俺らはお喜乃の出自も何も知らねぇ。御武家の子だろうとは思うが、女子をこねぇに他所に出すもんかね。縁談があってもおかしくねぇ歳だぜ。何かあると勘ぐるだろ」
確かにその通りだと、長喜も思う。
ほんの一月か二月、というならまだしも、喜乃はもう五年も耕書堂にいる。十郎兵衛が時々には顔を見に来るが、それだけだ。家に戻る話は一つも出ない。
「だからって相手にしねぇんじゃぁ、お喜乃が可哀想だ。あいつの気持ちもわかってやれよ」
言葉に勢いがなくなった。伝蔵の話は、よく理解できる。
「これまで通り、踏み込みすぎねぇ関りが、互いのためだよ。俺ぁ、お喜乃よりお前ぇを案じているぜ。長喜、お喜乃には深入りすんなよ。友人としての忠告だ」
元より、あっさりした友好を好む伝蔵が、忠告などしてくるのは珍しい。
「案じられるほど、深入りしちゃぁいねぇよ。お前ぇこそ、考えすぎだろ」
伝蔵が真面目な目で長喜を見詰めた。
「考えねぇ訳じゃぁ、ねぇんだろ。引き返せるうちに、ちゃぁんと考えておけよ」
否むか頷くか、昏惑した。とっさに判じられない自分は、伝蔵と同じ考えを持っている。だが、喜乃を放ってもおけない。答えが出なかった。
廊下の向こうから、床が割れんばかりの足音が響いた。
「帰ぇったぞ! お喜乃は、まだ仕事だな。間に合ったな。伝蔵も帰ぇっていたのけぇ。例のもんは買ってきたんだろうな」
鉄蔵が大股で部屋に入ってきた。赤い着物に頭巾を被り、背中に作り物の唐辛子を背負ったまま、どっかりと腰を下ろした。
「まぁた唐辛子売りしていたのけぇ。いつ見ても可笑しいや。全く似合っていねぇ姿が、殊更に可笑しいなぁ」
伝蔵が遠慮もなく声を出して笑う。
鉄蔵が、あからさまに顔を顰めて、伝蔵を小突いた。
「煩せぇ! 好きでしているんじゃぁねぇや。口を塞いでやる。こっちに来やがれ!」
鉄蔵が伝蔵に飛び掛かる。
伝蔵は、なおも笑ったまま、長喜の後ろに隠れた。
「長喜も何とか言ってやれよ。何のかんのと、鉄蔵は唐辛子姿が気に入っているんだぜ。お喜乃に見せてやりてぇんだろ?」
鉄蔵の姿を眺めていた長喜は、ぷっと噴き出した。
「俺ぁ、良いと思うぜ。何度も見ているから、馴染んできた。鉄蔵も好きでやっている仕事だろ?」
「違わぃ! 二人して揶揄いやがって! 今日は一日、唐辛子売りだから、着替えるのが手間なんだ。用が済んだら、仕事に戻るんだよ! 手前ぇは、さっさと俺の頼んだ物を出しやがれ!」
鉄蔵が顔を真っ赤にして拳を振り上げる。
頭を庇いながら、伝蔵が包みを渡した。
「怖ぇ怖ぇ。ほれ、鉄蔵気に入りの筆師が作った筆だ。わざわざ日光まで行かずとも、筆師なら江戸にいくらでもいるだろうに」
鉄蔵が、包みを解く。細い桐箱が現れた。
蓋の隅に「喜乃」の二文字が刻まれている。
「これが、良いんだよ。お前ぇらも、納得尽だろうが。この筆は、俺ら三人からの贈物だ。欲しいもんも買わずに金を貯めていた、お喜乃への褒美ってな」
今日、ここに三人を呼び出したのは、喜乃だった。鉄蔵に筆を返すためだ。それに合わせて、三人は喜乃に贈物を用意した次第だ。勿論、喜乃には秘密にしている。
伝蔵が、楽しそうに含み笑いをした。
「筆を返してもらうのに、筆を贈るなんざ、いかにも鉄蔵らしい思い付きだよな」
「いいだろうが。お喜乃は本気で絵を描いてんだ。筆は、いくらあっても、邪魔にゃぁならねぇよ」
「今は、俺や伝蔵の使い古しの筆で絵を描いているから、お喜乃は、きっと喜ぶぜ」
喜乃の計らいとはいえ、三人が集まるのは久し振りだ。少し前の耕書堂の賑わいが戻ったようで、長喜の心は弾んだ。
【補足情報】
鉄蔵の唐辛子売りは、ちゃんと資料にも残っている史実です。破門になって絵だけでは食べて行けなくて、鉄蔵さんはいくつもアルバイトをしていました。その中の一つが唐辛子売りで、当時は赤い着物を着て唐辛子の被り物を頭に被って「とん♪とん♪とんがらしは~」みたいに歌いながら売り歩くスタイルでした。目立たないと売れないからね。江戸時代は着ぐるみとか被り物が結構たくさんありまして、錦絵にも残っていたりします。
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