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第七章 異彩の絵師 東洲斎写楽
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日は刻々と過ぎ行き、重三郎との約束の期日に近付きつつあった。見立で描いた喜乃の絵は、長喜の憂慮より遥かに出来が良かった。
次なる難題は、枚数だ。夏と秋に比べ、筆の進みが遅い喜乃にとり、一座で二十枚近く、総数六十枚以上を描き上げるのは至難だった。
更に、喜乃の絵の進み具合を確かめに来た重三郎から、もう一つ条件が出された。
「今回の細判は、役者の後ろに舞台を描き込んでみろ。役者絵にぁ、よくある趣向だ。顔見世に出す絵ぇだ。華やかなほうが楽しいだろ」
喜乃の発憤を期待しての重三郎からの進言だった。
帰り際、重三郎が長喜にだけ、そっと声を掛けた。
「お喜乃だけで枚数を描けねぇ時は、足りねぇ分をお前ぇが描きな、長喜。写楽は、お喜乃一人だけじゃぁねぇ。お喜乃と長喜で、東洲斎写楽なんだからな」
重三郎の忠言に、返事ができなかった。
(やっぱり蔦重さんの目は、ごまかせねぇやな。けど、躊躇はしねぇのか。あのまま、出すんだな。当たり前ぇっちゃぁ、当たり前ぇだが、煮え切らねぇなぁ)
重三郎が後背に絵を描き足せと条件を付けた訳は、写楽の絵に少しでも華を持たせるためだろう。憂慮していたより出来栄えが良いとはいえ、夏と秋に比べて勢いを失っているのは、長喜にもわかる。しかし、今の喜乃に見立で描かせるなら、これが限界だ。
石燕の元で絵を習ってはいたが、喜乃は売りに出すと見做した絵の指南をされていない。好きに描いてきた喜乃にとり、今回の条件は試練だったに違いない。
(もう少し時を掛ければ、もっと巧くなるだろうが。今すぐにってぇ訳にはいかねぇからな)
喜乃の絵がどうであろうと、売りに出す及第を少しでも超えていれば、重三郎は出すしかない。及第であるか、判じるのは重三郎だ。
芝居小屋からの依頼も然ることながら、蜂須賀家への義理が大きいのだろう。だからこそ、長喜に描くよう急かした。長喜が喜乃に寄せて絵を描き、写楽の号で出せば、枚数は稼げる。
元より重三郎は「二人で写楽だ」と断言していた。この事体を予見していたのかもしれない。
(何より煮え切らねぇのは、お喜乃の気持ちだな。一人で全部、描きてぇだろうな)
どう切り出すか考えるが、良い言葉は見付からなかった。
「倚頼を貰えば描いちゃぁいるが、俺の絵ぇは元々、役者絵にぁ、あんまり向かねぇんだよなぁ」
一人で呟き、長喜は空を見上げた。竹林に囲まれる吾柳庵は昼間でも薄暗い。だが、庭に面したこの部屋だけは、空が開けていて、陽が差し込んだ。
(師匠なら、何と思うだろうな。てぇか、どうするだろうな。月沙や石鳥は、笑うかな)
近頃は忘れていた石燕の顔が思い浮かんだ。石鳥や月沙と絵を描く石燕は、いつでも楽しそうに筆を滑らせていた。
『難しく考えるなよ。絵は楽しく描くもんだぜ。現を楽しく写してぇから、お喜乃は写楽を号にしたんだろ。悩むより一緒に描いたら、いいだろうさ。きっと楽しいぜ』
不意に頭に降りて来た声に、驚いた。
聞こえた訳ではない。きっと自分の想像だろう。だが、如何にも石燕が投げてきそうな言葉だ。自然と笑みが零れた。
「長喜兄さん、お茶とお饅頭を持って来たの。少し、話をしたいのだけど、いい?」
喜乃が盆に茶と菓子を載せて運んできた。
「構わねぇぜ。お喜乃も、ここで一緒に庭を眺めるか? 風は冷えているが、陽が暖けぇから、気持ちがいいぜ」
喜乃が長喜の隣に腰掛ける。
長喜は置かれた茶に、手を伸ばした。
「本当だ。風が、心地良いね。早く絵を描かないといけないけど、少しだけ休息しても、いいよね」
湯呑を手にして、喜乃が庭を眺める。
疲れの滲む顔が、強張って見えた。
「この庭は、昔はもっと広くてなぁ。石鳥が手入れしていたんだが、一人でやるにぁ広すぎて、弟子が皆で手伝うようになった。土で汚れるし草で痒くなるしで、散々だったよ。そのうちに皆、遊び始めるから、石鳥が怒ってなぁ。月沙が石鳥を揶揄うから、もっと怒ってさ」
喜乃が長喜を振り向く。唐突に始まった昔語りに、首を傾げた。
「長喜兄さんが、師匠の元で絵を習っていた頃の話? 歌麿兄さんや石鳥や月沙も一緒にいたのね。とても楽しそう。石鳥が怒る顔が、目に浮かぶわ」
喜乃の疲れた顔が笑んだ。
「歌麿兄ぃに二人の姿は見えちゃぁいなかったがな。遊びながらでも、庭が綺麗になると、嬉しくってさ。で、終わったらまた、絵を描くんだが。不思議と、いつもより面白れぇ絵が描けたりしてな。何故だか、捗るんだよ」
昔の光景を思い出し、微笑む。
喜乃も微笑を浮かべて、庭を眺めていた。
「疲れたら休めよ。時々にぁ、遊べ。絵にぁ、全く関わりのねぇ事柄が、絵を活かしてくれる時もあるぜ。ずっと紙を睨んでいても描けねぇなら、休んだり遊んだりすりゃぁいいのさ。石燕師匠なら、きっと、そう諭して一緒に遊び始めるぜ」
喜乃が長喜を振り向く。喜乃の顔から力が抜けた。
「そうよね。遊んだり、休んだりして、良いよね。何だか、力が抜けちゃった。絵は楽しく描きたいもの。無理しても、意味がないよね」
喜乃らしい素直な笑みが昇る。
湯呑を降ろし、喜乃が長喜に向き直った。
「長喜兄さん、お願いがあります。東洲斎写楽の絵を、一緒に描いてください。私一人じゃぁ、期日までに枚数を描き切れない。だから何枚か、長喜兄さんに描いてほしいの」
長喜は、真っ直ぐに喜乃を見詰めた。
「蔦重さんに、何か言われたのか? いやいや、何より、お喜乃は、それで、いいのか?」
喜乃が首を振った。
「蔦重さんには、何も言われていないわ。私が、自分で考えて、長喜兄さんにお願いしようと決めたの。今のままじゃぁ、期日までに約束した枚数は描けない。それじゃぁ、耕書堂にも芝居小屋にも、迷惑を掛ける。請け負った以上、成し遂げるのが礼儀だもの」
喜乃が真っ直ぐに長喜を見据える。その目は澄んでいた。
「せっかくの顔見世を、一人でやり遂げなくって、いいのか? 枚数を減らしてもらう相談を、してもいいんだぜ」
喜乃がまた、首を振る。
「枚数は減らしたくない。東洲斎写楽は二人の号だもの。長喜兄さんと二人で描きたいの。本当は夏と秋も、兄さんに一枚くらい、描いてほしかったのよ。でも、兄さんも忙しくしていたから、なかなか言い出せなくって」
喜乃が改めて頭を下げた。
「お願いします。東洲斎写楽として、一緒に絵を描いてください。今も兄さんが忙しいのは知っている。けど、この機を逃したら、もう写楽としては一緒に描けない気がするの。どうか、お願いします」
長喜は愕然とした。
喜乃は写楽の絵を一人でやり遂げたいのだと、思い込んでいた。
(俺ぁ、お喜乃の本当の気持ちを、何にも、わかっていなかったんだなぁ。もっと早くに気が付いていりゃぁ、こねぇに疲れた顔をさせなくて済んだのか)
仕事を前倒ししたせいで喜乃には長喜が忙しく絵を描いているように映っていた。間に合わないと口実でもなければ、言い出せなかったのだのだろう。
(お喜乃を手伝うために仕事を前倒ししたってぇのに、これじゃぁ、冠履の顛倒だ)
長喜は改めて喜乃に向かい、居直った。
「こっちから頼まぁ。俺にも描かせてくれ。一緒に描こう、お喜乃。俺とお前ぇで、東洲斎写楽だ。現を楽しく写し取ってやろうぜ」
喜乃に向かい、手を差し出す。
喜乃が、満面の笑みで握り返した。
「ありがとう、長喜兄さん。改めて、宜しくお願いします。兄さんと一緒なら、一人より、ずっと楽しく絵を描けるわ」
この日から、長喜と喜乃の東洲斎写楽が始まった。
黄泉から現を眺める石燕が、したり顔したりで笑っている気がした。
次なる難題は、枚数だ。夏と秋に比べ、筆の進みが遅い喜乃にとり、一座で二十枚近く、総数六十枚以上を描き上げるのは至難だった。
更に、喜乃の絵の進み具合を確かめに来た重三郎から、もう一つ条件が出された。
「今回の細判は、役者の後ろに舞台を描き込んでみろ。役者絵にぁ、よくある趣向だ。顔見世に出す絵ぇだ。華やかなほうが楽しいだろ」
喜乃の発憤を期待しての重三郎からの進言だった。
帰り際、重三郎が長喜にだけ、そっと声を掛けた。
「お喜乃だけで枚数を描けねぇ時は、足りねぇ分をお前ぇが描きな、長喜。写楽は、お喜乃一人だけじゃぁねぇ。お喜乃と長喜で、東洲斎写楽なんだからな」
重三郎の忠言に、返事ができなかった。
(やっぱり蔦重さんの目は、ごまかせねぇやな。けど、躊躇はしねぇのか。あのまま、出すんだな。当たり前ぇっちゃぁ、当たり前ぇだが、煮え切らねぇなぁ)
重三郎が後背に絵を描き足せと条件を付けた訳は、写楽の絵に少しでも華を持たせるためだろう。憂慮していたより出来栄えが良いとはいえ、夏と秋に比べて勢いを失っているのは、長喜にもわかる。しかし、今の喜乃に見立で描かせるなら、これが限界だ。
石燕の元で絵を習ってはいたが、喜乃は売りに出すと見做した絵の指南をされていない。好きに描いてきた喜乃にとり、今回の条件は試練だったに違いない。
(もう少し時を掛ければ、もっと巧くなるだろうが。今すぐにってぇ訳にはいかねぇからな)
喜乃の絵がどうであろうと、売りに出す及第を少しでも超えていれば、重三郎は出すしかない。及第であるか、判じるのは重三郎だ。
芝居小屋からの依頼も然ることながら、蜂須賀家への義理が大きいのだろう。だからこそ、長喜に描くよう急かした。長喜が喜乃に寄せて絵を描き、写楽の号で出せば、枚数は稼げる。
元より重三郎は「二人で写楽だ」と断言していた。この事体を予見していたのかもしれない。
(何より煮え切らねぇのは、お喜乃の気持ちだな。一人で全部、描きてぇだろうな)
どう切り出すか考えるが、良い言葉は見付からなかった。
「倚頼を貰えば描いちゃぁいるが、俺の絵ぇは元々、役者絵にぁ、あんまり向かねぇんだよなぁ」
一人で呟き、長喜は空を見上げた。竹林に囲まれる吾柳庵は昼間でも薄暗い。だが、庭に面したこの部屋だけは、空が開けていて、陽が差し込んだ。
(師匠なら、何と思うだろうな。てぇか、どうするだろうな。月沙や石鳥は、笑うかな)
近頃は忘れていた石燕の顔が思い浮かんだ。石鳥や月沙と絵を描く石燕は、いつでも楽しそうに筆を滑らせていた。
『難しく考えるなよ。絵は楽しく描くもんだぜ。現を楽しく写してぇから、お喜乃は写楽を号にしたんだろ。悩むより一緒に描いたら、いいだろうさ。きっと楽しいぜ』
不意に頭に降りて来た声に、驚いた。
聞こえた訳ではない。きっと自分の想像だろう。だが、如何にも石燕が投げてきそうな言葉だ。自然と笑みが零れた。
「長喜兄さん、お茶とお饅頭を持って来たの。少し、話をしたいのだけど、いい?」
喜乃が盆に茶と菓子を載せて運んできた。
「構わねぇぜ。お喜乃も、ここで一緒に庭を眺めるか? 風は冷えているが、陽が暖けぇから、気持ちがいいぜ」
喜乃が長喜の隣に腰掛ける。
長喜は置かれた茶に、手を伸ばした。
「本当だ。風が、心地良いね。早く絵を描かないといけないけど、少しだけ休息しても、いいよね」
湯呑を手にして、喜乃が庭を眺める。
疲れの滲む顔が、強張って見えた。
「この庭は、昔はもっと広くてなぁ。石鳥が手入れしていたんだが、一人でやるにぁ広すぎて、弟子が皆で手伝うようになった。土で汚れるし草で痒くなるしで、散々だったよ。そのうちに皆、遊び始めるから、石鳥が怒ってなぁ。月沙が石鳥を揶揄うから、もっと怒ってさ」
喜乃が長喜を振り向く。唐突に始まった昔語りに、首を傾げた。
「長喜兄さんが、師匠の元で絵を習っていた頃の話? 歌麿兄さんや石鳥や月沙も一緒にいたのね。とても楽しそう。石鳥が怒る顔が、目に浮かぶわ」
喜乃の疲れた顔が笑んだ。
「歌麿兄ぃに二人の姿は見えちゃぁいなかったがな。遊びながらでも、庭が綺麗になると、嬉しくってさ。で、終わったらまた、絵を描くんだが。不思議と、いつもより面白れぇ絵が描けたりしてな。何故だか、捗るんだよ」
昔の光景を思い出し、微笑む。
喜乃も微笑を浮かべて、庭を眺めていた。
「疲れたら休めよ。時々にぁ、遊べ。絵にぁ、全く関わりのねぇ事柄が、絵を活かしてくれる時もあるぜ。ずっと紙を睨んでいても描けねぇなら、休んだり遊んだりすりゃぁいいのさ。石燕師匠なら、きっと、そう諭して一緒に遊び始めるぜ」
喜乃が長喜を振り向く。喜乃の顔から力が抜けた。
「そうよね。遊んだり、休んだりして、良いよね。何だか、力が抜けちゃった。絵は楽しく描きたいもの。無理しても、意味がないよね」
喜乃らしい素直な笑みが昇る。
湯呑を降ろし、喜乃が長喜に向き直った。
「長喜兄さん、お願いがあります。東洲斎写楽の絵を、一緒に描いてください。私一人じゃぁ、期日までに枚数を描き切れない。だから何枚か、長喜兄さんに描いてほしいの」
長喜は、真っ直ぐに喜乃を見詰めた。
「蔦重さんに、何か言われたのか? いやいや、何より、お喜乃は、それで、いいのか?」
喜乃が首を振った。
「蔦重さんには、何も言われていないわ。私が、自分で考えて、長喜兄さんにお願いしようと決めたの。今のままじゃぁ、期日までに約束した枚数は描けない。それじゃぁ、耕書堂にも芝居小屋にも、迷惑を掛ける。請け負った以上、成し遂げるのが礼儀だもの」
喜乃が真っ直ぐに長喜を見据える。その目は澄んでいた。
「せっかくの顔見世を、一人でやり遂げなくって、いいのか? 枚数を減らしてもらう相談を、してもいいんだぜ」
喜乃がまた、首を振る。
「枚数は減らしたくない。東洲斎写楽は二人の号だもの。長喜兄さんと二人で描きたいの。本当は夏と秋も、兄さんに一枚くらい、描いてほしかったのよ。でも、兄さんも忙しくしていたから、なかなか言い出せなくって」
喜乃が改めて頭を下げた。
「お願いします。東洲斎写楽として、一緒に絵を描いてください。今も兄さんが忙しいのは知っている。けど、この機を逃したら、もう写楽としては一緒に描けない気がするの。どうか、お願いします」
長喜は愕然とした。
喜乃は写楽の絵を一人でやり遂げたいのだと、思い込んでいた。
(俺ぁ、お喜乃の本当の気持ちを、何にも、わかっていなかったんだなぁ。もっと早くに気が付いていりゃぁ、こねぇに疲れた顔をさせなくて済んだのか)
仕事を前倒ししたせいで喜乃には長喜が忙しく絵を描いているように映っていた。間に合わないと口実でもなければ、言い出せなかったのだのだろう。
(お喜乃を手伝うために仕事を前倒ししたってぇのに、これじゃぁ、冠履の顛倒だ)
長喜は改めて喜乃に向かい、居直った。
「こっちから頼まぁ。俺にも描かせてくれ。一緒に描こう、お喜乃。俺とお前ぇで、東洲斎写楽だ。現を楽しく写し取ってやろうぜ」
喜乃に向かい、手を差し出す。
喜乃が、満面の笑みで握り返した。
「ありがとう、長喜兄さん。改めて、宜しくお願いします。兄さんと一緒なら、一人より、ずっと楽しく絵を描けるわ」
この日から、長喜と喜乃の東洲斎写楽が始まった。
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