鎮魂の絵師 ー長喜と写楽ー

霞花怜

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第四章 現を楽しく写す

7.

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 空が白み、朝日が昇り始める。竹林に白い陽が差し込んだ。
 長喜は喜乃と左七郎と並んで、石燕の絵を眺めていた。白木の額の中には、狂言姿の中村喜代三郎の絵が戻っていた。

「本物の幽霊が依代にしていたのか。幽霊は翁と一緒に黄泉に逝ったんだな。絵だけが、現に残ったのか」

 独言のように左七郎が呟く。

「翁が旅立った時、俺ぁ、寝ていたのかよ。何で起こしてくれねぇんだよ。翁も、悪ぃと思ったなら、起こしてくれりゃぁ、良かったんだ」

 いつもなら大声で怒鳴るであろう左七郎の声は、落ち着いていた。

「寝ていたんじゃぁなく、気ぃを失っていたんだろうぜ。大勢の妖の気は、今のお前ぇにぁ、毒だからよ。けど、声くれぇ掛けるべきだったよな。すまねぇ」

 長喜は洟をすすった。瞼が厚ぼったく重い。きっと、みっともなく腫れ上がっているのだろう。左七郎に見られないように、顔を逸らした。

「ちゃぁんと、お別れは、できたのかよ。翁とも、石鳥や月沙とも、話せたんだよな」

 左七郎が、遠慮もなく長喜に顔を向ける。

「ちゃんとできたかは、わからねぇ。けど、礼は伝えられた、と思う」

 左七郎が絵に向き直った。

「本当に良い絵だなぁ。浅草寺に参った時に、母上はこの絵に見惚れていたんだぜ。あん時の俺ぁ正直、絵の良さなんざ解らなかった。けど、今なら解るよ。翁が立派な絵師だってさ。俺も翁の絵みてぇに、人の心を動かす戯作を書きてぇなぁ」

 左七郎が羨慕の眼差しを向ける。

「精進していりゃぁ、いつか書けるさ。俺もお前ぇと同じに、もっと精進しねぇとな。今よりずっと巧くなってから黄泉に逝くと、約束したからよ」

 左七郎と顔を合わせて笑んだ。
 二人が話している間も、喜乃はじっと喜代三郎の絵を見詰めていた。
 会話が途切れると、吾柳庵から音が消えた。風のない朝は、笹の葉の擦れる音すら聞こえない。只々、静かだった。
 左七郎が膝を叩いて立ち上がった。

「さてと、俺ぁ耕書堂に、ひと走りして蔦重さんに報せてくらぁ。長喜とお喜乃は、翁の傍にいてやれよ」

 絵のすぐ隣に横たわる石燕の亡骸に目を向ける。魂の抜けた石燕の顔を長喜は、ぼんやりと眺めた。 
 喜乃が左七郎の腕を引いた。

「左七郎、いつも気を遣ってくれて、ありがとう。一人で行かせて、ごめんなさい」

 左七郎の耳が、じわりと朱に染まる。

「一人で走ったほうが速ぇからな! でもまぁ、お喜乃に礼をされんのは、嬉しいな。長喜は今、気抜けているから、お喜乃がよっくと見ていてやれよ」

 逃げるように戸口を出ていく左七郎の背中を見送る。

(左七郎に案じられるほど、俺ぁ、自失して見えんのか。だったら、石鳥と月沙が案じるのは当然だな)

 悪気はないのだろうが、左七郎の言葉が棘のように刺さった。
 喜乃が長喜に向かって居直り、頭を下げた。

「長喜兄さん、ごめんなさい。私を庇ったせいで、師匠の死期が早まってしまった。本当なら、もう少し、現にいられたかもしれないのに。兄さんから大事な師匠を奪って、ごめんなさい」

 喜乃の小さな肩が震えている。どれだけの気力を振り絞って頭を下げているか、長喜にもわかった。

「私は、疫病神なんだ。私が傍にいたら、今に長喜兄さんや左七郎や周りにいる大勢の人まで、師匠のようになるかもしれない。私のせいで傷付くかもしれない。私は、いちゃぁいけない子なんだ」

 長喜は、とっさに喜乃の肩を掴んだ。

「そねぇな訳があるか! いちゃぁいけねぇ子なんざ、いる訳がねぇ! 喜代三郎が話していただろ。師匠の寿命は、とうに過ぎていた。現にしがみ付いていただけなんだよ。近ぇうちに黄泉に逝くって、師匠も石鳥も月沙も、気が付いていたんだ。お喜乃のせいじゃぁ、ねぇ」

 喜乃の肩が強張っている。自分が思う以上に強く掴んでいたと気が付いて、長喜は手を緩めた。

「師匠が現にしがみ付いていた訳が分かるか? お喜乃に絵を教えたかったからだ。師匠があねぇに楽しそうに絵を教えていたのは、久振だった。俺ぁ、嬉しかったんだぜ。だから、手前ぇを責めるんじゃぁねぇ。お喜乃のせいじゃぁねぇんだよ」

 言葉が一気呵成に口から流れ出す。喜乃に話しているようで、自分に言い聞かせているようだった。
 喜乃の言は当たっているのかもしれない。喜乃を庇った事実が、ずっと遠ざけていた黄泉の入口を近付けたのかもしれない。長喜の頭の片隅にも同じ思いは、あった。

(けど、それじゃぁ、お喜乃が可哀想だろうが。こいつぁ只、毎日、絵を描いて生きているだけなんだぞ。誰も傷付けちゃぁいねぇ、何も悪さをしちゃぁいねぇのに)

 命を狙われ殺されかけた娘が、大事な人を失った長喜を案じている。自分を疫病神だと罵る。もしかしたら、耕書堂に来た時分から、喜乃の中には、今と同じ思いがあったのかもしれない。だからこそ居所を定めずに転々としていたのかもしれない。

(誰か、こいつを守ってやれねぇのかよ。こねぇに小さな身に背負いこんでいる重いもんを、降ろしてやれねぇのか)

 長喜は愕然とした。喜乃の重い荷を降ろしてはやれない。喜乃の身に降り掛かる危険を払ってはやれない。けれど、せめて、隣で絵を描き続けるくらいなら、長喜にもできる。
 伝蔵の顔が浮かぶ。あの時、交わした言葉が蘇る。

(忠告は忘れちゃぁいねぇ、深入りは、しねぇよ、伝蔵。只、お喜乃の傍にいてやりてぇだけなんだ。そんなら許してくれるだろ)

 喜乃の肩を引き寄せた。小さな体を抱き寄せる。

「お前ぇは、耕書堂から出ていきてぇのか? 俺と一緒に、絵を描くのは、嫌か?」

 長喜の腕の中で、喜乃が首を振った。

「耕書堂にいたい。長喜兄さんと、もっとたくさん絵を描きたい。皆と一緒に暮らしたい。でも、私がいたら、また、誰かが傷付く」

 喜乃の声が震えている。涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

「傷付くかもしれねぇし、何事もねぇかもしれねぇ。未来は誰にも、わからねぇだろ。お前ぇは今まで通り、耕書堂で仕事をこなして、絵を描いて暮らすんだ。なぁ、お喜乃。お前ぇは何が描きてぇ? 俺ぁなぁ、人も妖怪も描きてぇ。あったけぇ心を描きてぇなぁ」

 しゃくり上げながら、喜乃が、ゆっくりと口を開く。

「私は、師匠の絵みたいな、役者を描きたい。喜代三郎さんは、本当に綺麗だった。師匠の絵も、とても綺麗だ。師匠に、もっと人の絵を練習しろと教わった。だから、役者の似絵を、練習したい」

 声は遠慮を含んでいる。だが、言葉の中身は、いつもの喜乃だ。

「立派な標があるだろうが。だったら今度、芝居に行こうぜ。余計な考えは捨てちまえ。好きな絵を懸命に描いていりゃぁ、師匠が黄泉から見守ってくれらぁ」

 喜乃が上目遣いに長喜を見上げる。

「一緒に芝居に行っても、いいの? 長喜兄さんは、私といるのが、嫌じゃぁないの?」
「嫌なもんかよ。二人だけで行くのが無理なら、十郎兵衛様をお誘いしてみようぜ。それなら、お喜乃も落ち着いて芝居を観られるだろ」

 笑みを向けると、真っ直ぐな瞳が、ようやく笑んだ。長喜は、胸を撫で降ろした。

(どうにも俺ぁ、お喜乃を放っておけねぇ。鉄蔵がこの場にいたら、前みてぇに父親と揶揄われるな)

 隣に横たわる石燕が笑っているようで、恥ずかしくなる。けれど、長喜の心に、ずっと掛かっていた雲が少しだけ晴れて、細い光が差し込んだようだった。







【補足情報】
 石燕の死をもって、物語の前半が終了となります。
 喜乃に役者絵を描きたいと思わせた石燕の似絵を私も見てみたかった。鳥山石燕の妖怪絵は妖怪の巨匠・水木しげる先生が一番に参考にされた資料です。ファンタジーの中で沢山の妖怪を書く作家として、二人の巨匠に敬意を表したいと思います。
 次章からの物語後半も、どうぞお楽しみくださいませ。
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