鎮魂の絵師 ー長喜と写楽ー

霞花怜

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第九章 最期の一枚

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 文政四年如月晦日(一八二一年四月二日)。
 神田明神の垂糸桜しだれざくらも花の季節を終え、緑が萌える季節に変わろうとしている。
 吾柳庵は今日も変わらず、静かだ。笹が風に揺れて、さらさらと音を立てた。

 長喜は、一枚の肉筆画を眺めていた。 

「ようやく描けたなぁ。ずいぶんと時が掛かったが、我ながら良い出来だ」

 喜乃が黄泉に旅立ってから、気付けば二十五年が経っていた。

 庵の外で、草を踏む音がした。庵の戸が叩かれる。

「御免くだせぇ。こちらに栄松斎長喜ってぇ雅号の絵師が住んでいると聞いて来たんですが、いらっしゃいますかね?」

 聞き覚えのない声だ。
 しかし、誰かは予見できた。

「ああ、住んでいるぜ。やっぱり来たなぁ、斎藤月岑殿。遠慮せずに、中に入ぇんな」

 庵の戸が開く。
 歳の頃、十七、八の男が、顔を覗かせた。

「こいつぁ、驚きだ。俺をご存じでしたか。では、改めまして、俺ぁ、斎藤月岑てぇ名で、著作しておりやす。本業は町名主でさ。以後、お見知り置きを。しかし、いってぇ、誰に聞いたんで? 俺ぁ、あんたを探すのに、ずいぶんと苦労したってぇのに」

 嬉々とした顔で、月岑が長喜の前に座した。

「お前ぇさんが俺を探しているってぇ話は、絵師仲間から、さんざ聞かされているよ。苦労を掛けるほど、隠れてもいねぇんだがなぁ。それで? 十年も前ぇに描くのを止めた絵師に、何の用事だぃ?」

 月岑が、壁に掛かった肉筆画を眺めて、笑う。

「描くのを止めた? こねぇに立派な絵を描き続けていんのに、詰まらねぇ冗談だ。十年前ぇに辞めたのは木版だけでしょうに。それも、肉筆画に専心するために辞めたんでしょう」

 年の割に大人びた話し方をする青年だ。探るような眼が、部屋の中の総てと長喜の全身を観察している。
 長喜は、鼻で笑い飛ばした。

「肉筆画を描いていんのは、百川子興よ。高値で買い取りてぇって物好きな御仁があってな。古い好で、描いているだけさ」

 月岑の目が、鋭く笑んだ。

「百川子興と栄松斎長喜は、どっちも貴方の雅号でしょう。物好きな御仁てぇのは、斎藤十郎兵衛様の御子息ですかね? 斎藤十郎兵衛といやぁ、東洲斎写楽を名乗っていながら、その実、絵なんざ描いていなかった、偽絵師でしょう?」

 長喜は、小さく息を吐いた。

 百川子興の肉筆画を買っているのは、蜂須賀阿波守治昭だ。喜乃を描いた絵を阿波国文庫に保管したいとの、達ての願いだった。仲介になっていたのは斎藤十郎兵衛だった。昨年に没した十郎兵衛に替わり、今は息子が仲介をしてくれている。
 月岑の指摘は当たらずとも遠からず、だ。

(鉄蔵の忠告通りだなぁ。妙に敏くて面倒な餓鬼だ。さて、どうやって躱したもんかね)

 東洲斎写楽の正体を暴くと大口を叩いて調べている輩がいる。
 長喜が鉄蔵からその話を聞いたのは、昨年の暮れ頃だった。
 二人にとっては酒の肴程度の話だ。
 しかし、目の前の月岑は、真剣な目をしていた。

「お前ぇさんの噂は知っていたし、いつか来るだろうとは思っていたがなぁ。ずいぶんと俺について、調べたもんだ。感心すらぁ。だがよ、十郎兵衛様が東洲斎写楽なのは、周知の事実だぜ。そもそも写楽は、二十年以上も昔に十月程度、描いていただけの、大して売れもしなかった絵師だ。何だって今更、掘り返そうとすんだよ」

 月岑の目の色が変わった。

「写楽の似絵は一流だ。市井の人間には解せずとも、絵に携わる人間なら、誰だって目が留まる。売れたかどうかは、関わりねぇ。あれだけ実力のある絵師が何故、たった十月で消えたのか。本当は誰が描いていたのか。俺ぁ、真相が知りてぇんでさぁ」

 長喜は、頭を掻いた。

「真相も何もねぇよ。正体なんざ、明らかだろ。消えたのは、売れなかったからだ。実力があっても売れなけりゃぁ金は稼げねぇ。贔屓にすんのは勝手だがなぁ。お前ぇさん、そねぇに写楽の絵が好きなのけぇ?」

 月岑が、躊躇なく頷く。

「俺ぁ、絵師じゃぁねぇが、絵を習っていやした。写楽の絵を初めて見た時は、手が震えた。だから、太田南畝の浮世絵類考にぁ、納得できねぇんでさ。あの記述を変えてやる。そのために、調べていんですよ」

 迷いのない真っ直ぐな目が長喜に向けられた。

 写楽の絵を好む絵師や戯作者は多い。十返舎一九や式亭三馬などは、自作の本で写楽を高く評している。近頃、隆盛している絵師の渓斎英泉が写楽の絵を好んで眺めると、馬琴や鉄蔵に聞いた。月岑も同じ類の好事家なのだろう。感心するような呆れるような感情が湧いた。

 月岑が長喜に躙り寄った。

「東洲斎写楽の正体は、栄松斎長喜、あんただと俺は踏んでいやす。長喜が描く美人の耳と写楽が描く役者の耳の描き方が似ていんだ。けど、違う耳の形の絵も多くある。つまり、写楽は、もう一人いた。二人で一つの雅号を使って絵を出していたんだ。そうでしょう?」

 早口で捲し立てる月岑に、長喜は目を瞬かせた。

「それが、お前ぇさんの考えけぇ? だから、東洲斎写楽は斎藤十郎兵衛じゃぁねぇ、と? そらぁ、あんまりに早計だと思うがなぁ」

 月岑が更に迫ってくる。

「斎藤十郎兵衛の他の絵を、俺ぁ、知らねぇ。けど、あの当時、耕書堂に寄宿していた十返舎一九に聞きやした。一九さんは、十郎兵衛様が描く絵は写楽とは似ても似つかねぇと話していやしたぜ。人柄も穏やかで、あねぇに尖った絵を描くお人とは思えねぇとも、漏らしていやした」

 長喜は、思わず吹き出した。

(見目や人柄ってぇ話なら、お喜乃も、あねぇに尖った絵を描く娘には、思われねぇかもな)

 月岑が眉間に皺を寄せる。怒りを隠すつもりは、ないらしい。

(賢いし、大人びているが、歳相応な質のようだなぁ。真っ直ぐで感情が表に出る辺りは、若ぇ頃の馬琴に似ていらぁ)

 石燕の元に駆け込んできた左七郎の姿が、思い浮かんだ。

「他の奴らと同じに、あんたも俺を、馬鹿にしやがるんですか。北斎先生や馬琴先生と同じで、真面に取り合う気も、ねぇって訳ですかぃ。俺ぁ、絵も調べて聞き込みもして、ようやく、あんたに辿り着いたってぇのに」

 月岑が、歯噛みして拳を強く握る。
 仕方なく、長喜は月岑の肩に手を置いた。

「そいつぁ、苦労を掛けたなぁ。こねぇな竹林の中の庵に、人が住んでいるなんざ、思わねぇよな」

 月岑が、舌打ちをした。

「あんたの居所を探して苦労した訳じゃぁねぇよ! 写楽に関わる人間として、あんたに辿り着くのに苦労したんだ。高島おひさの柱絵を見付けた時にぁ、泣くほど歓喜した。あんたに、俺の気持ちが、わかるかよ!」

 月岑が怒鳴り声を上げた。

 長喜の頭に、あの頃の景色が鮮やかに広がる。二人で筆を執り、描き合った時の心持や、渋い役者の選択に喜乃を慮った気持ちが、蘇った。

「あの絵か。まだ持っていてくれる人が、いるんだなぁ。二十年以上も経つのになぁ」

 喜乃と初めて合作で出した長喜号の絵を思い返し、懐かしい気持ちになった。

(いくつになっても、お喜乃との思出は、色褪せねぇな。まるで昨日の出来事みてぇだ)

 絵を描く度に思い返す喜乃は、いつでも笑っている。その笑顔は、今でも長喜の心を温めてくれる。

 長喜の顔を眺めていた月岑の強張った顔が、少しだけ緩んだ。
 俯き掛けた顔を上げ、長喜は月岑に向き直った。

「俺にとっても、懐かしい絵だ。探してくれて、有難うよ。お前ぇさんは、そねぇに写楽の絵を愛してくれていんだなぁ。俺からすりゃぁ、それが何より、嬉しいよ」

 笑みを向けると、月岑が照れを隠して顔を背けた。

「お前ぇじゃぁねぇ、俺ぁ、月岑ですよ。なぁ、あんた……、いや、翁が、写楽、なんでしょう? もう一人は、誰なんです? なんで、写楽号で絵を描くのを、止めちまったんですか? 俺ぁ、もっともっと、写楽の描く絵が見てぇんだ。今からでも描けるなら、描いてほしいんだ。本当の話を、教えてくだせぇ」

 先ほどよりは落ち着いて、月岑が長喜に問う。
 長喜は笑みを仕舞い込み、真っ直ぐに月岑に向き直った。

「東洲斎写楽は、斎藤十郎兵衛ってぇ名の、蜂須賀家御抱えの能役者だ。八丁堀の地蔵橋に住んでいたよ。俺ぁ、蔦重さんを通しての知り合いだった。一緒に絵を描いても、不思議はねぇだろ。十郎兵衛様は昨年、お亡くなりになった。だから写楽は、もう絵を描けねぇ」

 月岑の顔が引き攣る。

「そねぇな通り一遍の話は、耳に胼胝たこができるほど聞きやしたぜ! 俺が知りてぇのは、翁の絵の中の団扇絵を描いた人間の正体だ! あらぁ、斎藤十郎兵衛って御仁じゃぁねぇ。別の誰かだ。この期に及んで、ごまかさねぇでくれ!」

 声を荒げる月岑に、表情を変えずに向き合う。

「お前ぇが浮世絵類考の記述を変えるために聞くんなら、話せるのは、それだけだ。けどな、只の好事家として聞くんなら、もう少しだけ、話してやるよ、月岑」

 長喜は、壁に掛けた絵に目を向けた。
 美人の立ち姿の足元に、猫がじゃれている。喜乃が最初に選んだ絵の題材が、猫だった。
 吾柳庵で暮らし始めてからも、迷い込んでくる猫に飯をやっていた。冬の夜に家に入れてやると、掻巻に潜り込んできて暖かい、と喜んでいた。
 何気なくて当然で、一緒に暮らしている時には気にも留めなかった事柄が、今は、とても大事に思える。

「この絵はなぁ、俺が死ぬまでに描かなけりゃぁならねぇ女の絵だ。この絵を描くために、俺ぁ、木版の仕事を止めたんだ。この女が誰かは、話せねぇ。墓まで持っていく。それが、この世での俺の務め、だからな」

 東洲斎写楽の正体を隠す。それは蜂須賀家と交わした約束だ。十郎兵衛は秘密を抱えたまま、この世を去った。喜乃の最期までを支え続け、蜂須賀家の安泰を願っていた人だ。長喜も同じように、総てを抱えて逝かねばならない。

 長喜の顔を見詰めていた月岑が、身を引いた。
 壁に掛かる絵と長喜の顔を見比べる。

「教えてくれねぇんじゃぁなくって、教えられねぇって訳ですかぃ。東洲斎写楽の正体は、俺が考えているより、ずっと、重てぇんですね」

 月岑が俯き、黙り込んだ。
 部屋の中に風が吹き込む。笹の葉が揺れて、さらさらと音を立てた。

「俺ぁ、浮世絵類考の、東洲斎写楽の記述を増やしやす。写楽は一流の絵師だったと書いて、必ず増補版を出しやす」

 月岑が顔を上げた。

「地蔵橋に住んでいた斎藤十郎兵衛と書くと、誓いやす。だから、写楽の話を聞かせてくだせぇ。俺ぁ、只の好事家だ。東洲斎写楽の絵が、大好きなんだ」

 月岑が長喜に笑みを向けた。何故か、その顔が、喜乃の笑顔と重なって見えた。

(お喜乃の話は、できねぇが。こいつになら、写楽の苦悩や楽しさを、少しなら話しても、いいのかもな)

 今まで誰にも話さなかった、喜乃ではなく写楽の話を、してみたくなった。
 自然と口元に、笑みが昇った。

「全部は話してやれねぇが。そうさな、写楽の絵の練習法、とかなら、教えてやるぜ」

 月岑が、前にのめる。

「聞きてぇ! どうやったら、あねぇに人の顔を描き取れんのか、教えてくだせぇ、翁」

 空に夜の闇が落ちるまで、二人は写楽の話で盛り上がった。
 時は、あっという間に流れて行った。






【補足情報】
写楽を語る上で欠かせないもう一つのアイテム『浮世絵類考』。初版を出したのは太田南畝で、「八丁堀地蔵橋に住んでた絵師で、すぐ消えた」程度の記述しかありません。それでも類考に名前が載るくらいだから、一時世間を賑わしたことは間違いないのだろうと思います。あの蔦重プロデュースなわけだからね、当然といえは当然ですが。
その後、斎藤月岑の手で増補版が出された時、「似絵は一流の絵師」と書き込まれました。十返舎一九や式亭三馬(馬琴の弟子)が称賛していたのも事実で、自身の本の中で独特な評し方をしています。絵師の中に写楽愛好家が多かったのも事実なようです。写楽はプロに愛されるが一般の民衆にはウケない絵師だったようです。そういうの、今でもあるよねって思います。
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